満州 - みる会図書館


検索対象: 新潮 2016年12月号
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1. 新潮 2016年12月号

けれど今、西暦一一千年を過ぎてこの齢になると、親の名前の中で幼い命を落としたらしい。 だけで通用する世界は、介護施設などの家族交流くらいのも 「人間でぎゅうぎゅう詰めの貨車の中で、満州夫は立ったま のだろう。 まの人の壁に押されて、その拍子で倒れたんですって。そし て貨車の板底で人間の壁のね、靴に踏み潰されたそうです」 満州美と乙女さんの娘は、双方の親の車椅子をくつつけて 「まあひどい」 並べた。乙女さんの娘は立って行くと、二人分の紙コップに コーヒーを人れて来てテープルに置いた。 満州美は顔を歪めた。男の子の無惨な姿が黒い影となって 浮かんでくる。 「天野さんのお宅は : : : 」 と乙女さんの娘が口をひらいた。 「母や伯母たちが盆などに集まると満州夫の話になるのを、 「戦時中は満州におられたのですか」 子どもの頃、耳に染み人るように聞いたものです」 「ええ。でも中国の天津なんですよ。満州より南に下りま 話が戦時中のことになると、初対面同士でいつの間にか七 十年前の中国の幻を抱き合っている。関係のない人間には古 く色褪せた映画のスクリーンを見るようなものだが、そこを 「受付の来訪者カードに書かれたお名前を見て、もしやと思 ったものですから」 くぐり抜けた者には映画でも何でもない。 乙女さんの娘は満州美のすぐ後に人館したようだった。 背中に張り付けたままの昨日だ。 満州美の背中には、帰還船の舳先から見おろした海が張り 「私は名前のせいで皆さんによく尋ねられます。でもうちの 付いている。船の中の便所は人間が多すぎて、絶望的に順番 場合は名前を付けた親にすれば、天津にも満州にも同じよう がこない。その上、子どもたちは栄養失調で下痢をして、ど な熱い思いがあったんでしようね。満州建国バンザイって。 今はこの名前が虚しい気がしますけど。ときどきね」 の子も便を付けたままの尻が爛れ、下着が乾くと力。ハカバに 「そうですね」 固まって爛れを擦った。 と乙女さんの娘はいたわるように相づちを打ってくれた。 けれどそれを痛いと言って泣く子はいない。尻も痛いが、 「でも今は満州という名前の意味を知らない人がほとんどで腹も空く。厳冬の海で身は凍える。子どもたちも苦痛は自分 で耐えるしかすべがないことを知っている。 す。絶滅危惧の名前です」 玄界灘の波浪は船を三日間も捉え続けた。 満州美は言いながらくすくす笑った。乙女さんの娘には安 応急の仮設便所が海に突き出た舳先に設けられた。天井も 心して話ができるという感じがする。乙女さんの親類にも満 州から引き揚げて来た一家があるという。満州夫という従兄壁もない、グウーンと板を海へ伸ばして、途中に穴をくり抜 がいたが、帰還船の出る葫蘆島の港へ向かう途中、無蓋貨車いただけの、眼もくらむ恐怖便所だ。誰かおとなの男の人の ころ 282

2. 新潮 2016年12月号

った。コウゴさんは見かけによらず、天女みたいな名前だっ にいて声掛けをすることくらいはできる。 た、と満州美は思い出す。 朝の『ひかりの里』ではリビングルームのテープルのあち こちに、破れ昆布が磯へ打ち上げられて引っ掛かったよう 宇美乙女さんの面会人は今まで年配の息子だった。部屋は に、年寄りたちの姿がある。確かに年寄りたちはみんなここ近いがめったに彼が来ることはないようで、満州美は息子の へ流れ着いた身だ。どこかから来て引っ掛かった。 顔をろくに覚えていない。 年寄りのどの顔もどうやってここへ着いたのかわからない 「今まで兄一人に任せていましたが、今年、主人が定年退職 になりまして、こっちへ帰って来ることができました。これ というふうに、茫然自失の表情だ。満州美はコッコッと静か に杖を突いて、初音さんの白髪頭の方へ歩いて行く。 からは母を見に通ってまいります」 「おはよう、お母さん」 母親の乙女さんに似ない、小柄の大人しそうな女性であ る。齢は満州美より少し下ではないかと思った。こちらも立 満州美がにつこり微笑むと、訝しそうに初音さんは顔を上 げて窪んだ眼の奥からじっと睨む。 ち上がって挨拶を返す。 「ようこそ。わたしは天野初音の長女です」 あなただあれ ? あなただあれ、あなただれなの。知らな 満州美も何となく母親の名前だけで済ませた。 いわ。知らない人ね。 すがわらたかすえのむすめ 初音さんはまた首をもとに戻して、いつもの茫然自失した 昔、古典で読んだ『更級日記』は、菅原孝標女とだけ記 顔になる。 されていた。父親の孝標が表札で作者はその娘なのだった。 ふじわら 満州美は初音さんの隣の車椅子に眼をやった。顎の張った夫の浮気に嫉妬の思いを綴った『蜻蛉日記』の作者は、藤原 みちつなのはは 道綱母である。あれだけの熱い鬱屈を綴りながら、道綱の 四角い、岩盤のような顔に荒い毛の白髪頭は見覚えがある。 112 号室のコウゴさんではないだろうか。肝心の名前が出母、だけだった。 てこなくて、渾名ではコウゴさんだったということを思い出 梗概 した。 北九州の介護施設『ひかりの里』に入所する初音さんは今年 「あのう天野初音さんのご家族の方ですか」 で九十七歳。娘の千里やその姉の満州美は、定期的に母を訪 コウゴさんの車椅子の向こうから、初老の女性がこちらを ねている。認知症が進行する施設の老人の多くは、日々を穏 見た。控えめに満州美に挨拶をした。 やかに過ごしつつ、過去の記憶に生きていた。初音さんには 「初めてお目に掛かりますが、私は斜向かいの部屋の、宇美 おとめ 戦中の天津租界が、隣室の牛枝さんには出征した軍馬が、斜 乙女の娘でございます」 向いの乙女さんには生家の宇美町が甦り、鮮やかに眼前した。 斜向かいは 112 号室でコウゴさんの部屋である。そうだ うみ 281 工リザベスの友達

3. 新潮 2016年12月号

長い腕が満州美の服の背中を掴んで、舳先の突端まで突き出 してくれた。親も子もなくてその腕だけが、満州美の命をし つかりとぶら下げた。 おいさんが掴んどるで安心せい ! 天から糸で吊されたように、満州美は海に突き出た便所の 穴にしやがまされた。股の下に遠い黒い色をした早春の海が 覗いていた。 あそこへ行くとらくになれると、子ども心に田 5 った。 そう思うと波音が消えて耳が詰まったようになった。 じっと穴の下を睨んだ。六歳の記憶である。何度も思い出 しては再確認するので、昨日体験したように迫ってくる。 乙女さんの娘は黙ってコーヒーを飲んだ。 満州美が何か尋ねる番だった。 「宇美乙女さんはずっと内地にいらしたんですか」 内地だなんて自分でも思わぬ珍しい言い方になる。 「はい。母は桂川の農家に嫁ぎましたので、ずっと女手一つ で田畑を守っていたようです。父は商人で大阪より西の一円 を反物を売り歩いている人で、家のことは母が担っていたの です。舅姑は年取って、まあ労働力を見込んで嫁に取ったよ うなものです。昔はどこもそんなふうだと聞きました」 乙女さんの頑健そうな体は婚家でつくられたのだろう。 「母は多産の体質で子どもが次から次に出来るんです。父が 旅から帰るたびにおなかが膨れたんだそうです。あの、アレ です : : : 」 と乙女さんの娘はちょっと言い淀んで、言葉をつなぐ。 「 : : : あの間隔を空けるとね、妊娠しやすいと言いません けいせん か ? それで年子、年子で出来るんです。お産は稲刈りの途 中だったとか、田圃で産気づいたのを知らせるために、馬を 家へ走らせたとか、吃驚するような話をいろいろ聞きまし た」 コーヒーの湯気を包むように、乙女さんの娘は温かい紙コ ップを両掌に挟んでしゃべる。そのとき車椅子に人形のよう に座っていた乙女さんの顔が歪んだ。 「腹が痛い」 眉を吊り上げ、脇腹を押さえ始めた。 「おなかが痛いんですか」 満州美が思わず乙女さんの腹を覗き込んだ。 「痛い。痛い」 と乙女さんは苦悶し始める。盲腸ではないだろうか。九十 歳過ぎて盲腸になるだろうか。満州美は身を乗り出す。 「大丈夫かしら。どんなふうに痛いですか」 すると乙女さんの娘が柔らかに満州美を止めて、 「思い出しただけですよ。しまったことを言いました。わた しの話で陣痛を思い出したんです」 彼女の眼が徴笑んでいる。 「痛い、痛い。おっかさん、痛いよお」 乙女さんが突然、子どものようにペソをかいた。よほど痛達 いのではないか。陣痛の記憶だとしても、痛いには違いないの ス べ と満州美は思う。 「痛い、痛い、痛い、痛い ! 」 工 「大丈夫。もうすぐ生まれますよ、ほらほら生まれてくると ころ : : : 」

4. 新潮 2016年12月号

母、安産の神にもなっている。 「ほら、効いてきました。効いてきましたよ」 乙女さんの娘が言った。彼女の母親の首が垂れて、いつの 間にか車椅子の上で眠り始めている。満州美がふと見れば初 音さんの瞼も閉じてとろとろと居眠っていた。 「でも変ですね。なぜかしら」 満州美は首をかしげた。 「乙女さんはコウゴさんと呼ばれると、興奮しているときで も静かになるんだそうですね。それでコウゴさんって渾名が 付いてるんです。乙女さんは神功皇后におすがりするのじゃ なくて、神功皇后になってるんじゃないのでしようか ? 」 すると乙女さんの娘も考え込んで、 「でも、それならどうして皇后さんにお呪いを唱えるんでし ようか。さっきも母はらくに生ませてくださいと、お願いし たばっかりですもの」 「ええ、それはそうですよね」 二人の話は頼りなくふらふらと揺れる。 「わたしの母が神功皇后さんになるなんて滅相もないです。 たぶん皇后さんの名前は聞くだけでも、とてもお呪いの力が あるのですよ。コウゴさん、コウゴさん、とみなさんが呼ぶ その言葉を耳にするだけで、母は気が静まるのではないでし よ - つ、か」 「ああ、なるほどねえ : : : 」 満州美はうなずく。乙女さんのことはわからないが、自分 の親の初音さんが何気ない言葉に鋭く反応するときがある。 さっき乙女さんを襲ったまぼろしの陣痛もその反応かもしれ ない。 腕時計を見て満州美たちは腰を上げた。 昼食にはもう少し時間がある。 乙女さんと初音さんを部屋のべッドに移してやらねばなら ない。リビングのテープルをまわっていた大橋看護師が来 て、満州美の代わりに初音さんの車椅子を押してくれた。 テープルのあちこちには、まだ年寄りたちがてんでんばら ばらに打ち上げられている。 「お姉さん、今晩は」 午後八時を過ぎて千里が店の帰りにやって来た。店のカウ ンターの中で下拵えをしたうどんすきの出汁や、野菜、豆腐 の切ったのをタッ。ハーに人れて提げている。間もなくマンシ ョンの狭い台所に昆布とカツォ節の香りが立ちこめた。 姉妹が向かい合ってうどんの鍋に箸を人れる。体に何一つ 障害のない千里は店の仕事と『ひかりの里』通いを普通にこ なしているが、手足の不自由な満州美には疲れる仕事だっ ( 0 「今日はお疲れさまでした」 二人でビールの中瓶を開ける。 千里が鍋から湯気の立つうどんや豚肉を取り皿に人れて、 満州美に渡す。それを受け取って箸で出汁と混ぜながら、満の ス べ 州美が妙な話を始めた。 「わたし『ひかりの里』に行くと、よく思い出すことがあるリ 工 の。ほら、あそこの広いリビング。お年寄りがぼつん、ぼっ んと座ってるじゃない。ぽかんと天井を見てたりして」

5. 新潮 2016年12月号

癌はまだいい。助からなければ死ぬまでで、この世の期限 の隙間の土はね、塩気があって山羊の好物だそうよー が付いている。認知症に死の宣告はない。初音さんの次に自 そう言いながら満州美は、アメリカのどこの渓谷だった 分が発症すれば妹はどうなるか。 か、高い空へ突き刺さるような岩峰を思い出した。その眩暈 のするような巨大な壁を登って行く、点々と御飯粒ほどの影 満州美は千里に自分の気持ちを勘付かれて心配をかけない ように、つとめて明るい顔をよそおって鍋に箸を伸ばす。千が見える。あの山羊たちは孤独じゃない。仲間がいる。 里の気分は直ったようで、肉をたつぶり取り皿に取ってい 初音さんや乙女さんも、今はもう孤独じゃない。そんなこ る。肉が好物なのだ。 とを感じない世界に行ってしまったのだから。 千里は初音さんの介護を始める以前に、長く病んだ夫の看 ああ、ただ、わたしは淋しい。満州美は胸を震わせる。そ 病をして見送った。今度は初音さんを看取って、その次にも れを打ち消すようにうどんを啜り込む。 しも満州美が倒れたなら千里の晩年は辛すぎる。 中国大陸からの引き揚げは子どもだった満州美の眼にも焼 冬晴れの朝。 き付いた。道中で幼ないわが子を殺した親や、老いたわが親 大橋看護師が体温計の束を持って廊下を急いで行く。若い を殺した子もいた。家族がいれば家族の数だけ愛別離苦がっ介護士たちが年寄りを車椅子に乗せて、リビングへ連れて行 きまとう。独りなら死ぬだけだと、いつの頃からか満州美は 年寄りたちは部屋での検温がすむと、食事をさせられて、 結婚する気をなくしていった。 千里は人並みに結婚したが、夫とは死に別れた。これから 排泄をさせられて、肌着を着替えさせられて、さて掃除をす るために室外へ追い出される。 また母親と姉を順次に失うとしたら、満州美は妹が不憫にな る。崖登り山羊のように絶壁に蹄を掛けた初音さんも哀れだ 暖房のきいたリビングでは地域の少女合唱団が、車椅子の 到着を待って整列をしている。冬休みの少女たちはボランテ が、千里の方がよほど気の毒である。母親と姉を失った後、 ィアの天使である。喉を磨いて待っている。そこへがらんど もう千里には身寄りがない。野生の山羊は仲間がいて群れが あるが、人間は山羊よりはるかに孤独である。 うの眼をした車椅子の年寄りが集まって来て、リビングは少 「ねえ。山羊はどうして高い所が好きなの ? そんな高い しずつ埋まって行く。 冬の朝は明るい歌から始めようと、軽快なピアノに合わせ 所、ずいぶんくたびれるはずよね」 鍋に出汁と豆腐を足しながら、今、泣いた千里がもうけろ て少女たちの声が、童謡の『たきび』を歌い始めた。 りとして一言う。 かきねのかきねのまがりかど 「高い所の草は小さくても栄養価が高いんだって。それに岩

6. 新潮 2016年12月号

うになぜか全然墜ちなくて、わたしたちが助けに行けない場 所に引っ掛かってる」 ああ、お姉さん。 と聞きながら千里は顔をくしやくしやにしかめた。 「やめて。あたし、何だか泣きたくなってきたわ。悲しい。 初音さん、可哀想。助けに登って行きたくなる。でも行けな うしえ いのよね。初音さんも、乙女さんも、牛枝さんも可哀想」 満州美はそんな千里の顔を眺めると、テープルのティッシ ュの箱を黙って彼女の方へ押しやった。子どものような妹 だ。千里はティッシュをつまんで洟をかんだ。 もし自分も初音さんと同じように認知症になったらどうす るか。千里の泣き顔を見ながら満州美は思う。認知症のリス クは健康な妹より、過去に脳梗塞を起こして倒れた満州美の ほうが大である。 それでなくても齢を取ると、痴呆の出ない人間の方が珍し い。痴呆が出れば他人の手を借りなければ生きてはいけな い。それならいっそのこと死を選びたいが、そんな自己決裁 ができなくなるのがこの脳の病気である。死ぬまでは生きて いかねばならない。ことに人間は動物のように自然死するこ とができないので、最後は他人の手を借りて息を引き取るこ とになる。 人間は尊厳というものを守るため、なまじっか糞尿にまみ れて孤独死するわけにもいかない。満州美は若いとき、この 世はもう少し楽に生きられるものと思っていた。幼いときの 天津引き揚げの体験は、滅多にない不運だとケリをつけてい〔を ) たものだ。 明治の言説アーカイヴの総体を、徹底 したテクスト読解を通じて横断的に俯 潮瞰し、現在に直結する「表象空間」のダ イナミズムを浮かび上がらせる知の決 新 定的大著。◎定価 ( 本体 5000 円 + 税 ) 沸騰しつづける混沌へ。 あらゆる言説を踏破する、 近代日本の「知の考古学ー。 明治の表象空間 松浦寿輝 287 ェリザベスの友達

7. 新潮 2016年12月号

まじな 「ええ。神功皇后さんのお呪いは、安産祈願にとても効くん 乙女さんの娘がおなかを撫でてやる。母と子が逆になった だそうです。昔の女性たちだけでなく、今もね、家の近くの ような不思議に暖かい情景になる。 宇美神社には安産祈願をするため、若い妊婦さんが後を絶ち 「ほら、拝みなさい。いつものように拝むのよ」 ません」 乙女さんの娘が母親の耳にささやく。年寄りのカサカサに 福岡県下には熊襲征伐から新羅遠征まで、神功皇后の足跡 乾いた耳の穴は、白髪がかぶさった暗い洞穴に見える。白髪 にゆかりの神社が二十社以上もある。 はススキの穂のようだ。その中に人の言葉を聴く器官がある 中でも香椎の地には、仲哀天皇と神功皇后の夫婦神を祀っ とは思いにくい。 しかしその耳は娘の声を聴き取ったようで、乙女さんの唇た豪壮華麗な『香椎宮』が建っている。ここでは十年に一 度、天皇の勅使を迎える儀式がおこなわれて、昔、家が近か はぶつぶつ動き始めた。 ったので満州美も千里も初音さんに連れられて、その美しい 「コウゴさん、コウゴさん。らくに生ませておくんなせい」 行列を観に行ったことがある。 呪文めいている。 髪をみずらに結った男装の神功皇后が、古い煤けた絵馬の 「どうどどうど、らくに生ませておくんなせえ。コウゴさん けんに満州美の眼の前で 中からにわかに生彩を取り戻した。・ が生ましやったように、安産お願えもうします」 一人の痴呆の老婆が、神功皇后のお呪いを唱えてその通力に 乙女さんの眼は宙に浮いて、暗誦するように唇が動く。 すがろうとしている。 「コウゴさんとは人の名前ですか」 「乙女は多産だった母親似で、五男四女の子どもを生んで、 満州美は乙女さんの娘に尋ねた。 私はその三番目の子どもです」 「それとも神様 ? 」 みおも たしか神功皇后は身重の腹を抱えて新羅へ渡り、戦果を揚 乙女さんの娘は相変らず、手を差し伸ばして母親の腹を柔 げて帰国すると、筑紫の宇美で無事に出産したのである。福 らかに撫でながら満州美を振り返り、 じんぐう 岡には神功皇后ゆかりの地名がおびただしくあるので、年配 「神功皇后のことですよ」 の人間なら誰でも知っている。 と微笑んだ。 宇美という地名は、産み、にあやかっている。 何と : : : 。満州美はぼかんとなった。 そのときの赤ん坊が後の応神天皇となる。皇后は臨月近い 「神功皇后」 身で新羅征伐へ発って帰国後に出産したわけだから、その妊 大昔の、神代の時代の人影が現れたような気がする。 娠期間は何と十五ヶ月以上におよんだのだ。 「コウゴって、その皇后のことなんですか ? 」 そんなことから皇后は女性の軍神としてだけでなく、聖 年寄りの口から出る言葉は判じ物のようである。 284

8. 新潮 2016年12月号

冬がきて商店街のバーゲンが始まると、千里の営む喫茶店 も少し忙しくなってきた。普段の客だけでなく、商店主と業 者なども寄って軽食を取るのである。昼どきの客が重なると 雇いの女性一人に任せるわけにはいかず、千里は姉に電話を 掛けてくる。 はつね 「お姉さん、初音さんのこと、明日はお願い」 「はい、はい、了解です」 ますみ 翌朝、満州美は杖を突」て = に乗り、初音さんの」る 『ひかりの里』へ出かけて行く左半身不自由な満州美が訪 ねて行っても大して役には立たないが、認知症の母親のそば ◆連載第五回 エリザベスの友達 村田喜代子 みト せんり

9. 新潮 2016年12月号

「ええ。それで何を思い出すの」 千里は苦しそうに笑っている。 「山羊よ」 野生の山羊の蹄は外側が硬く、真ん中の部分は柔らかい特 ャギ ? 千里が変な顔をした。 別な構造で、わずかな岩場の溝にでも爪を掛けることができ 「動物の顔のこと ? 白くて細長い顔とか、小さい眼とか」 る。それに先天的な跳躍力の持ち主で、数百メートルの草も 「ううん、顔じゃないの」 木もない垂直の岩壁をどんどん上り詰めるのだ。 満州美は箸を握ったまま笑う。 満州美の説明に熱がこもるので、千里はうどんを啜りなが 「ずいぶん以前、テレビで外国のどこかの山の断崖絶壁が映らだんだん訝しい顔になった。 っていたのよ。粗いナイフでガリガリ削ったような、切り立 「ねえ、そんな俊敏な山羊に、認知症でよろよろの初音さん った高い岩の崖ね。ほとんど垂直。よく見るとその崖の中途たちがどう似てるわけ ? 」 に何か御飯粒みたいなものが、一杯くつついてるの」 うんうん、そうそう、と満州美はうなずいて、 「知らない。あたし見たことないわ」 「カメラをぐーんと引くと、岩壁のあっちこっちにそんな奇 「その粒々は山羊なのよ。野生の山羊たち」 跡の山羊たちが張り付いてるの」 垂直の岩壁はよく映像で見る。ロッククライマーがハーケ 見上げる岩壁の空の高みに孤高の一匹の姿があるかと見る ンを打ち、ザイルで体を固定しながら登攀する、そんな気が と、その下にもう少しという距離で頑張っている一匹もあ 遠くなるような壁面だ。 る。中途で休んでいる数匹は岩の隙間のわずかな草を食べて そこを山羊たちが当然、ハーケンもザイルもなしに体の片 いる。はるか下では今からそろそろ登攀を志そうとする山羊 もいる。 側を接着剤でくつつけたように張り付けて、せっせ、せっせ と登っていくのだ。思わず自分の眼を疑うような光景だ。山 「広い岩壁のあっちこっちの場所に、あるいは高く、あるい 羊が墜落しないのには理由がある。 は低く、てんでんばらばらに山羊たちが張り付いてる。奇想 「山羊はもともと高い所へ登るのが好きらしいの。岩壁どこ 天外、悪夢のような光景でもあるの。『ひかりの里』のリビ ろか、草原に生えてる木の枝の先つぼまで、木の実が生って ングに人ると、その山羊たちによく似た年寄りが、あっちに もこっちにもいるのよ」 いればずんずんあの足で登って行くのよ」 「木登り山羊かあ」 「でも『ひかりの里』に断崖絶壁はないわよ」 「木の枝にね一杯に、山羊の花が咲いてるような光景。もう 「絶壁はね、年寄りが一人一人抱えているのよ。決してあの 素晴らしく大きくて、ぼろぼろの毛のね、山羊の花よ」 人たちは一塊にまとまらず、眩暈のするような自分だけの絶 「ああ、もうあたし信じられないわ」 壁にたった独りで張り付いてる。滑落しそうで、でも夢のよ

10. 新潮 2016年12月号

面的に排撃して、観音にすがっている。こういう風に非常上を想像してみる必要がある。 おおよそ半年前、一九四二年五月二十六日に設立された にテキ。ハキと転向する人と、僕みたいな長い間黙々と脱皮 「日本文学報国会」で、河上は評論部門の幹事長に就任して して変ってゆく人と、性分がまるで違うんでどっちがいい いた。六月十八日の発会式では、評論随筆部会代表として、 ってことはないのだと思う。事実、結果から大した違いは 内閣総理大臣にして陸軍大将、ならびに大政翼賛会総裁の東 ないじゃないか ? しかも君は僕がいまだにヴァレリイに 学んだことが悪かったとはいわないといって怒る。然しヴ条英機の前で、「宣誓」を述べている。そこには以下のよう な言葉がある。〈われわれの如く、祖先の血液や魂がそのま アレリイなんて僕にとって、たまたま昨日食ったビフテキ まこの生きたわれわれの肉体に蘇っている者にとっては、現 が今日の僕の肉体をなしているようなものだ。ビフテキで 在のこの一滴の血の分析の中に、永い過去と未来の運命や光 なくたってよかったのだ。僕の肉体は毎日新陳代謝する。 本当に臭いかどうか、名目に囚われないで、匂をかいでか栄や真心を、手に取るように読み取ることが出来るのであり らいってくれ。それでも僕の肉体が生臭くって厭なら、仕ます。これがわれわれ日本国民のみが享有する、他にかけが 方がない。僕をやつつけろ。僕は戦争以来神様という外濠えのない歴史の精神であります〉。座談会「近代の超克」が、 も人間という内濠も自分の手で埋めて、心の貧しさという河上の司会によって行われるのは、この一カ月後のことであ る。なお、会員総数は、設立から一カ月で、二千六百一一十三 本丸一つに裸で立籠っているから、易しいよ。そして僕み たいな生振をみんな虐殺して、君達精進派だけで日本文名に及んだ。 その後は部会を超えて報国会の審査部長になった。十一月 化が背負えるものなら背負って見ろ ! 三日から五日にかけて行われた、報国会主催の「大東亜文学 この河上の魂の怒号は完全に流されて、誰一人何の言及も者大会」では、菊池寛を議長に、河上は副議長を務めた。参 加者は「小林、林、亀井、保田與重郎ら常任理事を含む日本 なく、座談は次の話題に移っていった。これは不自然であ る。編集のさいに削除されたのか、あるいは逆に河上が加筆側五十名弱に対し、満州国から五名、中国から十一一名、モン ゴルから三名、朝鮮から五名、台湾から五名となっている。 したのかと疑いたくもなるが、それはともかく、この座談会 での河上の発言は、冒頭部での導人と、〈日本には仏教と神ほかに参与として百三十六名が参加している ( 『文藝年鑑』昭 和十八年版 ) 。このときの議題は「大東亜精神の樹立」、「大東 道がある〉という林に〈キリスト教もあるよ〉と付け加えた ことを除けば、ほとんどこの一カ所だけだった。河上は〈僕亜精神の強化普及」、「文学を通じての思想文化の融合方法」、 「文学を通じての大東亜戦争完遂に協力するについての方法」 は戦争以来神様という外濠も人間という内濠も自分の手で埋 の四つ。『文藝年鑑』には〈二日に亘った本会議に於て最も めて、心の貧しさという本丸一つに裸で立籠っている〉と言 っている。このように吐き出さずにいられなかった当時の河大いなる効果を修めたのは、満華蒙の各代表者達が大東亜戦 2 紹