意味 - みる会図書館


検索対象: 図書 2016年9月号
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1. 図書 2016年9月号

二〇、つまり二〇歳で子どもを生むといのである。教典 ( 指 ) は仏の教え ( 月 ) を指線が示されていないにもかかわらず、そ う意味だという説もあれば、満月に見えし示すが、教典 ( 指先 ) ばかりを見ていたのためにかえって輪郭がはっきりと見え る十三夜の月は七つ時、つまり午後四時ら教え ( 月 ) は自分のものにならず、悟りるような場合を指す。図 2 ( 右 ) には丸い 頃のまだ明るいときに上ってくることをは得られない。見るべきは指先 ( 教典 ) で月、というより明るく白い太陽のような 完全な円が浮かび上がって見えるだろ 意味したものだという説もある。いずれはなく、月 ( 仏の教え ) そのものであり、 う。だが、どこにも円を表す輪郭線は描 にしても、月満ちる喜びの歌ではある。 月そのものを直接見ることができれば、 「指月布袋」はしかし、月を指して喜こんなにも嬉しいものだ、というようなかれていない。面白いことに、中央で途 切れた線をつないで、ジグザグをつない んでいるだけの絵ではない。実は、月は内容が描かれているらしい。 そうだとすれば、月が画中において明でしまうと ( 図 2 左 ) 、丸い円形は浮かび 仏の教えを意味し、指し示している指は 仏の教えを説いた教典を意味するという白に見えては困る。といって月が推察さ上がらなくなり、見かけの明るさも落ち れるものでなくてはならない。仙厓は賛てしまう。線が途切れていることが重要 を利用して、それを巧みに実現させてみなのである。絵を充足させると、人には せた。つまり、文字に囲まれた余白が月描かれたものしか見えなくなる。足りな 賛 になっているのである。できの悪い「主いところがあると、そこに注意が向き、 画 袋観的輪郭」とでも言おうか。できがよす人の脳は「ないもの」を補い、その結 月ぎると、月がはっきりと見えてしまうの果、形が現れる。主観的輪郭で面白いの で、これくらいがちょうどよい。悟りはは、それぞれの人がそれぞれの脳で勝手 厓 仙 目で見るものではなく、心で見るものでに補った形が、誰にとっても同じものに ある。その意味でも、主観的輪郭はよいなる点だ。見えない形を生み出すヒント 図 が、それ以外の形を見ることを許さない 選択だ。 「主観的輪郭」とは心理学用語であつようになっているからだ。 て、「錯視的輪郭」とも呼ばれる。輪郭足りないことがかえって豊かな世界を

2. 図書 2016年9月号

と、確実に予想されたからではなかったに瀕したとき、彼らはどれだけのことを その一九三三年には、小林多喜二が特か。そして、戦後になっても有一二が『新なし、それはどれだけの効果を上げ得た のだろうか ? 高警察によって拷問され、殺されてい編路傍の石』を書き継がなかったのは、 る。二年後の三五年には、美濃部達吉が″あの時代〃を描くことが、過ぎてしま『路傍の石』とは、貧しい家に生まれ 貴族院で糾弾されて、天皇機関説問題がった今となっては、想像以上に重たいもた少年が、度重なる苦難にも負けず、立 始まる。自由な言論活動は、危機に瀕しのになっていたからではなかったろうか身出世の道を探り当てていく、成長物語 ていたのである。 である。そういう意味で、この作品を少 出版業で成功を収めた愛川吾一は、そ 年向けの文学全集に人れるような作品と の状況にどのように立ち向かうのか ? 書かれもしなかった「第一一部」についして読む読み方に、異議を唱えるつもり はない。むしろ、そのことによって『路 「現代を取りあっかうつもりです」とて、あれこれと空想をめぐらすことは、 宣言した以上、『路傍の石』の第二部は、″モデル探し〃と同様に、たいして意味傍の石』は時代を超えた普遍性を獲得 この問題を避けては通りえなかったことのあることではない。ただ、ぼくは、社し、読み継がれてきたのだろう。 だろう。そして、それは、出版創業者た会人になって以来、四半世紀の間、出版ただ、ぼくは、〃出版業界小説〃とし ちが、自分たちが苦労して育てて来た出業界で生きて来た。そんな人間にとってこの作品を読む読み方にも、時代を超 版業界をどのようにして守り抜こうとすて、有三の『路傍の石』は、いろいろなえた今日的な意味があるだろうと感じて るか、という物語になったはずだ。なぜことを考えさせる小説だ。 いるのである。 ( えんまんじじろう・編集者 ) 明治の後半、出版創業者たちは、個々 なら、有三自身が、〃商業出版〃によっ て読書に目覚め、 " 商業出版〃の成長を人それぞれの苦労を乗り越えながら、日 その内側から眺めてきた人間だったから本の″商業出版〃を育て上げていった。 である。 彼らの奮闘がなければ、その後の出版業 新聞社が第一一部の連載に踏み切れなか界の繁栄はなかったに違いない。 しかし、昭和初期、出版の自由が危機 ったのは、その内容が検閲に引っ掛かる

3. 図書 2016年9月号

に、双方的と訳した。念のためにいえ故があれば、祖霊の中に人れられるとい ば、私が双系制という場合も、双方的とうことである。これはおそらく、双系制 いう意味である ) 。トッドの考えでは、 と関連している。単系制では、父系であ 母系制は父系制の優位に対する反動としろうと母系であろうと、先祖は一つであ て生まれたものであり、また、父系制がる。それを目印にして、集団が組織され 拡大したのは軍事的領域が優越することる。ところが、双系制が残る場合、出自 辞 によってである。 が何であれ、ひとが今帰属する場が重視名 このような観点から、岡正雄の説をふされる。イエがそのような場である。柳国 りかえると、①で岡が「母系的」と呼ぶ田によれば、イエは家族というより労働外 ものは、双系的 ( 双方的 ) なものだという組織である。「親」は元来、労働組織の 大 最 べきである。そして、それは③における「親方」 ( 親分 ) を意味した。 本 双系制とは別のものだ。西日本にはもと したがって、日本では、出自を重視し 日 0 もと母系制はなかった。それは、④の軍ない養子制が広範に採用されたのであ 8 9 事的征服者が到来したとき、父系制がもる。家父長的な武士のイエでも、養子制 たらされるとともに、それに対する反動が多く見られた。徳川時代では、大阪だ として形成された。一方、東日本では、 けでなく、江戸でも、商家は男子に相続 目 むこ 狩猟民らが軍事化するにつれて父系的とさせず、代々優秀な番頭を聟にとるとい項 なったが、双系的なものが濃厚に残存しうやり方をした。このシステムは、現在 た。それは養子制に見出される。 でも歌舞伎や相撲の世界に残っている。 柳田によれば、日本の先祖信仰の特徴これらは母系制の名残りではない。それ は、死者が母系・父系のような血のつなは「イエ」の存続を優位におくのであ がりがなくても、養子や結婚その他の縁 り、双系的なものに根ざしている。 岩波世界人名大辞典 岩波書店辞典編集部編 《創業百年記念出版》 政治 , 学術 , 芸術からビジネス , スポーツ , ポップ : カルチャーまで , すべての地域・国の人名を網羅す人 る . 架空人名やグループ名も収録 , 正確で豊富な情大 報満載 . B5 判・ 2 分冊・ 3610 頁本体 28.000 円 ( 税別 ) ◎全項目名・全文を対象に多様な検索ができる CD-ROM 版 (Win/Mac 対応 ) 価格 28 , 000 円 ( 税別 ) 岩波書店 ・界人名大辞央

4. 図書 2016年9月号

・トッドの『シャル在にいたるまで重要な意味をもってい 、太古の形態を、母系でも父系でもな 私はエマニュエル い、双系的なものとして見るべきなのリとは誰か ? 』 ( 文春新書、二〇一六年 ) をる。日本にも多様性があるとしても、こ だ。母系制の先行を否定したとき、柳田読んだあと、あらためて日本の家族シスれほど顕著な差異としてあらわれないだ 国男はそう考えていたように見える。たテムについて考えた。トッドはこれまでろう。というのも、日本では根底に「双 だ、その時点では、柳田の見方は非科学の著作で、世界各地の社会の政治や宗教系的なもの」が強く残っているからだ。 トッドの見解は、『家族システムの起 的な独断として斥けられた。 のあり方を、統計学にもとづいて、四種 しかし、母系制が先行するという定説類の家族システムの違いから説明してき源』 ( 藤原書店、二〇一六年 ) においてまと は、一九七〇年代以後に疑われるようにた。トッドによれば、フランスでは、四められている。その翻訳を読んで興味深 なった。最初の形態は、母系でも父系で種類の家族形態が地域的に分布していく思ったのは、彼が家族システムについ もなく ) 双系的であったという見方が出る。それが歴史的にフランスの特異な在ての新たな研究を開始したのが一九七〇 てきたのである。これは東南アジアでのり方をもたらしてきた。たとえば、中央年代だということである。つまり、東南 人類学的調査にもとづくものである。吉部にフランス革命がある一方で、周縁部アジアでの調査によって、双系制の先行 田孝はこう述べた。《古代の日本列島にでは中世的なカトリック信仰が残っていがいわれるようになった時期である。ト ッドは、レヴィⅡストロースのみなら は、おそらく多様な形態の親族組織が並た。彼はそれを家族構造から説明した。 存していたと想定されるが、残存する文フランス中央部では兄弟間の均等相続がず、それまでの人類学者が考えていた基 献史料の大部分は、畿内地方を中心とあり、それが平等主義としてあらわれ本的前提を疑うところから始めた。トッ し、稲作を主たる生業とする社会に関する。他方、周辺部ではその逆である。しドの考えでは、太古の狩猟採集民は一夫 るものである》《しかし古代日本語の親かし、二〇一五年一ハリのシャルリ事件が一婦制の核家族である。そして、それは 族名称やインセスト・タブーから推定さ示すように、そのような下部構造が、近父系的でも母系的でもなく、未分化状態 れる一般的な親族組織のあり方は、双系年において違った観念的上部構造を伴うないし双方的 bilatéra 一である、という。 的な性格を強く示している》 ( 『律令国家とようになった。このように、フランスで ( 監訳者の石崎晴己は、それを bilinéaire 古代の社会』岩波書店、一九八三年 ) 。 は一国内での家族システムの多様性が現という意味での双系的と区別するため

5. 図書 2016年9月号

漫画 : 近藤ようこ原作 : 夏目漱石 怪 00 美 00 、淋石 0 夢 00 界 近藤ようこが描く , * 岩波書店ホームページ からどうぞ 二百十日・野分 鋭い批判精神に貫かれた , 漱石の転換 点となる 2 作品 . これで漱石の小説作 品がすべて岩波文庫化 ! 【岩波文庫】 漱石追想 + 川信介編 友人 , 同僚 , 教え子 , 編集者や担当医 , そして家 族・・・・・・ 49 人が語る素顔の漱石 . 【岩波文庫】本体 900 円 漱石紀行文集 漱石を読みなおす 藤井淑禎編 小森陽ー 【岩波文庫】本体 700 円 【岩波現代文庫】本体 980 円 紀行文「満韓ところどころ」「倫敦消息」 漱石の「個人主義」の意味をナショナ 「自転車日記」「京に着けるタ」を収録 . リズムとの関係で問いなおす . 姜尚中と読む夏目漱石 夏目漱石に心酔する著者がひも とく , 漱石作品の読みどころ . 姜尚中 【岩波ジュニア新書】本体 800 円読み継がれる魅力を再発見 . ・ウェフ連励 「第一夜」より 夏目漱石 1 1 月刊行予定 27 = 、

6. 図書 2016年9月号

見えてくるものがある。自らの脳で能動のは面白い。ヒトはあるものに満足でき 的に補うことで、世界が広がり、満足度ず、欠けているものに注意を払い、それ も高まるのだろう。こちらは主観的輪郭を補おうとして、科学・技術を発展さ と異なり、その人の能力や経験、そのとせ、一方で、不満や不幸も引き寄せてき きの気分にもよって、見えてくるものがたのだろう。 違ってくる。 「指月布袋画賛」で、もうひとつ重要 そもそもヒトは、足りないものを補うなのは指さしだ。布袋さんの指した月を 動物であるらしい。芸術認知科学者の齋見上げて子どもが喜んでいる。だが、こ 藤亜矢によると、片方の目が描かれていの指さしの意味が理解できるのは、人間 ないチン。ハンジーの顔の線画を子どものだけという説がある。人間に飼われてき 前に提示すると、二歳半から三歳の子どた大などのペットにもできるという説も もは「おめめがない」と言いながら、なあるが、かってわが家にいた愛大は、つ い目を描き入れるそうだ。円がうまく描いぞ指さしを理解することはなかった。 けない幼い子どもでさえ、何か描き込んえさがその先にあるよと指し示しても、 で、「おめめかいた」と満足するという。指先にのみ注意を払い、えさの方を見よ すみしげ もたらすことを、知覚心理学者の鷲見成一方、同じ絵をチン。ハンジーの前に差しうとしない。視線を大とえさの間に繰り 正は「未完の完」という美しい言葉で表出すと、描かれていない目を補うことは返し移動させて、えさのありかを教えよ 現した。未完なのに、いや、未完だからせず、描かれている方の目にしるしをつうとしても、単に視線を反らしたり合わ こそ、完全なものが得られるというのでけたり、顔全体を塗りつぶしたり、額のせたりしているのだと思うらしく、こち ある。世阿弥も「秘すれば花」と述べ、生え際をなぞったりするという。チン。ハ らの目をじっと見て、視線の先のえさに 芭蕉の「言ひおほせて何かある」と言っ 目を向けることはなかった。もっとも、 ンジーは「あるもの」に関心が向かい、 た。足りないからこそ、鑑賞者が補い、人は「ないもの」に関心が向かうという買い主も教典や文献には関心をもって まさ 図 2 セオドール・パークス「主観的輪郭」

7. 図書 2016年9月号

二〇一六年の中秋の名月は九月一五日家は雪隠か来る人ごとに紙おいてゆの表情は何とも柔和で、また、諸手を挙 せんがいぎなん の夜だという。今月は仙厓義梵の描いた く」という歌を残しているほど依頼が多げて笑っている子どもは本当にうれしそ 観月の絵を取り上げ、画中の人物とともかったようだ。四十代、五十代は寺の再うだ。 に、描かれていない月を、めでることに建に尽くし、六二歳で隠居すると、画風ふたりが月を見ているとわかるのは、 しよう。 が一転したという。確かに、若い頃に描 . 賛に「お月様いくつ、十三七つ」と書か 仙厓は臨済宗の僧侶で、軽妙洒脱な褝いたとされる水墨画は写実的で、丸山派れているからである。この歌は子守の 画を描いたことで知られる。一七五〇を継いだとも狩野派を継いだとも言われ「遊ばせ歌」だというが、私も子どもの 年、美濃生まれ。一一歳のときに地元のるそうだが、仙厓と聞いて思い浮かぶの頃、この歌を歌いながら、鞠つきをした 清泰寺で得度を受け、二度の諸国行脚のは、やはり軽妙洒脱な、というより、戯思い出がある。この歌はさらに「まだ年 たっちゅう あと、三八歳で京都の妙心寺塔頭の推薦れ絵のような、禅画だろう。彼は八八歳若いな、あの子を生んで、この子を生ん により、源頼朝が開いたとされる日本最で没するまで多くの書画を残している。 で、誰に抱かしよう、お万に抱かしょ 初の禅寺、博多の聖福寺に移り、三九歳「指月布袋画賛」 ( 図 1 ) は七福神のひと う、お万どこへ行った、油買いに茶買い のときに寺を継いだという。若い頃からり、 布袋さんが月を指さし、子どもが一に : : : 」と続いていく。「お月様いくっ 絵がうまく、「うらめしやわがかくれ , 緒に喜んでいるという構図である。布袋十三七つ」の意味は、一三と七を足して 心理学者の 美術館散歩⑨ 心の観月会 ーー仙厓の指月布袋画賛 三浦佳世

8. 図書 2016年9月号

き、その人にとって内心に収めておくにモに過ぎない。電話番号をメモする。そるとき「先生」は、「私は淋しい人間で は大きい問題であることを表わしていれはだれが書いても基本的に記述内容にす」と「私」に語りかけ、あなたもそう る。このことをカウンセラーは知ってお変化はない。だが、書くことにおいてなのではないか、と問いかける。 かなくてはならない、と河合はいう。さは、それとまったく異なる現象が起こ さび 「私は淋しい人間ですが、ことによ らに聞く者は、何が語られているかだける。人は、自ら認識していることを書く あなた でなく、語らなくてはならないという、 のではない。むしろ、書くことで何を認 ると貴方も淋しい人間ぢゃないです か。私は淋しくっても年を取ってゐる その人の心のありように寄り添わなくて識しているかを確かめるのである。さら はならないとも語っていた。 に言えば、書くことによってしか知り得から、動かずにゐられるが、若いあな だが、このことは専門家である河合のないことが、人間にはある。 たは左右は行かないのでせう。動ける 権威によらずとも、私たちの日常を静か先章で、この小説に潜んでいるもっと丈動きたいのでせう。動いて何かに打 つかりたいのでせう。 に顧みてみればそれが真実であることはも大きな問題の一つに、「私」がいっ さむ すぐに分かる。「先生」は「私」に出会「先生」の遺書をめぐって語り始めたの 「私はちっとも淋しくはありません」 さむ うまで「」に関することを誰にも明か 「若いうち程淋しいものはありませ かということがある、と述べた。読者で たび なぜあなた ん。そんなら何故貴方はさう度々私の さなかった。だが死を決した彼は、語りある私たちが読んでいるのはやはり、 うち 得ることのすべてを、声ではなく、文字「私」の告白である。今は、それが「私」宅へ来るのですかー このあひだ 此所でも此間の言葉が又先生の口か にして、「私」に書き残した。もし河合の遺書であるとは言わない。しかし、彼 ら繰り返された。 の言葉が正しければこの事実は、「先生」の人生にも、かっての「私は若かった」 「あなたは私に会っても恐らくまだ の「」の死をめぐる認識が大きく変化と語るに十分な沈黙の時間があり、何か したことの証左だということになる。 が契機となって、彼もまた、話し始めた淋しい気が何処かでしてゐるでせう。 ため ねもと 私にはあなたの為に其淋しさを根元か さらに、話すのではなく書いたということの意味は考えてよい。 だけ ら引き抜いて上げる丈の力がないんだ 事実にも、見過ごしてはならない「先だが、沈黙の深層にふれるためにもま から。貴方は外の方を向いて今に手を 生」の心の動きがある。人は、思ったこず、私たちは「先生」と「」の言葉を とを書くだけではない。それだけならメ味わってみなくてならないのだろう。あ広げなければならなくなります。今に さび か さび

9. 図書 2016年9月号

新刊案内に表示した発売日は小社出庫日です 9-2016 ◎ヒッグズ粒子発見や超弦理論は何を語るか 彼方の銀河から太陽系、地球、人間、そ れらを造る分子、原子、極微の素粒子。 宇宙には多様な存在と運動形式がある。 0 売 宇宙の統一理論を求めて それらを統一的にとらえようとしてきた発 3 日 ー物理はいかに考えられたかー 人類の情熱と思考を描く。ヒ , グズ粒子 6 - - 風間洋一 ( かざまよういち氏は、立教大学数理物理学研究センタ 1 研究員 ) 発見や超弦理論のもつ意味を語る。 本圧・ ◎一九九 0 年代の「アジア回帰」から浮かび上がる現在日本とアジアの間ではポップ・カルチャ ーはどのようにして出会い、日常化して 國トラ亥ナシ旱レン ~ 、一。 ノ、一ア、な欲望』内向き 0 才ー。 = 《』 0 危 ~ 一 ーポピュラー文化がアジアをひらくー うい関係をあぶり出した先駆的研究が、 体 6 ( いわぶちこういち氏は、モナシュ大学教授 ) 最新の論考を加えて蘇る。 岩渕功一 本圧・ ◎「心」なんて一般的なものはないー 「意識」や「心」とはいったい何だろう 8 か ? なぜ私たちは実在していると感じ るのか ? 古くからの哲学の難問に著者円 独自の独在論と言語哲学・分析哲学のア 0 改訂版ガ プローチから挑む。講義形式で好評の単 8 体 3 ( ながいひとし氏は、日本大学文理学部哲学科教授 ) 行本版の内容を全面的に改訂。 刊永井均 本圧叨 既 - 嬪◎カメラとペンを通して沖縄の心を見つめる旅 豊かな風土に寄り添って独自の文化・伝 統をはぐくみ、戦争の傷跡や基地の悲劇 を背負いながらも、おおらかに生きる沖 0 田 一口イ縄の人びと。復帰以来その魅力を撮り 0 沖縄若夏の己憧 づけてきた著者が、沖縄への熱い想いを 大石芳野 ( おおいしよしの氏は、フォトジャ 1 ナリスト ) 綴る珠玉のフォトエッセイ。〔カラー版〕本

10. 図書 2016年9月号

としての『日本的霊性』 ( 完全版 ) 」と述は、褝と霊性がうまく接続しないからで ( 一九四六年 ) や『日本の霊性化』 ( 一九四七 べられていた。注意深い方ならここで、 はないかというものであった 9 そのこと年 ) を発表したが、いったい西田との違 「完全版」とあるのはどういうことだとを末木さんに質問すると、道元が『正法いはどこにあるのかが明らかにされなけ 疑問に思われるかもしれない。実は、大眼蔵』において、霊性を「外道の見」とればならないだろう。 拙の『日本的霊性』はもともと五篇構成して退けていたことを指摘された。考え先にも引用したように、カスリスさん で、第五篇は「金剛経の褝」と題されててみれば、大拙は第四篇までの論述で、 はその大拙論の中で、「古典とはその最 いた。大拙が戦後その篇を除いて出版し浄土をより農民的と考えており、禅は武終章が常に読者によって書かれる作品で たので、現在では岩波書店の『鈴木大拙家的なものと考えていた。そうであれある」と述べていた。大拙没後五〇周年 全集』でも、岩波文庫でも、四篇構成のば、「日本的霊性」はどこか褝とずれてにあたってわたしたちに求められている ものが採用されている。しかし、末木さしまう何かがあるのだろう。さらに言えのは、こうした古典としての大拙作品の んが手掛けた角川ソフィア文庫の『日本ば、もはや禅の師ではなく、浄土の妙好再読解であろう。「日本的霊性」を今日 的霊性』には再び第五篇が採録された。人として大拙を受け取り直す必要がある考えることは、その重要な手掛かりを与 それは第五篇で展開される「即非の論のかもしれない。つまり、「鈴木的霊性」えてくれるはずである。 ( なかじまたかひろ・哲学 ) 理」が全体の理論的根底をなしているかもまた、「無意味性」や「無心」といっ らであるとともに、「日本的霊性」を有たラインとは別の仕方で考えられなけれ しているのは浄土と褝であると言っていばならないのかもしれないのだ。 るにもかかわらず、第四篇まではほとん その際、盟友の西田幾多郎の最晩年の どが浄土からみた「日本的霊性」であっ著作である「場所的論理と宗教的世界 て、禅を論じた第五篇を人れないと・ハラ観」の最後に書かれた、「国家とは、此 ンスを欠くという配慮からである。 土において浄土を映すものでなければな しかし、ではなぜ大拙は第五篇を除いらない」という一文がどうしても気にな たのだろうか。わたしが考えていたのる。戦後の大拙は、『霊性的日本の建設』