ちゃん - みる会図書館


検索対象: 新潮 2016年11月号
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1. 新潮 2016年11月号

名乗り出た。そして黒板の前でじゃんけんをした。本間は最 本間は舌打ちし、島田が窓際の教員用の机からこちらを覗 初にちよきを出して最初に負けた。悔しさを大げさな一一一口動で き込んでいるのを見た。そして自分の歯型のついたアップル 表してから、振り返って教室内を見渡す。隅の方でとある女 。ハイを坂本ちゃんのお盆の上の皿に乗せ、「これいらないん 子がとある男子にアップル。ハイを譲渡している光景があっ だよな ? だからくれたんだよな ? 嫌いなんだもんな ? た。本間もあのように、女子から個人的に貰える立場にあれ これ。去年も俺にくれたよな ? そんときに坂本ちゃんと約 ば良かったのだが、いかんせん四時間目の雰囲気を引きずつ束したんだよな。今度アップル。ハイが給食に出たら必ず俺に ている教室内には、本間と関わってくれそうな女子は見当た くれるって。本当だもんな」 らない。 島田がこちらにやってくる前に本間は食べかけのアップル と、本間は思い出したように歩き出し、坂本ちゃんに歩み 。ハイを一口で平らげ、自分の席に戻った。残っている牛乳を 寄った。 ストローでちゅうっと吸い込み、深々と椅子に座り、黙って 「坂本ちゃん」本間がそう言っただけで、坂本ちゃんはアッ机上の皿を見た。本間の大嫌いなねぎぬたが残っている。島 プル。ハイをゆっくりと皿ごと差し出した。「サンキュー 田は本間に声をかけない。先ほどの場所から、「そうなの ? 素手でアップル。ハイを受け取り、立ったまま口に放り込ん本間君とそういう約束したの ? 本当は食べたかったんじゃ だのを見た坂本ちゃんと同じ班の女子たちが、すぐさま抗議ないの ? 無理やり取られたんじゃないの ? 」という彼女の を始めた。「本間君それ坂本ちゃんの分でしょ ! 」「坂本ちゃ 台詞が聞こえる。本間にはわかっている。島田は坂本ちゃん んはあげるって言ってないのに ! 」「かわいそうでしょ ! 」 に声をかけることによって事実を把握したいのではないと。 半分以上りとってくちゃくちゃ咀嚼しながら本間はこう返島田にとって事実はすでに決定している。それを裏付けるた した。「は ? お前らに関係ないだろ。俺と坂本ちゃんの取めの証言を、坂本ちゃんから引き出そうとしているだけであ 引なんだよ。坂本ちゃんがくれたんだよ。な ? 」坂本ちゃん り、決して坂本ちゃんの意見や気持ちを求めているわけでは は悲しげな顔で本間を見上げる。その潤んだ大きな目が、度ないと。そういう態度を教師からぶつけられてしまうと、坂 の強い彼女の眼鏡を通して歪んでいた。それから視線を定め本ちゃんは混乱して何も言い出せなくなる。彼女の性格なの ずにきよろきよろと周囲をゆっくりと見回した。混乱してい だ。教師が決め付けたことに反論する勇気も技術も持ち合わ み る時の彼女の仕草だ。 せていないのだ。それから、坂本ちゃんは、泣く時に俯かな組 「先生 ! 本間君が坂本ちゃんのアップルバイを横取りしま い。声を出さない。鼻水もすすらない。出しつばなしで拭わ二 した ! 」 ない。そういう習慣が無い。ああやってぼろぼろと涙をこぼ

2. 新潮 2016年11月号

「まあ、追々話すわ」 もない怒りや悲しみが性欲みたいにむらむらと湧いては目の 立ち去ろうとする本間に、山田たちが「ほら、お前の自転裏側から外へとあふれ出していた。どの道、向こうの親もこ 車、こっちに移しておいたぞ」と言って本間の自転車を転が ちらの親も、島田と同じように本間を最低と呼ぶだろう。 して差し出した。「鍵かかってなかったから、あぶねえと思 それから、自尊心だった。坂本ちゃんでしか性欲を満たせ って、ずっと見張ってた」 なかったり、坂本ちゃんしか彼女に出来ない自分を、許せな かった。体面を保てなかった。自分がやったこと全てが、目 本間はため息をついて、感謝の念を述べた。本当に感謝し ていた。 障りな過去だった。 「自転車、ありがとう。今日何があったかは、お前らにはち 「ま、元気出せよ。大丈夫だよ、お前は頭が良いんだから」 。ふと、緊張がほぐれ と言って、本間の肩をぼんぼん叩 ゃんと言うから」 て、まだなんとかやっていけそうだと安心して、乾きかけの 「いいんだよ。気をつけて帰れよ」 頬に再び涙をこぼした。本間が泣いている光景はめずらし 帰宅すると本間は自室に籠って三回オナニーした。母親が 、武川たちは半分笑いながら「おうおう、泣け泣け」「お帰ってきてタ飯の用意が出来ても、食欲が無いと言った。 前は悪くねえ。お前は悪くねえ」と何も知らないくせに、わ 翌日体育の授業で、藤田が自分に余所余所しくしているの くわくしながら慰めた。島田には見せたくなかった涙が、彼を見て、本間は不愉快になった。腕力とちつぼけな脳味噌し らの前ではなぜか我慢できなくて、そして流れても別にかま か持たず、生徒に対する傲慢も中途半端な藤田を、これでも わなかった。教師に叱られて泣いているのだと誤解されて かというくらい見下した。 「おい、本間」石原が恐る恐る呼んだ。 も、なぜか本間の自尊心は傷つかなかった。 「昨日、妻かったらしいじゃん」昨日の何を指して言ってい 自尊心だった。島田をうまく利用すべく「思春期の中学 るのかわからない。 生」を演じようとし、しかしそれに躊躇っていた原因がわか 「昨日の、何 ? 」 った。単純に、坂本ちゃんを、この性欲の捌け口に利用した などと、たとえそれが本当であったとしても、坂本ちゃん 「だから、藤田とアレだったんだって ? 肉弾戦、ってや っ ? 」 や、大人たちに思われたくなかったのだ。坂本ちゃんを道具 み 組 「ああ、あれね。お前、見てたの ? 」 にした人間でありたくなかった。彼女と対等な人間でありた 人 「見てない。帰っちゃったから」 かった。そういう本間の気持ち自体が、端から坂本ちゃんへ の蔑みを孕んでいることも自覚しつつ、けれどもどうしよう 「じゃあ、説明する。島田の呼び出しバつくれて帰ろうとし はな

3. 新潮 2016年11月号

テノールの生徒たちから頭を叩かれているところに島田がや誰の言うことでもよくきく愚かな人間ということだ。女子た ってきて、真面目にやりなさいと深刻な顔で言った。本間は ちゃ、平野のような男子たちを始めとした、思考力のない中 まだ何もしていないのに、彼女は一番に彼の目を見た。島田学生は随分前から、本間にとって軽蔑すべき対象だったけれ が、練習に熱心な女子の指導に出向いて、ドアの向こうに彼ども、坂本ちゃんを今そこに人れてしまうのが、なぜか憚ら 女の気配がなくなったのを確認してから、本間は床に横にな れた。それは恐らく、彼女を自分と同類であると勘違いして って居眠りをした。大友たちに下半身を露出させられて目が いるためだと思われた。坂本ちゃんが普段、教師からの要求 覚め、丁度再び島田が人ってくるところだったので焦り、急に答えられず、彼らや生徒たちの侮蔑を浴びている様子を見 いで下着とズボンを穿いた。 ていた本間は、知らぬ間に彼女のことを特別視していたらし 最後にクラス全体で何度か通しながら、本間は、テノール い。坂本ちゃんも本質的に、他の生徒たちと同じタイプの人 に平野がいなくて良かったと思った。もしも平野がいたら、 間であり、つまり教師の言うことに従うだけで自ら思考する 本間たちが遊んでいる間、島田に告げロしにいくに決まって ことが出来ず、もし能力や技術があったらば迷い無く内申点 いたし、音痴の癖にやけに大声で歌うから、本間の方が笑わ を稼ごうと机に向かって勉強するでなく教師に媚びるよう せるでなく笑ってしまうだろう。一同で歌い終わった後、 な、そういう中学生なのかもしれない。けれども本間は今、 それを認めたがらない。坂本ちゃんは自らの意思で、放課後 「坂本ちゃん、最近、声が出るようになったね」と女子たち の言うのが聞こえた。 本間と共に時間を過ごしているのだと考えたかった。しかし そうすると、坂本ちゃんの行動に動機が存在するはずだ。本 その翌日、本間は授業を受けるフリをしつつ、まだ完成し ていなかった予想問題作りに勤しんだ。机上で行っている行 間の想像力では、搾り出せる答えが自分に対する恋心しかな 為自体は授業中何ら不自然なものではなかったから、つまら かった。すると坂本ちゃんの気持ちが迷惑だった。気色の悪 ない時間を上手く利用して自分に課した宿題をこなすことが いものだった。本間自身、そのように考えている自分が、自 できた。放課後、坂本ちゃんの為に拵えた英語と数学の予想惚れていることはわかっている。坂本ちゃんの放課後を支配 問題を携え、市立図書館へと向かった。四時半丁度に着く して、彼女のことを自分の所有物のように思い始め、他の生 徒とは違う特別な存在と見なさなければ我慢ならなくなって と、坂本ちゃんと自転車置き場で鉢合わせた。 み 「丁度びったりじゃん」と言うと、坂本ちゃんは嬉しそうな いるのだ。彼女には時々反抗してほしかった。本間のやるこ組 顔を見せた。不意に本間は、坂本ちゃんが、自分に恋してい とに嫌がったり、意見したり、泣いたり、もっと自己主張し二 るのではないかという不安を抱いた。さもなければ彼女は、 てくれたならば、その身体を触る行為における罪悪感は減少

4. 新潮 2016年11月号

こ 0 「いまから飲んで良いと ? 」と稔は言いながらも、手にグラ スを持ち、もう注がれているビールの泡を見た。 「ちゃんときれいに化粧してもらってるから、よかったよ」 「よかくさ。飲みきれんほどビールのあるとやけん」 と昭が言った。 明義はそう言って自らのグラスに注ぎ、また向かいに座る 「ねえ、ほんとに : : : とうとう病院にはお見舞いに行かりん 昭にも勧めるのだった。 かったけど、こうしてきれいに化粧したかおと会えたからね え」と節子もうなずきながら言った。 昭は注がれた酒を飲もうとグラスに口をつけたが、それを 見ていた節子から、「ちょっと、昭よ。佐恵子姉さんのかお 美穂と節子は佐恵子のかおをなおも飽かず見ながら、化粧 を見ちよらんうちから : : : べろべろになるけ、まだ酒はだめ の仕上がりの良いこと、病院で短く刈られた髪がいかにも残 よ」と言われて、慌てて立ち上がろうとした。しかし、昭は 念だということ、着せてある服がよく似合っていることなど なかなか立ち上がれずにいた。左手に持った杖を支えにして を、これも飽かず話していた。昭は飾られた写真に目を上げ ようやく立っと、彼は節子と一緒に棺の方に近寄った。 て、数秒のあいだ視線をそこに止めていた。と、彼はかおを 「お、きれいじゃん」 ぶるりと震わせて、二度つづけざまに大きく鼻をならしたか 棺に手をつき、身を乗りだしながら佐恵子のかおを見て昭 と思うと、「おばちゃんも、ようがんばったね」とつぶやい は言った。 て、とっぜん泣きだしたのだったが、それは、棺の中で横た 「きれいかろ ? 」と彼らの傍にきていた美穂は、昭と節子を わり目を閉じた佐恵子ではなく、笑みを浮かべてこちらを見 ている写真によって、はじめてもう彼女が死んでしまったの 交互に見やって言った。 だと気がついたというように稔には思われた。 「ほんとにねえ」と、節子も言った。「やけど、髪の毛がね、 残念にねえ。自慢じゃったのに」 稔が一杯目のビールを飲み終わらないうちに、哲雄が肥っ 「ああ、髪でしょ ? 」と美穂は答えて言った。「病院に長く た身体を揺らしながら、手に寿司の人った大きな袋を提げて 居ったけん、それで、もうばっさり切られてしもうとって部屋に人ってきた。 「ちゃんとお寿司ば持ってきとるたい、兄ちゃん」と美穂が 稔は畳の上にあぐらをかき、注がれたビールにはほとんど 言うのに、哲雄は「おう」とだけ返事をして、のしのしと畳 口をつけないで、親戚と母の会話を聞き、またそうやって話に上がり腰を下ろした。そのうしろを後れて、この日集まっ た者たちのうち、もっとも年上の、そしてまたもっともなが しながら飽かず祖母のかおを眺めつづけ、何か、そこから言 く、今は棺の中に横たわる兄嫁と日々の付き合いのあった敬 うべきことばを拾いだすようにしている彼らの姿を見てい

5. 新潮 2016年11月号

に終わるような、簡単な葬式やったけん。それで最初に、故穂は言う。 人の親しかったひとが手紙読むとのあるやろうが ? それ 「だれの ? 」 ば、お父さんが読むことになったっちゃんな。ほら、タッコ 「タッコ婆の。イサちゃんの葬式の日がちょうどタッコ婆の 婆とイサちゃんが福岡に引っ越して来たときに、仕事やらば誕生日やったとぞ ? 」 紹介したことのあったけんね : : : 」 「へえ ! そうやったったい」 「あれ ? イサちゃんって、お父さんからタクシー運転手の 「そうぞ ? 」と、稔の方に首を向けながら、また奈美が母親 仕事の紹介してもらったと ? 」と稔は言った。 の口調を真似するようにして言う。「タッコ婆は誕生日の日 「ちがう、タクシーの運転手になったとは、だいぶあとで、 にイサちゃんの葬式があって、しかも人院しとったとぞ ? 」 そのまえにも、色々仕事ば勤めちゃ辞めしよったとよ : : : そ 「ケーキも人れたろ ? 」と、また美穂は話しだす。「それに、 れで、お父さんが手紙っていうか、短いスピーチば最初にす タッコ婆がさ、人院した日に、夢にイサちゃんの出てきて、 るんやけど、あれほど飲みなんなって言うとったのに、お父餡。ハンば食べよったけん、それも人れてくれって言うけん、 とき さん朝から酒飲んでべろべろでさ。なんかよう分からんスピ スー。ハーで買ってきてそれも棺に人れて、それに、お斎も ーチばして、ね、奈美」 : 斎場でご飯ば食べるやろが ? それも人れたけん、みん 「あのスピーチは最悪やった。勲さんとは生前一度しか一緒なで棺ん中が食べ物だらけになっとるねって、そがん言って にお酒を飲んだことはありませんでしたが、とか別に言わん大笑いしてわいわい言いながら、あとは出棺まで時間のある でもいいことばっかり言いよったし」と奈美は笑いながら父 けん、棺の前に並んで何枚も写真撮ったよ」 である明義の声色を真似て言った。 「おかあさんが大声で写真ば撮ろうよって言いよったけん、 「スピーチもあっというまやったけんね、葬式の時間が余る斎場のひともどんな家族やろかって思いよったやろうね」 やろ ? やけん、棺にマフ一フーやら帽子やら、イサちゃんの と、奈美が言った。 着とった服やら人れて、ほかにも小物ば人れて、それにケー 美穂は「あら、そんなうるさかった ? 」と笑い、「まあ、 ん キも人れないかんやったし : : : 」 ら 明るく送ったよ、イサちゃんは」と言った。 「なんでケーキなんて人れたと。イサちゃんがべたべたする 「そう、そんならよかったたい」と稔は言うと、腰を浮かせば ゃん」と、稔は言って笑った。「というか、イサちゃんはケ て、尻の下に潜りこんでしまっていた、自分が肩から掛けてわ 縫 ーキ好きやったつけ ? 」 いた鞄のベルトを抜きだすと、さっきよりも深く身体全体を 「なんば言いよると。誕生日やったやん人れたったい」と美沈みこませるようにして座りなおしながら溜め息をついた。

6. 新潮 2016年11月号

黙って首置きに頭をもたせかけていた奈美が、兄のことばを この調子は、吉川の家のものなんやろうな。吉川 そうたい。婆ちゃんも死んで、いよいよあの古か家はどうな聞き微笑を浮かべながら話しだした。「うちらでタッコ婆の るんやろうか ? ぼけるまえに婆ちゃんの、吉川の家も古か家に遊びに行くとさ、イサちゃんが帰ってくるまでのあい だ、あのべッドで飛び跳ねて遊んどったやん ? 知香 ( 加代 けん、ほどいてしまわんばならんって言いよったな。でも、 子の娘 ) だけ上手く飛べんで、うちらに踏まれそうになって ほどくっていうのは、どういう意味なんやろうか。たぶん、 泣きよってさ」 解体するって意味やろうばってん : : ↓ 「そやった、そうやった」と稔も笑顔になって言った。 と、稔は美穂の方を向いて「そういえばさ」と言った。 「遊びに行っちゃべッドで飛び跳ねよったもんな。だいた 「イサちゃんのべッドは、結局どうなったと ? 」 勲と多津子が使っていたべッドが壊れてしまっていて、捨い、なんでおれらは、ほとんど毎週タッコ婆の家に行きよっ たっちやろう ? 奈美のピアノ教室におかあさんが迎えに行 てなければならないという話は美穂を通して稔にも伝えられ って、それから帰ってくるまでタッコ婆の家で留守番ばしょ ていた。美穂が稔にその話を伝えたのは、どうしてもべッド ったんやったつけ ? 」 をどかさなければならない畳の張り替えの時期よりもまえの そして彼は浩の方を向いてこう言ったのだっ、たが、訊かれ ことで、彼女はその頃に帰省した彼に、自身と加代子とでや た兄のかおの上にも笑顔があらわれだすのを見ると、自らも ろうとしていた、壊れた部分を解体する作業の加勢を頼んで ますます笑みを深くした。彼はこの、自分と兄と妹にだけ共 いたのだった。結局、勲の強い反対があって稔が帰省してい たあいだにはべッドを捨ててしまうことはできなかった。稔通の思い出を口にするということに、久しぶりに家庭の雰囲 は、そのあとべッドがどうなったのかを聞いていなかった。 気に自分が包まれる心地良さを味わっていた。なおまた彼に は、兄と妹が浮かべる笑みによって、彼らも自分のこの感覚 そのことを彼は、佐恵子が言っていた〈ほどく〉ということ をやはりおなじように抱いているのが分かり、愉快に思われ ばによって不意に思いだしたのであった。 た。それで、稔はこの他愛のない思い出話に始終笑みを浮か だが、運転に集中していたために、また、これから当分っ べながら、家庭的な雰囲気に身を浸しているのだった。ついら づく慌ただしさのことを考えていた美穂の耳には、稔の問い さっきまで母や妹の笑い声に対して感じていた〈この調子〉ば かけたことばは聞こえていなかった。 「ああ、イサちゃんのべッドか、懐かしいね」と、浩が母親を、自分がいつのまにか我がものにしていることには気づかわ ずに。「なんでやったつけ、たしか、奈美ば待ってたんじゃ の代わりに返事をして言った。 なかったかな。でも : : : おれたちが飛んどったらべッドの下 「あのべッドば壊したの、多分うちらやろ ? 」と、それまで

7. 新潮 2016年11月号

て、今回のことも急は急だったんですけど、結構前から話と しては出てたんですよ。だから大丈夫です。ノープロプレ 四月のはじめに一度帰った時は、いわきに住んでいる親戚 が千絵ちゃんの実家に避難してきていた。その時はまだ家の 千絵ちゃんはビールを一杯飲んだあとはレモンサワーを飲中もぐちゃぐちゃになったままで、片付け終わったかと思う んでいた。千絵ちゃんがはじめにビールを飲んだ時、私は少と余震でまたものが倒れたり動いたりするのでその繰り返し しほっとした。急な引っ越しの話を聞いた時から、私はひそ だ、と両親は嘆いていたが、先月帰った時にはほとんど以前 かに千絵ちゃんの妊娠を疑っていた。ノープロプレム、と私 と変わらぬ生活に戻っているように見えた。避難してきてい は千絵ちゃんの言葉を繰り返した。 たおじゃおば、いとこ夫婦もいわきに戻っていた。おじさん 私たちの前には、私が頼んだ刺身の盛り合わせと、千絵ち たちの家は、いわき市内の山間にあり、家の近くで放射線量 ゃんが頼んだ野菜の天ぶらが出ていた。ししとう、ピーマ を測ってみると中通りの福島市や郡山市のものとして発表さ ン、みようがに舞茸。突き出しで出て来た谷中生姜はふたり れる数値よりも安定して低いところを推移しているのだとい にきれいにかじられて緑色の芽だけが平皿に残っていた。 う。放射線量が単純に原発からの距離に比例するわけではな 世界屋の野菜はおいしい。どこの野菜ですか、と訊くと、 いことは、報道や各機関の発表で明らかになりつつあった。 親父はうちの庭でとれたんだよと冗談を言うものだったが、 それは安全性だけでなく危険性についても言えることで、複 そんな店でも震災後は野菜も魚も品書きに産地が書いてある雑に分布した危険なスポットをすべて把握することは不可能 ことが多くなった。 なのだから、原発から距離のある会津若松でもかなりの家が それに先月の連休で私も一回実家に帰りました。 線量計を用意していた。 会津若松に ? うちだって遠いからって安心なわけじゃないし。ただ心配 そう。市瀬さんの言う通り、たしかにしばらく帰れなくな しててもそこを離れて生活しようって気はやつばりないみた るかなと田 5 って。 い。直後はね、結構微妙だったんですよ。うちの両親も、会 千絵ちゃんの実家も地震で壁にひびが人ったり、屋根瓦が津もどうなるかわからないからいったんどこかに逃げようか 、・落ちたりしたが、住めなくなるほどではなかった。しかし七 って言ってたりもしたんですけど、いわきからおじさんたち 月になってもまだ修復作業が手つかずのままで、屋根にはプ が来るってなってそうもいかなくなっちゃって。同じ県内だ ルーシートがかぶさっていた。結局どこもここも補修が必要けど原発からの距離が遠かった分、会津から離れようって人 だから、大工や職人が引っ張りだこになるし、会津より被害 もいれば、会津に逃げてくる人もいたんですね。今もそうい の大きな中通りや浜通りの方に出張している業者も多かっ う温度差みたいなのはあるんですけど。うちの両親なんても ( 0

8. 新潮 2016年11月号

れだけ想像したのに、実際彼女に対しては何の期待も寄せて ラスの中ではある種の特権階級なのだろうけれども、触れら いなかったことを思い出すと、坂本ちゃんのことを自分は、 れない女体を目の前にしてどうしようというのか、と本間は 尊重しているようにも侮辱しているようにも思えた。 思っていた。 本間は学校で坂本ちゃんに声をかけなかった。どうして昨 「ねえ、海に行くメンバ ーって、誰と誰がいるんだっけ ? 」 日来なかったんだと問い詰めたかったが、来たくなければ来 「えっと、俺だろ、武川だろ、杉崎だろ、大友だろ、えりこ なくて良いと言ったのは本間の方だ。本間はせめて、坂本ち ちゃん、中川さん、南ちゃん、ようこさん、あと、純ちゃ ゃんから「別れたい」の一言を聞きたかった。二人の放課後ん。本間が来るなら、本間も」 の関係が解消されれば良い、と思ったわけではない。「二人 「お前、大友も人れたのかよ」「いいじゃん。楽しそうで」 は付き合っている」という台詞でも「最初から付き合ってい 「よく女子たちは承諾したな」「ああ見えて大友のやっ、キチ ない」でもかまわない。放課後、駅の改札前で待ちたくなる のくせに女からは嫌われてない。ほら、女にはあんま被害 自分を、このまま許すべきかそれとも諦めさせるべきか、ど いじゃん実際」「へえ」幹事のような役割を担っている山田 うにかして決めたかった。二人でカラオケに行く以前だった に、本間は提案してみた。「そこに、坂本ちゃんも人れてみ らば、本間は待ちぼうけを食らわせた坂本ちゃんに対して、 たら ? 」山田は、眉をひそめて硬直してから失笑した。「な 酷く腹を立てて何か復讐みたいなものを企てたかもしれな んで坂本ちゃんなんだよ。ウケル。ていうかお前さ、童貞じ い。ところが今や本間は、坂本ちゃんとカラオケに行けなく ゃないからって、海に行っても女子に手出すなよ ? 今回は なってしまったのがただ寂しいだけなのだ。その寂しさと言 そういうのじゃないんだから。皆で楽しくするのが目的な うのも、心細さとは違って、何か物を失ったのとも違って、 の。オッケー ? ああ、中川さんの水着見てえ ! ビキニな 冷たくは無く、無味無臭でもない、梅干やレモンを思い出す わけないよなあ。もしかしてスク水かなあ ? 逆に良い ! ような、そういう寂しさだった。 逆に ! 」 終業式の日になった。明日から夏休みを迎える。夏休みで 阿部由紀子を孕ませた犯人を男女混合の海へと誘った真意 三年生は部活を引退することになっているが、部活をやって はこれだった。経験の豊富な人物を一人人れておくことで、 いない本間には塾の夏期講習と合宿くらいしか予定は無い。 全体の危なっかしさを盛り上げるためだ。そしてあわよくば クラスの友達同士で海に行こうという計画があるにはあるの 中学最後の夏に皆、本間に影響を受けて何かをしでかしたい だが、招待されている本間は、正直に言えば気が進まなかっ のだ。その実本間は末だに童貞で、阿部由紀子の身体なぞ徴 た。女子も参加するので、これに呼ばれる人間と言うのはク塵も知りはしないのだが。

9. 新潮 2016年11月号

そうたい : : いっからうちは、かあちゃんになって、婆ちゃ と、彼女は考える。 「ほんに早かよ、そうたい、暇んなかったとたい」と、どち んになってしもうたとやろうか ? 暇んなか : : : そうたい、 らでもない自分の声は、また言うのだった。 ほんとうに暇んなかごてある。いつのまにやら、そう呼ばれ 「わが、そがんこと言うたら宏さんに、がみ殺される ( 叱り だしたと思いよったら、うちが応じるも応じらんもなく、か 飛ばされる ) ぞ ? 」 あちゃん、婆ちゃんにさせられっしもうた」 ゆっくりと腕を動かしながら敬子のとなりに浮かぶ清子 そしてこう言ったとき、彼女は頭の中で《かあちゃん、ケ が、男の冗談に、笑いながら言い返した。 イコシュウ、ケイコ婆 : : ↓と、もう一度順番に自分の呼ば 「内山のかあちゃんにカッ兄のかあちゃん。よか格好ばしょ れてきた名を繰りかえした。するとそれらの呼び名はロに出 るけん、ヒロ兄に写真ば撮ってもらえよ」 して言った疑問とは反対に、それぞれがまるで自らにしつか 男のひとりが言った。と、それまで夫はどこかに出かけて りと縫いつけられた糸の目のように思われた《そうたい。 いるはずだったが、男の一言を聞いた敬子の中では、宏が店 縫いつけられてしもうたったい。あのときに、うちばっかり の二階に居るということになった。彼女は店の二階の窓を見 辛い目にあうって言ったあんときに : : : ああ、耳の熱かね》 あげた。だが、窓は西日の赤い光を映すだけで、奥に居るは 敬子の意識の片方には、枕に被せた布に耳が押しつけられ て汗ばみ、また息をするたびにざらざらという音がしているずの夫の姿を見ることはできなかった。それで、《カメラば のや、右足の下になっている左足を動かしたいと思いなが弄りよるとやろう》と敬子は考えた。 戦争から帰ってきた宏が唯一持っていた趣味というのが、 ら、掛け蒲団が絡まっていて容易に動かせずにいるのや、ま たあるいは習慣によって、そろそろ便所に行かねば間に合わ写真を撮ることだった。佐世保まで行って探し求め、手に人 れたカメラで、彼は家族や風景を撮り、狭い物置部屋を現像 ないと思い始めている、蒲団に横になった自分が居た。だが もう片方の自分は、一緒に生ぬるい海の中を泳ぐ清子が立て室としてつかっていた。彼はいまも、暗い物置の中に座りこ んで写真を現像しているのだろう。そう敬子は思うのだった るわずかな波が首元をくすぐる感触や、自身も手足をゆっく が、彼女の目は二階の窓に向けられたままだった。そこに夫ん りと動かして、首から上を出して泳ぎながら、足の指のあい の姿はなかったが、家の中に居るはずのその存在が、それ自な だをかき混ぜられた水が流れていく感触といったものを、た しかに、まさにいま味わっているものとして感じているのだ体見えないまなざしとなって、自分を見つめているように彼ん 縫 った。《そうやったら、さっき喋りよったときは、起きよっ女には感じられるのであった。 いま、敬子は夢の中にあって、そうして夫から見つめられ たとやろうか ? それとも、夢ん中やったとやろうか ? 》 いじ

10. 新潮 2016年11月号

ちゃんを妊娠させたという噂話で、殆どの女子から恐れら たくなかったので、島田の顔は見ずに、適当に愛想笑いを向 れ、一部の女子から馴れ馴れしくされ、男子からは腫れ物に けておいた。これは島田に対するサービスではなくて、本間 触るみたいな尊敬を向けられるようになったからだ。昔から の自宅に電話をかけさせないための手段だった。まるで内申 本間のことを嫌っていた萬田さえもが、本間のことを陰で 点を気にして教師に愛想を振りまく普通の生徒みたいな自分 「根性のあるやっ」と評していたという話を聞いた。仮に本に、不愉快にならなかったわけではないが、島田を遠ざける 間が本当に坂本ちゃんを妊娠させたとして、一体避妊に失敗最も有効な方策として、「ある程度拒絶しない」というのを した愚かな中学生に「根性がある」と見なすのは、どういっ学んだ結果である。だから仕方がなかった。ある生徒から見 た理屈によるものなのか本間にはわかりかねたが、きっと、 れば本間は「落ち着いた」「大人しくなった」「改心した」わ 手を出すにしたってよりによって坂本ちゃんと言う女子を選けだが、意外にも石原が鋭く「お前、前よりも全然ャパい ぶセンスが、男子たちの中では極端にかぶいていたというこ な」と見抜いたのには感心した。彼を少し見直した。彼の鋭 となのだろうと推測する。本間はそれを利用して、わざと彼さを見込んで、試しに彼にだけ本当のことを教えておいた。 らを遠ざけた。すると、教師に服従する彼らとの間に、丁度石原は驚いた素振りを見せたが、それが演技であるのは明ら かで、つまり実際彼はさほど本間のことに興味がなかったの 良い距離を得た気がした。 中間テストが行われ、答案用紙が返却された。本間は坂本だ。そんな石原とは、もっと仲良くしておけばよかったと思 った。 ちゃんの結果を気にしていた。本間だけでなく、島田を始め 「そういえば。俺ら、夏休みに海行ったじゃん ? 実はさ、 とする三年組全体が見守っていた。結果は概ね、一学期の 期末よりは低いが、一学期の中間よりは頑張った、といった本間のことも誘ってたんだよ。結局来なかったけど。でさ、 もので、それに落胆する者もにんまりとほくそえむ者もい本間がさ、参加するかどうか迷ってる時にさ、あいっ俺に言 て、島田などは案の定「合唱の練習をしなくなったからだ」 ったんだよ。『坂本ちゃんも連れて行こう』って」「マジ という独自の解釈を披露した。「まあ、卒業式の歌の練習を で ? 」「マジで。てかさ、今考えたらさ、つまり自分の女も 早めるのもいいかもしれないね」 海に連れて行きたかったってことだよな ? 」「ちげえだろ。 島田はあれ以来、本間を呼び出さなかった。けれどもなる 普通にヤリたかっただけだろ」「ヤリたいなら二人だけでヤ み べく本間に話しかけようとしてくるのはわかった。人工的に レばいいじゃん。なんで俺らと一緒に海に連れて行くのよ」組 「ウチらに見せたかったとか ? 」「何を ? 」「何って、だから二 明るくふるまい、まるでこちらに媚びるみたいに、図々し そういうことを」「ちゃんと言えよ」「うるさい」「平野は、 く、ねっとりと近づいてくる。本間の方はもう島田と関わり