ちゃん - みる会図書館


検索対象: 新潮 2016年11月号
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1. 新潮 2016年11月号

なかった自分を反省します。お金を使わせちゃったことも悪 「今は関係ないでしよ。関係ないこと持ち出さないで。逃げ いと思うし、できればいっか弁償したいと思います」 ようとしないで」 時々島田が頷いた。坂本ちゃんは表情を変えずに涙をこぼ 島田の焦りが順調に増している。その反応は、本間の読ん し始めた。 だ通りだった。 「でも、僕は悪くないんです」 「別に逃げも隠れもしませんよ。ただ、僕は阿部さんとは違 発言から少し遅れて、島田の眉がびくっと引きつった。 うってことです。ちゃんと弁えてます。島田先生が未成年者 「僕は坂本ちゃんと、付き合っているつもりでいました。っ 同士の恋愛についてどういう考えがあったとしても、結局行 まり、僕と坂本ちゃんは、恋人同士なわけです。だから、一 動するのは僕なんだから、僕は僕の考えに従って行動します 緒にカ一フォケに行こうが、そこでいちゃっこうが、それは僕よ。先生みたいな人に見られて、いやらしいこと想像される たちの自由ですー のが嫌だったから、ああやってカラオケでこそこそと坂本ち 坂本ちゃんが視線を定められなくなっている。混乱してい ゃんと会っていたんです」 る。本間は、坂本ちゃんが島田に証言したことへの仕返しを 「そういう言い訳が聞きたいんじゃないの」島田の声が震え してやった気分になった。こちらの方が上手だと、彼女に知る。 らしめるみたいに。 「言い訳じゃないですけど ? 」 「本間君ね、あなた、間違ってるよ」 「言い訳だよ。本間君、あのね、自分の担任する生徒にこ 「何が間違っているんですか ? 」 れ、私初めて言うんだけど、あんたね、最低だよ。最低。本 「そもそもはね、あなたたちは未成年だし、それに結婚もし 当に、初めて言ったよ。妻く残念だよ。先生は、教師になっ ていないの。自分の行動に責任を持てない立場なの」 たときに、自分の生徒には絶対に言わないって決めてたの 「だからなんですか ? 僕たちは別にセックスなんてしてい に、今、本間君に言っちゃったよ。最低って」とにかく島田 ませんよ ? だから坂本ちゃんが妊娠する危険性もなかった の顔も台詞も気味が悪い。彼女は完全に自己陶酔の中だ。本 わけで。胸を触って赤ちゃんが出来るんですか ? 」 間の全身に鳥肌が立つ。 「そういうことしていると、エスカレートしていって、結局 「何が最低なんですか ? 」 妊娠っていうことになっちゃうの」 「自分でそれが解らないの ? 」 「そういう人もいるかもしれませんね。阿部由紀子さんみた 「解りません」 いに」 「本当に解らないの ? 」

2. 新潮 2016年11月号

が、そのことばの終わりの方は、大きなあくびになってしま とらんとよ ? 」 い、美穂には聞きとれなかった。 「そう言う奈美も泣きながらおれに電話ばかけてきたやな い ? 」 「兄ちゃんが、何て ? 」と美穂は訊いた。 だが、奈美は目を閉じ、座席の首置きから頭を脇にはみ出 そう浩が言うと、「そうよ。婆ちゃん、ロの端っこに血の してしまいながら、寝人ろうとして返事をしなかった。 泡がついとったよ。かわいそうにさ」と、奈美は言ったが、 それで、「哲雄おじちゃん、もう福岡に入ったってさ」と、 その声にもやはり、悲哀よりもいっそう強く彼女の身体を掴 んでいるらしい疲労がにじみ出ていた。 妹の代わりに浩が答えた。 「呼吸するためのチュープが傷つけたんやろうね。それで喉 「ああ。もう来よるってね」 美穂はこう言って、それから「兄ちゃん、ちゃんとお寿司 の傷ついたとよ : : : それけん、どうしますか ? って看護師 さんに言われたけど、もう外してくださいって言うたよ」と ば予約したっちやろうね」とひとり言をつぶやいた。「ふた りとも眠そうやん : : : 寝とらんと ? 」と稔は、母と妹の疲れ美穂が言った。 た声を聞いて言った。 「こないだはイサちゃんの葬式のあったばっかりなのにね」 「そうよ。もう、どんなに大変やったか ! 連絡があって病と稔は、三カ月前にあり、自身と兄が出ることのできなかっ 院に着いたのが夜の一一時前で、それから一睡もされんで葬儀 た多津子の夫であった勲の葬式のことを思いだして言った。 「あんときも大変やったよ ! 」と美穂が言うと、また奈美が 場の手配やら、ほかにもいろいろやらんばならんで : : : 姉ち ゃんや兄ちゃんにも電話したばってん、敬子婆もタッコ婆も座席の間から首を後ろに向けて「ねえねえ、聞いた ? イサ みんな出らんで、お父さんは酒飲んで寝とるし、あんたにも ちゃんの葬式のあとにタッコ婆がおかあさんと加代子姉ちゃ ・ハイトばしよったとね ? 」と 電話したけど、出らんしさ : んになんて言うたか」と言った。 「うんにや。聞いとらん」と浩は言った。 美穂は言った。 「バイトじゃなくて、単に寝よっただけやけど : : : 電話があ 「お葬式の終わってから病院に行って、もう火葬場も行って きて、それで骨と位牌はタッコ婆の家に置いとるよって、おん ったとは、二時すぎやったつけ ? 」と稔が言ったが、今度は かあさんが言ったらね、タッコ婆、面目ないって言うたとつな 美穂の代わりに奈美が首置きから頭を上げて「そうよ ! ど ん てさ ! 」 んなに大変やったか」と、母の真似をしながら言った。「う わ ちが電話したっちやけん。おかあさんがめそめそ泣いてばっ 奈美がそう言うや、稔と浩は大きな声で笑いだし、口々に縫 かりやったけん、代わりに電話したと。あれから、うちも寝「面目ないってや ! 」「タッコ婆がそう言うたってや ! 」と言

3. 新潮 2016年11月号

った。奈美も笑って「タッコ婆は、おとぼけやけんねえ ! 」 が目にきとったんやろうね」 と言い、美穂も思いだしたように笑った。「そうよ、タッコ 「ふうん。おかあさんと加代子姉ちゃんも大変やったけど、 婆は時代劇から出てきたとかって、姉ちゃんとふたりしてど タッコ婆も大変やったね、葬式の前日に倒れるなんてさ」と んなに笑ったか」 稔は言った。 「やけん、それからしばらくは我が家で面目ないって言うの 「前日じゃなくて、二日前」と、美穂が言う。「タッコ婆の がはやっとると。加代子姉ちゃんと哲ちゃんたちがテニスば さ、お腹ん痛いとに、うんこの出らんって言うもんやけん やりよるときも、ポール打つのに失敗したら : : : 面目ないっ さ、うちと姉ちゃんとで、そりや便秘たいって言いよった てみんな言うとよ」という奈美の話に、「面目ないってや」 ら、翌日の朝方に、辛抱たまらんって姉ちゃんに電話があっ と、稔はもう一度繰りかえして笑い、「もうタッコ婆は、す て行ってみたら、かおじゅうに黄疸の出とってさ、慌てて救 つかり良いと ? 」と美穂に向かって訊いた。 急車呼んで病院に行ったら胆嚢に石の溜まっとりますからす 「もうすっかりよ。葬式がすんで二週間後に手術したろ ? ぐに手術ですって言われて : : : やけん、イサちゃんの葬式は それでもう退院して、また元気に外ば散歩しよる」 喪主不在やったと」 「目も、ちった見えるごとなっとるって、まえ、そがんに電 「やけん、面目ないって言うたったい」と稔が言うと、美穂 話で言いよったね」と浩が言った。 も「そうよ。病院から葬式から火葬場まで、全部世話しても 「いっ ? 」と美穂は言った。 ろうて面目ないって、かしこまって言うけん、うちと姉ちゃ 「先月かな。ほら、イサちゃんのもう居らんけん、これから んで笑ったらさ、ほら、タッコ婆は笑い上戸やろ ? うちら は外に買い物に行くのもひとりで行かないかんって、話しょ につられて笑いだすもんやけん、お腹の痛かってのたうち回 ったやん。それで、どんな杖ばタッコ婆に買えば良いかっ って、うちらはそれを見てまた笑ってさ : : : 」 て、おかあさん、おれに相談してきよったやん ? で、おれ 「騒がしい家族やねって、病院のひとから怒られたやろうも が杖を買ったサイトのアドレスをおかあさんの。ハソコンに送ん ? 」 ってから、連絡がなかったけんさ、どうなったんやろうかっ 「ちゃんと小さな声で話しよったけん : : : イサちゃんの葬式 て思って、タッコ婆に電話してみたっちゃん」 も、大盛り上がりやったよ」 「ああ、なんか調べてもらっとったね : : : うん、だいぶ悪い 「なんで葬式で大盛り上がりすることのあると ? 」と、稔は ほうやけど、それでも退院したら少しは見えるごとなったっ笑いながら訊いた。 て言いよった。ずいぶんまえから身体の悪かったけん、それ 「お葬式なのにお坊さんの来んじゃったとよ。あっと言うま

4. 新潮 2016年11月号

教室にいるのかどうかさえわからないほど皆に溶け込めてい った。まずは手でも繋げば、それが一つのきっかけとなり、 個室での企みに勢いを与えてくれるだろうに。いや、阿部由 二、三回課題曲を通して歌い、休憩する。声が出ていて良 紀子の尾行の件もある。あの時のように平野みたいな奴に坂 かったよ、と褒める。そうすると坂本ちゃんが頷く。褒めて 本ちゃんと二人でいるところを、ましてや手を繋いでいると ころを目撃されては困る。やはりやるべきことは、全て個室やることで身体に触った際拒否されるリスクを下げる意図だ った。そのくせ恐ろしくて触れないのだから、延々と坂本ち の中に収めてしまわなければならない。 「もうちょっと近づこうか」本間がカ一フォケのモニターを見やんを褒めるだけとなり、自分が一体今何をしているのかよ くわからないのだ。 つめながら言った。坂本ちゃんが本間の横顔を見る。「だっ 「もっと、こうさ、腹に力を人れるんだよ。腹にさ。島田が て、お前、俺の声がよく聞こえた方がいいでしょ ? ーその必 要は無い。本間の声など聞かなくても、カラオケに収録され 言ってたじゃん。ほら、あいっ腹に力を人れる為に腹にうん こ詰めてるんだよ」 ている合唱曲のガイド音声は、うるさいくらいによく聞こえ た。というよりそもそも男女で。ハート が違うから歌うべき旋 坂本ちゃんを笑わせるのに一番効果があるのはあまり面白 くない冗談だと知っている。案の定、坂本ちゃんがくすくす 律も違っている、わざわざ耳元で聞かせなくとも良いはず と笑った。これに乗じてついに、本間は坂本ちゃんの身体に だ。カラオケのモニターに顔を向けたまま、腰を浮かせて坂 本ちゃんの方に寄せてどすんと座る。課題曲を機械に人力触れた。と言っても、本当に触りたい場所ではなく、力を人 れるようにと助言した腹部を、服の上からだ。驚いてまた混 し、やがて演奏が始まった。本間はモニターに映る歌詞が左 乱するかと心配したけれども、いつも学校で少しばかり仲の から青く染まっていくのに合わせて、マイクを通して歌っ た。最初の頃は全く一言も喋らず、歌いもしなかった坂本ち良い女子のグループに混じっている際に戯れにくすぐられる ときと同じような反応を彼女は見せた。笑って拒否するけれ ゃんが、今ではマイクでか細く、しかし確実に声を出してい ども、拒絶ではない。本間はしめたと思い、彼女のお腹への る。坂本ちゃんの喉に詰まっていた羞恥心を、この、週に三 回のカラオケで、少しだけ取り除いた感触があった。本間は接触を、くすぐりとして、坂本ちゃんとのふざけ合いとして 本来の目的を達成できずにいたが、坂本ちゃんの学校での合継続することにした。「お前ちゃんとお腹にカ人れないと島 み 唱にまつわる面倒くさいトラブルを払拭してやることは出来田みたいなぽんぼこ狸になっちゃうぞ」と言いながら、お腹組 へのくすぐりをわき腹やわきの下へと移動させる。この人に二 たようだ。その証拠に今日の音楽の時間、島田を煩わせたの 思春期は無いのだろうかと本間が勘ぐるくらい、本間と言う は本間だけであり、坂本ちゃんに関しては誰も全く触れず、

5. 新潮 2016年11月号

コ婆とおれは何か話しとったな、あれ、そうたい。ほどける る。ばってん、誰に ? また、また話しよる : : : そうや、婆 ・家ばほどく、婆ちゃんもほどかれてしもうた、何もなく ちゃんたい。婆ちゃんの声にそっくりで、まるで、そこに居 なってしまった、そう : : : 認知症になってから、古か家のだ るごと似た声で話して、笑いよる : : : ばってん、誰やろう んだん崩れっしまうのとおなじようにして、婆ちゃんの頭ん か ? 分からん、だいぶん酔うたな、おれは》 中にも綻びができていったんやろうな。それで、その婆ちゃ 彼は、急に頭を上げると、べンチに腕をついて身体を起こ んこそが、おれのおぼえとる姿やったったい : : : また笑いよ した。そして自分がいままで起きていたのか、それとも寝て る ! なんやろう ? なんの話題か、こっちにはまるで聞こ いたのか、眠っていたのだとしたら、さっきから考えつづけ えんばってん、おれまで笑いだしたくなるごた声で笑いよ ていたのは夢の中で独白していたことなのかという、酔った る。それに、どうにもこうにも酔いすぎた、なんも分からん ために生じた意識の混濁に戸惑い、彼は天井に目を向けた。 ・ばってん、みんなでほどけていった婆ちゃんの代わりに電灯のまぶしい光に目を眇め、頭の奥で何か、低く唸るよう 話しよるんやもんな。ほどけて : : : そう、婆ちゃんの周りの に聞こえる音を聞くともなく聞きながら、ぼんやりとべンチ 白か部分ば、花で覆われて真っ白なその周りば、話しつづけ に掛けていた。 て埋めてやりよる。昔のことば代わりに思いだして、忘れ果 《ああ、そうやった、そうやった、こういう声 ! そう、こ てて、ほどけてしまった婆ちゃんの記憶ば縫い合わせよる ういう声やった》卒然と、彼はさっきまで忘れてしまってい た佐恵子にとても良く似た声を、はっきりと耳にしながらっ また誰かが彼の傍を通りすぎて部屋に入って行きながら ぶやいた。《そうたい、婆ちゃんは、こがん話しかたの声や 「稔の、べンチで倒れとるばい」と言った声が聞こえた。す ったったい : : : 》稔はそう考えると、またべンチに横になっ ると、部屋の奥から「朝から新幹線やったけん疲れとると て大きな溜め息をついた。そのとき、また別の声がした。そ よ」と別の声が言っているのが耳に聞こえてきた。 れは佐恵子の声だった。しかし、それは佐恵子ではなかっ 《誰やろうか ? 誰が話しよるとやろう ? 》彼は、水底から た。そのことを、彼は、なぜかは分からなかったが理解し、 響いてくるように聞こえる話し声に耳をすませながら考える話している内容を聞きもらすまいとじっと耳を傾けた。声は のだった。《誰やろうか ? これは加代子姉ちゃんの声やっ水底から響いてくるようにして、理性ではなく感情によって たつけな、笑っとるのは、哲ちゃんか ? それとも、昭おじ のみ聞きとれるような、言葉ではない言葉で彼に語りかける ちゃんやろか ? 分からん : : : みんなおなじに聞こ . えるな、 のだった。《だいぶん酔うとる。こんなばかな想像をするほ なんて似とるんやろう ! それにまた、いまの話し声も似と ど : : : 》と彼は考えながらも、一方ではその声の響きに耳を すが 〃 6

6. 新潮 2016年11月号

そのとき、車中にはそれまで間断なくつづいていた話し声と て笑うだけで返事をせず、《そうたい。つまり、全部がこの 笑い声が止み、母も兄も妹も、次に起こる会話を自分以外の調子やもんな ! 》 こう胸のうちでつぶやいた。それから 者がはじめるのを待っている、沈黙の時間が流れだしてい彼は窓の外に目を向けて、小雨が降りだしている街路や、傘 た。彼は隣に腰掛ける兄の横顔を見やり、それから切れぎれ をさして歩くひとの姿を眺めていた。「雨の降るってテレビ に、夜中に奈美からの電話で起こされてからのことを思いだ は言いよらんやったのにね」と、だれに言うでもなく彼は言 っこ。 した。朝早くに家を出て、新横浜駅まで向かう電車に乗りこ んだ。もう祖母は死んでいて、急ぐ必要などないはずだった 「いや、午後から福岡は雨って、ラジオは言っとったよ」と がーーむしろ何もかもはもう遅く、もはや自分には何もでき浩が言ったのにも、やはり稔は返事をしないで黙っていた。 ないという事実のためにーー・一番早い時刻で博多に到着する そうして、再び胸のうちでさっきとおなじことばをつぶやく 新幹線に飛び乗ると、車中でも一睡もせず、喫煙室と席との のだった。《そう、そうたい。全部この調子やもんな : : : イ あいだを終始うろうろと往復していたことなどを、彼は思い サちゃんが死んでも婆ちゃんが死んでも、ぜんぜん湿っぽい だしていたのだった。そうして、ようやく博多駅に着き、美雰囲気にはならん。ずっとしゃべり散らしてばっかりで、悲 穂の運転する車で斎場に向かいながら、通夜のまえだという しい空気に浸るっていうことが、うちの家にはまるでないも のにぐったりと疲労感が身体の中に重たく溜まっている今の んな》 今まで、彼は自身の祖母が死んだことに対して、ろくに悲し 稔が外を見ているあいだも、美穂も奈美も黙っており、浩 む時間がなかったのに気がついた。 も何も言わずに何か考えこんでいるのか、折りたたんだ白杖 「そういえば」と、奈美が美穂に向かって話しかけた。「イ の柄に付いている紐を指で弄びながらうつむいていた。《こ サちゃんって、家族はだれも居らんやったと ? 」 れで、加代子姉ちゃんも加わったら、もっと騒がしくなるん 「山口にお兄さんのひとり居ったんやけど、こないだタッコ やもんな。奈美も、この頃はおかあさんに似てきたごたる 婆と役所に行って調べてもらったらね、もう七年前に死んど ・だれやったつけか、ああ、そうたい、キクさんやった。 った。それも、おなじ病気でね」 敬子婆の母ちゃんが、やつばり何かといえば笑ってばっかり 「癌で ? 」 のひとやったって、まえにだれやらか聞いたことのあった 「そう、癌たい。ねえ、稔。あんたもそろそろ煙草ば止めな な。やつばりキクさんも、おかあさんや加代子姉ちゃんみた いかんよ : : : 聞いとるとか ? 」 いな笑い方やったっちやろうか ? 声を息のつづく限りに引 美穂の呼びかける声に稔は、ただ軽く鼻を鳴らすようにし き伸ばすごとして笑いよったんやろうか ? もしそうなら、 7 ″ 2

7. 新潮 2016年11月号

発でおじゃんだからさ」 ・本当にそっくりで、それにいったい、いっ黙るときがあ 「浩は、これ一本の前にもいろいろ杖の買うとったもんね。 るんやろうかってぐらい、みんな話しよる。話すこともなく あれはみんな折れてしもうたと ? 」 なりそうなもんなんやけどな。それから笑い声にしたって 「折れたのもあったし、曲がって折り畳めなくなったりし て、その杖が四本目になるよ : : : 高校の頃に使ってたやつな 彼は上着のポケットに手を人れ、煙草を取りだした。そし んか、おかあさんが間違えて車のドアに挟んじゃってさ ! 」 て灰皿がどこにあるのか目で探しながら、壁ごしに聞こえて 「そうね」と、やはり多津子はそう言いながら、どこか遠く くる盛んな笑い声に耳を傾けていた。《本当によう笑うな を見るようにして、また稔とおなじく辺りを見まわすように あ ! あのいちばん大きい声が、おかあさんやろう。加代子 かおを左右に向けていた。 姉ちゃんとふたりして、どっちも互いに負けんごと声の張り 「杖ば勧めよると ? 」 上げよる : : : それに奈美も、この頃はだんだん、おかあさん さっきから横に腰掛けていて、話を聞いていた稔がこう訊に笑い方の似てきとるけん、ときどき、どっちがしゃべりよ くと、浩は「ああ、タッコ婆が杖をどれ買っていいか分から るのやら分からんごてなってきよる。いま話しよるのは、哲 んって言っとったけんね」と言ったが、多津子はいったい浩ちゃんやろうか ? そう、哲ちゃんの声たい : : : また、奈美 が誰に返事をしたのか分かっていないらしく、曖昧な徴笑を の話しだしたぞ。婆ちゃんと爺ちゃんがどうやって知り合っ 浮かべて稔を見ていた。 たのか訊いとるぞ、返事ば返したとは、節子おばちゃんか 「ああ、誰かと思ったら、稔やったと ? 」 な ? ふうん、おばちゃんも、なんで知り合うたのか、おぼ 十秒ほどして横に座る者の正体を知った彼女は笑いだし、 えとらんのか : : : ケイコ婆の声もしよる : : : 内山 ? ああ、 「ちょっと、頼みがあるんやけど : : : 」と、稔にかおを近づ隣の親戚の内山の話ばしとるんやな。またおかあさん、ほ けながら声を落として言った。 ら、つぎにまた加代子姉ちゃんの笑い声 : : : 昔のことばっか 「なに、トイレに行きたかって ? 」と稔は言った。 し、本当に、いつまで話しつづけるんやろうか ? 》 多津子はうなずき、立ち上がりながら腕を前に出した。稔 「もう、お腹のはち切れるごと我慢しよったとよ」 はその腕を取った。 ハンカチで手を拭きながら、そろそろとトイレから出てき 部屋を出て、多津子をトイレの人口まで連れていくと、受て冗談口を叩く多津子の傍に、稔は腕を差しだしながら立っ こ 0 付のあるエントランスの壁際に置かれたべンチに稔は座っ た。《タッコ婆、元気そうたい。ばってん、それにしても 「もうすっかり、退院してからは調子良いってね ? 」

8. 新潮 2016年11月号

ふれる壇上を黙って注視していた。後ろに座る稔は、肩越し テルに送り届け、親戚たちも再びそれまでくつろいでいた部 にある敬子と多津子の横顔を見やり、また誰か鼻をならした屋に戻ってきた。机には寿司と、その他にも揚げ物が詰めこ 者の方に目だけをすばやく向けたり、数珠を握りなおすつい まれた大皿が三つ並び、酒も何本もの瓶が置かれた。喪主は でに腕の時計を見たりしていた。だがその目は、それらを見美穂だったが、彼女は大勢をまえにして形式的な挨拶を述べ てこそいたが捉えてはいなかった。彼の意識の大部分は、暇るのが得意でなかった。それで、代わりとして夫の明義が一 つぶしに思い浮かべだしていた想念に注がれていた。《悲し 同に向けて通り一遍の挨拶をすると、それまでも決して静か む暇のないまま、こうやって座っとる。そうたい、いまも、 とはいえなかった親戚たちは、酒も人り、その声をいっそう 昭おじちゃんのごと泣きもせんで、それから糸島の婆ちゃん大きく張りあげて話しだした。 ( 栄子 ) のごと自然に、言うべきことを言えるみたいな、そう 稔は、さっきまであぐらをかいて座っていた場所に戻り、 できるような、あるいは、そうしたいっていうごた感情の、 ビールを飲んでいた。そして、早くも赤くなったかおを話し なんでおれには湧いてこんとやろうか・ ・ : うん ? おれはな ている親戚のだれかれかまわずに向けて、口元だけにわずか んば言いよるっちやろう ? 悲しいから悲しむもんで、悲し な笑みを浮かべていた。 もうとして気持ちをそっちに持っていくなんて、そんなばか 「なんば笑いよっと ? 」と、息子のかおの笑みを見た明義 な話もないな。ばってん : : : そう、南無阿弥陀仏南無阿弥陀 が、空いたばかりのグラスにビールを注いでやりながら、言 っ ( 。 仏 : : ↓ 念仏の声は繰りかえし南無阿弥陀仏と唱える個所にさし掛 「うんにや、それにしてもさ : : : 」と稔は、しつかりと歯を かり、これにはそれまで黙然と首を垂れていた者たちも口を見せて笑いだし、「みんな、そっくりやねって思うてさ」と 開き、同様に繰りかえした。 答えて言った。 《そうたい》と稔は考えつづけるのだった。《そうたい。お 「そっくりって、誰にや ? 」 れはこれを考えよう。婆ちゃんが居なくなったっていうこ 「おかあさん、加代子姉ちゃん、哲雄おじちゃん、タッコ と。そのことば悲しいと思わんってことは、つまりそこには婆、ケイコ婆は、みんな吉川や内山のかおで、身体もみんな 何か、悲しいっていう気持ちとは別の、何かがあるったい。 丸々と肥えとってさ、それに隅広もみんな似とるやろ ? 大 おれにはよく分からんでおった、何か別のものが。おれがど村は婆ちゃんとお父さんも似とるし、剛おじちゃんも、やっ うでんあれ知らんばならん、何かが : : : ばってん、何を ? 》 ばりそっくりだし : : : 」 読経が終わり、住職は明日の告別式のために哲雄の妻がホ このところ腹が出てきて、顎や頬にも肉がついてきている

9. 新潮 2016年11月号

たいに、放課後、下校する際を狙って話しかけることに決め たので、さほど厳しくできなかったけれども、母親の方は取 たのだ。 り乱さないものの酷く落ち込んでいた。本間は、タバコのこ 「坂本ちゃん ! 」怒声のような本間の声に肩をびくっとさせ となどよりも坂本ちゃんの乳房についてが報告されていない ことに安心した。そして安心した反面、それについて自ら両て、プレーキが悲鳴を上げ、彼女の自転車が止まった。坂本 親に打ち明けたいとも思っていた。そうすれば本間の両親ちゃんはゆっくり振り返り、太陽光で皮膚の一点を火傷させ そうな眼鏡のレンズの奥の、内斜視の黒目をこちらへ向け は、本間のことを諦めてくれる。自分の息子に、勉強以外の た。本間は彼女に駆け寄り、脅えているのもかまわずに話し ことを期待しないでくれる。いや、本間が願っているのはそ かけた。 うではなかった。本間の方が、両親の期待や機嫌を気にして 「坂本ちゃんはさ、俺のこと、嫌いなの ? 」坂本ちゃんが、 しまう自分の性癖を、どうにかしたいのだ。本間が変えたが っているのは親ではなく自分自身だ。変身願望がある。坂本この質問に答えられないことは本間にも解っている。「もう 話しかけないで欲しいと思ってる ? 」 ちゃんが付き合ったのは本間ではなく、本間の変身願望だっ 混乱して何も答えられない。もしも自分が坂本ちゃんだっ たのかもしれない。だから二人は、付き合っていない。 たら、話しかけないで欲しいと願うだろう。 県内模試で本間は自己の記録を塗り替えた。それでも気に 「別れるか ? 俺と」 なるのは坂本ちゃんのことだった。 坂本ちゃんが、涙をこぼしながら答えた。「別れる」 ある日、たまたま廊下で、本間と坂本ちゃんの二人だけに 「あーー」本間の呼吸が止まった。肺に残っている空気で辛 なった瞬間があった。本間は久しぶりに彼女に話しかけた。 うじて言葉を作った。「そうか。そうだな」本間は踵を返し、 「坂本ちゃん」彼女は身を縮ませて硬直した。本間を怖がっ ている。本間に何かされると思っているみたいだ。「坂本ち置いておいた自転車に跨って、その場から走り去った。振り ゃん、夏休み、どうしてたの ? 勉強してた ? 」彼女は何か返ると坂本ちゃんは、佇んで固まるでなく、ちゃんと自転車 を走らせていた。ひょっとして俺は今しがた、坂本ちゃんご 喋ろうとして、ロを開けて、呼吸を少し荒げる。ところがそ ときにフラれたのではないのか ? 坂本ちゃんより、格下に こに他の生徒が何人か現れてしまい、会話が続けられなかっ た。本間は他の生徒たちが二人を見て息を飲んだ雰囲気を察落ちてしまったのではないか ? 今俺は坂本ちゃんのことを み 見下している。侮辱している。憎んでもいる。もし坂本ちや組 知し、その場から立ち去った。 坂本ちゃんに声をかける機会はまるで無かった。だから本んが、別れたくない、と言っていたら、俺は今後坂本ちゃん二 を見下し続けていたのだろう。見下していることにも気付か 間は、またある日、阿部由紀子に手紙を渡そうとしたときみ

10. 新潮 2016年11月号

るが、道路に出る寸前でプレーキを握り、振り返って、まだ えただろうか。先ほどの話を信じただろうか。 帰る準備の出来ていない坂本ちゃんがこちらを見ているのを 「じゃあ、また来週。あ、そうだ」 蛍光灯がやけに眩しい自転車置き場で、本間は坂本ちゃん見た。本間は坂本ちゃんの所へ戻り、早く行くぞ、と促し に自作の数学の問題用紙を手渡した。 「これ、やっておいて。来週中でかまわないから。来週は、 週末本間は塾へ行ったり、家でオナニーをしたり、坂本ち そうだなあ、またカラオケに行くか。カラオケで、合唱の練 ゃんの答案を添削したりした。解答時の本間の助力もあっ 習と、試験勉強と、両方やっちゃえばいいじゃん。いちいち て、彼女は文章問題の内容自体は殆ど把握しているようだ。 周りに気を遣って声を小さくしなくてもいいし、歌が勉強の けれども文法の知識がかなり曖昧なので、点数をつけるとな 気晴らしになるし。そうだそうだ、そうしようそうしよう」 ると結果は芳しくない。坂本ちゃんの解答用ノートに、間違 坂本ちゃんが頷いた。本間は彼女が、次の場所をカラオケ いを丁寧に指摘した文を載せ、今後すべき勉強の方向性など に決めた自分の思惑に気付いているのかどうかわからなかっ もアドバイスしておいた。 た。今日は何も出来なかったが、今週、カラオケで二回触っ 本間はこれが自分の勉強にも増して楽しかった。他人の勉 ている。坂本ちゃんも、また同じ事をされるのを予期してい ないわけが無いだろう。不潔な思考を悟られたくなくて、ふ強に干渉したことなど無かったし、またその方法を具体的に いに坂本ちゃんの凸面鏡みたいな眼鏡を取り外し、「お前ど誰かから伝授されたわけでもなかったけれども、学校の教師 が授業でしばしば間違った内容を教えてくるのにうんざりし んだけ目が悪いんだよ」、とふざけて自分にかけてみたり、 ていたから、その犠牲者の一人になりうる他人に、自分なり 視力の奪われた彼女に「さて、今俺はどっちの目を瞑ってい の軌道修正を施す感覚が、今で体験したことの無い充実感 るでしようか」と訊いたりした。こっち、とか、こっち、と をもたらした。 言いながら、人差し指で示して、それに本間はぶつぶー外れ 翌週、坂本ちゃんとまた駅で落ち合い、カラオケに行っ です、とか、なんだよ見えてんじゃん伊達眼鏡かよこれ、な どと返して、脇をくすぐる。辺りに人の気配は無いが、蛍光て、合唱曲を歌った。一曲歌い終わると、本間は採点したノ ートを彼女に渡して、彼女が間違った部分を教えてやった。 灯の明かりが当たっているせいで、遠くからでもよく視認で きそうな状況であることに不安を覚え、そろそろ帰ろうとすなるべく優しく指導してやった。 る。 「な ? 別に英語ってったって、難しくないんだよ」彼女は二 「じゃあね」自転車に跨り、先に図書館の敷地を出ようとす首を横に振る。 27 人組み