€隣のいくつかの病院と交渉していた。しかし衰弱した体は搬送中に死亡する危険性も高く、 そうなれば責任問題も発生する。病院同士の話し合いの段階で見送られていた。 フェラーリ・クラブの理事、笹本さんは「ティーボ」誌の山崎編集長と話し合い、最後の たく 望みを託して東京の病院への搬送を決意する。従兄妹のご主人である東京女子医大病院外科 助教授の淵之上医師と連絡をとり、同病院への受け入れを強く要請した。熱傷は同病院の形 成外科が優秀だと聞いていたからだ。 おりもはじめ 一方、僕の父は知人の東大病院の元教授、折茂肇先生に相談する。別のルートでどこが良 いのか調べてもらって、行きついた先は同じく東京女子医大病院形成外科だった。 東京女子医大病院の仲沢先生の勘は当たっていた。事故から三日目の五月六日、形成外科 の中に設けられたやけどセンターから連絡が入る。カルテには新聞で見た「太田哲也ーの名 前があって、運命的なものを感じたという。 受け入れ準備をすませると、仲沢先生は搬送元の御殿場のフジ虎ノ門病院に電話をかけて きとく いる。重体危篤状態の患者を送り出すほうの病院では、搬送中の危険性を心配してなかなか 踏み出せないだろうと思ったからだ。 「僭越ながら、こちらの病院は熱傷に関する最新設備が整っておりますので、これからはこ ちらで太田選手を預からせて頂きます。どうもありがとうございました。至急、搬送の手配 せんえっ ふちのうえ すいじゃく
搬送 なかざわひろあき 東京女子医大病院形成外科講師、仲沢弘明医師は、事故の翌日にあたる五月四日の朝、通 勤途中の電車の中で東京中日スポーツ ( トーチュウ ) の記事に目をとめた。 オレンジ色の炎の写真が全面にわたって大きく掲載された第一面の記事で、「炎上フェラ ーリ」「太田重体」「全身やけど」「多重クラッシューの四つの見出しが目を引いたらしい 仲沢先生は中学生の頃、当時の花形レ 1 サーであり後にレース中の火災事故で焼死した かぎとひろし 「風戸裕ーのサインをもらったことがあり、関心をもって僕の記事を読んだそうだ。 「太田哲也ーという名に目をとめたときに、「根拠はなかったけれど、このレーサーはうち の病院に来る。そんな気がした」という。新聞で読んだ熱傷の酷さと、自分の病院に対する 間自負が、それを予感させたのかもしれない。 一一その頃、御殿場市内の病院では絶望的な会話がかわされていた。 「残念ながら医学には奇跡という言葉はありません 医師のその言葉を聞いたチーム関係者は、熱傷の専門医がいる病院への搬送を決意し、近
に対して、病院関係者はやるせなさや、せつなさの感情を持つのだなあ、と感じた。 この病院の中には、自分だけではなくほかにも絶望的な思いを持った人たちがいる。驚く べきことだが、こんなあたり前のことに、僕は入院して以来はじめて気がついたのである。 みきひろ 野崎幹弘教授に会ったのは、この頃のことだ。 正確な言い方をすれば、後で聞いた話だが、教授は以前、熱傷ュニットで僕に何度も会っ ていたそうだ。「死神なんぞ、殴り倒してしまえ ! ーと檄を飛ばしていたらしいが、僕はま ったく覚えていなかった。彼は東京女子医大病院形成外科のポスであり、日本の形成外科医 かみわぎ 療の権威でもある。「メスを握った腕は神業ーと、彼を慕う医師たちから噂は聞いていた。 主治医の片平先生に呼ばれてルームに入室すると、部屋の中央に置かれた大きな机 っせいに視線がこちらを向く。 に白衣姿の十数人のドクタ 1 が並んでいた。い 流「太田さん、こちらが野崎教授です」 ン紹介された人物はネクタイに白衣姿の五〇歳くらいの壮年医師で、整った顔立ちをしてい たが、金縁めがねの奥の鋭い目が精悍な印象だった。野崎教授の隣には、彼よりも年上に見 ア える助教授、そして講師の仲沢先生が座っている。ヤクザの組事務所のように、どうやら偉 い順に並んでいるようであった。 せいかん した
経過は、はじめの一か月は順調だったのだが、それを過ぎるあたりから、やはり かのう の影響が出てきて、炎症が起こって化膿しはじめた。クラゲの頭には、二センチ大の赤いふ たつの傷穴がばっかりと開き、そこからピンク色の風船の表面が見えている。今までで最上 級の気味悪さになった。 。冫冫し力ない。まだ充分にオデコが膨れていないからだ。 しかし、ここで注入を止めるわナこよゝゝ 注入作業はそのまま続けられる。肉の裏側と風船の間に二〇センチ長のチュープを差し込ま れ、洗浄されることが日課に加わった。 傷穴は毎日大きくなっていく。もしもこのまま炎症が進んでオデコの肉が腐ってしまった ら、一生、鼻はできない。残り、あとひと月。不安な毎日だった。 きゅう の あと一週間すれば予定の注入量が終わるというときになって、僕は三九度の発熱をして急 レきょ 遽入院した。洗浄と抗生剤の投与をひんばんにくり返しながら、運命の日がやってきた。い 喰よいよ顔の再建がはじまる。 手術は野崎教授をメインの執刀医として、女子医大形成外科のすべての医局員と各病院に 送り込まれていた医師たちが呼び戻され、総勢一五名の医師団で入れかわり立ちかわり執刀 を行うこととなった。
いた。御殿場の病院で自分の死を避けられないものとして覚悟し、篤子やチーム関係者に別 れを告げたときでさえ、少し息苦しくはあったが、なぜか痛みをほとんど感じなかった。 しかし、東京女子医大病院で救命手術を受け、意識が戻ってからは違っている。頭の中が はっきりとしてくるにしたがって、痛みを強く感じはじめている。体中に常に刺すような痛 みが走り、とりわけ毎日行われる包帯交換は激しい痛みを伴った。 ただ包帯を解いて患部に当てられたガーゼを剥がしてつけ替えるだけなのに、そんなこと が強烈に痛い。見方を変えれば、痛みが戻ってきたのは生き返ったという証なのかもしれな とにかく、一日中、痛みに対して意識が働いているから、それ以外のことにはまったく関 心がなかった。怪我の程度や顔や容姿について考えることもないし、まして病院の外のこと や将来のことについて思い悩むこともない。すべての神経が痛みに向いていて、体のエネル みギーがまるごと吸い取られているかのようだった。 すさ とりわけ、「熱傷浴」が凄まじかった。 じ 熱傷浴とは、簡単にいえば熱傷患者を風呂に入れることなのだが、これが強烈だ。 前にも書いたが、僕の体は、その四〇パーセント ( 前の病院での診断は六〇パ 1 セントだ ったが、女子医大では四〇パーセントと診断されている ) の範囲が、「三度ーの深さまで焼
本当にありがとうございました。皆さんが僕のことを悲しんだり祈ってくださった分だけ、 僕の背負った荷物が軽くなって、それだけ回復のスピードを上げることができたのだと思い ます。 それから、この本を書くにあたって機会を作って頂き、何度もめげそうになる僕に、「太 たての えみ 田さんなら書ける」と励ましてくれた幻冬舎の舘野晴彦さん、鈴木恵美さん、それから文庫 化で関わってくれた木原いづみさん。大変、お世話になりました。それから、テレビ朝日の たけし 佐々木毅ディレクターと「ティーボ」の嶋ちゃん ( 嶋田智之編集長 ) には、執筆にあたって 友人としての立場から貴重なアドバイスを頂きました。 そして、そして、家族と妻の篤子へ、ありがとう。 すべての人たちに感謝します。 て え 僕は今、つくづくと人間はひとりでは生きていけないもので、今の自分は生かされている んだって気がしてきている。ある人は「太田さんの頑張りだよーと言ってくれて、それはそ れでうれしいのだけれど、自分ではどうしてもそんな気がしてこない。奇跡を事実に変えた あ 東京女子医大病院の先生方をはじめとする医学のカーーーそれもたくさんの人たちによる努力 の結晶であるーーや、顔は合わせたことがなくても、この地球上に住んでいるありとあらゆ
102 目覚め 東京女子医大病院に僕の体が搬送され、救命手術を受けてから一週間が過ぎた五月一二日 の朝。僕の意識は徐々に徐々に戻りはじめていた。事故から一〇日目のことである。 暗闇の中で、同じ音が何度もくり返されていた。 「ワ 1 ツ、ワーツ 何の音だろう。夢ではない。しばらく聞いていて人の声だと気づいたが、その中年男性の 声には聞き覚えはなかった。 意識が戻ってから二日目。「オータサンオータサン」。誰かが呼んでいるのだと気づいたが、 おっくう 目を覚ますのが億劫だったし、どうでもいいような気がしてきて、このまま目を閉じていよ うと思った。 三日目。「オータサンオータサン」。また同じ音がくり返されている。耳に残った言葉の意 味を考える。しばらくして「太田さん」と自分の名前を呼んでいるのだと気がついた。
258 僕の中で、だんだん喜びが湧いてきた。 再建の過程の中で、一番大掛かりでリスクが高かった鼻がついたのである。呼吸も前より 楽になった。見てくれだけでなく、機能としても鼻は重要だったのである。 大きな進歩だった。半信半疑だった鼻の再建ができたことで、将来に大きな希望を持っこ とができた。これから手術を重ねて、まぶたと眉と唇を治していき、鼻の形も修正していく。 何はともあれ、僕が「人間らしさ」に向けて大きく一歩を踏み出したことは間違いなかった。 一九〇〇年以前では、体表面積二〇パーセント程度の小さなャケドでも、生き残る人はわ ずかであったが、今日では、死亡率は五〇パ 1 セントにまで低下したという (Burke; 1990 ) 。 医学が進歩して生存率が上がることは、逆に言えば障害者が増えることにもつながる。大 きなダメージを体や顔に負った者は、昔だったら全部死んでしまったが、現代では生きてい る。以前に片平先生が言っていた。「鼻がなくて死ぬことはないですけど、鼻がなくなるほ どャケドをした人が生きていることは珍しいーと。僕のように酷い熱傷を負った者は、医師 の言葉を借りれば、一〇年前なら確実にこの世には生存していなかったのだ。 そういえば事故から三日目、最後の望みを託して従兄妹の医師夫婦に東京女子医大への搬
のステッカーを貼った。その「フェラーリの杖」のできばえをしげしげと眺め、手をふれて みた。今まで病院から借りていた灰色のプラスティックの松葉杖と見比べて、うれしくなっ た。ふりまわしてみると、魔法の剣でも手にしたかのような気分になった。 もくろみ 篤子の目論見どおり、案の定、新しい杖を僕は使ってみたくなった。事故から四か月がた ったこの日、僕ははじめて門の外に出て、道路を歩いてみた。「犬神家の助清君」からの脱 却である。 一度経験してしまうと、二度目からは抵抗感が薄くなる。この頃から、僕は女子医大の提 携病院である自宅近くの世田谷区内の菊池外科にもリハビリに通うようになっていた。それ まではクルマで送り迎えをしてもらっていたのだが、杖を買い与えられてからは歩いてみた くなった。 途中でクルマから降ろしてもらい、ひとりで、毎日、少しずつ歩く歩数を伸ばしていった。 流医師から使用を指示されていた足の補助装具もはずしてしまって歩きはじめると、歩く「勘ー ンが戻ってくるような気がした。 マひと月ほどすると、二駅分ほどの距離を、杖と自分の足だけで歩けるようになった。治療 だけでなく、歩こうとする意志もリハビリに重要であることを実感した。 また、外に出て散歩をするようになると、生きている喜びを感じさせてくれるものに出会
をお願い致します」 時間がたてばたつほど、救える可能性は少なくなっていく。このような行為は異例だそう ちゅうちょ だが、躊躇している時間はなかった。仲沢先生の頭の中では「風戸裕」と「太田哲也」のイ と思っていたそうだ。 メージがダブり、「何とかこの手で救い出したい この日はゴ 1 ルデンウィーク明けで、新宿区の東京女子医大病院まで三時間程度が予想さ れていたが、東名高速と首都高速はいつもの渋滞がうそのようにがらがらの状態だった。付 き添いを自ら申し出てくれたフジ虎ノ門病院の副院長と僕の体を乗せた救急車は、わずか一 時間で到着した。七二時間まであと数時間を残すときであった。 僕の両手は野球のグロープのように腫れあがり、包帯にはべっとりと血がにじんでいる。 ふく 唇はまるでフランクフルトソーセージのように膨れあがって変形し、隙間から気管に挿管さ みずぶく 命れたチュープが見えている。大玉のスイカのように水脹れした頭を看護婦が支えると、「指 間が頭の中にズブズプと埋もれた」らしい。体中のありとあらゆる末端部分が膨れあがり、熱 二傷患者を見慣れたはずの看護婦でさえ「まるでプロレスラーのように大きくてびつくりし 七 た」と述べるほど肥大している。末期的症状が現れていたのだ。 自発呼吸ができなくなり、人工呼吸器のカで肺に送り込まれる酸素を吸うことで、僕の体