敬子 - みる会図書館


検索対象: 新潮 2016年11月号
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1. 新潮 2016年11月号

《佐恵子さん、もう兄ちゃんは居らんとに、そがんことも忘カ仕事も不向きで、そのため、港の〈母ちゃんたち〉から彼 れっしもうたとな ? 》と、敬子は胸の内で言う。 女は馬鹿にされていたのだ。敬子は、家に嫁いできて日の経 道はいよいよ幅が狭まり、それまで平坦だったのが、なだ っていない頃、佐恵子がしばしば買い物のついでに、こっそ りと電報を打ちにいくのを知っていた。彼女が実家にいた頃 らかな下り坂に変わった。防波堤も途切れて足下にあった砂 利が大きな円い石ばかりになってきた。波が砕け、岩や石を に兄弟のうちでいちばん仲の良かった妹の節子に宛てて、嘲 洗う波の音が聞こえてきて、敬子は転ばないように見えない りに耐える辛さを電報で訴えているのを知ったのは、ずっと ながら足先で大きな石の上を選んで踏み、暗い磯に降りてい後のことだった。だが、いそいそと出かけていくうしろ姿を った。佐恵子はどこに居るだろうと、彼女は辺りを見まわ見ながら、敬子はなぜ彼女が電報を打ちにいくのか、そして す。どこにもその姿はなかったが、しかし、必ず居るのだっ その秘密をひとから隠そうと努めているのか、分かってい た。視線を波打ち際から徐々に上げていき、崖の険しい坂に 崖を登っていく佐恵子のうしろ姿は、遠くなりながらも、 生える松林の方まで転じると、白い洋服がそこを登っていく のが見え、頭や手足はまったく闇の中に埋もれてしまってい敬子の目にははっきりと見えていた。佐恵子が気に人ってお 、歳からして似合わないものになっていたが、それでも長 るが、敬子はそれが佐恵子にちがいないことを知っていた。 いこと着ていた白いワンピースであった。暗闇の中に小さく 「佐恵子さん、そがんところば行ったら、あつばよ ( 危な い ) 、海んにき、つつこぼる ( 落ちる ) ばい ! わが、泳がれなっていくその白い服は、一面の真っ黒い景色に浮かび上が んとやから、そっちの方さな、行ったらでけんよ」 るように見えた。 「佐恵子姉さん ! 海につつこぼるけん、行きなんな」 海から吹く風と波の音で、自分の声は遠くの佐恵子の耳に は届かないだろうと敬子は思いながら、それでも両手を口に 敬子は、佐恵子の強情な性格からして ( 認知症になり、場 当てて大きな声で言った。やはり佐恵子は敬子の方を振りか 所も時間も関係なく繰り言を話しては泣きだすようになるま えらず、ゆっくりと松林の中を登っていく。 では、一度もひとまえで弱音を吐かなかった ) おそらく振り そうだ、と敬子は考える。泳げなかった佐恵子は、漁師の返ってはくれまいと知りつつ、声を張り上げて呼びかけた。 家でもなければ農家の娘でもなかった。島の外の人間であっ 最後に、ほとんど叫ぶようにしていったそのことばが、自 たから、〈オジジ〉は、はじめ智郎が結婚したいという願い を斥けてきた。だが、智郎は強硬な態度にでて、ついに無理分の声であったはずなのに、まるで耳元で聞こえたようだっ やり佐恵子を家に連れてきてしまった。泳げもしなければ、 たので、敬子は驚いて目を開けた。そして、目を開けたその 「佐恵子姉さん ! 佐恵子姉さん ! 姉さん ! 」

2. 新潮 2016年11月号

小説を書く際、最も重要かっ難しい問題の一つに、時間 ながら暮らしている。夢と現実を往き来するような日常を がある。 生きる敬子の述懐により、吉川家の全体像が明らかになっ ていく。 受賞作の「縫わんばならん」は、長崎県のとある島の旧 家、吉川家を中心とした一族の物語であるが、小説の中で 第二章は敬子の妹の桐島多津子に主体が移り、妹の目か は明治生まれの吉川文五郎からその玄孫まで、約百三十年ら見た吉川家の側面が露わになる。 の時間が流れている。 そこここに、敬子と多津子の、老いていく体、日々ぼん 時系列に一時代、一時代を書いていったら、四〇〇字一 やりしていく意識の微細な描写があり、そのリアリティは 〇〇〇枚でもおさまり切らなかったであろう物語を、筆者筆者の二十七歳という年齢を考えると、驚くべきものがあ の古川真人氏は独自の構成によって、およそ四〇〇字二〇 〇枚の作品にまとめ上げた。 第三章は吉川佐恵子の通夜。佐恵子は敬子と多津子の 第一章は文五郎の孫の内山敬子の生活描写から始まる。 兄、智郎の嫁で、認知症を患い、長い人院生活を送ってい 敬子は文五郎の直系の孫だが、結婚して姓が内山に変わっ た。この葬式に一族が集結し、文五郎の玄孫の稔の視点 た。八十代半ばとなった今でも島で小さな食料品店を営み で、一族の存在がいかなるものかが語られる。 小説と時間 福田和也

3. 新潮 2016年11月号

な声が、耳の底から聞こえてきた。 その声を聞きながら、敬子は《なんやったろうかなあ ? 「なあ、ケイコ婆よ。吉川の家の屋根に穴の開いてしもうと 誰かに吉川の家んことば、なんやらしたがよかぞって、そが るばい」 んに言われたとばってんなあ、それか、うちの寝ぼけとった 多津子も話を終えたようで、黙って美穂の傍に立ってい つじゃなかろうか ? 誰やらの言うとったのも、最近寝つか た。親戚たちも同様に、いつまでも再開できずにいる会話の れんで、うとうとするばっかしやけん、夢で見た人間に言わ れたことば、ほんとうのことって思いよるだけなのかもしれきっかけを掴むのをついにあきらめたらしく、黙って座って いる。ただ、部屋の外で咳の音と、ときおり唸るような声が ん : : : 》、と考えた。 聞こえている。それは部屋を出てすぐ横に置かれたべンチに するとーーいや、夢で見ただけだと思いこんでいることこ そがまちがいで、真実は実際にあった出来事なのではない横たわる稔の声だった。だが、部屋に居る者たちはそんな声 など聞こえないというようなかおをして、時間が過ぎるのを か、という思いが頭をよぎり、彼女は低く唸り声をあげた。 そのあいだにも多津子は話していた。いったい、何を多津待っていた。 敬子は美穂に話すため立ち上がろうとして、畳についたさ 子は話しているのだろうか ? 大方、夫の初盆のことなのだ いに痛む手首にかおを顰めた。それから思うにまかせない ろうが、それならば自分に相談すれば早いのにと、敬子は上 下に小さく揺れる、すっかり染めきれずにてつべんが白いま膝、むくんだ足首と、身体のあちこちに痛みが走り、そのつど まの妹の頭を見やった。《そうたい、勲さんの初盆も、それ動きをとめる敬子のかおはますます顰められていく。吉川の から佐恵子姉さんの初盆も、吉川のあの家じゃ、されんとた家の屋根に穴が開いていることなど、言う必要があるのだろ うか ? こう敬子は考えるのだったが、もう両足は歩きだし い。家の、家の : : : 》 ていて、美穂も自分に向けてやってくる彼女の姿を目にとめ と、敬子はかおを上げて、何かを探すように辺りを見まわ ていた。敬子の目も、自分を見つめる美穂のかおをとらえた。 した。だが、彼女が探している人物は部屋の中には居なかっ 《屋根に穴の開いとるなんて、ほんとうのことやったろう た。《ミーくんの外で寝よるって、誰か言いよったか。家の ん ら ほどく、ほどかんばならんち、佐恵子姉さんの話しよったっ またしても、そう敬子は考えた。だが、そのときすでに話ば て、そがんことば聞いたよって言いよったばってん、そうた しはじめていることに、彼女は自分ではしばらく気がっかなわ い。家のほどかんばならんもんね、もう住む者の居らんとや 縫 いでいた。 けん : : : ばってん、うちは何ば思いだそうとしよったとやろ う ? 》こう考えたとき、まるで、すぐ近くで話しているよう ( 了 )

4. 新潮 2016年11月号

ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅡⅡⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅡⅡⅢⅢⅢⅢⅢⅡⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅱ 「縫わんばならん」 人間関係がわかりにくい小説だが、一人の人間が生まれ て生きてゆく上での人的繋がりというものは、そのくらい に複雑でひと言では言えないものなのだ、と実感しながら 読んだ。内山敬子、桐島多津子姉妹と二人の義姉である佐 恵子という三人の老女の物語でありながら、その親族の年 代記でもある。 まずは敬子の眠れない夜が描かれる。「過去の時間は夢 の中に記憶をひきつれて、新鮮な感覚のまま彼女のもとに 訪れる」。そのつど敬子は考えるのだが、その思念のたゆ とう様を描く筆力が素晴らしい。危うく空襲に死にかけた 多津子、寝たきりになって意志の疎通が不可能になった佐 限りなく優しく 恵子を思う敬子の時間は、夢か現か判然としない。 敬子の眠れない夜と同様に佐恵子の通夜で、甥や姪が喋 る言葉も脈絡がなく止めどがない。それでも誰もが喋らず におれない。それが死者を蘇らせることだと孫の稔は思 う。この作品の言葉の塊全体が、時間や空間を超越して、 人が生きるということを表現しているかのようだ。限りな い優しさに満ちた作品である。 「アワーボウル」 どこかはわからないけれど、そう大きくない街の郊外に あるボウリング場が舞台、という設定が絶妙だ。高速のイ ンター脇にあって、地下一階がゲーセン、二階一二階がボウ リング場、と書かれているだけで、広い駐車場の車列や、 桐野夏生 726

5. 新潮 2016年11月号

れから風呂に人るのだが、まだ五月に人ったばかりで、夜と もなると少し寒い。そのため風呂に人らず寝ることにした敬 子は、居間から、商品棚や冷蔵庫の置かれた店の方にサンダ 「もしもし。内山さん ? 渡辺やけど、今週は何がいりま ルを履いて下りていった。曲げるたびに関節が痛み、足首の す ? 」 くびれが見当たらないほどむくんでいるため、すばやく踏み 問屋の渡辺から、注文を訊ねる電話がかかってくるのは、 だすことのできない足を苦労して動かしながら、彼女は店の 夜の九時と決まっていた。 壁際に向けてあるいていく。そして電気のスイッチに手をや 電話に出て、帳面を開き、細かい文字で書かれた商品と売 って灯りを消し、すぐ横に立て掛けている棒を手にして、飲 り上げの金額を指でなぞりながら、間違えのないように注文み物や野菜が陳列してある冷蔵のケースに向かった。ケース する品の名前を、幾度も高い声を出して繰り返し、また相手の上部には、冷気を逃さないための被いのビニールが、ちょ にも復唱させて伝えた内山敬子は、傍近く置かれた時計を手 うど巻物のように収められていたが、背の低い敬子にはそこ とびぐち にとり、皺だらけの目を細めて時間を見た。 まで手が届かなかった。それで彼女は鳶口を伸ばし、先端に いったい、いっ頃から渡辺が九時ちょうどに注文を訊いて ついた鉤で、被いの取手を引っかけようとするが、暗いため くるようになったのか、敬子には思いだそうとしても思いだ と、手の震えのために、なかなか鉤は取手に引っかからずに せなかったが、どうやら問屋の持っ販路の中でも、敬子の暮いた。 らす島が最も遠いことから、注文を訊ねる順番も遅い時間と 「いっちょん ( 少しも ) 届かんで、どうも歯がゆかね」 なるようだった。この習慣となった注文訊きは、毎週の水曜 手を伸ばしながら敬子はつぶやいた。 日、遅いタ食を終えた頃に、居間の畳に置いた電話の前ま しばらくのあいだ彼女は暗闇の中で鳶口を上や下に動か で、ここ数年来辛い仕事となっている歩行を彼女に強いるの し、ようやく被いを下ろす。この取手を捕まえるための煩わ 一につこ 0 しい作業を、敬子は四十年以上のあいだ繰り返していた。 時計の針はそれぞれ九時と五分を指している。夏ならばこ 表の引戸と裏口に、それぞれ鍵をかけると、敬子は居間の

6. 新潮 2016年11月号

のことも分からんごとなっとるって美穂の言いよったとよ」 海が広がっているかのように眺められるのだった。その草む と、敬子はケン兄に言ったが、そのとき自分の後ろで、何や らの中に、一軒の建物の影が佇んでいる。〈オジジ〉の代か ら青や黒い物の影がしきりに動き回るのを目の端でとらえ、 ら兄の智郎が死ぬまでのあいだ、はじめは鰹節の、後にはイ そちらの方にかおを向けた。だが、はしつこく動く影の正体 リコ製造の作業場としてつかい、そしていまでは用のなくな を見定めることはできず、やがて彼女はいつのまにか陸に上 った漁網を人れておく場所としてつかっている、吉川家の大 がっており、清子も、男たちも、ケン兄の姿もどこかに消え きな納屋であった。 ているのに気がつくのだったが、そのことはさして重要なこ 納屋は草に囲まれ、板壁には大きな葉をつけた蔦が絡ま とではないと分かっていた。佐恵子が家を脱けでてどこかを 、近寄ることもできない有様だった。「オジジの生きとる 俳徊しており、これから彼女を探しに向かわねばならない用頃やったら、こがんに草の生えることのなかったろうな」足 事ができたのを、敬子は思いだしたのだった。 早に納屋を通り過ぎ、磯辺へと急ぎながら敬子はつぶやいた 辺りは暗く、道を照らす灯り一つなかった。たしかに港に が、その瞬間に彼女の頭の中には、田んぼや畑に行くときに 沿って歩いているはずだったが、どこからが道で、どこから も納屋に向かう際にも、いちいち腰を曲げて、道や作業場の が海なのか、それさえ分からない暗さの中を、敬子は佐恵子前に生えた雑草を一本残らず黒く太い指で引き抜いては捨て を探しに向かっている。サンダルを履いた自分の足音がする る祖父の文五郎の姿が、まざまざと蘇ってきた。また智郎も ほかは、風の音も波の音もしなかった。 〈オジジ〉にならっておなじように草を抜きながら歩いてい 佐恵子がどこを歩いているのか見当もっかなかったが、彼たのだったが、その姿も、彼女はなっかしく思いだすのだっ 〔 0 女は港からずっと歩きつづけたはずれにある、狭い磯辺を目 指して歩いた。そこは切り立った山の岩肌が崩れた崖のよう そして、これらの追憶がひと連なりとなって彼女の目のま に磯を途切れさせている、島の先端に広がる寂しい場所だっ えを過ぎ去ったことで、どうして佐恵子がこの道を通り、磯 た。港では〈シャンシャン端〉と呼ばれるその磯に、どうし に向かったと自分が分かっているのか、ようやく敬子は気が て佐恵子が居るのか考えもしなかったが、きっとそこに居る ついた。佐恵子は、帰りの遅い智郎を探しに納屋にやって来 に違いないと敬子は疑わなかった。磯に向かう道は、広い原たのだ。彼女はそこに夫が居ないと知るや、晩飯に何か添え つばの真ん中を突っ切るようにして延びている。左手の方に ようと磯に降りて貝でも採っているのだろう。そう佐恵子はん は、小高い山の裾に沿って一面に草むらが茂り、敬子の歩く 思って俳徊しているに違いないーーそう、敬子は自分が考え縫 道からは、反対側の波止場の向こうとおなじくそこも、暗い ていたことを思いだした。

7. 新潮 2016年11月号

ているという、喜ばしい感覚を久しぶりに味わっていた。ま が敬子の代わりに返事をした。 た、宏が生きていた頃の生活をも、懐かしく思いかえしてい 敬子は男たちと清子との会話を聞きながら、はたして自分 たのだったが、それはどこかままごとじみていて、ほんとう がどこに居るのか分からなくなっていた。海を漂う自分も、 の生活ではなかったように思われるのだった。一度目に大陸それをどこか別の場所から眺めている自分も、何か、ぼんや にやられ、二度目には台湾に行き、そこで戦争の終わりまで りとした膜で覆われたもののように感じられ、さらに漠然と 居て、生きて港に帰ってきたとき、宏は三十をまえにしてす目覚めが近づいているということを感じている自分もーー・加 つかり若さを失っていた。戦後すぐに連絡船の船員となって えて、そう感じている自分を意識している自分もーー居て、 働きはじめた彼を朝早くに起こし、弁当を持たせて、夕方に それら全ての自分が、不統一で曖昧だった。しかしそれで 帰ってくるのを待つ。これがその頃の敬子の生活であり、そ も、この夢の時間はいつまでも続くもののように彼女には思 こに子供が加わり、住んでいた借家が狭く、賑やかになって われていた。 いきながら、いつまでもつづくものと思われていたのだっ さっき男たちが座っていた〈・ハンコ〉には、いつのまにか た。しかし、のちのひとりの苦労は、そうした日々にもあっ ケン兄が腰掛けており、敬子に向かって何やらぼそぼそと小 たはずの時間の起伏をまるで平らなものに均してしまい、め声で話しかけていた。だが、ささやくような声であったにも ったに夢にも見ることがなくなっていた。それだけに、彼女かかわらず、ケン兄の口から発せられたことばが「佐恵子姉 は宏と所帯を持ったばかりの自分に帰っていることがはっき さんな、元気しとる ? 」というものであったのを、はっきり りと意識され、喜びもひとしおであった。そしてこのときに と敬子は聞きとった。 なり、ようやく〈・ハンコ〉で話す若者たちが、宏の葬式で墓 その声の調子は、それまで本家の者として智郎と若い頃か 場の穴掘りの役をつとめていた者たちだったことに、彼女は ら親しく接していて、彼が死んだあとにもひとり残された佐 気がついた。 恵子を平生よく心配していたケン兄が、敬子と会うと必ずロ 「ほかの家のかあちゃんは居らんとな ? 」と、ひとりの男が に出す、聞き馴染みのある言い方であった。 「さあ、どげんかねえ、美穂は、佐恵子さんの病院にずっと 「そうたい。トー兄のかあちゃんは泳がんときや ? 」 人っとるち、言いよったばってん : : : だいたいが、長いこと 別の男があいづちを打って敬子に訊いた。〈トー兄〉とは、 寝たきりって、そがんふうに、うちは聞いとるよ。まえから 兄の智郎の港での呼び名だった。 胸やら腰やら、どこもかしこも痛か、痛かち、佐恵子さんの 「佐恵子さんやろ ? 佐恵子さんは泳がれんもんば」と清子言いよったばってん、いまは、ずうっと寝たきりで、もう誰

8. 新潮 2016年11月号

けた〈シュウ〉とは、この島では年長者の女に向けてつかわ ようと、彼らの先に立っていこうとした。そして、夢によく れるものだった。漁師は敬子よりも年上だった。それで彼女あることだが ( 敬子はまたいつのまにか眠っていた ) 、その は、この冗談好きの男が〈シュウ〉と付けて呼んだのは、値ように思ったときには、同時に、すでに店の中に居る自身の 段の張る冷蔵庫を買った自分の思いきりの良さから言ったの姿を、どこか離れたところから見ている自分も彼女は感じて だと思い、さらに村の若い者たちが、夫に先立たれた女に対いた。つぎの瞬間になると、彼女は居間の上がり口に腰掛け して一般的に向ける軽薄な調子をも、その口調から感じとっ ており、外からの弱い光が差しているほかには灯りのない店 て、不意に込みあげてきた恥ずかしさから、そっぽを向い 内をぼんやりと眺めている。電気店の男たちはどこにも居ら ( 0 ず、新品の冷蔵庫もなかった。ただ壁には、見慣れた、商品 敬子の視線の先には、電気店のもうひとりの男が立ってい の並んだ古びた姿の冷蔵庫が置かれていて、それがあまりに た。まだ二十歳をすぎたばかりというようなこの青年は、自 も鮮明であり、しかも、いかにも目の前にして見ているよう 分のすぐ後ろに立っ電信柱に背中をもたせかけて、港に停泊 に感じられたため、敬子は果たして自分が本当に蒲団に人っ ているのか、それともそのように思いこんでいるだけで、じ する貨物船や漁船のあいだを飛ぶを、悠然としたかおっき つは上がり口に腰掛けているのではないかと考えている で眺めていた。投げだしたように外を向いて置かれた足とい こうした意識の混乱のさなかにも、彼女は、やはり同時に、 い、両手の指をズボンのベルトに引っかけるようにして、ゆ また別のことを考えだしていたのであった。 ったりと構えた上半身といい、首から上だけはしつかりと一 それは、自分の暮らしてきた時間の中に、どうしてこうも 定の角度で海を向いているかおといい、その全身で若い者の 暇がないのだろうか、ということだった。店で立ち働く時間 気取りをあらわしている青年は、敬子の視線に答えようとも と、そのほかの、もう一半としての自分の時間というような せずに波止場を見つづけていた。 区切りがないまま、いつも何かに追われるように蒲団に人る 漁師は家に帰り、電気店の男は仕事を再開するように腕を までの時をすごしてきた、それは一体なぜなのだろうか ? ゆっくりと回して手袋をはめた両手を叩いた。「段ボールば ちょうど障子を開けばすぐ店に繋がるこの居間のように、ど 下に噛ましてから、このまま押してこや」と男は、電信柱か ら背中を離した自分の息子に声をかけて店の中に冷蔵庫の部ちらがどちら、という境目が自分の生活にはない、というこ 品を運びこみだした。 とを敬子は、どのように言いあらわして良いのか分からない ふたりの男が動きだしたのを見て、敬子は冷蔵庫がきちん まま、考える。 と店の中にまで入るよう裏口の戸が開けられているか確かめ そもそも自分の生きてきた、この島の港が、そういう場所

9. 新潮 2016年11月号

らなかったが、彼女の足はそこに釘づけられてでもいるよう音は遠いものになった。ただ、音はいつまでも家の上を旋回 に、まるで動かなかった。 していて、執拗に敬子を探しているようだった。 「またこの夢ば見よるとたい」と、彼女はロに出して言っ 戸口を離れて、土間の方に振り向いた敬子は、そこではじ た。そして「この夢」ならば、彼女は一刻も早く走りださな めて暗いはずの家の中が、どこにも灯りがないというのに不 ければならない。だが、これまで何度も彼女は見ていなが 思議と明るいことに気がついた。家のどこからも物音ひとっ ら、そして、おなじ夢の中に居ると毎回理解していながら、 せず、自分ひとりだけが立ちつくし ( 背中に負っていたはず いつも走りだせずに何かを待っているのだった。と、家々の の多津子は居なくなっていた ) 、さっきの辻の上と同様に、 並ぶ、どこかの暗い路地でとっぜん風が吹き渡ったかと思う足が動かなくなっているのを感じた敬子は、ほかに何もでき と、竹藪の葉が擦り合わされ、砂粒が何か堅いものにばら撒ることがなかったため、仕方なく頭を上げた。目を向けた天 かれるような音がした。そのあとには、はっきりとプロペラ井には大きな穴が開いていたのだったが、これも不思議なこ の唸り声に似た音の、どこかからどこかへと掠め去っていく とに、穴の先には何も見えなかった。夜の闇も、昇っている のを敬子は耳にした。これを合図に、彼女は走りだした。背はずの月も、飛行機の影も見えない。何も見えないが、確か に負った多津子を振り落とさないようにしながら、石の階段にそこに穴は開いている。敬子は、一言もことばを発せず を五つほども飛ばして、ほとんど地面に足の裏をつけず、滑に、そしてまた身動きひとっせず、長いあいだ ( あるいは一 るように坂を駆けおりた。そうして走っているあいだも、す瞬であったのかもしれなかったが、それでも敬子には果てし く耳の後ろをプロペラの音は追いかけてきた。彼女は振り向ない時間に思われた ) 見つめつづけていた。 かず、また息もっかずに坂を下っていく。坂を下りきり、家 《そうやった : : : ケン兄はこれば言いよったったい、穴の、 にさえ入れば安全なのだった。しかし、一秒でも遅ければ、 こがん大きかとの開いてしもうとるけん、わざわざ店に寄っ もう幾度もこ てきて、言うてくれとったとたい : 自分と多津子は撃たれて必ず死んでしまう のおなじ夢を見てきて、そのつどすんでのところで家に駆け 敬子は、いつのまにか目ざめていた。またしても、いまし こむことができて助かっているのだったが、やはりその度がた見ていた景色は消え去り、すでにその輪郭さえも失って に、彼女は恐怖に身をこわばらせるのであった。そしていま 思いだすことができなくなっていた。 もそうだった。地面を蹴るようにして走りつづけ、懐かしい 代わりに彼女の意識は、障子で隔てられた店の中に置かれ 家の屋根瓦を見て、最後の力をふりしぼった彼女は、開け放た冷蔵庫のー - ー彼女自身の喉から出る唸り声と似たーーモー たれた戸口に飛びこんだ。戸を閉めると、途端にプロ。ヘラの ターの振動する音に向けられていた。

10. 新潮 2016年11月号

して、その場合には内山の墓前でということになるが、これ に熱い茶ばかりをすすって時を過ごしていた。《歯がゆかね、 は内山家からの注文となるのか、あるいは桐島家として頼む痛うしてロも開かれん》と思いながら、妹の小さなうしろ姿 ことになるのだろうか こういった内容のことを、年寄り を敬子は見ていた。多津子は片手をうしろに回し、その手に らしい念を押すような繰りかえしと、心底から困ったという は数珠が握られていたが、指のあいだからぶら下がる数珠と ような笑い声とを織り交ぜながら多津子は話すのだった。 そこに付けられた房は、彼女が話すのに合わせて尾のように 「それけんな」と、多津子は姪が話をほとんど呑みこんでお揺れていた。揺れる房を見ながら、敬子は《歯がゆかね、思 らず、何も見てもいなければ聞いてもいないことには気づか いだそうとしとっても、いっちょん思いだせん》と胸のうち ずに、すでに言ったことをまた繰りかえすのだった。「ほら、 でつぶやいた。 うちはあれやろが ? ケイコ婆に言うてもよかとばってん、 多津子は、なおくどくどと自分の懸念していることを話し あんたも、今度島に帰るやろ。それけんな、そんときに、お つづけており、その他の者たちはみな黙っているか、家族ど 寺さんにも行くやろうけん訊いてみてほしいとよ : ・ : 謝礼も うし小声で何か短い会話をしていた。部屋の中には明らか 出さなならんし、それから初盆は、どげんして踊りは頼めば に、もう終わって帰りだそうという空気が、そこに居る者た 良いんでしようかってさ : : : 」 ちの目配せや溜め息によってかき混ぜられながら充満してい 美穂と多津子が、座る場所などいくらでもあるというのに た。それなのに、あるいはーーーそうだからこそ、そこに居る 立ち話をしているのを、畳に座る敬子は眺めていた。だが、 誰も立ち上がって帰ろうとする者はなかった。 その目は美穂が身の人らない返事をしながら多津子に向けて 自分は何を言わねばならなかったのか ? たしかそれは吉 いる目つきとおなじで、彼女もやはりふたりを見ているわけ 川の家に関したことであったはずだが、と敬子は考えなが ではなかった。 ら、多津子の話し声を聞くともなしに聞いていた。ひそひそ 多津子が、何か墓や初盆といったことばを言っているのを と話されているために、その声は聞き取りにくかったが、と ぼんやりと聞きながら、彼女は自分も何か美穂に言わなけれきおり多津子が抑揚を付けて発することばが、切れぎれにな ばならないことがあったと考えていた。しかし、何を言うは りながら、かろうじて敬子の耳に人ってきた。 ずだったのか思いだせずにいた。そしてそれは、腫れものが 「墓も : : : ばってんなあ、夏は夏で : : : 佐恵子さんのも一緒 にやるんやろう : 思いだす邪魔をしているのだった。ロの中にできた腫れもの : うちは行かんでも : : : 正月は別やけど、 は、二週間以上も治らないで敬子を悩ませていた。それで彼そう一年のうちに何回も : : : 家もずっと空くわけやもんね 女は、机の上に並んでいた料理にも手をつけず、酒も飲まず 720