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検索対象: クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間
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1. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

あたた 登るにつれ、次第に暖かさを感じるようになった。それは不思議に確かな感覚で、また息 苦しいような感じもあった。体温が戻ってきたようでもあった。 黒いマントの男は追ってはこなかった。ただ、丘を登りきるところで、後ろから、彼の、 きび 穏やかだけど厳しい声が、低いけれども強い調子ではっきりと聞こえてきた。 「生きることは辛いことだよ 辺りはまた暗闇に戻った。 つら

2. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

えているんだろうけれど、そのときの僕にはそう見えなかった から、すべての人は苦し みを抱えていると言われても、何を言ってるんだいといじけていた。 自分を変えることが必要だと気づいたのは、その後、さまざまな障害を抱えた人たちに出 がけ 会ったことがきっかけだった。出会った時期も良かったのかもしれない。彼らが絶望の崖っ ぶちに立ち、悩み、苦しみ、しかしそこから出口を見出そうともがいている姿。それが「答 え」を見つけるヒントになった。「理論」ではない。「実践ーだったのである。 説教がましいところはない。自分のコンプレックスを他人には話したくはないだろうに、 自然な感じで話している。それまで聞く耳を持たなかった僕の体に、彼らの声が染み込んで きた。運命を共有する者同士の連帯感とある種の「愛ーを僕は感じた。 もちろん、人それぞれ顔が違うように、価値観も美意識もそれぞれ違うから、彼らの見つ け出した「答え」が、僕にそのままの形でピタリとはあてはまりはしなかったが、彼らが自 分なりの「生きる意味あるいは存在意義 [ を見つけ出して前向きに生きていることを、僕は と、ム虫く はっきりと感じた。そのとき、僕の中にはじめて、「俺にもできるかもしれない 勇気が湧き上がってきたのだった。それがとても大きなことだった。 「モーニングワーク」という言葉がある。後で知ったことだけど、精神分析の創始者フロイ

3. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

らないほど、状況は悪いのだと思った。 しばらくすると、僕が「川本女史」とあだ名をつけていた精神科の先生がやってきた。彼 女の顔を見るのははじめてだった。声が落ち着いていたので、年配の人だろうと思っていた が、実際は僕と同年代くらいで、銀縁のめがねをかけていた。 「ご機嫌いかが。顔、見たんだって ? どう思った ? 」 ひょうひょう 彼女はいつものように飄々とした調子を装っていたが、僕の耳にはかえって不自然に聞こ えた。 の わずらわしくて僕がそれきり答えないと、彼女は、僕は暗算が嫌いだというのによく診察 つのときに出す、お得意の計算問題を出した。 「一〇〇引く九五は ? 」 いつもよりも簡単な問題で答えはもちろんわかったし、何とか僕の気を晴らそうとしてい ることも感じられたが、僕は答える気にならなくて返事をしなかった。気まずい空気が病室 な えの中に充満している。しばらくしてから僕のほうからロを開いた。 「先生、俺の顔見てどう思う」 せりふ 彼女はまるで準備していた台詞をしゃべるような感じで、一気に話しはじめた。

4. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

桜井婦長がやってきた。 「太田さん、入っていい ? 僕のべッド脇まで来て、もう一度「太田さん」と声をかけてから僕の手を握った。しばら くしてから、「辛いことだらけねえ」とつぶやくように僕に言って、また黙った。 ふだんから、婦長は特別の用事があるわけではないのに、毎日、僕のところに来て、僕の 手を握ってくれていた。外来と病棟の婦長を兼務していて、食事をとる時間もないほどに忙 しいのだけれど、僕の長々とした愚痴を、「うんうん、そうよねえ」といつも聞いてくれて いた。指示的なことはまったく言わない。マザー・テレサみたいに、僕の辛さを受け止めて いっしょに悲しんでくれようとしている感じだった。僕はこの婦長の前では、母親を前にし た幼児のように素直だった。 所この日も、同じだった。 熱傷浴室でみんながよってたかって自分に酷いことをしてるんだとか、ここは地獄だから べ る家に帰りたいとか、弱音を吐いていたらしい 戻 婦長は優しい口調で言った。 「辛いわよねえ : : : 。何か病院とか治療とかに要望があるかしら ? 言ってみて」

5. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

た。バラやヘビの姿が彫刻された装飾的な杖。仕込み杖に仕込まれるのは刀だけとは限らな い。ピルケ 1 スだったり、ナイフとフォークだったり、小さなワイングラスとポトルがビル トインされたものまである。杖にも実にいろいろな種類があって、収集の対象とさえなって いることを、僕ははじめて知った。 店のオーナーは足が不自由なご婦人で、ぐるぐる包帯に顔面マスク姿の僕にも驚いた様子 はなく、普通な感じだった。受傷以来はじめての買い物でびくびくしている僕にとっては、 理想的な接し方をしてくれた。 僕はカタチから入るタイプである。 たとえばジョギングをはじめようと思い立っと、専用のジョギングシュ 1 ズとトレーニン グスーツが欲しくなる。「その辺にある運動靴でいいじゃないか」と言われても、それでは 長続きがしない。レースのとき、ヘルメットをかぶると自動的に集中力が高まるのと同じ仕 組みで、それなりのモノが与えられると、僕のやる気は急激に立ち上がる傾向がある。 そんな僕の「習性 , を熟知している篤子は、引きこもろうとする僕に「新しい道具」を与 えようとしたのだった。 僕は真っ赤な杖を選んだ。フェラーリのイメージとダブったからだ。 帰宅するとすぐに、赤い杖のグリップの先端に、フェラーリの黄色い「跳ね馬」のマーク

6. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

110 地獄の熱傷浴 突発的な事故に遭い、絶体絶命と思われるような状況の中で、奇跡的に生き残った人たち に取材をしている知人のルボライターから聞いたことがある。 あせ ビルの建築現場から誤って落下した人は、転落中、恐怖も焦りもなく、自分の置かれた状 況を客観的に見つめながら、「骨折するかもしれない、と考え、「救急車で運ばれたら、仕事 の後に会う約束をしていた友人に連絡するにはどうしたらよいか」と心配していたらしい バイク事故でガソリンを浴びて火だるまになった若い男性は、燃えているズボンを脱ぎな がら、「あの人、死んじゃう」と叫ぶ周囲の反応に対して、恥ずかしさを感じたそうだ。 そ、つぐ、フ 突発的な出来事に遭遇して死に直面した当事者は、それが第三者から見たらどんなに大変 な状態であっても、そのときは「痛み」や「恐怖」を感じていない。少なくとも、彼が取材 したすべての「該当者」はそうだったらしい 僕も同じだった。 事故の瞬間は自分が死ぬとは思っていない。ただ衝突の衝撃を和らげることだけを考えて やわ

7. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

それまでにも、僕は似た感情を持っことがあった。たとえば、大勢の人から「頑張ってく ださい。太田さんならできます」という励ましのメッセージをもらったりすると、もちろん そうした言葉が僕を励ますための温かい気持ちから出た言葉であることはわかっているし、 声をかけてくれたこと自体はとてもうれしいのだが、気持ちが重くもなってくる。もう頑張 っているよ。これ以上、どう頑張ればいいんだ ? あるいは、多くの障害者を取材しているルボライターの人からは、「障害者はみんな克服 しているんだよ。事故で重度障害になった人もいるのだから、太田さんも受け入れたら」と 助言を受けたが、その言葉も僕を勇気づけることにはならなかった。そのときの僕の耳には、 「いつまでめそめそ悩んでいるのだ。家族だって周りだって、疲れてしまうよ」と聞こえて 殻しまっている。 ミその後になって、なんという卑屈で情けない男なのだ、と自分に対して嫌気がさしてくる 力のだった。 喰同じように、人生論の本を読んでもきれいごとを言われているように感じてしまっていた。 この時点では、 O さんの「太田さん、あんただって必ずできる」という言葉も同じだった。 僕 そもそもいったい、 O さんには悩みはないのだろうか ? 今までに悩んでこなかったのだ ろうか ? そうだとしたらずいぶんと幸せな人だ。そう思っていた。

8. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

うことにもなった。それは日常の中にいくらでも転がっていた。 都心で、梅の木で羽を休めるウグイスを見つけたり、高い木のこずえのあたりでカラスの ひなが育っていることに気づいたりすると、生命の偉大さに感動してしまう。通りかかった こだち 家の窓ガラスに木立が映っている。なんとなく芸術写真のような構図だな、と感じたりする。 腕の包帯がオレンジ色に染まっているのに気づいて見上げると、太陽が沈もうとしている。 なんて真っ赤なタ日なんだろうと感慨にひたる。 事故の前までは気づかなかったが、そんな小さなディテールも、生きていることの喜びを 与えてくれるものなのだった。

9. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

208 どこにも飛び降りられる「隙間」はない。病院の屋上は患者が飛び降りることを防止する ために、徹底的な対策がとられていたのである。 しりもち 体中の力が抜けて両膝が折れ、つぶれたように尻餅をついた。誰かに心の中を見透かされ たような感じがしてきて、「ああああーっ」と、うめき声が喉の奥底から漏れた。 金網はところどころ赤茶色に錆びて、その向こう側の足もとには、どぶねずみ色の小さな ビルがガラクタのように乱立している。鉛色の東京ド 1 ムの屋根が、夕日を反射してぎらり と鈍く光った。 コンクリートの上を吹く風がじっとりと暑かった。 どこからともなく、あの声が聞こえてきた。 「生きることは辛いことだよ」

10. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

死神に勝った 意識が戻って一週間が過ぎた頃から、頭の中がはっきりとしてきた。自分の名前や年齢も わかったし、過去の記憶もそれなりに確かだった。事故から後の出来事を、篤子から詳しく 説明してもらった。次の日には忘れてしまうので、また同じ話をくり返してもらって、徐々 に事の次第がのみ込めるようになってきた。 あの黒いマントの男の幻覚が、やけになまなましく記憶の中にあった。 しんこう もともと僕は信仰を持たないし、レーシングドライバーという職業を長く続けてきたせい もあるのだろうが、宗教的な奇跡とかはよくわからなくて、どちらかというと現実世界だけ みのことしか信じないタイプの人間だ。 しかし、この奇異なる超自然現象に対しては、なぜかそれほどばかばかしいと感じること じ まなく、実に素直に受け入れていた。 マントの男の言葉を思い出す。 「君は濃い人生を送った」 くわ