房子 - みる会図書館


検索対象: ハヤカワ ミステリマガジン 2015年11月号
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1. ハヤカワ ミステリマガジン 2015年11月号

電話してきたのは、確か、その二日前でし「この間も言いましたけど、あの子は、よく「外泊が増えたとか、出かけることが多くな た。家に帰ってきた智亜紀に、電話があった遊び回る子でしたから、捜索願いを出すことったとか」 ことを教えると、あの子、ちょっと動揺しては考えませんでした」庄三郎が口をはさん房子が小さくうなずいた。「確かに、よく ました。私、付き合ってる男かって訊いたんだ。「そりや心配でたまりませんでした。で出かけてましたし、帰りが朝になることも、 ですけど、智亜紀は、違うとだけ答えて、自すけど、打つ手がなくて、日が経っていった普段より多かった気がします」 分の部屋に引っ込んでしまいました」 んです」 「ちょっと変なことがあったな」庄三郎がロ 「ククマガミツがなせ、歌舞伎町で暮らしてそこに私立探偵の私が舞い込んできたといをはさんだ。「一ヶ月以上前のことですが、 、つことらし、 る人間だと分かったんです ? 」 あの子を田園調布の駅近くで見たんです。私 ためら 房子はしゃべるのを躊躇う素振りを見せ「死亡推定時刻について、警察は安藤さんには乗っていた車を停めさせ、声をかけまし 話しました ? た友だちに会いにきたと言ってました。で 「智亜紀さんの電話を盗み聞いたんですね」「はっきりとは教えてくれませんでしたが、 も、私に見つかって困ったという顔をして、 房子は答えない ここを出ていってすぐに : 庄三郎が言葉時間がなくて家に寄れなかったと訊きもしな 「房子、本当のこと言いなさい」庄三郎が迫を詰まらせた いのに言い訳めいたことを口にしました。大 った。 智亜紀は和田多津子という偽名を使って、したことじゃないかもしれませんが、ちょっ 「少しだけ」房子はロ早に答えた。 風鶏という雅号を持っ画家を探していた。熊と気になりました」 房子が盗み聞いたことは断片的なものだつ上義郎は、何らかのきっかけで、智亜紀の本「田園調布に住んでる友だちに心当たり た智亜紀は、訳を話すと言ったら、相手が名と住まいを知った。智亜紀は、熊上に弁明は ? 」 待ち合わせの場所を指定したらしいク歌舞するために、歌舞伎町一番街のどこかで彼に「ありません」そう答えた庄三郎が妻に目を 伎町番街のねと智亜紀が念を押したとい会った。そういう成り行きだったのかもしれ向けた。 う。日時も正確な場所も房子には分からなかない。 房子は黙って首を横に振った。 った。 先々週の水曜日は十七日である。智亜紀が「智亜紀さんの部屋を見せてもらっていいで それだけでは熊上が歌舞伎町で生活してい熊上にあったのはその頃だったとみていいだすか ? 」 ると分かるはすはない。房子がそう思い込んろう。その直後に、智亜紀は熊上のアパート 「どうぞ」庄三郎がうなすいた。「でも、さ だにすぎなかったとい、つことだろ、つ で射殺された。家を出たのではなく、帰ろうつきも言いましたが、手帳や何かは警察に提 「智亜紀さん、お母さんに何も言わすに家をにも帰れなかったということらしい。 出してしまいましたよ」 出ていったんですね」 私は房子に目を向けた。「この一ヶ月ぐら「それでも自分の目で見てみたい」 「何にも。無断外泊はこれまでも何度かありいの間に、智亜紀さんの様子が普段とは違、つ「浜崎さん、妻を休ませてもいいですか ? 」 ましたが、何日経っても連絡もないので、気と感じたことはありませんでしたか ? 」 「ええ」 になって夫に話しました」 「そう言われても : : : 」 「私も一緒に部屋まで行きます」房子は私に 142 タフカイ

2. ハヤカワ ミステリマガジン 2015年11月号

写真で見た智亜紀は父親よりも母親に似てせんでくれー庄三郎も背もたれに躰を倒し房子はそっほを向いている いた。特に少し上向きの小さな鼻と大きな瞳た。 「奥さんは、熊上義郎の声を聞いてる、とご がそっくりだった。 薄暗い部屋が沈黙した。老夫婦が顔を見合主人から聞きましたが、彼はどんなことを言 「房子、浜崎さんの質問にはちゃんと答えるわせもせずにじっとしている いました ? 」 んだよ」 「今更、そんな話をしても何にもならないで の鳴き声が一段と強くなった。 「昨日、警察にさんざん質問されて、私、疲気詰まりな雰囲気だが、私はまるで平気だしよう」房子は私を見すに、顔を歪めた。 れてるのよ」 った。気になっていたのは、煙草が吸えない 「私はやれるだけのことはやってみるつもり です。ですから、警察に話したことも含め 「房子、浜崎さんを雇ったのは私だ。それをことだけである 忘れるな」 「私は一昨夜のうちに、熊上という男のフルて、私の質問に答えてほしい私は強い口調 で言った。 「得体のしれない探偵なんか雇うなんて」房ネームも住まいも突き止めてました」 子が吐き捨てるように言った。「お金をドプ庄三郎が躰を起こした。「なぜ、それを早房子は目を瞬かせた。やがて目が潤んでき た。涙を堪えているのだった。 に捨てるようなもんだわ。それに石雄のワルく言わないんだ」 仲間だった人なんでしよう。そんな人を : ・二昨夜も昨日も、安藤さん、話を聞ける状「房子、辛いのは分かるが、答えてくれ。頼 態ではなかったですよね。それに、私が報告むから」 房子が髪を掻き上げた。「ク智亜紀さんは 「房子、私の心臓の具合を、これ以上悪くさを入れる前に、ああいうことになったから、 いらっしゃいますかッと訊いてきただけで お知らせする必要もなくなった」 所毒年悟、崎退らるしで智ろ 「どうやって、そんな短い時間で調べることす。クどちら様ですかクと訊き返したら、 務優 2 大は浜は取あら主。こた ククマガミクと名乗ったわ」 事女ら藤崎は雄きでる当たとれができたんだね」 偵くか安浜親石引娘あのき。さ その後、熊上は、智亜紀の行き先を訊ねて 「歌舞伎町を歩き回った結果です」 探なれ・た父。てのも家てう殺 にもそ年つのたし妻題藤ねい射負六のことも、熊上義郎のアパートの近くきた。房子はそれには答えすに、娘との関係 す共ま。少な悟っと正問安訪とに を訊いた。すると、相手は友人ですと答え、 まで行ったことも黙っていた らと、たるに大だ子いどでをいか あ死 はげいと。雄外なな親所し者私に対して敵意に似た気持ちを持っている帰ってきたら、電話をくれるように伝えてほ のの郎あてこる石婚わ在父務ほ何 一をれるす・の思存の事てが房子が面倒な反応をするのを避けたかったのしいと言った。房子は相手の電話番号を訊い で父順名ま送を友家くの雄のし紀 た。熊上は、智亜紀さんが知っていると答 。崎、絡で会旧藤快紀石崎査亜オ 洄京浜しでま再の安を亜、浜調智私はメモ帳を取り出した。「さて、そろそえ、電話を切 0 てしま 0 たという い解新親外時家そ・な郎行くろ質問に移りたいんですが、よろしいでしょ「その電話はいっ頃あったんです ? 智亜紀 年継を、、意院名、姉ん三素な さんがいなくなる前ですか ? 富き件夏けで年、がのそ庄のもうか」 四引事の助こ少後た理。る紀ま 「どうぞ、やってくれたまえ」庄三郎が答え「あの子が家に戻ってこなくなったのは、 を殺後をその院れ義いあ亜が 先々週の水曜日です。クマガミと名乗る男が ヾ、」 0 141 タフガイ

3. ハヤカワ ミステリマガジン 2015年11月号

冷たい視線を向けた。「私、夫と違って、あているのは動物。猫のように見えるが、完成左下の深い引き出しには書類やパンフレッ なたを信用していませんのよ」 していないこともあってよく分からない。絵ト、そして写真を貼ったアルバムが突っ込ん 「房子、失礼だよ」庄三郎が妻を睨みつけの具やパレットなどの絵の道具が置かれた大であった。アルバムを見てみた。個展の時の きな台があった。その向こうの窓のカーテンものだった。事件に関係ありそうなものは見 「本当のことを言って何が悪いんです」房子を、私は断りもせすに開けた。 つからなかった。 が食ってかかった。「別にこんな人を雇わな洗足池の一部が見えた。ボ 1 トが何艘も浮その引き出しの奥に、小箱が収められてい くても・ : ・ : 」 かんでいて、湖面に白い陽射しが跳ねていた蓋はついていなかった。そこに二十四枚 「私はね : : : 」庄三郎の呼吸が激しくなった 撮りのフィルムが一本入っていた。使用され たものである 安藤夫妻は木製の長椅子に腰を下ろした。 「安藤さん」私は右手を軽く上げて庄一二郎をプラットホ 1 ムのべンチで、なかなかこない 警察が捜索していたら、押収されていたか 制した。「依頼人ですら、探偵を全面的に信電車を待っている老夫婦のようだった。 もしれないが、房子は使用済みのフィルム 用してはいません。依頼人が探偵に信頼感をその長椅子の奥がべッド。枕元に机が置かのことなど頭に浮かびもしなかったのだろ 持つのは、事件が解決した時です。しかし、れていた。壁のスペ 1 スを埋めているのは本う その瞬間に、お互いに会う必要がなくなる。棚だった。大判の本の大半は画集のようだ。「これ、現像させてもいいですか ? 」 だから、信用されていないって感じる時の方オ 1 ディオはコンポ 1 ネントスタイルのも「そこまで娘のプライバシーを、あなたに探 が遙かに多い探偵稼業はそういうものなののだった。パイオニア製。今年になってからられたくないわ」房子が口を尖らせて言っ で慣れつこです」 新発売されたものではなかろうか 「私は、君のことを信頼してる」 机の上のカメラが目に留まった。キヤノン私は軽く肩をすくめ、庄三郎を見た 「さて、参りましようか」 という一眼レフ。数年前に発売されたも「私が許可します」 私は、安藤夫婦の後について、奥のドアかのだが、十万ほどする高級なものである 「私、休ませてもらいます」 ら廊下に出た。廊下の右奧に急な階段があっ画風からすると、智亜紀がメカに凝ってい 房子の声は、休む必要などまるでなさそう てもおかしくはない。 な力強いものだった。 階段を上り切ってすぐ左の部屋に入った。 私はカメラを手に取った。フィルムは入っ房子は智亜紀の部屋を出ていった。 庄三郎が電気を点した。窓のカ 1 テンは引かていなかった。 「妻の非礼を謝ります」 れたままである 「引き出しの中を調べさせてもらいます」 「気にしてませんから、大丈夫です」 板敷きの十二畳ほどの部屋だった。アトリ 「私たちのことを気にせすに好きにしてくだ洋服ダンスや下着の入ったハイチェストの 工を兼ねていた。油絵の具の匂いが漂っていさい」答えたのはむろん庄三郎だった。 中も調べたが、時間の無駄だった。 た。イ 1 ゼルに描きかけの絵が載っている 上の引き出しから順に開けていった。気に 一階に降りた私は電話を借りた。連絡を取 幾何学的な線を駆使した作品だった。描かれなるものはなかった。大半は文房具だった。 った相手は、古谷野徹だった。 143 タフガイ

4. ハヤカワ ミステリマガジン 2015年11月号

っている。聞きたくない話をされた時、便利か、と弁護士を通じて抗議しました」 でも待ちますよ」 な椅子である 弁護士が或る筋の人間に伝え、或る筋の人庄三郎が立ち上がり、奥のドアに向かっ 同じ椅子がもうひとつ、庄三郎の隣に、や間が、また或る筋の人間に言い、階段を上った。足を上げる気力もないのか、内履きを引 や間隔をおいて置かれていた。 ていった抗議が、違う筋を通して、階段を下きすっていた。 私と庄三郎は相対して、房子が現れるのをり、新宿署に伝えられたということだろう。庄三郎はドアを開け、右奧に視線を向け 待っていた。しかし、なかなかやってこな被害者の家の捜索にも裁判所の令状がいた「房子、お客様がお待ちだ。早くしなさ る。令状を取るためには、そうしなければない 灰皿は見当たらない煙草は我慢するしからない理由を警察ははっきりさせる必要があ返事はなかった。庄三郎は、一階を見つめ ないようだ。 る たまま、その場を動かない クーラーが取り付けられているが、消され今回の事件は、現段階では、そこまでやる鄰は相変わらず激しく鳴いていた。木漏れ たままだった。 だけの根拠がなかったのかもしれない。 日が庭に戯れている 流れ込んでくる風は生暖かく、じっとりと「代わりに事情聴取を受けた際、任意で智亜ややあって階段を下りてくる足音がした。 湿っていて、座っているだけで、私は首筋に紀の部屋に残っている電話帳や備忘録、手紙庄三郎はドアを開けたまま、元の席に戻っ 汗をかいた などを提出しました」 老人は押し並べてクーラーの風が嫌いだ 私が調べてみたかったものは、いすれにせほどなく女が居間に入ってきた。黒いズボ が、今の庄三郎の場合は、その例に当てはまよ、警察の手に渡ってしまったということでンに黒いプラウスを着、薄手の茶色いカーデ らないだろう ある。智亜紀の部屋を漁ることができたとしイガンを羽織っていた 娘の死が原因で、心身ともに冷え切っていても、事件に繋がる物は何も残っていないに 昨日の午後、庄三郎と一緒に洗足池の方 るに違いなかった。 違いない。 から歩いてきた女だった。 庄三郎は椅子に浅く腰掛け、躰をやや前に「マスコミ対策は取られました ? 私が来た 私は立ち上がり、挨拶をした。 倒していた。両手は膝の上。口を半ば開き、時、家の周りにはそれらしき人間がうろうろ房子は俯いたまま、名前すら告げずに、空 顎を軽く突きだしていた。瞬きを忘れてしましてましたけど」 いている肘掛け椅子に腰を下ろし、背もたれ ったかのように、目は開いたままだった。何「私がここに着いた時、質問攻めにあいましに躰を預けた。 かを見ているとは思えなかった。 たが、無視したよ」庄三郎は奥のドアの方に彼女の前に名刺をおいたが、房子は見向き 「昨日、警察の捜索はどれぐらいかかったん目を向け、大きく息を吐いた苛立ち混じりもしなかった。唇の端をきゅっと結んでい です ? , 私が訊いた の吐息だった。「房子は何をやってるんだ、る。歯医者に連れていかれたがゞ 頑として口 「捜索は中止になりました」 まったく君のことはちゃんと話し、承知さを開かない少女のようだった。刈り込みが必 「安藤さんが、誰かに何か言ったんですね」せたんだがね」 要な植木みたいに髪はあちらこちらに跳ねて まふた 「被害者の部屋まで捜索する必要があるの「心の準備が必要なんでしよう。私はいつま いた瞼が腫れている 140 タフカイ

5. ハヤカワ ミステリマガジン 2015年11月号

いたことだろ、つ 犯行現場となったアパートの住人を全国 に指名手配 、大田区南千東一一丁目にある安藤房子 の家を訪れたのは、週明けの月曜日だった。 日曜日に訪問するつもりだったが、妻も自熊上とクレオパトラの髪をした智亜紀の顔 分も疲れ切ってしまって相手ができないと、写真が載っていた。 ベルシャ絨毯の敷かれたこぢんまりとした庄三郎に断られた。房子は警察の事情聴取を異臭に気づいて警察に知らせたのは隣の部 屋の住人だった。大家の立ち合いの許、警察 居間だった。腰高の窓が三分の一ほど開いて受けた後、寝込んでしまったという いて、庭木をさらさらと渡る風が、ゆるやか依頼人にそう言われては引くしかなかっ官が中に入り、死体を発見したという 逮捕状が出た熊上義郎の職業は元画家と己 に流れ込んでいる。陽の光は庭木に遮られ、た。 されていた。安藤家についても簡単に触れら ヘンダントライトと、 朝刊に目を通した。 部屋までは届かない。。 れていた チェストの上に置かれたスタンドに灯りが入ク大統領信仰いま崩壊ク っていた。チェストには細かな細工が施され一面は、アメリカ大統領、ニクソンが弾劾大人の玩具の専門店『宝屋』に電話を入れ たが、誰も出なかった。店が休みなのか、臨 ている。おそらく、値の張る骨董家具であろ勧告を受けた記事だった。 ウォ 1 ターゲート事件でニクソンがもみ時休業しているのかは分からないが、支配人 があがき苦しむような声で鳴いていた。 消し工作を行い、司法妨害したスキャンダルの清水成美とコンタクトが取れなければ、毛 利負六を捕まえることはできない の命は短い。しかし、それはに生まれたは、連日新聞を賑わせていた 日本でも、あれだけ人気のあった庶民宰月曜日の午前中に庄三郎に改めて連絡を取 定めである 人間の一生には、確かな法則性はない。赤相、田中角栄に対する不信感が強まっていった。庄三郎は、自分も行くから、房子の家 に来てほしいと言った。指定された時刻は午 ん坊のまま命を失う者もいれば、百歳を越える てもピンピンしている者もいる 私は政治に関心はないし、どんな政権にだ後三時だった。 私は、房子の家の塀沿いに車を停めた。ビ 安藤智亜紀は三十三歳でこの世を去った。ろうが期待したことは一度もない。 病死なら、それが天命だったと諦めることも政治に無関心な人間は、意識の低い、ク劣ュイックが敷地内に停まっていた できるだろうが、智亜紀は殺された。 等クな輩だと見なされるだろう。しかし、ど中に入った私は、庄三郎に促され、ソファ ーに腰を下ろした。庄三郎は肘掛け椅子に座 だって、乱暴な少年たちの餌食になってう受け取られようが平気である 殺されることはある。しかし、殺された鄰の焼岳が二十五年ぶりに噴火したという記事った。ソファー同様、唐草模様の椅子だっ 場合は運が悪かったですますことができる。の隣に、安藤智亜紀の殺害事件が報じられてた。おそらくゴプラン織というものだろう その椅子の変わったところは、背もたれの両 が、智亜紀の場合は違う。謎めいた行動を取いた 端に、手前に突き出した部分があることだっ らすにいたら、おそらく、今もクレオパトラ た。座ると耳の辺りだけが囲われるようにな のような髪が、 夏の陽射しに艷やかに輝いて富豪の娘、射殺される東京・新宿 一三ロ 139 タフカイ

6. ハヤカワ ミステリマガジン 2015年11月号

んもおそらく、知らないと思って黙ってたんの捜査内容を訊き出し、私に教えることでいった。 です。偽名まで使って探している相手のことす」 古谷野は今年四十になる。数年前に女房に を母親に話すはすはないでしよう」 「うまく訊き出されるどうか分からないよ」逃げられた。三年前に一緒に組んだ事件で知 「それでも訊いてみるべきだったんじゃない 「やるだけのことはやってみてください」 り合った女スリに恋をしたが、相手にされ のか」 私は車を再びスタートさせた。 す、今も女っ気なしの暮らしをしている 私は短くなった煙草を灰皿で揉み消した。「今日のうちに、熊上の遠縁にまた会おうと小柄な太り肉縮れ毛の髪を長く伸ばして 「奥さんは私を信用していないが、私も彼女思ってます。熊上からそいつに連絡が入るかいる。すこぶる暑苦しい感じの男である。大 を信用していない。だから手の裡を明かしたもしれませんから」 学に八年在籍したが卒業できすに追いだされ くないんです。どこからどう情報が漏れるか庄三郎はそれ以上、何も言わなかった。 た。学費を滞納していたためだろうが、卒業 分かりませんから」 庄三郎を房子の家まで戻した。 証書の代わりに終了書のようなものをもらっ 「房子が事件と関係があると言いたいのか」は相変わらす激しく鳴き続けていた たという。学生時代から『東京日々タイム 「違います。また警察の事情聴取を受けるこ ス』でバイトをしていて、契約記者から社員 とがあったら、私の言ったことをべらべらし『東京日々タイムス』のビルは築地橋と入船になった。 ゃべるに決まってます。遅かれ早かれ、私が橋の間の通りに面して建っている 古谷野が戻ってきた。「今、やらせてる 動いていることは警察にバレるでしよ、つが 到着したのは午後六時少し前だった。車をで、何でお前が、あの事件の調査をしてるん どんなネタを擱んでいるかはできるだけ知ら裏通りに停め、徒歩でビルに向かった。 だい」 れたくない」 、いけど、しばら / 、 ここに来る途中、電話をしておいたので、 「あらいざらい話してもし 「君はひとりで事件を解決して、名を挙げた古谷野は三階で待っていた。以前、訪れた時は記事にしないでほしい」 いんだな。私は言ったはすだ。誰が、真犯人と同じように、トイレの隣の小部屋に通され「分かってるよ。これまでもお前の顔を立て てきたろう ? を暴くかなんてことはどうでもいいんだ」庄た。窓から西日が差し込んでいた。 三郎がポケットからハンカチを取りだし、首「暑いな、おい」 「よき先輩を持って、実に嬉しい」 筋の汗を拭いた 古谷野が、大きな鼻の穴を膨らませていっ古谷野が鼻で笑った。「早く話せ」 「私が警察に知られたくない理由は、調査に た。この世の終わりのような顔をしている 私は煙草に火をつけた。「依頼人は、被害 当たって、非合法なこともやってるからで「夏だから」 者の父親、安藤庄三郎」 「かつ。そっけねえ答えだな」 「ほう。由緒ある家柄の上に、富豪でもある 「なるほど、そ、つい、つことか」 「これ、すぐに現像してください」 人物が、お前に娘の事件を依頼してきた。ど 「危ない橋を渡らないと、私立探偵は調査が「その前に話を聞かせろ」 うなってんだ ? 」 できない。私は毎日、あなたに報告を入れま「後で」 「安藤庄三郎に見る目があるってことです す。あなたがやることは、コネを使って警察フィルムを受け取った古谷野が部屋を出てよ」私はにつと笑った。 145 タフガイ

7. ハヤカワ ミステリマガジン 2015年11月号

質問してきたでしよう ? 庄三郎がグラスを空けると、腰を上げた。山の別荘に女連れできてました」 「そのようですが、一切、話すなと命じてあそして、レコ 1 ドをかけた。 庄三郎が大きくうなすいた。「都内で、ク ります ラプだかキャパレーだかを経営してる男だっ 部屋にピアノ曲が流れた 「高見さんは、房子奥様のところにもよくい 「ラベルの『水の戯れ』という曲でね、私はて石雄が言ってたな」 らっしやってると聞いてますが、最近の智亜この曲が大好きなんだ」 「石雄とは古い付き合いのように見えました 紀さんの態度に変わったところはありませんまさか、ドアに耳をつけて、私たちの話をが、この男のこと、以前から知ってまし でしたか ? 」 盗み聞いている者がいるとは思えないが、レた ? 」 「そういう質問にはお答えしかねます」 コードをかけている方が安心して話せるのか「いや」庄三郎が首を横に振った。そこまで 言って、背筋を伸ばした。「葉山で、あの男 「と言うことは変わったところがあったってもしれない 庄三郎は元の席に戻らす、私の横に座っに名刺をもらったな。でも、どこにしまった ことですね」 高見が目を細め、私を見つめた。「私はあた。「で、見せたい写真とは」 か覚えてない。ちょっと探してみる」 なた様の質問に答える立場にはないというこ私は紙袋から、すべての写真を取りだし、庄三郎はマホガニーの机まで行き、引き出 庄三郎の前に置いた。 しの中をかき回した。それから洋服ダンスを とです」 「何か変わったところがあったのか」庄三郎「最初の方は、誰かの個展の会場で撮ったも開け、ジャケットのポケットを探り始めた。 が訊いた のですが、最後の数枚は違っています」 べージュの麻のジャケットの胸のポケット 「ありません。もう下がってよろしいです庄三郎は一枚一枚、ゆっくりと見ていっから名刺が出てきた。 た。早苗とサングラスの女がべンチに腰掛け「これだ、これだ」 か ? 」 ソファ 1 に戻った庄三郎が名刺を私に渡し ている写真に行き着いた。 「石雄も奥さんも家にいます ? 私が写真を覗き込むようにして言った。 高見の視線が庄三郎に移った。 「そのサングラスの女が誰だか分かりま 「家の者は全員います」庄三郎が答えた。 玉置商事代表玉置浩太郎 高見は、頭を軽く下げると、ドアに向かっす ? 」 た部屋を出る際、私と目が合った。冷やや庄三郎が写真から目を離した。「どこかで 東京都千代田区神田鍛冶町 1 ・ x 八甲ビル 5 かさの中に苛立ちが煮えたぎっているような見た顔だな」 0 00 ーワ 1 ー 9 、 0 ワ」 X 目つきだった。 「早苗さんのお友達ですかね」 私はコーヒーを飲んだ。下手な喫茶店で飲「う 1 ん」 「残りの写真を見てください」私はコーヒー裏には玉置商事が経営する飲食店の名前が むものよりも数段うまかった。 載っていた 私が普段、飲んでいるク違いが分かる男ツをすすった。 のコーヒーを、安藤家の人間はロにしたこと「この男の顔も知ってる」 があるのだろうか 「玉置という石雄の知り合いで、この間、葉 『ハッピ 1 エンド』神田店 150 タフガイ

8. ハヤカワ ミステリマガジン 2015年11月号

そこで、戸影は根津にある小柴教授の自宅に電話をかけた 「僕も確認しました。でも、比喩ではないそうです。よく聞く のだという と、彼女は少し鼻声で、直前まで泣いていたようでした。それ 「小柴教授は十年前、愛車でドライプ中にエンジン系統のトラ から声を絞り出すようにして〈彼はもう戻らないかも知れませ プルで、助手席に乗っていた奥様を亡くされました。以来、罪ん〉と言うんです」 の意識に苛まれて独身を通していたのですが、五年前に舞踏家穏やかではない。また、ただでさえ現実感が薄い話なのに、 いまこなつみ の今子夏海さんと出会ってようやく再婚に踏み切ったんです」その発言者が今子夏海とあっては幻想味を帯びてくる 学部時代におばろげに噂を聞いたことはあった。 「小柴先生はいっ頃からご不在に ? 」 ひじかたたつみ 「今子夏海って、土方巽みたいな暗黒舞踏の人だよね ? 」 「朝八時に目覚めると、すでにべッドのとなりに小柴先生の姿 今子夏海の暗黒舞踏は、ビデオ鑑賞したことがあった。顔面がなかったのだとか」 を奇妙に変化させ、その間身体は微動だにせす、かと思うと、 「早朝から家を出たということ ? 」 突如全身を激しく動かしたりする。そして叫ぶ。〈私の亀裂か 「そうなんですよ。それで、俺は聞き込みを続けたんです。す たきた ら鳥が舞う。最後の一羽が出てこない〉。その後も何か叫んでると、事務の滝田さんが、十時より少し前に、研究棟の入口の いたが、早ロでほとんど聞き取れなかった。 ところに絨毯が落ちていたのを見たらしいんです。何だろうと 難解というより、理解を拒絶されている気がした。シュルレ 思っていたら、研究棟から小柴教授が出てきて、〈すみませ アリスムやダダの世界に近いのかその知性の煌めきが全身かん、ちょっと空を飛ぶ実験をしていまして〉と言ったそうなん ら解き放たれたような彼女の存在感が、安易にレッテルを貼らですよ」 せなかった。 「どういうことかしら : : : 」奇妙な発一言だった。「 : : : でもち その今子夏海が失意の底にいた小柴教授に惚れた。従来の価よっと待って。滝田さんが研究棟から出てくる小柴教授を見た 値を破壊して新たな創造の種を蒔くような暗黒舞踏家と、調和ということは、すくなくとも十時前の段階では、小柴教授はこ や均衡を重視するべルシャ絨毯を愛するべルシャ美学者が結ばの研究棟にいたということよね ? 」 れたのだから、縁とは不思議なものである。戸影は続けた。 「ええ。ところが、十時に俺が到着したときにはもう忽然と姿 絨「十一時頃、夏海さんに小柴教授がご在宅か尋ねたんです。そを消していたんです。滝田さんも一緒になって探してくれまし と うしたら〈小柴は空飛ぶ絨毯とともにここを去りました〉っ たが、研究棟内のどこにもいませんでした。研究室も職員共同 空 休憩室も、会議室も隈なく見ましたけど、どこにも」 「・・ = ・・何かの比喩でしょ ? 」 たった数分の間に、小柴教授は消えてしまったというのか 119

9. ハヤカワ ミステリマガジン 2015年11月号

「安藤さん、私はあなたの私兵として動きま 古谷野は『東京日々タイムス』というスポを流すのか」 1 ツ新聞の記者で、私の大学の先輩である 「外で話しませんか」私は奥のドアに目を向す。だけど、やり方についてはロを出さない でほしい。一昨日、実は、熊上の遠縁の男と 彼に協力を仰ぐのは、三年前に起こった女けた。 知り合いになった。そこから得た情報をお教 優毒殺事件 ( 本シリーズ第一作目『喝采』 ) 庄三郎は小さくうなずいた ヒュイックの運転手がえします」 の時以来。詳しい話をしたら、古谷野は飛び私たちは外に出た。・ ついてくるに決まっている 慌てて車から出ようとした。庄三郎が手を上私は名前は伏せて、毛利負六のこと、熊上 のアパートに行こうとしていたことなどを掻 げて止めた。 古谷野は社にいこ。 マスコミの連中らしき人間の姿がまだあつい摘んで話した。そして、智亜紀が和田多津 「古谷野さん、浜崎だけど 子という偽名を使って熊上に近づいたことも 「麻雀か午後九時すぎじゃないと躰は空かた 教えた。 ない」 私は自分の車に庄三郎を乗せた。 「フィルムを一本、至急現像してほしいんだ「クーラ 1 はないですから我慢してくださ「智亜紀が偽名を使って : : : 」庄三郎は正面 を向いたまま、カなくつぶやいた。 庄三郎は黙りこくったままだった。 「安藤さん、石雄の他に腹違いの息子がいる 「、っちはカメラ屋じゃないせ」 「新宿で起こった射殺事件で何か分かってる私は車をスタ 1 トさせた。後を追ってくることはないですね」 ことはあるかい ? 」 車はなかった。 「はあ ? 私に他に息子なんかおらんよ」 「何だって」古谷野の声色が変わった。「お私は煙草に火をつけた。肺の奥まで吸い込「でしようね」私は眉をゆるめた。 「君は何が言いたいんだ」庄三郎が苛立ちを 前、あの事件を追ってるのか」 んだ煙りをゆっくりと車外に吐きだした。 「ああ」 くわえ煙草のまま、中原街道に出た。そし露わにした。 て、建物の影が落ちている路肩に車を寄せ「智亜紀さんは、腹違いの兄を探していると 「そのフィルム、事件に関係あるんだな」 言ってたそうです」 「まだそこまではっきりしてません」 「社に持ってきてくれれば、すぐに写真部の「私を信頼してくれてるんだったら、何も言「そんな馬鹿な」 人間に現像させる」 わないでください安藤家に迷惑をかけるよ「おそらく、嘘でしよう。しかし、智亜紀さ んが、ク風にク鶏と書いてクフウケイ〃 「そっちに着ける時間が分かったらまた連絡うなことはありませんから」 します」 「そうは言っても相手は : : : 」 と読ませる雅号を持っ絵描きを探していたの 「分かった。待ってる」 「どうせマスコミが騒ぐのを押さえるのは不は間違いないと思います。そんな雅号の絵描 電話を切った私を、庄三郎は不安げな顔で可能ですよ一社ぐらい味方につけておく方きに心当たりは ? 」 見つめた。「電話をした相手は : : : 」 が得です。向こうからも情報が取れるかもし「ないなぜ、そのことを房子に話さなかっ たんだ。妻は娘と暮らしてたんだよ」 私が本当のことを教えると、庄三郎の表情れないですしね」 「おっしやることはごもっともですが、奥さ がにわかに曇った。「君からマスコミに情報「そうだとしても : : : 」 144 タフガイ

10. ハヤカワ ミステリマガジン 2015年11月号

ット密度の高い高級ベルシャ絨毯を壁面に敷いてあるせいであ動的でもないし ( 、わよ、静的な状態のなかにある動的なものを ろう。暖房器具もないのに、妙に暖かく、身体の緊張がほぐれ描写しようという試み。今のは恐らく花の一瞬のなかにある虚 ていくのを感じた。 無の幻想を表わしたのだ。 オーディオから流れるカーヌ 1 ンの音色は、こちらを物語の 舞踏が、唐突に終わった。 内部へと取りこもうとするかのようだ。さまざまなものを内部〈花〉から、〈今子夏海〉に戻った。 に取りこみ、物語の外枠にシェヘラザーデを配したあの長い長 物語のように。 「もう少しで稽古が終わるから少し待っていてくださらな 「それでーー・ー何か御用があって来たのでしょ ? 彼女は椅子を一小して座るように促すと、自分は音楽に合わせ 彼女は問いかけると、煙草を吸い始めた。はじめのうちはし て身体をくねらせ始めた。その瞬間、ハッとした。すでに今子つかり着込まれていた和服は、今では嵐に遭って開きすぎた花 夏海の気配が消えていたからだった。今そこにいるのは人間でのように乱れていた。奇妙なまでに白く塗られた化粧のせい はない。優雅に広げる手、がに股にべたりと床に付けられたで、着物の色鮮やかさが浮いている 足。まるで、大地に根を生やす花のようだ。 「じつは、小柴教授には午後から対談の予定が入っておりまし 以前も見たことがある独特の舞踏だ。突如鼻に皺が寄り、肘て、私たちは今必死で教授を捜しております」 と膝をくつつける。その姿勢のまま動かなかったかと思うと、 「本当に申し訳ないわね。ご迷惑をおかけしてしまって : と 今度は前へ後ろへばたりと倒れ、またすぐ起き上がって室内を「教えてくださいどうして、もう戻らないかもしれない、 飛び回る。これは花びらが風に飛ばされるところか お思いになられたのですか ? 彼女の踊りは、不気味の一言で片づけられない空気が漂って すると、彼女はすっとテープルの上の紙片をこちらへ渡し 花はやがて大地へ散り、枯れる。だが、状態は最初に戻る そこには、手書きで一言、〈さよなら〉とあった。 あるいはこのダイナミックな流れ自体が花の空想でもあったか 「そういうわけよ。彼は〈空飛ぶ絨毯〉とともに私のもとを去 ったの のように、何事もなかったふうな顔で最初のポーズに戻る。こ の人は、瞬間を描いているのではなく、状態を舞踏によって表なるほど。わざわざ〈さよなら〉だけメモに遺すということ 示しているのだ。その状態は静的なものではなく、かと言っては、単なる行ってきますの意味ではないのだろう。となると、 4 122