僕は目が見えるようになることを楽しみにしていた。看護婦にカレンダーへ印をつけても らって、「目が見えるまであと〇〇日」とカウントダウンしてもらっていた。 それは、事故から二か月が過ぎようとしていた日の朝だった。 病棟では毎朝、回診と包帯交換がある。医師が来るのを患者が目を覚まして待っことを義 いいからいいから、哲ちゃんは寝てて。そ 務づける科もあるらしいが、仲沢先生は、「あ、 のほうが静かでいいから」とからかいながら、僕を起こそうとしなかった。いつも眠って待 っているのが僕の習慣だった。 の その日の朝は違った。仲沢先生は、片平先生と看護婦を引き連れて部屋に入ってくるなり、 「哲ちゃーん、オハョ。あっ、まだ寝てんの ? さあ起きて起きて。今日は寝ている場合じ ゃないんだから。目を抜糸するよ。これで見えるよ」 うおかしな調子の言いまわしでまくし立てると、後ろから医師や看護婦の笑い声があがった。 まぶたの抜糸がはじまった。 な え「よく頑張ったね。今から見えるからね」 いよいよ、待ちに待ったときである。一か月半ぶりに目が見えるのだ。 「何を一番最初に見るのかな」と僕がつぶやくと、仲沢先生は察したのか、抜糸を終えると、
硯はかろうじて生命が維持されていた。 ゆえき 病院に運び込まれると同時に輸液管理と呼吸管理がスタ 1 ト、バイタルサインの安定化が 図られる。その後すぐさま手術室に運び込まれ、待機していた仲沢先生をはじめとする数名 のドクタ 1 の手で緊急手術が行われた。大量に輸血し、壊死した組織の除去、そしてすべて の熱傷部分に皮膚移植を行う。傷という傷をすべておおい、細菌の侵入をできるだけ防ぐの だ。手術が終わったのは深夜の一一時だから、到着から数時間がたった計算になる。 「手術は、一応、成功しました : ・ 仲沢先生からの報告が伝えられると、待合室で待機していた数十名の関係者から拍手が湧 き起こった。みんなが涙を流しながら肩を抱き合い、握手がかわされたそうだ。 しかし、これで僕が「助かった」というわけではなかった。この時点での「成功した」と いう言葉は、単に、最初のハードルを越えて「延命措置ができた」ということを意味するだ けのことだった。
意識戻らず ちょうこう 手術の翌日には麻酔液の量からいえば意識が戻るはずだったが、その兆候はなかった。人 工呼吸器をとろうとしてみると、苦しそうに首をふる。出血がなかなか止まらず、さらに輸 血がくり返されていた。 ードルを越 この日、家族は仲沢先生から、「これからは肺炎や敗血症など、さまざまなハ えていかなければなりません」と、深刻な口調で言われている。 手術から三日目の夕刻には、仲沢先生から「好きな音楽を流したり、家族の声で呼びかけ たりして、できるだけいろいろなことをやってみましよう」という提案があった。 うた 〈。「パパ、早く元気になってね。これから僕とママとリーちゃんで、チューリップの唄を歌い 間ます。いち、にいの、さん、咲いた、咲いた、チューリップの花が : : : 」 一一篤子と息子の佑人と娘の理咲子は、テープレコーダーの前で唄と毎日違ったメッセージを 七 吹き込むことになった。 この日から、僕の耳もとでは一日中、家族や友人の声が流れている。 はいけっしよう
四日目になると、仲沢先生は次のように家族に説明をした。 「このまま目が覚めないと、命は助かったとしても、脳障害が残るかもしれません。念のた め覚悟しておいてください」 燃えたクルマの中は酸素が極度に欠乏する。脳は酸欠状態に弱く、数分で壊れてしまう。 炎と同時に吸い込んだ有毒ガスによって、脳が致命的なダメージを受けた可能性もあり、さ らに一酸化炭素中毒に陥っていたことも考えられる。脳がやられている可能性は否定できな 数々の熱傷症例を診てきた仲沢医師にも、今回は先の予測がまったくつかないのだった。 篤子の頭には「植物状態、という言葉が浮かび、その瞬間「もう二度と哲ちゃんといっし ょに笑えないのか」という思いが頭をよぎる。「そんなの嫌だ。そんなはずは絶対にない と、必死になって否定しようとしていた。 翌日の早朝、自宅で子どもを送り出す準備をしていた篤子に、病院から電話があった。 「先生からお話があります。できるだけ早く来てください 篤子は、「何かあったのですか ? 」とたずねようとしたのだが、受け入れ難い現実を知ら あわ されることが恐ろしくて、聞き返すことができず、慌てふためいて病院に駆けつけている。 死んでしまうのか、と泣きながらクルマを運転した。
搬送 なかざわひろあき 東京女子医大病院形成外科講師、仲沢弘明医師は、事故の翌日にあたる五月四日の朝、通 勤途中の電車の中で東京中日スポーツ ( トーチュウ ) の記事に目をとめた。 オレンジ色の炎の写真が全面にわたって大きく掲載された第一面の記事で、「炎上フェラ ーリ」「太田重体」「全身やけど」「多重クラッシューの四つの見出しが目を引いたらしい 仲沢先生は中学生の頃、当時の花形レ 1 サーであり後にレース中の火災事故で焼死した かぎとひろし 「風戸裕ーのサインをもらったことがあり、関心をもって僕の記事を読んだそうだ。 「太田哲也ーという名に目をとめたときに、「根拠はなかったけれど、このレーサーはうち の病院に来る。そんな気がした」という。新聞で読んだ熱傷の酷さと、自分の病院に対する 間自負が、それを予感させたのかもしれない。 一一その頃、御殿場市内の病院では絶望的な会話がかわされていた。 「残念ながら医学には奇跡という言葉はありません 医師のその言葉を聞いたチーム関係者は、熱傷の専門医がいる病院への搬送を決意し、近
€隣のいくつかの病院と交渉していた。しかし衰弱した体は搬送中に死亡する危険性も高く、 そうなれば責任問題も発生する。病院同士の話し合いの段階で見送られていた。 フェラーリ・クラブの理事、笹本さんは「ティーボ」誌の山崎編集長と話し合い、最後の たく 望みを託して東京の病院への搬送を決意する。従兄妹のご主人である東京女子医大病院外科 助教授の淵之上医師と連絡をとり、同病院への受け入れを強く要請した。熱傷は同病院の形 成外科が優秀だと聞いていたからだ。 おりもはじめ 一方、僕の父は知人の東大病院の元教授、折茂肇先生に相談する。別のルートでどこが良 いのか調べてもらって、行きついた先は同じく東京女子医大病院形成外科だった。 東京女子医大病院の仲沢先生の勘は当たっていた。事故から三日目の五月六日、形成外科 の中に設けられたやけどセンターから連絡が入る。カルテには新聞で見た「太田哲也ーの名 前があって、運命的なものを感じたという。 受け入れ準備をすませると、仲沢先生は搬送元の御殿場のフジ虎ノ門病院に電話をかけて きとく いる。重体危篤状態の患者を送り出すほうの病院では、搬送中の危険性を心配してなかなか 踏み出せないだろうと思ったからだ。 「僭越ながら、こちらの病院は熱傷に関する最新設備が整っておりますので、これからはこ ちらで太田選手を預からせて頂きます。どうもありがとうございました。至急、搬送の手配 せんえっ ふちのうえ すいじゃく
痛みを減らす方法 痛みを次第にコントロールできるようになった。 手のリハビリは事故から一か月した頃からはじまった。左手は右手と比べれば怪我の程度 は軽いものの、それでも握力は以前の一〇分の一、たった五キロしかなかった。握ろうとす こうしゆく ると、ヤケドで拘縮した手の甲の皮膚が突っ張って途中で止まってしまうのだ。 作業療法士の資格を取ってまだ間もない一一六歳の木下先生は、僕が痛がるので、皮膚が裂 けないようにとおそるおそる曲げていた。 「痛くないですか ? だいじようぶかしら ? 」 所その様子を見た仲沢先生は怒った口調で、「皮膚なんか破れてもゝ しいよ。また何度でも植 皮するから。それよりもこのまま動かさないでひと月もしたら、将来動かなくなるよ。左手 るは動かせるようになるはずなんだから。そのためにも今動かさなきやダメなんだ」と言って、 僕の左手を強く握り込んだ。 「痛てててて」
212 教授の隣に僕が座ると、低い声で教授がしゃべりはじめた。 「太田さん、君のことは仲沢からよく聞いていますよ。ずいぶんとアグレッシプだってね」 皮肉かと思ったが、そうではないようだった。 「私は今までにいろいろな熱傷患者を診てきましたが、君のように治そうとする意志が強い 患者さんは珍しい。ャケドは意欲が薄れてしまう人が多いからね 「はあ : 「あなたのケースは、以前に私がテキサスの病院にいたときに診た、空軍のパイロットとよ く似ている」 「彼はエリート将校で、新鋭機のテスト中にアクシデントに遭って、燃えながらパラシュー トで降下してきた。全身重症熱傷だったが、治そうとする意志、それはすごかったよ 「その人は復帰したんですか」 「復帰した。 : : : 現役にではなく教官としてだけどね」 それから教授は、英文のコピーを僕に見せながら、今後の僕の診療方針について詳しく説 明をはじめた。文献は「再建」手術法に関するもので、オデコを切り取って加工し、鼻が造
156 皮膚がビリッと割れ、血が噴き出す。 こし 「あと一週間のうちに拳を作れるようにしないと。もともとどうしようか悩んでいたんだか ら。レーサーに手がなくちゃ困ると思ったから切らなかったけど、使う気がないなら切るよ。 こっちはそのほうが、治療しなくていいから簡単なんだから」 ちょうはっ はつぶん 彼の挑発に僕は発奮した。手の甲はズタズタに裂けたものの、その日まる一日かけて、何 とか握り拳を作れるようにしてやった。 回診のときに「哲ちゃん、どうした ? 」と心配そうに様子を見にきた仲沢先生に、僕は握 れるようになった拳を自慢げにかかげて見せた。先生は「おおっ」と驚き、「すごいすご い」と言って拍手をしてくれた。 。。し力なかった。一か月たっても皮膚がっ ダメージが大きい右手は、左手のように簡単こよゝ ) かなくて、赤い肉の中に白や黄色の骨や腱が見えている。その状態から、リハビリははじま っている。 木下先生が僕の指を押さえて動かそうとすると、ズルッと残っていた皮膚が破けて血がは じけ飛ぶ。 「あっ、ごめんなさい」 そんなとき、彼女は泣きたい気持ちだったという。
119 凄まじい痛み 翌日は、車椅子を押してもらって熱傷ュニットの部屋の中をぐるぐる見てまわった。部屋 は思っていたよりも大きくて、べッドが全部で四つもあり、でも三つは空で、つまり僕以外 の患者は誰もいない。 部屋の中央にある砂製のべッドは、仲沢先生が「太田さんは一〇〇〇万円のべッドで寝て ビップ いたのだから、最上級のだよ、とジョークを言っていたものだ。数日前まで僕はそこ で寝ていたはずなのに、記憶はなかった。 次の日は熱傷ュニットの外に出ることができた。リハビリをはじめてから、一週間が過ぎ た日のことだ。 車椅子に乗り込む際、若い看護婦の北川さんが言った。京都出身でゆっくりとした話し方 が特徴的である。 「太田さあん、だあいぶ、車椅子に座っていられるようになりましたねえ」 今までは、べッドから起き上がるだけで息をゼイゼイと切らし、座ってからも体がくずれ てしまってなかなか支えられなかったのだ。ちょっと褒められただけのことなのだけれど、 まるでレースで表彰台に上がったときのような気分になった。 車椅子を押してもらって病棟の廊下を通り待合室に着くと、ものすごい数の大きな花束が 飾ってあった。 から