さによる。十代半ばの女の子を抱く大人の男が取るべき手順合いはほとんどなかった。亮吉が高校を中退したことが中学 を、腰や背中、足そして指の、ほんのわずかな動きで、菜央教師を目指すきっかけになったとはいえ、その後の動向が気 は示したのだ。平田が素直にそれに従うと菜央は、苦痛では になったこともない、いまではどうでもいい存在だった。 なく羞恥を堪え忍ぶというように歯を食いしばり、そして息 なのに、菜央の口からその名前が出ると、心が強くざわっ を吐くというのを繰り返した。じつによく弁えている。 いた。もはやなかったことですらあった、ともにサッカーに しかも菜央は、コンドームを用意していただけでなく、つ 打ち込んだ十年間が甦ってきて、いまの自分を試すようで けてくれたのだ。もたっかず、すっと根元まで伸ばした。そ も、脅すようでもあったのだ。おまえは、いまのままでいい のかと。 してこういったのだ。私が高校を卒業したら、これもいらな くなるからね。 「亮吉は中学の同級生で、クラブチームでずっといっしょに 平田はその言葉の意味するところがわからないほど鈍くな サッカーしてたんや」 い。公園で助けられたことへの感謝が恋愛感情に変わったに 菜央が、スポーツバッグを開いて見せても、平田は驚かな ちがいない。高校を卒業後すぐの結婚を求められるだろう。 かった。むしろ、落胆した。人生が大きく動くほどでないで 菜央は親が仕事をころころ変え経済的に不安定な家庭だった はないか ! 大金ではある。高価なものがいくらか買えるだ から、公務員の妻ほど魅力的な地位はないはずだ。 ろう。しかし平田が期待していたのはこんな即物的なもので あれから一年、菜央は来春に高校を卒業する。進路につい なく、もっと、なんていうか、生き様そのものが変わるよう な : て平田は聞かないし菜央もいわない。菜央の親に紹介された こともなく、叔父の金光も付き合っているのを知らないだろ 「なんぼあんねん」 う。仲は変わらずいい。ただ、平田には菜央がなにを考えて ざっとの金額はわかったが、平田は訊ねた。 いるのかよくわからない。 「数えてないねん。こんな大金見たことないから怖なって」 そして咋日。遅くまでアルバイトのはずだったのに、自校 そういえば、菜央が怯えている。難波のラプホテルの廊下 でのサッカー部の練習試合を菜央が見にきた。 を、クスリでぶっ飛んだ男がドアを棒で叩いて回ったときと 親に黙って借りた逢い引き用のア。ハートに向かう車の中 似た顔をしている。このことがあったから借りたア。ハートだ で、セノリョウキチを知っているかと聞かれたとき、平田は った。平田を手玉に取るようなときがあっても、まだ十七歳 なのだ。 なぜか、人生が大きく動く予感がした。 平田は亮吉と、仲は悪くなかったが、サッカー以外の付き 85 楽園
菜央はしばし表情をなくしたあと、床に転げまわって笑い手が伸びたのは、自分の混乱を紛らわせるためだった。自分 を落ちつかせるために、まず菜央を静かにさせる。 だした。ふだん声を立てて笑うこともあまりないのに、なに がそんなにおかしいのか。 ところが、首を絞めだしてしばらくしても、菜央は笑い止 めなかった。そんなプレイはしたことないのに、菜央が楽し 結婚しよう、と平田はいいかけた。そんなばかな、と打ち 消した。 んでいるように平田には見え、力を弛めることをしなかっ た。しかし、仮に菜央がすぐに嫌がっていたとしても、やめ ていただろうか。 それが昨日のことで、翌月曜日の午前七時半、平田は菜央 の遺体に添い寝しながら、教頭に電話した。 なぜこんなことになってしまったのかわからないと、平田 「ほんま急にすみません。今日は雨ですから、教室で自習と は自分をごまかすことができない。発作的であっても、心に いうことで。はい、そうです、レポート書かせてください。 この行動を導いた動機は必ずある。 テーマは、そうですね、うーん、まあ任せますわ。適当にし 教え子がなにか間違いを犯すと、それが悪いことであれば てください。こんど一杯おごりますよ」 あるほど、平田は叱らず、促す。静かに心の中に沈みこん で、なぜこんなことをしたのかを探りなさいと。他人のこと 平田は笑いながら右手の電話を切り、左手を菜央のまだや わらかい乳房から離した。 はいくら考えてもわからないが、自分のことなら必ず理由が 本当に、教頭に酒をおごりたくなった。それを実行するま見えてくる。 たいていの生徒は、それでもわからないと答えるが、中に で捕まらないし、生きる。平田はそう決めた。あの金を使っ は真実と思える答えを見いだす生徒もいて、かれらはその後 て北新地のクラブに連れて行こうかと一瞬考えた自分が、あ 問題を起こさなくなる。 ほらしくも愛らしくもあって、また笑った。いつもの安い焼 き鳥屋でいいのだ。 平田は数時間、菜央に添い寝しながら自分の心の中に静か に沈みこもうとしたが、うまくいかなかった。気は、皮膚の 起き上がる気力がわいてきた。数時間ぶりに上体を起こし て菜央を見下ろす。乱れのない着衣で、フローリングの床に数ミリ上でゆらゆらするだけ。もっともらしい動機をいくっ まっすぐに横たわっている。右手は腿にびったりとっき、左もいくつも思い浮かべたが、ひとつもしつくりこず、指と手 のひらに残る感触だけは一生忘れないと繰り返し思いつづけ 手は下腹に置かれている。まるで眠っているようだ、とはと ても見えない。 ところが上体を起こしてみると、そんなはずはない、そん 菜央の笑いに我慢がならなかったわけではないのに、首に 87 楽園
今日の昼前、鶴羽の湯のロビーの隅で、休憩に行こうとし ういった。耕太の行動の理由がわからなすぎるから、ひとま肪 ていた菜央は両頬一面にきび跡の青白い若者に声をかけられず棚上げしておくのがいい。 平田は金を調べた。一千万円の帯封がふたっと、百万円の 「おねえちゃん、この町が地元か」 束が九つ、ばらの一万円札がちょうど百枚。金額を伝えると 「そうですけどー 菜央はやっと緊張を解いて笑ったが、金に触ろうとはしな 「瀬能亮吉って知らんか。二十四歳くらいのー 菜央が首肯すると若者は、期待せずに答えたクイズが正解 「菜央はなんで亮吉のこと知ってんねん」 「叔父さんがな、その人の悪口をときどきいうてたから」 だったというような眉の上げ方をした。そして、足下に置い 平田は笑った。金光は、見下しているやつのことはなにも てあるスポーツ・ハッグを指した。 「これを、かわいそうな亮吉に渡してくれへんか」 いわないから、亮吉には嫉妬も含めた複雑な感情があるのだ ろう。 そういって、こそっと一万円札を菜央に握らせた。 「いいんですか、こんなに」 「これはこのまま亮吉に渡したらええねんな」 「うん」 菜央は思いがけない金に、引き受けるかどうか迷うことも できなかった。「かわいそうな」の意味を考えることも。 欲のないことだ。時給八百六十円でアル・ハイトをして、金 がないあれが欲しいこれが欲しいと、いつもいっているの 頼んだぞといって去ろうとする若者に、菜央は名前を訊ね た。若者は少しめんどくさそうに、耕太と答え、ほとんど駆に、握らされた一万円で満足している。 けるように店を出て行った。 「いまここで瀬能さんに電話して」 平田は・ハッグのファスナーを閉めた。携帯電話に亮吉の電 「なんかに追われてるって感じか」 「うーん、どやろ。顔は緊迫してなかった。最近よくきてん話番号はすでにない。 ねんけど、いつもとまったく変わらんかった。ただ、帰ると 「菜央。こんだけあったら、家が買える。買うて、そこにい っしょに住もう」 きだけ猛然って感じ。平田さん、耕太さんのこと知って 平田はびつくりした。あまりにありきたりな、安っぽい発 る ? 」 「知らんわ。中学の同級生にそんなやつおったかもしれんけ想ではないか。そしてそれが、思ってもない言葉だと、否定 できないのがショックだった。欠片も考えていないことがロ に出るはずないと、常々生徒にいってきたのだ。 耕太は菜央の叔父にひどくいじめられていたが、あえてこ ど」
なものすぐに忘れてしまうと打ち消してしまった。何時間も れを知ったあと電話したが番号は使われてなかった。終わっ かけてたどり着いた考えをあっさり捨てるのは、すがすがし た人間と関わらずに済んだのだから、それはそれでよかっ こ 0 くさえあった。いつまで生きるか知らないが、菜央のことを 一生忘れなくても、この手はいろんなものに触る、やわらか 「君らは訪ねてくるところを間違えてる。ほかを当たりなさ いモノ硬いモノ、たれのついた焼き鳥の串、無機物、イキモ ノ、産毛、皮膚、浮いた血管。 身長一八八センチの高取は、胸を張って顎を軽く突きだし 平田は自分が、菜央の左手の甲をさすっていることに気づ 「仏像の目」で見下ろせば、たいていの人間が萎縮するのを いた。菜央が気にしていた浮いた静脈は、もうない。そし知っている。要は、相手に対する圧倒的な余裕なのだ。 て、陶器のように冷たい。思いついたありきたりな比喩に、 だから、四人の若者に抱えられてあっというまにワンポッ 冷えた笑みが浮かんだ。ひと晩中床に寝て、背中や腰が痛く クスカーの中に押し込まれたとき、なにがまずかったのかす ぐにわからなかった。 ないのだろうか。菜央のことを本気で心配してようやく、自 分の首と背中がごりごりに痛んでいることに、平田は気づい 「おじさん、おれたちは遊びにきたんじゃないよ」 車のナンバ ープレートが千葉であるのをとっさに見てい 立ち上がると、強い立ちくらみがして片膝をついた。部屋 た。亮吉が通っていた高校のサッカー部顧問から、自分のこ とを聞いたにちがいない。 の隅のスポーツ・ハッグが視界に人り、血と酸素の足りない脳 は、あの金は亮吉に渡すべきだと思い立った。菜央の遺志な ナイフを突きつけられても、高取は動じなかった。いくら どという思いではなく、本来あるべき場所に戻してやるの 血気盛んな年頃といえ、直接の利害関係がない男を安易に刺 だ。車の中で菜央から聞かされたとき予感したとおりに、自 したりしない。かといって、無駄な刺激はしない。高取は事 分の人生を大きく動かしてしまった名前の元へ。 実を話した。亮吉の友人の名前も憶えているかぎり教えた。 ワンポックスカーは、近くをぐるっと回って O マックス 十月三十一日土曜日 の駐車場に戻った。解放されるとき、高取は亮吉がなにをし 高取はマックスの駐車場で、見知らぬ若い男たちに囲たのか聞かなかった。教えてくれないだろうし、知ったとこ まれ、瀬能亮吉の居場所を教えろといわれた。瀬能亮吉のこ ろでなんの足しにもならない。ただ、平田には連絡してやろ とはもちろん憶えているが、彼らが自分のところにきた理由 う。あの中でまともなのは体育教師になったあいつだけだ。 がわからない。亮吉は高取に相談せず高校を中退したし、そ 平田と亮吉の世代は、たまたま幸運がつづいただけで、プ
して金光の携帯に電話したあと、平田はリフティングの練習央のことなどすっかり忘れていたし、帰りに連絡先を書いた うろた を再開した。 紙をもらったときも戸惑うどころか狼狽えた。ふたりで会っ 亮吉とおなじ千葉の高校を受けるよう高取コーチに半ば強たときもなにを考えているかわからず気持ち悪かったのに、 引にいわれたのを断り、大阪のサッカーがそこそこ強い私学並んで歩いていると、肘に胸が何度か当たり、平田は舞い上 に人ったが、そこでもなかなかレギュラーになれない。亮吉 がってしまったのだ。服の上からでも女の乳房に触れたの が高校を辞めたと聞いて、平田は目標を中学の教員に定め は、初めてだった。 た。亮吉でだめなら、自分など選手としてやっていけるわけ そして平田は思い出した。熱中症で倒れた菜央に自分のス がない。中学のサッカー部の顧問になるのだ。高校生相手で ポーッドリンクを飲ませて、小学校の制服のプラウスのボタ は体力的に自信ないし、小学生では物足りない。 ンをはずした、そのとき垣間見えた薄いピンクの綿肌着の膨 リフティングなどいくらうまくなっても意味がない。高取らみのなさを。小さな突起は乳首だろうが、生地が毛羽立っ コーチにそういわれつづけ、エルマール O にいるときはほ ていたからか、飼っていた雌大のそれとおなじに見えたもの だっ ( 0 とんど練習しなかったが、いまとなってはこれしか特技がな い。なにかひとつ、子供たちより抜きんでているプレーがな あれがこんなふうになるのだと、平田は感動した。まさし ければ、舐められる。 くメタモルフォーゼだ。南港の人気のない駐車場の車の中、 体育大学に進み体育教師になって二年目、坊主頭に無精ひ ホックをはずせないでいると菜央は自分でプラジャーをずり げ、中学の旧友に眉毛を剃ってもらっているときついた額の 上げた。なぜ菜央が苛つくのかわからず、しかし平田は冷静 切り傷は、一六三センチという身長を充分に補って中学生を に、与えられた豊満といえる乳房を礼儀正しく愛撫した。 怖がらせた。 二回目のデートでこんなことが起こるなんて想像もーーも 平田は四年間離れていた実家から通うようになり、高校生ちろん願望もーーしていなかったが、人間はなんにでもすぐ になった菜央と再会した。金光の家系はだいたい目が腫れぼ 順応できる。フレアなミニスカートがまくりあがって露出し ったく、菜央も顎の少ししやくれた丸っこい顔にそれを載せ た。ハンツが、プラジャーとおなじ柄であることと、色つぼす ていて、色の白いじゃがいもだと思っていたのが、顔の造り ぎず子供っぽくもないことに、また感動した。この子は、よ は変わらずとも、愛嬌というか色気というか、そういうとこ く弁えている。 ろに惹かれた。 菜央が経験済みなのは平田には幸いだった。そう思ったの いや、それは後づけだ。鶴羽の湯で声をかけられるまで菜は、そう思わずにいられなかったのは、ごくごく小さなしぐ
ろに、だれか、同級生か先輩か後輩かが ( 法美の中を通りす持できている。 自分もそうだと、金光は自覚している。あんなあばた蟹 ぎる男を特定することに意味はない、ただ、男なのだ ) 押し 入ったようだった。泳ぎ疲れて日陰に人ろうとした金光ら男に、おれのどこが負けているというのだ ? なにひとっ劣っ 子数人は、ポイラー室の平らな屋根にうつ伏せ亀のように首てない ! その想いは、金光に全能感を与える。右の二の腕に作った を伸ばして、高い位置の窓から中を覗いている耕太を発見し カ瘤をさすり、前腕の筋量を確かめる。まったく無意味でば かげたこととわかっていても、これしか自分にはない。 あばた面を真っ赤にさせ歯を食いしばり口端から泡を吹か 耕太を見つけたら、この腕で締め上げて鍵を奪う。金光 せている耕太を屋根から引きずり下ろし、ポイラー室に押し は、ひさしぶりに血がふつふっとしてきた。 込むと、中からめったに声を荒げない法美の怒鳴り声と肉を 金光は、鶴羽の湯の駐車場に車を停めた。ここでアル・ハイ 殴る音がして、金光らは肋骨が折れるかと思うほど笑った。 トしている姪の菜央が日曜日に入っているとき、車の中で昼 金光らと付き合わなくなった耕太は、校区一の進学校に進 み、しかし大学には行かなかったようで、どんな仕事をして飯をいっしょに食べることが多い。菜央はもんべのようなユ ニフォーム姿ではなく私服で出てきて、向かいのコンビニに いるのかわからないが、いまとても羽振りがいいらしい。レ クサスに乗っているのを見かけたとか、フランクミュラーを寄らず、まっすぐ金光の元にやってきた。手にスポーツバッ グを提げている。 はめているとか、そんな噂を聞く。金光はわりと最近、汚ら 「ごめん、今日はいっしょに食べられへんねん。ちょっと用 しいジャージ姿で。ハチンコをしている耕太を見かけた。横に はドル箱が山と積んであったが、。ハチンコを生業にしている事ができて仕事あがった」 「どっか行くんか。そんなら送ったるぞ」 とは思わない。 「いや、だいじようぶ」 耕太の羽振りのよさを妬むやつは、子供のころの力関係を いまだに引きずっている。重いビールケースを運んだり、町 十月一一十六日月曜日 工場で油だらけになったり、女が寄ってこないほど魚の臭い 金光の小学生の姪っ子の菜央が児童公園で熱中症にかかっ がからだに染みついたりして月十数万円しか得られていなく たのは七年前のこと、平田はべンチに坐っていた。まだ五月 ても、ずっと見下してきたやつはいつまでもーー死んだあと 園 楽 のしかも日が暮れかけているのに熱中症だとわかったのは、 でさえーー自分より位が下なのだ。だから、いまだに強者だ った小中学生のころのネタを話題にして、ようやく自己を維保健体育の授業を憶えていたからだ。習ったとおりの処置を
で特権的な被写体であり続けてきた。両者奥にむかってある種の凹凸が発生し、このる、愛とユ 1 モアの写真なのだ。石川写真 は日本の失われた「あるがまま」を保持し凹凸が自動的に、画面に独特のオーラや深の述語的に繋がれた雑種性は、戦後の日米 ているユートピアであった。つまり、二つさを加えることとなる。この効果は自動的関係の狭間でアイデンティティ・ポリティ の土地は中央の人間が「見たいもの」を一に発生するから、誰が撮っても美味しく写クスに囚われ苦悩してきた沖縄を解放する 方的に投影されてきたのである。中央はつる万能調味料のようなもので ( インスタグ可能性を秘めている。 ねに見る ( 写真に撮る ) 立場で、東北と沖ラムのフォーマット 一方、田附勝の写真は、日本人がイメー ! ) 、その意味では 縄はつねに見られる ( 写真に撮られる ) 立「あるがまま」のドキュメンタリーには相ジする東北を越えて遡り、赤い血の、獣臭 い、日本の内なる異民族性へ、「日本ー以 場、中央の人々は東北や沖縄で撮影された応しくない。 写真のなかに、彼らにとっての「あるがまつまり、田附勝と石川竜一があえて人工前の狩猟採集文化へと通じている。さらに ま」を勝手に見て満足してきたのだ。例え的な正方形を用いるのは、中央人が投影す『東北』に続く写真集『魚人』の世界で は、津波によって流された神社の鳥居が、 ばそれは、人情あふれる素朴な島人の楽る「あるがまま」をはね返すためである。 園、あるいは戦後日本の矛盾が露呈する基そんな投影がかすむほど、オーラと深さが太平洋の向こうの漁師町に流れ着いて大切 に保存されている様を紹介し、津波によっ 地の島である。例えばそれは、おどろおど加わった被写体は光っていた。 ろしい遠野物語の世界、あるいは 3 ・Ⅱの石川竜一による肖像の輝きは、それが同て壊滅的な被害をもたらした海が、同時 災害に屈せず復興の遠い途上にある土地で一性 ( アイデンティティ ) ではなく同等性に、人間同士を繋ぐ海でもある事を活写し ある。写真のなかの「あるがまま」は幸福 ( セイムネス ) を通じて撮られていることている。日本から奪われた「あるがまま」 でも不幸でも良い、日本から「あるがまに由来する。同一性の「同じ」が主語に関は、国境という輪郭を越えた地球規模の人 ま」は奪われているという真実さえ見ずにわる ( 「私」は「私」であって「あなた」と自然の交流へと回流していくのだ。 済むならば。 ではない ! ) とすれば、同等性の「同じ」 こ は、述語に関わる。裸になれば「同じ」、 展覧会の感想を聞くと、意外にも最初のた 正方形のフォーマットは、かってダイア病気になれば「同じ」、死ぬときには「同批判的な意図を越えて、この展覧会は訪れ感 ン・アーバスが、その独特の存在感を放つじ」だ、と。同一性の写真はアイデンティた人々に何か救いのような気持ちをもたら展 被写体を収めるために用いて以来、根強いティの輪郭を確定し隔てる写真である。同したのだった。彼らの写真は、戦後日本に縄 沖 影響力をもっフォーマット、言わば「アー等性の写真は、アイデンティティにお構い「あるがまま」を回復するのではなく、そ ハス・ポックス」である。人間のデフォルなく述語や動詞が「同じ」である事を通じれを強いられた「あるがまま」探しから解 トの視野は横位置の長方形であるから、そて、相手を自分と「同じ」存在として見つ放するように思われた。 れを正方形に撓めると、画面の手前ないしめる。それは正体ではなく正面に反応す
: そうね、 : あなたもお大事に。最後だか ら、奥様にもよろしくお伝えになって。 : いえ、それも差 し出がましいわね。 : ええ、いいえ、 : さよ うなら。 もう出て行く準備は出来てるもの。 : : : 約束なんてしないけ女もしもし ? : : もしもし ? あなた ? あなたなのね ? : だけど、それには二つ条件があるわよ。 : まあ、お久しぶり。良かった、また声が聴けて。 : : : 良 一つは、わたしたちがどっちも生きてること。もう一つは、 かった、本当に。 : え、ここがどこかって ? : ・ ( 懐かし この家が燃えずに残ること。 : 当然じゃない ! 大は人そうに、悪戯めかして。 ) ・ ・「極楽」でしよう、あなたの ? に、猫は家に懐くものでしよう ? 万が一、ここが焼けなか ・ ( 声色を変えて不審らしく。 ) : : : え、 : じゃあ、ここ ったなら、わたしも戻ってくるかもしれないわね。その時に ・ : 冗談のつもり ? それとも、本気で言ってるの ? は ? あなたはまた、わたしをその気にさせられるかしら ? ・ : それとも、他人行儀に、お茶でも人れて差し上げましょ ( 電話を切って、放心したようにソフアに腰掛け る。しばらく顔を伏せて嗚咽。ゆっくりと彼女に スポットライトを残しつつ、照明を落とす。ヴァ イオリンの演奏。 ) 音楽が終わると共に、会場完全に暗転。時の経過 を感じさせる演出。 真っ暗な中で、電話の音。既に戦後。 「朝日新聞」 ( 1940 年 7 月 13 日 ) 「読売新聞」 ( 1940 年 2 月 4 日 ) 舞台『「肉声」、ジャン・コクトー「声」より、』は、Ⅱ月 日、東京・草月ホールにて上演されます。 作・演出平野啓一郎 構成・演出・美術杉本博司 主演寺島しのぶ 節付・演奏庄司紗矢香 参考文献 渋井清『江戸の板画ーー甦える美』 ( 桃源社 ) 藤岡洋保『表現者・堀ロ捨己ーー総合芸術の探求』 ( 中央公論 美術出版 ) 引用 770
ら歴史家トインビーまでが人ってくる始末で、まことに一貫 性がなく、「アウトサイダー」の定義さえろくにない。が、 それがよいのだと、河上は言う。 ウイルソンという、あらゆることに素人の青年が、任意の 河上徹太郎は、五十七歳の時『日本のアウトサイダー』 ( 昭和三十四年、中央公論社 ) という列伝体の評論集を刊行し人物の異教徒性、異邦人性を、興の赴くままに書き連ねてい くには、それがいい。たとえば、異教徒たることに厳密な形 た。これは、河上後期の代表的著作と言っていい。取り上げ られている人物は、中原中也、萩原朔太郎、「昭和初期の詩式上の定義などがあれば、ある人物の根っこにある異教徒性 は、必ずその定義を逃れて生きるだろう。「アウトサイダー」 人たち」、岩野泡鳴、河上肇、岡倉天心、大杉栄、内村鑑三 であるとは、まさしくそういうことだ。ウイルソンの本は、 などである。 その機徴をよく捉えている。「つまり思想的な権威が現代を 序文があり、この書名が、最近イギリスでよく売れたコリ ン・ウイルソンの『アウトサイダー』から借りたものである救い得ない時、これを否定し、『初心』を再建する役目を果 旨を、ことわっている。ウイルソンの言う「アウトサイダすものとしてディレッタンティズムが受人れられる」という 1 」の意味は、漠然とはしているが、別に事新しいものでは世情を、実によく示しているのである。 だが、河上に関心があるのは、そういうことではない。彼 ない。「常識社会の枠外にある人間の謂で、アウト・ロウ、 疎外された者、異教徒、異邦人、これ等のわれわれにお馴染が書こうとするのは、「日本のアウトサイダー」とも言うべ の文壇用語はすべて字義的に一応妥当するのである」と河上き人々の孤独な独特の〈正統性〉である。明治維新によって は言う。ウイルソンが取り上げる人物は、ドストエフスキ始まった日本の近代は、まず何を措いても近代機械産業の導 人、「文明開化という名のもとでの強引な資本主義の拡充 、ランポーは当然のこととして、ヤコプ・べーメやスウェ だった。この近代化には、それを推し進め、統御するための ーデンポルグのような宗教的神秘家から、バレエのニジンス キー、 e ・・ロレンスのような行動家、哲学者サルトルか地に着いた近代精神の活動がなかった。これは、当然のこと 23 イ
話した。すると、その話はたちまち広まって、相手の耳にも 紀村晋一は大学院を修了してから教師になったので、去 届いた。相手の名を仮にとしておこう。 年、関西大倉学園を辞めて、母校の大学の教壇に立っている >- は遠くにいても絶えずぼくを睨みつけてはいたが、近づ と伸仁から聞いていた。シェークスピアの研究では若手のな いてこようとはしなくなった。卒業式が終わったら、どこか かでは群を抜いた存在だという。 で待ち伏せているかもしれないと怖かったが、茨木駅のホー いずれは大学の教授になる人なのであろう。 ムで電車を待っていると、 >- はなにかの映画で観たようなわ 房江は、紀村晋一の言葉を胸のなかで反芻しながら、 「もうお母ちゃんはお前のことにはロ出しせえへん。好きな ざとらしい気障な笑みを投げかけて、小さく手を振り、電車 に乗らず仲間たちとどこかへ行ってしまった。 ことをしなさい。道を誤っても親のせいにせんとってな」 「あの雑誌を学校に持って来てた子に、感謝せなあかんな と言った。伸仁からは寝息が返ってきた。 あ。お母ちゃん、逆恨みしてたわ」 房江はそう言って、寝間着の袖で涙を拭いた。 十一月三日の祝日に、タネと千佐子は大東市のア。ハートに 「結局、どこかで勝負をつけんと、災いは止めへんから 引っ越すことになった。たいした荷物があるわけではなかっ たが、それでも引っ越しという作業はカ仕事で、片づけにも さらになにか言いかけたが、伸仁はスタンドの明かりを消時間がかかると思い、房江は多幸クラブを休んで手伝うこと し、自分の蒲団にもぐり込んだ。 にして、伸仁と一緒に尼崎の蘭月ビルに行った。 日曜日は中央市場は休みだし、モータープールの朝も暇な カイ塗料店から借りた四トントラックをタネの家の前に停 ので起こさないでくれという伸仁の言葉に生返事をして、房めると、伸仁は細い道を隔てた工務店の資材置き場に人って 江はしばらく蒲団の上に正座していた。 行き、遊んでいる子供たちのなかに立って長いこと蘭月ビル を眺めていた。 どこかで勝負をつけないと災いは止むことはない。 きっと伸仁がなにかの書物で覚えた言葉なのであろう。だ すでに母親のア。ハートの近くの二階屋で新婚生活を始めて が、それは真実だ。 いる明彦は、家の前に引っ越し荷物をまとめて出していた。 房江はそう考えていると、伸仁が高校一年生のときの担任喜代美は大東市のア。ハート の掃除をして待っているという。 だった紀村晋一という若い教師が言った一言葉をふと思いだし 「蘭月ビル。思い出の多い建物やなあ」 房江も工務店の資材置き場に人り、伸仁の横に立っと言っ あの子は、好きなことをさせといたらいいです。 273 野の春