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検索対象: クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間
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1. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

€隣のいくつかの病院と交渉していた。しかし衰弱した体は搬送中に死亡する危険性も高く、 そうなれば責任問題も発生する。病院同士の話し合いの段階で見送られていた。 フェラーリ・クラブの理事、笹本さんは「ティーボ」誌の山崎編集長と話し合い、最後の たく 望みを託して東京の病院への搬送を決意する。従兄妹のご主人である東京女子医大病院外科 助教授の淵之上医師と連絡をとり、同病院への受け入れを強く要請した。熱傷は同病院の形 成外科が優秀だと聞いていたからだ。 おりもはじめ 一方、僕の父は知人の東大病院の元教授、折茂肇先生に相談する。別のルートでどこが良 いのか調べてもらって、行きついた先は同じく東京女子医大病院形成外科だった。 東京女子医大病院の仲沢先生の勘は当たっていた。事故から三日目の五月六日、形成外科 の中に設けられたやけどセンターから連絡が入る。カルテには新聞で見た「太田哲也ーの名 前があって、運命的なものを感じたという。 受け入れ準備をすませると、仲沢先生は搬送元の御殿場のフジ虎ノ門病院に電話をかけて きとく いる。重体危篤状態の患者を送り出すほうの病院では、搬送中の危険性を心配してなかなか 踏み出せないだろうと思ったからだ。 「僭越ながら、こちらの病院は熱傷に関する最新設備が整っておりますので、これからはこ ちらで太田選手を預からせて頂きます。どうもありがとうございました。至急、搬送の手配 せんえっ ふちのうえ すいじゃく

2. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

「最近、太田は以前と人格が違ってきていて、怒ったり弱音を吐いたり変化が激しいんです。 彼の辛さをどういうふうに受け止めていいのかわからなくて : : : 」 でも、頑張れとは言わないほうがいいかもね。もう頑張っていて 「うーん、そうねえ : : : 限界なのよ。何しろャケドは本当に辛いから、ひいひい泣いてしまう男の人もいるくらいだ し。太田さんは怒るだけまだいいほうだわ。少しずつ良くなってくると思うけど」 。それと、顔は治ってきたかと聞かれたんですよね」 「そうですか : 「聞いてくるかもしれないけれど、今の段階ではそれほど容姿のことには興味を持ってない と思うの。ふだんは包帯が巻いてあるから素顔は見えないし。とにかく今は、体の痛みに気 持ちが集中しているから、それどころじゃないはずだと思う。話すことのほとんどは、痛み に関する文句ばかりでしよう。私にはそうだわ」 「そうですね しと思うけど。できるだけ顔に関する話題 み「聞かれたら、これから治るって答えておけばい ) は避けて。今の段階でやる気をなくさせるようなことは、言う必要はないと思うわ。鏡は見 じ ま せないようにしましよう」 凄

3. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

題平静さを装いながら、片平先生に尋ねてみる。 「先生、結構、体、すごいんですね。顔も見ていいですか ? 」 「うーん・ : 、今は、やめておいたほうが、いいかもしれないですね。どうしても太田さん が見たいのだったら、私としては特に止める理由はないですけれど : : : 」 しばらくしてからつけ加えた。 「でも、やつばり見なくていいでしよう、今の段階では。これから先、いつだって見られる ことはあると思うし」 見せたくなさそうな素振りに、かえって僕の不安と好奇心は駆り立てられた。 病室に戻ると、篤子が洗濯から戻ってきていた。 僕はべッドの上に座って、どうしようかと考えた。包帯を巻くまでの間、今なら顔を見ら れる。見ることができるのに怖いから見ないなんて、そんな弱虫でどうするのだ。子どもで さえ僕に会っているというのに。しつかりと現実を見て、自分の置かれた状況を正確に把握 して、次の対策を早めに講じることが今の僕にとって大事なんじゃないか。そう自分に言い 聞かせた。 はあく

4. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

レ 1 シングドライバーのプライド 搬送先の病院に運び込まれてから二時間が過ぎる頃、僕は集中治療室のべッドの上で、混 だく かくせい 濁した意識の中から徐々に徐々に覚醒していた。 何か気がかりな夢を見ていたような気がした。目を覚ますと、視界は灰色一色だった。何 かぶ かが目に被せられているようで、何も見えない。 誰かが僕の体に触っている。会話の内容を聞くと、どうやらふたりの看護婦が僕の体を消 毒しているようだ。ああ、じゃあやつばり怪我をしたんだ、と思った。でも、なぜか痛みを ほとんど感じていなかった。痛くないのだから、たいした怪我ではないのだろう。 とにかく、医務室で寝ている場合ではない。メカニックはクルマの修理をもう終えて、僕 を待っているだろう。早くフェラーリのコクピットに戻って、再スタ 1 トの準備をしなけれ そう思って起き上がろうとしてみたが、体はびくりとも動かなかった。 痛みは感じていなかったが、息苦しくはあった。きっとレース中に装着していたマウスピ こん

5. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

314 しかし、その日は何故か、五〇冊の本の山の中で、私の専門である政治に関する本ではな 、全くの専門外であるノンフィクションの『クラッシュ』が、私に「手に取れ」と言って きた。本が音を立てずに、意思を伝えたことになる。念のために言っておくが、特段、カー また日頃、本屋でノンフィクション物を手にすることもない。 レースが好きなわけではない。 どちらかと言えば、ほとんど読んだこともないジャンルであったが、本が私に「手にしろ」 と言うのだ。 『クラッシュ』を手に腰を下ろした。斜め読みして、隣に回すはずが、数時間かけ、その場 で最後まで一気に読み終えてしまった。その間、自分の前を通り過ぎていく二〇冊ほどの他 の本については、表紙も開かずに、そのまま隣の人に渡していた。後で聞いた別の担当者の 話では「何かに取り憑かれているようだった」という。 最後に、「私が、この本の書評を書きます」と大きな声で言うと、専門外であるのにもか かわらず、全員の賛同を得た。皆、不思議に納得しているようであった。 こうなったのが、この本の魅力のためなのか、それとも本当に無意識の世界からの啓示に よるものであったのかは、今でもわからない。しかし、この話には、まだ続きがある。 書評担当者の集まりがあった翌日、自宅に持ち帰って机の上に置いておいた『クラッシ ュ』が、今度は「著者に会え」と言う。ノンフィクションであり、読んで難解というわけで

6. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

いくのだった。 黒いマントの男のことが頭の中に浮かんできた。死神の手から逃れて生きることを勝ち取 ゆいごん ったのだと思っていたが、そうではなかったと理解した。妻や仲間たちに遺言を残す機会を 与えられただけだったのだ。何だ、そうか、と思ったら、ため息が出た。 マントの男が言った「濃い人生を送った」という言葉には、満足感を覚えた。僕は大勢の 人に愛されている。みんなが僕の死を嘆き、心から悲しんでくれている。僕の人生は確かに : そうだ、篤子とみんなに、別れの言葉を言っておかなければならない 「何 ? 何が言いたいの ? アイウェオの中にある ? 」 耳もとで篤子がまた例の方法で聞きはじめると、右側から年配の看護婦がアドバイスをす る。 「太田さん、左手の指、動かせる ? 奥さんの手のひらに書いてみたら。カタカナのほうが の 間しいわ、ひらがなより簡単だから」 一一なるほど、良いアイデアだなあと僕は感心した。非常に深刻な瞬間なのに、その深刻さが 七 頭の中で、水と油のように分離してしまうのだった。 これがドラマなどだったら、死に直面した主人公はもっと完全に絶望して嘆き悲しんだり 「濃くて」幸福だったということだ。

7. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

の挙動とか、細かいところの違いまではっきりと感じとることができるようになってきたか らだ。 周囲の人たちも親切だった。古巣であるマッダはもちろん、トヨタもホンダも三菱も、広 報マンやメ 1 カーの技術者たちは、「そんなことまで教えちゃっていいの ? ーと、こちらが 心配になるほど、新技術の内容や問題点をていねいに説明してくれた。 その一方で、僕のクルマに対するコメントにもおおいに興味を持って聞いてくれる。そう した意見交換をくり返しているうちに、どんどんと自動車の工学的なメカニズムがわかって くるのだった。 今までは触ったことさえなかったワープロにも悪戦苦闘したが、必死にやっていたら半年 もするとタタタターツとプラインドタッチが完璧にこなせるようになった。 問題は文章力だった。『やさしい文章の書き方』『サルでも書ける文章術』、それから中学 生の国語の参考書まで山のように買い込み、ラインマーカーを持って朝から晩まで読んだ。 担当になった編集者に、「文章が良くなかったら、とにかく遠慮しないで言って」と頼ん でおいたら、本当に何度も原稿をつき返された。編集者もそれだけ本気ということであり、 僕としても望むところだった。 文章を書くことが難しいと感じたのは、自分の文章力が劣っていたのだけが理由ではない。

8. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

317 解説 うした彼の姿こそ、ノンフィクションが持っ嘘偽りのない真実の魅力である。 このような本であったからこそ、実は「その後の著者 [ のことが、ずっと気になっていた。 何故なら、『クラッシュ』を読んで多くの人が元気づけられ、また力強く生きて行く勇気を 得たとしても、それで太田さんを巡る問題がすべて解決したわけではないからだ。怪我の後 遺症もあるだろうし、レ 1 サーとして本来、争いたくはなかったレース主催者との「レーサ ーとしてのプライド」をかけた気疲れする裁判も進行していると聞く。 読者は『クラッシュ』を読み終えれば、『クラッシュ』と別れることができるが、著者は そうはいかない。『クラッシュ』の最終ページを閉じてからも、現実の中を歩き続けなけれ ばならない。版元の幻冬舎から電話がかかってきたのは「どうしているんだろう、太田さん は今頃」と思っていた、その時だ。その電話で『クラッシュ』が映画化され、『クラッシ つづ ュ』後を綴った次作も出版される予定だと聞いて、ホッとした。やつばり、太田さんは元気 にしているじゃないか、と。 「あれもできない。 これもできない」と、事故に遭う前にできて、今はできないことを数え 上げるのではなく、「これもできる。あれもできる」と、今、自分にできることを実現して いく太田さんらしい姿が、頭の中をよぎっていく。 自分に降りかかる困難に悩んでいる間は、客体としての自分自身を見ている自分がいる。

9. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

こに落っこちてしまうんですからね」 いかにも悟りきったような、鼻につく言い方に聞こえた。彼は僕の反応をうかがっている ようだったが、僕が黙ったままなので、また自分から話しはじめた。 「僕は女と別れたんですよ」 「えっ卩 僕は思わず後ろをふり向いた。男性の顔を見てはっとした。口があごのほうに引っぱられ ている。重症熱傷の後遺症だった。 うわさ 噂に聞いていた「女にだまされて焼身自殺を図った青年」だと思った。 「自殺しようとしたんですよ、フフツ。でも、楽になろうと思って火をつけたのに、燃えた 瞬間とっても怖くなったのでびつくりしましたよ。フフツ。それに、とっても痛かった。な にしろ地面をのたうちまわりましたからね」 鼻で笑って「もうごめんですよ。・ : ・ : 辛いから」と、自嘲気味につけ加えた。 「燃えた瞬間が痛かった」と聞いて、僕は意外だった。 僕の場合は、事故の瞬間も、搬送先の御殿場の病院で死を覚悟したときも、どちらのとき も痛みを感じなかったからだ。以前、ルボライターの知人から、バイク事故で火だるまにな った青年も燃えた瞬間は痛みを感じなかったと聞いていた。死ぬ瞬間は痛くないものなのだ

10. クラッシュ : 絶望を希望に変える瞬間

現れたのは別人の顔だった。ずいぶんとびつくりした。 この頃の僕は、自分に接する病院関係者の女性すべてが美人に見えた。あるいは、めがね をかけている看護婦のことを、まだ二〇代なのに、自分の姉だと勘違いしたり ( 僕には姉が いないのに ) 、婦長の桜井さんは子どもの頃に自分をかわいがってくれていたおばさんだと 信じ込んでいたりもした。 マスクをずり下げられて目を丸くして驚いている顔は、鼻筋が通っていて野性的な感じの りがくりようほうし 美人だった。彼女は理学療法士の上条先生で、身長一七三センチ、バスケットボールとスノ ポーを趣味でやっているらしい 僕はリハビリと聞いて、整形外科で行うような筋トレをイメージしていたが、そうではな くて、べッドの背もたれを起こして頭を持ち上げてみるだけだった。しかし実際にやってみ ると、めまいがしてくらくらした。体を起こすと血の気が引き、息も苦しくなってしまう。 み呼吸の仕方を教わる。 「胸ではなく、お腹でおーきく息をして : ・ハイツ、そうそう、よくできました」 じ 先生に体操を教わる幼稚園児みたいだ。 それが終わると、今度は、肺炎のせいで肺にたまった痰の出し方を教わった。喉には、詰 まった痰を吸い出すための穴が開けられている。大きく深呼吸した後にはっと息を強く吐き、 なか