レース - みる会図書館


検索対象: クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間
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1. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

オレンジ色の火柱 富士スピ 1 ドウェイのプレスルームはコース脇の建物の二階に常設されている。スタート 前に、大勢のジャ 1 ナリストたちが詰めかけ、モニターとコースを交互に見比べていた。当 しまだともゆき 時、僕とフェラーリ・チ 1 ムの密着取材をしていた月刊自動車雑誌「ティーボ」の嶋田智之 副編集長 ( 当時 / 通称嶋ちゃん ) によれば、ペース・カ 1 が先導をはじめると、プレスル 1 ムではざわざわと声があがっていたらしい 「雨の中のローリング・スタートにしては、。 ヘース・カー速すぎないか」 「このままスタートにするつもりなのかな ? 「やばいんじゃないの」 「ペ 1 ス・カーもレースする気じゃないだろうねえ」 ジョークが飛びかい失笑が漏れる中、モニターには、コ 1 スアウトしてコンクリート壁に クラッシュした白のポルシェが、安全地帯の真ん中で逆向きに止まったシ 1 ンが映し出され る。

2. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

にも当てはまること。マシーンの戦闘力に不足があったり、予選順位が悪くて後方からのス がんば タートであったりしても、ドライバーの頑張りやチームの作戦の立て方次第で、挽回できる チャンスが増えるのである。 前日の午前中の予選は、 GT300 クラス二三台中の一〇位。レイン・タイヤの選択を誤 った、不本意な結果だった。けれども、雨量の多くなった午後の予選では、午前中のタイム を上回ることはなかったが、別の種類のタイヤに履き替えてクラス・トップのタイムを出し ていた。 なによりも僕は雨のレースに自信があった。一年前のここ富士スピードウェイでのレース では、僕たちフェラ 1 リ・ チ 1 ムは雨の中、一七台も抜いてクラス四位に入賞している。僕 らにとって、雨は願ってもないチャンス。そう自分に言い聞かせた。 フェラーリのコクピットの中で、僕は決勝レ 1 スのスタートを待っている。 コース上にレ 1 スクイ 1 ンがプラカ 1 ドボードを持って現れ、頭上にかかげて見せる。 「スタ 1 ト一分前」 全車工ンジン始動。 イグニッションスイッチを入れ、エンジン始動ボタンを押す。フェラーリ製 3 ・ 5 リット ばんかい

3. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

278 オレンジ色の炎の周りをキノコ雲のような黒煙が分厚くおおい、観客席の上段、数十メー トルの高さまで燃え上がる。 想像していたよりもずっと凄まじい炎だった。燃えたのではない。爆発したのだ。 はじ ピンポールが弾けるようにフェラーリは跳ね返り、ヘリコプタ 1 のプロペラのような勢い で左まわりに六回転する。黒煙で縁どられたオレンジ色の炎が、その回転速度についていけ ないかのように渦を巻いて、車体のまわりを取り囲んでいる。 スピンが止まると、前輪を右に切ったままフェラーリは性でコースを斜めに横切ってい く。両側のドア部分から激しい炎が巻き上がっている。反対側の安全地帯までカラカラと走 ってようやく止まった。しかし炎の勢いは止まらない。 五秒、一〇秒、一五秒 : : : 。誰も来ない。フェラーリの屋根がめらめらと燃えてめくれ上 かる 早くツ、助けてやれー 心の中で僕は思わずそう叫んでいた。 レースの統括団体のが発行する「モータースポーツ・イヤ 1 ・ブック」には、「ド ライバーが火災に巻き込まれた場合秒で窒息死する。そのため消火員は秒以内に現場に 到着し、秒以内に消火し、または火災を制御しなければならない」とある。

4. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

当然、レーシング・カートに乗ったりするような、多くのレ 1 シングドライバーが子ども時 代に経験する環境はなかったし、それどころか実際にレ 1 スを見たことさえなかった。普通 に一八歳で免許を取り、知り合いのアマチュア・レ 1 サーの手伝いでサ 1 キットに行くよう になってはじめて、生のレ 1 スを見たのである。 しかし、レースの世界に触れてみて、レースは結果がすぐにはっきりと出るし、自分に向 いていると思った。 かんどう レース界にはコネも資金も何もなかったが、大学を卒業した後は勘当された状態となって 家を出て、数年間、修行をしてプロとなることができ、レーシングドライバーを生業とする ようになった。 あとになって、結婚、そして子どもの誕生をきっかけに、親とはまた会うようになったが、 一五年がたった今でも、父の心の奥底には、親の言うことを聞かなかった、親を裏切った、 決して許さないぞ、という思いか続いているように、僕は感じていた。 けれども、最近になって父の友人から聞いた話では、僕が「日本一のフェラーリ遣いーと マスコミで書かれているのを見つけて、僕を認めるような素振りを見せることがあったらし おやじとし 。その話を聞いて、「親父も歳をとったのかな」と僕は感じていた。 父はレースは嫌いでも気にはなるらしく、ときどきレース場に来ては、僕と顔を合わせな なりわい

5. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

となり、通算四度、ル・マンに出場した。 また、国内レースでも四年間にわたってフェラーリ鬨をドライプした。 六〇〇馬力を超える怪物マシーン、フェラーリは、数々の入賞、優勝を果たし、進歩 が早いレースの世界の中で活躍した。けれども、レース登場から四年目で戦場から去ること たちう になった。ポルシェやマクラレーンなどの最新鋭マシーンに対して、古兵鬨では太刀打ち できなくなったからだ。レースの世界では、勝てないものは去るしかない。 フェラーリで出場できないのは僕にとって寂しいことだったが、背に腹はかえられない。 仕事だからと割りきって、良い条件を提示してくれたチームと契約し、ポルシェでレー スに出場することにした。しかしそのシーズンは、どうも物足りない気持ちだった。 「太田さん、もうフェラーリのこと、見限ったのですか ? 」 「フェラーリはもうダメなのですか ? 」 僕のほうから見限ったのではなく、出場できるフェラーリがなくなったという事情をよく ひんばん 理解できていないフェラーリ・ファンから頻繁に声をかけられる。何通もの手紙ももらった。 フェラ 1 リの熱狂的なファンをティフォッシと呼ぶ。誰もがレ 1 スの舞台にフェラーリがい ないことを寂しがっているようだった。

6. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

を考えていてはレースに勝っことはできないことを、次第に理解するようになった。 レース、特に耐久レースにおいては、「勝っーコッというものがある。 一番簡単に思えるのは自分がトップに出たら最後、抜かれないように後ろから来るクルマ を邪魔し続けることかもしれない。僕も新人の頃はそう考えたこともあった。 しかしこの方法は頭で考えるほどには良い方法ではない。 この方法で耐久レースで好成績 をあげることはむしろまれであることを、経験で知るようになった。 なぜなら、抜かれないようにバックミラ 1 を見ながら走っていると、どうしても意識が後 方に移ってしまい、自分の本来の走りができなくなって、ペースが遅くなってしまうからだ。 するとどんどん後続車が追いついてきて敵の数が増え、しまいにはプロックをすることが困 難になる。 無鉄砲な根性も良くない。クルマに無理を強いて、たとえばエンジンを過回転までまわし きんもっ たり、過大にクルマをスライドさせて走ることも禁物である。クルマは機械である以上、無 理をすれば必ず壊れるからだ。 本当に勝っためには、気持ちを入れ替える必要がある。「抜きたいなら抜いていけ。ただ し俺に追いつけるならな」そのくらいに考えて、一周一周、常にマシーンと自分のベストを 尽くして走ることを心がける。もちろんそれで本当に抜かれてしまうこともあるが、一年を じゃま

7. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

△ GT 選手権。鈴鹿サーキットがデビューレース。フェラーリ F355GT V97 年、最後のレースで優勝。オロフソン選手と並んで表彰台に ippon „$hinpan 0 hinpan

8. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

毎日が充実していて楽しくてたまらなかった。年収も毎年うなぎのばりで、チームからの 契約金やファイトマネー以外にも賞金の分け前や個人スポンサ 1 からの収入もあり、依頼さ れるサイン会、講演会などの副収入もバカにならない金額だった。 下積み時代にはクルマを買う金がなくて、ポンコツのオートバイに工具やレーシングカー の部品をくくりつけてサーキットへ通っていたのに、プロ・ドライバーとなったその頃にな ると、新車を国内外のメーカーから一台ずつ提供してもらえるようになった。この時分の僕 うちょうてん はどこへ行ってもチャホャされて、有頂天になっていた。 そんなときに、突然、危機がやってくる。九一年、 F3000 のレース中の事故で指を骨 きけん 折し、シーズンの後半戦を棄権せざるを得ない状況になった。 あらし さらに悪いことは重なる。バブル経済が崩壊して広告業界に嵐が吹き荒れ、スポンサーか らの広告収入で成り立っていたレース界も打撃を受け、所属チ 1 ムのすべてが解散した。自 動車メーカーのマッダもまさかのレース撤退宣言を出した。 僕はシートをひとっ残らず失うこととなった。日本のレース界ではチーム数が激減してい た。僕の指はまだ完治していない。再就職先のチームを見つけられずに、不安の中で年が明

9. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

夢を乗せて走るプロジェクト 事故の二年前の話である。僕は日本でフェラーリのレ 1 シング・チームを結成しようと考 えた。それには理由がある。 かって、フェラーリにとって、スポーッカー耐久レースはなくてはならないものだった。 スティープ・マックイーンが主演した映画「栄光のル・マンーでも、フェラーリとポルシェ との対決シーンが印象的に描かれている。 しかし現在、フェラーリ本社の方針はフォーミュラカー・レ 1 スの最高峰、に集中し てしまっている。 さび 工 フェラーリがスポーッカ 1 耐久レースに参戦しないことを寂しく思う人は世界中にいた。 の一九九四年からはイタリア本国の公認クラブ、「フェラーリ・クラブ・イタリア」の有志が 本後押ししてフェラーリ鬨をル・マン時間レースに出場させることとなった。僕がはじめ てル・マンに出場した翌年のことだ。 僕は一九九五年から、このイタリア・チームのフェラーリ鬨のステアリングを握ること

10. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

自動車評論家 世の中で起こっていることを見渡してみると、少なくともこれから先数年は、レースだけ で食べていくのは難しいように思えた。しかし、今さらレースから離れた仕事は考えられな これからどうしようか、と考える毎日だった。 そんなときに、古巣のレ 1 シング・チームのオーナーであり、僕の支援者でもあったチェ きこう ッカ 1 モータースの兼子社長に勧められたのは、ライタ 1 として自動車雑誌に試乗記を寄稿 することだった。 「自動車評論家になったらどう ? クルマを運転して評価するという点では、レーシングド ライバーも自動車評論家も同じだろう。スピードが遅い分だけもっと楽だよ、きっと」 の「そうですかねえ : : : 。評価することはできるだろうけど、文章が俺に書けますかね ? 」 本「だいじようぶじゃないか、レースのときみたいに集中すれば何だってできるさ」 兼子さんはいつもノリが明るく、ほどほどにテキトーである。 ずいぶんと乱暴な話ではあるが、そのときの僕は「なるほど」と、簡単に自分を納得させ