たように言った。 子に腰掛けながら加代子は言った。 「そうよ。捨てもされんやったしね : : : 」と、多津子もそれ 「お疲れよ : : : わが、仕事のときのままの格好で居ると ? 」 をうけて言った。 と、多津子は姪の服から発されている魚と発泡スチロールの 多津子が横になっていたべッドは、大阪で暮らしていた彼 臭いに気がついて言った。 「そうたい。病院に迎えに行って、そんあともばたばたして女と勲が福岡に引っ越してきたときに買った、移り住んだば かりの、まだ家具も揃っていない狭いア。ハートの一室のほと 帰ったけん、着替える暇のなかったとよ」と加代子は言っ ( 0 んどを占めるような大きさのものだった。十年以上もまえに そこを引き払って、いま住んでいる公営団地に引っ越してか 「そら、お疲れたい。うちも眠りはせんやったばってん、べ ら、そのべッドには勲がひとりで寝ていた。このところは調 ッドから起き上がれんやったよ。いまのいまにやっと、だれ 子の思わしくなかった彼のために、多津子はふたたび一緒に か家に人ってきたかって思って、頭ば枕から上げたよ」 べッドで眠っていたのだったが、あるとき横を支えている板 「だれかって、うちに決まっとるじゃん。ほかにだれの来る がはずれてしまい、片方に傾いてしまった。勲はたとえ傾い と思いよったと ? 」 ていても寝ることはできると言っていたが、ちょうど団地の 「そうねえ。ほかに居らんもんね。イサは人院したし」 「そうよ : : : ご飯は食べとらんやろ ? さっき家の食料買うすべての部屋の改装工事が近くあり、部屋の畳を張り替える ことになっていたので、作業中に邪魔になるべッドをこの際 ついでに、タッコ婆のも買うてきたよ。うちもさっきまでお : このお茶に上のマットレスのみを残してほかの部分は捨ててしまおう 昼食べとらんやったけん、お弁当ば買うてきた : と多津子は考えていた。それで、加代子はべッドの始末につ は今朝人れたばっかり ? 」 いて、かねて多津子から相談を受けていたのだった。 こう言って、加代子は机に置いたビニール袋の中から出し 「おじちゃんの退院できるとやったら、そんときにべッドは た食べ物を並べだした。「また病院に戻るやろ ? あとで美 穂が車で来るって言いよったけん : : : 着替えやらの用意はで捨てなたい」と加代子は言った。 ん 「さあ、どうやろ、今度は : : : 」 とる ? 」 ら な 多津子は思案するように眉をひそめてそう言った。 「うんにや。ほんのちょっとべッドで休むつもりが、なんも ん 「危ない ? 」と加代子はことばを継いで訊いた。 せんうちに時間の過ぎとったよ」と多津子は言った。 わ 縫 「あのべッドも、どうなるとやろうね ? 」 「危ないやろうねえ : : : もう何も食べきらんでおるもん」 「うちも、そうやろうねって、思いよってさ、それで、おじ 加代子は自分の分の弁当に箸をつけながら、ふと思いだし
言った。 のもんから、玄関の下駄でも何でも、いつまでも探しきれん 多津子は、かおを俯けて、恥ずかしそうに笑みを浮かべる で、もたもたとしよるばってん、それでも年寄りですもん、 と「きのうの朝に落ちた」とだけ言った。 仕方んなかって、あきらめのつくばってん、子供んうちから 「どこに落ちたと ? 」と熊代は言った。 目の悪うしてしまったら、これは、つまらんですよ」 「そこから落ちた」と上がり口の方を指さしながら多津子は 「そうでつしよが : : : 見えづらいだけやったらよかとやろば 言った。 ってん、もし、まだ若つかうちに見えんごとなっていったら 「土間に落ちたと ? ほお、そりや痛かったろう。ロん上の ねえ。この子ば貰てくれるひとも探さないかんごとなるし、 赤うなっとる」 - それも、世話ばあれこれ見てくれるひとば探さんばならんと 彼女は口元に手をやったが、熊代は「触らんがよかぞ ? 」 やったら、いっそ、学校に上げてやって、ひとりで暮らして と一一一口った。 いけるごとしてやったがよかとじゃなかろうか、やら思いよ 「タッの、ちった目えの悪かとじゃなかろか、って思いよる るとばってんなあ」と、キクが熊代のことばを受けて話すの とばってんな : : : あっちゃこっちゃ、すぐにつつこぼってば だったが、それは相手の話題を継ぐというよりも、日頃考え つかりやもんで : : : 」と、キクは子猿のような格好で熊代の ていることを、ふとこの機会にと思って言ったというような 足のあいだに丸まっている多津子を眺めながら話しだした。 口調だった。 「洗濯ばしよっても、田んぼさな行きよっても、目えば離し 「はあ、学校もあればってん、まずは病院の先生のところで よるあいだに多津子の居らんごとなっとって、あら、タッ しような」 よ、どけ居っとかあ、ち呼んだら、溝で声のして泣きよる 多津子は、キクの膝の上で会話を聞いていたが、彼らの言 : ぼとんって音の聞こえたら、もうどこかに落ちっしもう っていることは理解していなかった。母は自分の目が悪いか とる。な、そうやろ、タッよ ? え ? なんば恥ずかしがり もしれないと言っている、だが、そんなことがあるだろう よっと ? 」 か ? 母のかおも、話しながら畳の目に沿って指を這わせ、 キクはそう言うと、熊代の足のあいだから抜けだして、自落ちている砂粒を集めているのも見えていれば、〈クマヒロ 分の方にやってきた多津子を抱きとった。 のオイシャン〉が眠そうに目をしばたいて、あぐらをかく足 「はあ、それはいっぺん医者に診てもろうた方が良かろうな の上に置いた手の指を何度も組み替えているのも見えている というのに。 あ。目えの見えんとは困りもんばい。うちの婆さんも七十一 ばってん、だいぶん目ば悪うしとってですね。もう、机の上 多津子には、たしかに彼らが自分について話しているにも
をすぎた頃からだった。その頃には、まだ彼女は全身を覆う 畳に手をついて、足の関節をいたわりながら慎重に上がる。 そうして、ガラス障子で上がり口も閉め切ってしまうと、テ倦怠や膝の痛みといった老いの特徴に気を配り、しだいに不 レビの後ろにある壁のかけ時計を見た。だが彼女の皺に覆わ便なものとなっていく身体に、どうにか馴染もうと努めてい た。それはちょうど、馴れた服を捨てて、代わりに自分には れた目は時計の上にながく留まってはおらず、すぐに押人れ の方に向けられた。蒲団を出し、その上で眠る以外、もう敬まるで合わない丈と幅の服へと着替えるようなものだった。 そして新しい服が窮屈であるか、あるいは大きすぎるもので 子にはすることがなかった。 あるかにかかわらず、じき合わないなりに自分の持ち物だと 「枕の、どけあったとやろか ? 」 いう意識でそれを受け人れることができるのとはちがい、も 低い、自分だけに聞こえる声で敬子は言った。鼻からずり う八十四にもなるというのに、敬子は自らの身体の衰えに対 落ちそうになっている眼鏡の奥で、いまにもつぶってしまい そうな目をしょぼしょぼとさせながら、片方の手に毛布を持して、日々おなじ程度の、決して軽減されることのない不具 ったまま、しばらく彼女は押人れの中を探していた。そうし 合と違和を感じていた。 そのため、彼女にとって睡眠は大事なものだった。なぜな て、頭を上げて部屋を見まわした彼女は、机の向こうの安楽 らば、眠っている短い時間だけ ( 朝は早かった。五時前には 椅子の上に放りだされているのを見つけた。 蒲団を敷いて寝間着に着替えた彼女は、なお寝るための起きだして身支度をし、朝の食材を買いにやってくる客を待 っていなければならなかった ) 、彼女は自分の重たい足も、 細々とした準備を、緩慢な動作でつづけた。どうせ、夜中に 目をさますのは分かっているが、用を足しに便所に行き、化容易に上がらない腕も、薄くなった髪の毛も意識しないでよ 粧も落とし、枕もとには、灯りを点けずに済むための懐中電かったからであり、また昼に訪れる睡魔から逃れるために 灯を置いておく。眼鏡を机に置くと、手でその上を探って洗も、この夜のあいだは眠っていなければならなかった。彼女 は一度、レジスターの前の椅子に腰掛けたままいっしか眠り 浄剤の人ったコップを取り、人れ歯を外して中に浸した。そ こけ、そのまま前に倒れ込んでしまったことがあった。その れでやっと準備を終えた彼女は、蒲団の中に足を人れると、 電灯の紐を引いて灯りを消した。いよいよ寝るまえに、彼女ときに打った額には痣ができ、何カ月も消えなかった。身体ん が前に倒れかけたとき、目をさましながらも支えきれなかつな は机の上から取って懐中電灯の横に置いておいた時計に、も たというこの経験は、敬子に自らの衰えを強く意識させたのん う一度目をやった。そして蛍光塗料の緑色に光る針で時間を 縫 につ ( 0 確かめると、髪の毛の薄くなった頭を枕に落とした。 だが、昼のたびに襲ってくる抗えない眠気は、どうしたこ 彼女の肉体のうえに老いがあらわれてきだしたのは、七十
店にある冷蔵庫、冷凍庫、レジスターは、改築と同時に揃 《あれも、だいぶん古かもんな、もしあれの故障したら、も えたものだった。新品の設備を揃えた四十年前には、これほ う買い替えんで、お店ば辞めっしまわないかん : : : 》 そう敬子は思いながら、同時に、若い、ひとの好さそうな どのものを一度に店に置いたのは村の中でも敬子が最初であ 笑顔を浮かべる男と机を間にして座っている光景を思いだし 、彼女はそれを秘かな誇りとしていた。敬子は、それらの ている。 品が店に届けられた日のことを思いだしはじめた。 「ようここまで丁寧にお金ば付けとりますね」 「波止場のまんまえに家の建っとってよかなあ。待ちわびん で商品のすぐに届くもんな」 机の上に開かれた帳簿に目を通しながら、男は感心したと いう声で言い、それから俯きがちに敬子が言ったことばに対 船着き場に届いたばかりの冷蔵庫を、電気店の男ふたりが して労うように、「ひとりやったら、なんでも自分で管理せ運んできた車から下ろし、敬子はその横に立って作業を見て んといかんですもんね」と言った。 いると、ちょうど昼飯のために船から降りてきた、顔なじみ 店の改築費用として融資を受けるため彼女は船に乗って、 の漁師が傍に寄ってきながら、からかうようにそう言って笑 平戸の信用組合を訪れていた。通された小さな応接室で、敬いかけてきた。 「そうたい、魚でも品物でも、ちょっと草履履いて取りに行 子は緊張のため強張ったかおっきのまま座り、まるで自らに けるけん、よかなあ」と、それまで冷蔵庫を万一にも落とし とって恥ずかしいものを見せなければならないかのようにし てしまってはいけないと慎重に地面に置いていたふたり組の て、おずおずと汚れた表紙の帳簿を男に見せたのだった。そ して、自分ひとりで店を営んでいること、夫は結婚して十年 うち、五十ほどの歳の男が屈めていた腰を伸ばしながら、漁 足らずで死んだこと、などを話したのであった。 師に同調して言った。 連絡船の船乗りをしていた夫が〈ぼっくり病〉で死んでし 互いに知り合いであった両者のあいだで二言、三言会話が つづいていたが、煙草を取りだして火を点けながら、漁師は まったあと、いつまでも泣き暮らすわけにもいかず、はじめ 「おっと ! なんば買うたとね ? 」と、ひょうきん者らしい は洋服の仕立てによって生計を立てようとしたこと、しかし それでは生活できるほどの金にならないことが分かり、また 声を出して、いまになって梱包された業務用の冷蔵庫に気が な 自分には針仕事が向かなかったのもあって辞めてしまい、商ついたというように、煙草を持った手で指さした。 「冷蔵庫や : : : 立派か物ば買うたったい ? ええ ? ケイコん 店を始めるまでにも幾つか仕事をやってはみたのだが , ーー信 縫 シュウよ」 用組合の男が労いのことばをかけたのは、ちょうど彼女がそ うしたことを話しだそうとしたときであった。 そして、そう漁師は言ったのだったが、彼が敬子の名に付
この火曜日の夜、シンと父親は院加警察署で事情聴取を受もとの岩場が崩落したことに起因する可能性も捨てきれな けた。母親である西崎サクラの遺体は、別棟にある遺体安置い。 事情聴取後、葬儀社が差し向けてくれた修復師は、故人の 所で検視を受けているとのことで、父親だけがしばらく席を 外して様子を覗きにいき、やがて、青ざめた顔で無言のまま生前の写真を預かって、顔立ちの修復などを丁寧にしてさし あげたいので、通夜や葬儀までに少なくとも中二日ほど間を 席に戻ってきた。 事情聴取が思いのほか長時間に及んだのも、母サクラの死あけてもらえないかと、父とシンに向かって提案した。 ーミング 亡理由をどこに求めるかーーをめぐる見解の違いによるもの遺体保存と修復の処置は都内の施設で行なうので、それが終 わり次第、鎌倉の自宅に遺体を届けることもできる、とのこ だった。つまり、警察側の腹では、死亡理由は「自殺」とし とだった。父とシンは、これらの提案をすべて受け人れ、土 て、あっさりカタを付けてしまいたい。だが、「自殺ーする 動機がない、と父は頑強にそれを拒んだ。警察側が、こうし曜夜に鎌倉の自宅で通夜、日曜午前に密葬、という日程に決 た見方を渋ると、さらに父は " 権力犯罪が絡んでいる可能性めたのだった。 母サクラの両親はすでに亡く、招くべき身寄りもない。父 もある〃との持論を蒸し返し、いっそう刑事たちの困惑をつ のらせた。 方についても、事情はほとんど同じだった。だから、居間に 事故死とすれば、その経緯の究明、という厄介な捜査が新棺を置き、母の写真と花と燭台を飾る簡素な祭壇を葬儀社に たに加わる。さらに、犯罪性の疑いが絡めば、この可能性を 梗概 排除できるに至る検証なしには、それより先に進めない。ま 二〇四六年、戦後一〇一年の年。関東平野の北部の基地の近 してや、「権力犯罪」となると、地方の一警察署としては、 くに、伝説の奇岩「望見岩。のある町・院加はあった。町で まったくのお手上げだった。 は使用済み核燃料の最終処分場造成が噂されている。一人旅 結局、両者が折り合った落としどころは、以下のような線 でたどり着いた少年・西崎シン、奥田アヤと既婚者同士で失 。てつこ 0 踪し一人で戻ってきた八百屋の三宅太郎、「神州赤城会」を 名乗る不動産プローカー真壁健造、理容店の娘で役場に勤め 犯罪が疑われる形跡はない ( 警察としては、これが大 る高田めぐみらが町で暮らす。シンの元に、首相官邸への住 事 ) 。死亡原因としては、望見岩の頂上部からの過失による 居侵人罪で三年服役し、釈放されたばかりの母親の遺体が望 転落だとおおむね推認できるが、ほぼ同時刻〔同日、午前六 見岩のふもとで見つかった、と連絡が入る。一方、中東派兵 時三五分〕に院加地方を襲った震度四強の地震によって、足 を拒んで、陸軍兵士一一百名が浜岡原発に籠城している。 ひつぎ エンバ 327 岩場の上から
カらんとしている。 自宅の居間は、棺が消えたぶんだけ、 : シンは、母が冗談を言っているのを感じて、頬笑んだ。 ・ : そう。これだけ長い時間、ド一フィアイスの上に乗近くの店から遅い昼食を取り寄せて済ますと、もう、するべ つけられたままだとね。さあ、もういいから、もっと熱い場きことはすべて終わっていた。シンは、部屋の隅に寄せてい たテレビ受像機のスイッチを、ただ何気なく人れてみた。 所に、早くわたしを連れてってちょうだい。 突然、そこに映し出されたのは、浜岡原発周辺の異様な光 翌朝、密葬の時刻に差しかかっても、もはや父とシンとの景だった。首相みずからが通告していたという、この日正午 の「投降期限」をすでに過ぎ、新鋭兵器で装備を固めた正規 あいだにするべきことは何もなかった。ただ、棺の前で、二 人でぼそぼそ雑談しながら過ごした。黒い大型セダン車を伴軍側の部隊が、次つぎに原発の周囲に到着し、整列と分散を 繰り広げていた。大型輸送機が低空でホバリングして、土ぼ って、葬儀社の人びとが現われたところで、それも終わる。 こりを舞い上げながら、ゴルフ練習場や校庭に着陸してい クルマの後部の空間に棺は積み込まれ、名越の切通し近くの 火葬場へと、それは走りだす。一時間余りで火葬と収骨が終 甲高く、上ずった男性アナウンサーの声が報じる。 わると、父は、葬儀社が用意してくれていた帰りのクルマを 丁寧な言葉づかいで断わった。 《国際平和構築のための中東派兵活動を拒んで、大量の核物 そして、息子のほうを振りむいて、 質と原子力発電所の従業員らの身柄を楯に取って、静岡県の 「旧道を行けば近いから、歩いて帰ろう」 と、声をかけた。そうやって、シンに骨壺の納まる桐箱を浜岡原子力発電所に立て籠っている陸軍兵士およそ二百名 は、政府が通告した投降期限のきよう正午を過ぎても、依 抱かせて、真昼どきの陽射しのなかを、小一時間ほどかけ 然、これに応じず、籠城を続けています。 て、二人で浄明寺の家まで帰った。 政府は、これに対して「テロには断じて屈しない」という 途中、釈迦堂切通しの隧道は、過去幾度かの地震で崩落が 進み、錆の浮いた「通行禁止」の掲示が立てられたままにな方針を堅持する方針で、きよう午後、陸軍に鎮圧作戦の開始 ら っている。父は、それに目を留めることもなく、ずんずん を命じ、現在、東富士演習場などから精鋭部隊が続々と浜岡 の と、そこのなかを通り抜け、向こう側の自然光のなかへと溶原発周辺に到着しています。 場 岩 一方、総統府は、こうした事態を受けて、「兵士による国 けていく。さらに林の小径をたどって、浄明寺の里のほうへ 家への反逆は、いかなる理由でも許されるものではなく、毅 と降りてきた。
れだけ想像したのに、実際彼女に対しては何の期待も寄せて ラスの中ではある種の特権階級なのだろうけれども、触れら いなかったことを思い出すと、坂本ちゃんのことを自分は、 れない女体を目の前にしてどうしようというのか、と本間は 尊重しているようにも侮辱しているようにも思えた。 思っていた。 本間は学校で坂本ちゃんに声をかけなかった。どうして昨 「ねえ、海に行くメンバ ーって、誰と誰がいるんだっけ ? 」 日来なかったんだと問い詰めたかったが、来たくなければ来 「えっと、俺だろ、武川だろ、杉崎だろ、大友だろ、えりこ なくて良いと言ったのは本間の方だ。本間はせめて、坂本ち ちゃん、中川さん、南ちゃん、ようこさん、あと、純ちゃ ゃんから「別れたい」の一言を聞きたかった。二人の放課後ん。本間が来るなら、本間も」 の関係が解消されれば良い、と思ったわけではない。「二人 「お前、大友も人れたのかよ」「いいじゃん。楽しそうで」 は付き合っている」という台詞でも「最初から付き合ってい 「よく女子たちは承諾したな」「ああ見えて大友のやっ、キチ ない」でもかまわない。放課後、駅の改札前で待ちたくなる のくせに女からは嫌われてない。ほら、女にはあんま被害 自分を、このまま許すべきかそれとも諦めさせるべきか、ど いじゃん実際」「へえ」幹事のような役割を担っている山田 うにかして決めたかった。二人でカラオケに行く以前だった に、本間は提案してみた。「そこに、坂本ちゃんも人れてみ らば、本間は待ちぼうけを食らわせた坂本ちゃんに対して、 たら ? 」山田は、眉をひそめて硬直してから失笑した。「な 酷く腹を立てて何か復讐みたいなものを企てたかもしれな んで坂本ちゃんなんだよ。ウケル。ていうかお前さ、童貞じ い。ところが今や本間は、坂本ちゃんとカラオケに行けなく ゃないからって、海に行っても女子に手出すなよ ? 今回は なってしまったのがただ寂しいだけなのだ。その寂しさと言 そういうのじゃないんだから。皆で楽しくするのが目的な うのも、心細さとは違って、何か物を失ったのとも違って、 の。オッケー ? ああ、中川さんの水着見てえ ! ビキニな 冷たくは無く、無味無臭でもない、梅干やレモンを思い出す わけないよなあ。もしかしてスク水かなあ ? 逆に良い ! ような、そういう寂しさだった。 逆に ! 」 終業式の日になった。明日から夏休みを迎える。夏休みで 阿部由紀子を孕ませた犯人を男女混合の海へと誘った真意 三年生は部活を引退することになっているが、部活をやって はこれだった。経験の豊富な人物を一人人れておくことで、 いない本間には塾の夏期講習と合宿くらいしか予定は無い。 全体の危なっかしさを盛り上げるためだ。そしてあわよくば クラスの友達同士で海に行こうという計画があるにはあるの 中学最後の夏に皆、本間に影響を受けて何かをしでかしたい だが、招待されている本間は、正直に言えば気が進まなかっ のだ。その実本間は末だに童貞で、阿部由紀子の身体なぞ徴 た。女子も参加するので、これに呼ばれる人間と言うのはク塵も知りはしないのだが。
とけて流れりやみな同じへイ そんなに細かく書かないのよ。メモみたいなもん。今日も側 などと、すすめられるがままにカラオケを披露したりし これだけ、と言ってお母さんは私に日記帳を見せてくれた。 て、居合わせた知らない客から喝采を受けたりしていると、 「朝食、。ハン。宇都宮で伊知子・市瀬くんと合流。袋田の滝、 伊知子が酔いつぶれてお母さんと部屋に戻った。 白河の関、会津若松。雪。伊知子、今年人籍の予定。」 はからずもお父さんとふたりになったので、私はそこで結 毎日こんなもんよ。だから続けられるの。でもね、こんな 婚の話をしようとしたのだが、すでに私もお父さんも酔い過程度でも、あとから読み返すといろんなことを思い出せるも ぎていて、あるいは照れくささもあったのかもしれないが、 んでね。 私がまじめな顔をしてお父さん、と呼びかけ話しだそうとす 伊知子はお父さんが四十歳の時の子で、お母さんも当時で ると、やだよ、やだよ、そんなまじめな顔しないでよ、と大はかなり遅い三十代半ばでの出産だった。ひとり娘でかわい げさにおどけてなかなか私に話をさせようとしなかった。そ がられ、甘やかされて育った、と伊知子は自分で言ってい こ 0 の間もふたりは飲み続けているので、私も、お父しゃん、お 父しゃん、とろれつが回らなくなってきて、それがおもしろ なんだかすいません、結婚のこと、きちんとご挨拶をと思 くてふたりでけらけら笑っていたが、そのうちお父さんはバ ってたんですけど、僕はこんなに酔っぱらってしまいまし こ 0 ーのカウンターに突っ伏して寝てしまい、私が抱えて部屋に 戻ると伊知子を布団に寝かせたお母さんがまだ起きていて、 いいのいいの、とお母さんは寝ている伊知子とお父さんを テレビでオリンピックを見ながらノートに何か書いていた。 顎で示した。見てよ、酔っぱらってるのはうちの方。気にし あらまあ、親子そろって酔いつぶれてしまって。ごめんね ないで。飲み足りなければ、飲んでくださいね。お酒、そこ え市瀬くん。 のへんにあるみたい。 お母さんがいちばん強いんじゃないですか。 お母さんまだ飲みますか ? あたしはそんなになるまで飲まないもの。 そうしようかな。まだ十時過ぎだもんね。 伊知子もふだんこんなに飲まないんですけどね。 じゃあ少しやりましようか。 今日は特別だったんだね。 そのあとで私はお母さんとちびちび日本酒を飲みながら、 何を書いてるんですか。 伊知子の子どもの頃の話や、実家にいた頃の話を聞き、途中 日記。あたし毎日つけてるの日記。四十代の頃からだか で起きてきた伊知子もそこに混ざって、遅くまで三人でしゃ ら、もう十年以上。 べった。お父さんはずっと寝ていた。私は時々障子戸を開け そりやすごい。 て外の雪を見た。少し弱まったものの雪は遅くまで降り続
して、その場合には内山の墓前でということになるが、これ に熱い茶ばかりをすすって時を過ごしていた。《歯がゆかね、 は内山家からの注文となるのか、あるいは桐島家として頼む痛うしてロも開かれん》と思いながら、妹の小さなうしろ姿 ことになるのだろうか こういった内容のことを、年寄り を敬子は見ていた。多津子は片手をうしろに回し、その手に らしい念を押すような繰りかえしと、心底から困ったという は数珠が握られていたが、指のあいだからぶら下がる数珠と ような笑い声とを織り交ぜながら多津子は話すのだった。 そこに付けられた房は、彼女が話すのに合わせて尾のように 「それけんな」と、多津子は姪が話をほとんど呑みこんでお揺れていた。揺れる房を見ながら、敬子は《歯がゆかね、思 らず、何も見てもいなければ聞いてもいないことには気づか いだそうとしとっても、いっちょん思いだせん》と胸のうち ずに、すでに言ったことをまた繰りかえすのだった。「ほら、 でつぶやいた。 うちはあれやろが ? ケイコ婆に言うてもよかとばってん、 多津子は、なおくどくどと自分の懸念していることを話し あんたも、今度島に帰るやろ。それけんな、そんときに、お つづけており、その他の者たちはみな黙っているか、家族ど 寺さんにも行くやろうけん訊いてみてほしいとよ : ・ : 謝礼も うし小声で何か短い会話をしていた。部屋の中には明らか 出さなならんし、それから初盆は、どげんして踊りは頼めば に、もう終わって帰りだそうという空気が、そこに居る者た 良いんでしようかってさ : : : 」 ちの目配せや溜め息によってかき混ぜられながら充満してい 美穂と多津子が、座る場所などいくらでもあるというのに た。それなのに、あるいはーーーそうだからこそ、そこに居る 立ち話をしているのを、畳に座る敬子は眺めていた。だが、 誰も立ち上がって帰ろうとする者はなかった。 その目は美穂が身の人らない返事をしながら多津子に向けて 自分は何を言わねばならなかったのか ? たしかそれは吉 いる目つきとおなじで、彼女もやはりふたりを見ているわけ 川の家に関したことであったはずだが、と敬子は考えなが ではなかった。 ら、多津子の話し声を聞くともなしに聞いていた。ひそひそ 多津子が、何か墓や初盆といったことばを言っているのを と話されているために、その声は聞き取りにくかったが、と ぼんやりと聞きながら、彼女は自分も何か美穂に言わなけれきおり多津子が抑揚を付けて発することばが、切れぎれにな ばならないことがあったと考えていた。しかし、何を言うは りながら、かろうじて敬子の耳に人ってきた。 ずだったのか思いだせずにいた。そしてそれは、腫れものが 「墓も : : : ばってんなあ、夏は夏で : : : 佐恵子さんのも一緒 にやるんやろう : 思いだす邪魔をしているのだった。ロの中にできた腫れもの : うちは行かんでも : : : 正月は別やけど、 は、二週間以上も治らないで敬子を悩ませていた。それで彼そう一年のうちに何回も : : : 家もずっと空くわけやもんね 女は、机の上に並んでいた料理にも手をつけず、酒も飲まず 720
塚田の両脚には黒い。ハイプのようなものが何本も貫通し、そ に痛めつけることと、どこかで相似形を描くことになってし れぞれの。ハイプが構造物のように接続され、ネジで固定され まう。学内にいるかもしれない事件の関係者を野放しにして ていた。たちの悪い、手のこんだ冗談のような眺めだった。 よいのか。一惟は他人とは共有しにくいかもしれない感情を この状態で骨の再生と接続を待つ。骨がつながったことが確かかえて、静かに憤っていた。 認できたところから、機能回復のための本格的な理学療法が 右の頬を打たれたら左の頬をさしだせというイエスのこと 始まるのだという。使われずにいた関節や筋肉にふたたび役ばを一惟はどうしても理解できないでいた。徹底した非暴力 割を担ってもらうための訓練。この構造物のような。ハイプ を説いているわけではないだろう。一方的な暴力を受けたと も、いっかふたたび手術をして取り除かなければならないと き、そのうえでさらに相手に左の頬をさしだせば、それは挑 いう。 発と受けとられかねないのではないか。 塚田は人違いで襲われたーー過激派学生のセクト間対立が 現実的に考えれば、暴力をふるう相手が頬をさしだす態度 もとで散発的に起こっていた内ゲバの、人違いによる犠牲者を目にしたとき、思わずうろたえて手がとまるというより であるらしい。そんな噂がしだいに広まっていた。いつぼう も、火に油をそそぐ結果となる可能性のほうが高い。父が一 で、塚田はセクトには属さなかったものの、活動の中心とな度だけ、枝留教会の礼拝で人の自由を奪うものとしての暴力 る特定の人物との交流があったため、対立するセクトからの について語るのを聞いたとき、一惟はイエスの「左の頬をさ と、内 警告と見せしめで、敢えて狙われ攻撃されたのだ しだせ」という真意をはかりかね、少なくはない異和感をお 情に詳しいことをしたり顔でほのめかす者もいた。 ぼえた。その記憶は、ずっと一惟の胸にとどまったままだっ なぜかはわからないが、新聞記事にはならなかった。それ までは西門に一本しかなかった大学構内の街灯が、あらたに 大学で歴史神学の講義を受けたとき、ながらく疑問におも もうひとっ設置され、茂っていた植え込みが刈りこまれ、見 っていたことを、自分なりに理解する手がかりを得た気がし 渡しがよくなった。ここで起こった何かに対応するものであ た。ローマに支配されていたエルサレムで、古い律法のもと ることはあきらかだったが、学内でもこの事件は起こらなか で暮らしていたユダヤ人は、地上のあらゆるものの終末と、 ったかのような扱いを受けているのではないか、と一惟はな やがて神とともにやってくる栄光を待ち望んで暮らしてい かば疑っていた。塚田徹が負ったのは重傷だが、しかし死ん た。その時代と場所に生をうけたイエスという男が、暴力を だわけではないーーそれを幸いと表沙汰にならないようにし どのようにとらえることになったのか。一惟はこう考えた ているのだとしたら、塚田を殺さないようにしながら徹底的 イエスは、現実の世界でおこなわれる暴力を、彼岸から