◎冷戦後もなお残る分断心理からの説却を求めて 東アジアで起こっている歴史認識 問題、領土問題、安全保障、環境頌 保全協力など、あらゆる分野の懸 事 3 館車 案に即し、日中韓の識者たちが忌← 東アジア和解への道 ノ円書防 憚なく討議したシンポジウムを編カ 0 退国 売 ー歴史問題から地域安全保障ヘー 製 O 鯤般発 集。ドイツ経験を参照しながら探上 4 2 一政 天児慧・李鍾元編「 = = ' 』」 " 」、 " 0 " 《 ' ' 0 ) 究する、東アジアの和解プ 0 セス。 ~ 体】羽 ◎過き去らない過去を生きるニつの島 アメリカと日本という二つの植民 地主義のもと、グアムとサイバン頁 2 は、戦中から戦後まで異なる戦争 3 経験と「解放」を生きてきた。戦一 戦禍を記念する 禍を記憶・記念し慰霊する人々の加 0 売 ーグアム・サイバンの歴史と記憶ー 製 O Ⅱ門教発 日 営みから、歴史との向き合い方に上専宗 判体 版キース・ --l ・カマチョ / 西村明、町泰樹訳ついての新たな視点を提供する。 歴 ◎一九七五年四月、金日成は朝鮮半島の武力統一を本気で考えていた ! 朝鮮戦争の後、党内粛清を進める 国 外 2 金日成に反発しながら、ソ連に対 上下抗するために経済援助や中朝国境 の画定で大幅な譲歩をした毛沢東。館 最後の「天朝」 書 未公開資料に基づき「血で結ばれ加 0 書 波 毛沢東・金日成時代の中国と北朝鮮た同盟 , という神話を徹底的に破晶 0 しんしか氏は、華東師範大学教授 吐各一日 判体劇 6 岩沈志華 / 朱建栄訳 ( - 一 -- しゆけんえい氏は、東洋学園大学教授 ) 壊する驚異の書。 本仕仆国・ 〈重版出来〉毛沢東の朝鮮戦争ー中国が鴇緑江を渡るまで朱建栄【岩波現代文庫】本体 1600 円、占 0 一ま 8 一 ~ ~
この胸のあたたかい何か と衝突して、助けられた時、ヘルメットは、自分がひどく愚かな質問をしたこと 記憶喪失の青年に逢ったことがある。 もうふた昔も前のことだから、今彼はの底にたつぶり血が溜っていたというかに気づき、恥かしくなった。 「そうか : : : そうだよな。分からない ら、相当な重傷だった。即死してもおか 中年のおじさんになっているはずだ。 彼は e 君といって、私と逢った時は一一しくなかったし、その後の昏睡状態からよな。生まれたばかりの赤ちゃんと同じ ような感じだったんだろうね」 十四歳の青年だった。京都の染物師の弟覚めない可能性の方が高かった。 ただし十八年「そうなんです。何も分からない状態 子をしていて、作務衣を着ていたのを覚しかし彼は目覚めた 門の記憶は、すべて喪われていた。 えている。長髪で線の細い印象ーー目は日 「じゃあ、どうかな、一番最初の記憶 「それは、どういう感じだったのかな 輝いているが、いつも辺りをきよろきょ っていうのは ? 」 ろしていて、何かに怯えているのかな、 私は尋ねた。何ひとっ記憶のない状態「最初の : : : 記憶 ? 」 と最初は思った。しかし話してみると、 e 君は思いつめるような顔をした。 ああ、これははにかんでいるのだな、とで目覚める、というのがどういう気分な 「今の君が覚えている、最初の思い出 のか、想像がっかなかったからだ。 分かった。 「どういうって : ・ : ・よく分かりません」さ。何を思い出す ? 誰かの顔 ? それ e 君は十八歳の時にバイク事故で頭を 君は申し訳なさそうに答えた。私とも病院の風景とか ? 強打し、完全に記憶を喪った。トラック 果敢なくもなく
尋ねながら、私は、三島由紀夫が自分「ごはんがキレイ ? おいしそうじやばり大きいままだったはずだ。 の生まれた時のことを覚えていると、どなくて、美しく見えたんだ ? 」 e 君は、半年おくれで美術大学に人学 こかに書いていたことを思い出した。お 「はい、もう、キレイやなあって」 し、キャン。ハスへ通うようになった。そ そらく百人中九十九人は「それは創作 記憶を喪ってしまってから後の最初のれはちょっと無茶な話だと、私も最初は だ」と答えるだろう。ただ一人、三島由記憶は、白いキレイなご飯ーー・私はそこそう思った。〇歳の大きな赤ん坊を大学 紀夫本人だけが「それは本当だ」と答えに詩みたいなものを感じて、感心しきりへ通わせるなんて、無茶だ、と。 るに違いない。記憶というのは、そういだった。 「多分両親は、普通の大学生と同じよ うものだ。 e 君は事故当時、美術大学への人学が うに生活させてやりたいと思うたんやと 「事故の後、ですよね ? 」 決まった直後だった。聞けば高校一二年ま思います。友達に囲まれて過ごすうち e 君はずいぶん長い時間をかけて、思では、美術をやるか、それともプロのモに、記憶も甦るんじゃないかと」 い出そうとしていた。私は、黙って待っトクロス・ライダーになるか、真剣に悩 「なるほど。でも大丈夫だったの ? た。そしてその間、自分自身の一番古いんだという。幼い頃から大会に参加して相手の言ってることとか、分かるの ? 」 記憶を辿ろうとした。が、それはあまりきたモトクロスの腕は、世界選手権で何「ああ、それは早い段階から分かりま 上手くいかなかった。やがて e 君は、自位というレベルだったという。その彼した。だから何もかも友達に教えてもら 信なさそうな口ぶりで、こう答えた。 が、バイクで事故を起こして、致命的ないました。ほら、鉛筆持って、この紙に 「ごはん、ですかね」 重傷を負うとは、上手の手から水が漏れこうすると、絵が描けます、いうてもう たのだろう。 「ごはん ? お米のごはん ? 」 手とり足とりで」 「そうです、お米のごはんです。お茶いずれにしても e 君は全ての記憶を喪「絵は最初から描けたんだ ? 」 碗に盛った白いご飯を差し出されるのをい、まっさらの赤ん坊のような状態で昏「描けましたね、不思議と。絵、見ま 見て、わあ、ごはんや、キラキラしてき睡から覚めた。ご両親や友人たち、みんす ? 」 れいやなア、て思うたんが、最初の記憶なさぞ喜んだろう。その喜びは、 e 君が 「ぜひ見たい」 です」 記憶を喪っていると判明した後も、やっ e 君は当時使っていたスケッチブック
農学と戦争 ーー東京農業大学満洲報国農場の記憶 ( 下 ) 世田谷キャン。 ( スの一隅に存在する慰であった。廣實氏は後輩たちから「機関名あまりが増派され、八月には、さらに 霊碑に気づきながら、ずっと関心を持た車」と渾名されるほどの立派な体驅の持七期生八〇名が加わった。若いエネルギ ずにいた私がこの問題に関わるようになち主で、満洲育ちのやさしい性格を併せーを注ぎ込んだ実習は、五族協和の「理 ったのは、たまたま与えられた生還者と持ち、天気予報図の上方に映る興凱湖を想郷」建設のかけ声のもと、現地調達の の邂逅が契機であった。 目にしては、消せない記憶にしばしばま資材を使い、宿舎をはじめ、台所、便 私が母校である東京農大国際農業開発ぶたを濡らすような方であった。 所、風呂場、排水溝などを次々と建設す 学科の教員となったのは一九九九年のこ 「満洲に拓殖科の実習農場を作るが参る。ハイオニア精神を存分に発揮したもの とで、その数年後、毎年卒業生向けに発加しないか」と太田正充助教授から声をであった。 行している「拓友会ニ = ース」に専門部掛けられたのは、廣實氏が満洲から「内廣實氏、岸本氏、林氏ら一三名は秋に 農業拓殖科卒業生のインタビ = ー記事を地」の農大 ( 進学した翌年、一九四四年なっても帰国せず、越冬隊として、大地 載せる企画が持ち上がり、たまたま若手一月のことであった。最初に先遣隊としも凍るマイナス四〇度の酷寒の冬を体験 であった私が担当者となったのである。 て派遣されたのは廣實氏や岸本嘉春氏らした。越冬隊の使命は、翌年四月に人学 取材によって与えられた六期生の廣實八名で、追って台湾出身の林恒生氏ら六する八期生約一〇〇名を迎える準備をす 平八郎氏との出会いは、私にとって衝撃期生および東海林仲之助氏ら七期生一一〇ることであり、蚤や虱に悩まされながら 塩海平
果てに』 ( 黒川泰三編、記録刊行委員会、一由で後輩たちの逃避行を先導することに 九八四年 ) の著者であり、東京農業大学満なった七期生の東海林仲之助氏も忘れが 洲湖北農場に関係する殉難の歴史を徴にたい。昨年八月に逝去されたのだが、自 人り細を穿って記した方である。この本分の骨は墓に納めてくれるなと家族に遺 は、その解説にも記されている通り、四言されたという。学友がいまだに満洲の 〇年の歳月を要して自らの姿を冷静に振地で白骨を曝しているのに、自分だけが り返りつつ、しかもなお懊々としてやま安穏と墓に人るわけにはいかないという ない思想家としての黒川氏の精神的格闘彼の信念のゆえだ。 の所産であり、四分五裂した農大生一人なお、六期生の廣實平八郎氏と岸本嘉 一人の逃避行を細大漏らさず一つの物語春氏の二人は長年に亘って北京語の学習 として描き出した、どこまでもリアルなを継続し、一九八六年悲壮な思いで巡礼 ドキュメンタリーである。 の旅に出た。そして「、かっての湖北農場 黒川氏は、生還学生たちが卒業を記念を探し当てた記録が『餓了肥 , ーー元東京 して出版した『白樺』という手書きの回農大湖北農場訪問記』 ( 廣實平八郎著、一九 顧録の編集も担当されている。そこには八七 ) に纏められている。亡くなった五 「真珠貝は我が身の痛さに堪えずして真八名の仲間とともに胸に刻まれていた思 珠を輝かす」の箴言が掲げられ、満洲報い出の湖北農場は、現在「黒竜江省八五 国農場における殉難の出来事を繰り返し〇農場四隊」として堅実に、より美し 掘り下げることによって珠玉の輝きを析 く、より豊かに経営されていたのであ 出させようとする妥協を知らない決意のる。さらに、一九九六年七月には、廣實 表明がなされている。 氏を中心に満洲生き残り組のうちから七 越冬隊に加わり、年上であるという理名が、旧湖北農場を再訪している。その 書物史への扉 カラー版 宮下志朗 97 & 4- 開 -061134-3 四六判本体 2700 円 ( 税別 ) 西洋中世の豪華写本から越中富山の薬袋まで , 書物 と文字文化に関する愉快かっ深いお話を満載 . 書物 史研究の第一人者によるカラー版書物文化史案内 . 岩波書店 ◎愉快なお話が満載の書物文化史案内 . F 志朗 ま↓物史への 0 ・′イ
また展示会の開催中、九月一五日には長のご息女も、この講演会のために、わ興会に就職したのだが、この組織は大政 ざわざ長野県から駆けつけて下さり、ま翼賛会の構成団体であった農業報国連盟 「東京農業大学満洲報国農場の記憶ーー 大学と戦争を考える」という公開シンポた、展示会に多くの写真を提供して下さの後継団体であったことからによ ジウムを行った。このシンポジウムでった六期生の田中博也氏のご息女も参加って解散させられ、農林省開拓局に移籍 は、「満洲からの生還とその後をふりかして下さった。田中氏は、先述の七期生することになった。その結果、引揚げ対 えって」と題して、まず村尾氏と小川氏の東海林氏と同じく、ちょうど展示会の策室の主要構成メンバーであった谷垣専 が体験談を語り、次に私が「東京農業大直前に逝去されたのである。このシンポ一、増田盛、石原治良などと同じ職場で 学と満洲報国農場の記憶・ー・大学の使命ジウムは、解明しなければならない課題働くことになり、廊下に積まれていた廃 がいまだに山積しているにも拘わらず、棄書類などから、重要なものを抜き出す と責任」というテーマのもと、かって満 、洲国拓務総局にいて満洲報国農場の構想残されている時間が少ないことを私たちことができたという。 満洲から引揚げてきた報国農場隊員の を進言した杉野忠夫 ( 一九五六年に東京農に明確に示してくれた。 調査、援護および救恤を担った上記の引 大農業拓殖科初代学科長に就任 ) の言動につ いて批判的な検証を行った。最後に京都最後に、満洲報国農場隊員の善後処理揚げ対策室のメン・ハーのうち、谷垣専一 大学の藤原辰史准教授に登壇してもらいがどのように行われたのかについて触れと増田盛は、後日、国会議員になってい 「農学と戦争ーー満洲移民の学問の責任ておきたい。国会図書館や農林省図書館る。あの悲惨な状況を目の当たりにし、 を問う」と題して、杉野忠夫の師匠であを血眼になって探してみても、一片の資直接帰還者と接していたにも拘わらず、 り満蒙開拓に最初から深く関わっていた料すら見つけることができなかったのだこれらの人物は、議員立法などの対策を 京都大学教授橋本傳左衛門に関する講演が、ごく最近になって、農事振興会が直まったく講じなかった。 をしていただいた。このシンポジウム轄していた東寧報国農場で経理を担当さ同じく、引揚げ対策室のメンバーの一 は、企画者の予想をはるかに超えて、多れていた平田弘氏から貴重な資料を見せ人で農林技官であった石原治良は、満洲 くの希有な参加者に恵まれた。ソ連侵攻ていただき、全容の把握に一歩近づくこ報国農場に関する唯一と言ってもよい詳 の四日前に生を受けた佐久本嗣秀副農場とが許された。平田氏は、戦後、農事振細な記録である『農事訓練と隊組織によ
彼に訊いてみたいことが、ひとつあつる ? 』『これあなたとわたし』『わたし、 のの光ってるやつが下から出てくる これ、おもろいなアと思うて、もう十個た。 あなたのお母さんよ』いうて僕に言い聞 も二十個も買うてしもうて、もうカンべ それは簡単に言うと、愛は、記憶の結かせてくれたんです。本当一所懸命に、 ンしてくれやて、呆れられました。だけ果なのか ? ということだ。例えば母親一時間も二時間も『わたし、あなたのお どその時は、本当に面白うて、不思議でや親友に対する愛情は、記憶とともに失母さんよ』いうのんを何度も何度も聞い もうたまらんかったんですわ。今でもあわれてしまったのか、どうか ? ているうちに、僕もだんだんと『そう のう、コンビニ人ると、もう胸がドキド 「どうかな : : : 例えばお母さんとかにか、このひと僕のお母さんや』『お母さ キしますね。うわあ、また何や新しいお対して、かって抱いていたはずの愛情つんなんや』そう思うたら、胸のこう、こ 菓子、出てるやん ! めちやテンションていうのは、事故の後でも残っていたのあたりが何とも言えずあったかーくな 上がります」 の ? それとも全然、見知らぬおばさんってきたんです」 私は遠い昔、多めの小遣いを貰って、 が何か言ってる、くらいにしか感じなか 「脳は忘れていても、胸が覚えてたん だ」 駄菓子屋やオモチャ屋へ走っていった時ったの ? 」 「どうやったかなア : : : 」 のドキドキした感じを、遥か遠くに思い それは驚くべき答えだった。これはっ 出して、胸が切なくなった。ああいう気 e 君はまた根をつめて思い出そうとしまり、脳だけでなく、胸にも何らかの大 持でコンビニに人れる、というのは、ど始めた。 , 彼にとってはもう六年も前のこ切なことを記憶しておく装置がある、と うなのだろう、むしろ幸福とさえ呼べそとである。でも見方を変えれば、わずかいうことではないか。大発見だ、とは思 うな気もする。 六年前のことなのだから、きっと鮮やかったが、そんなことを話す相手もおら 君は事故から後、六年の間、驚くべに覚えているはずだ。 ず、それを発見したからといって景気が よくなるわけでもないので、黙ってい きスピードでこの世界を把握し直し、今「ある時にですね、 e 君は語り出した。 た。当時はそんなことを言っても、変人 や外見通り二十四歳の青年として生活し 「母親が、僕と一緒に写ってる写真を扱いされるだけだったろうーーしかしそ ているーーこれは妻いことだ。奇跡だと 思う。それ認めた上で、私はどうしても見せながら、もう何度も何度も『わかれから数年後、多田富雄博士が注目を集
大地震の後に、なぜまた大地震が誘発され るのか、東北地方太平洋沖地震を例にやさ ご ~ 連鎖する大地震 しく解説。さらに懸念される地域、活断層 カ 遠田晋次 978 崋 862 ま・ 5 本体 1200 円 を指摘。 製 並 次の巨大地震はいっ起こるのか。西南日本 判 の「地震活動期」とは。整備が進む地震観 測網、新たな発見の解説と、震災軽減へ向 尾池和夫 978 ムムろ・ 874786 本体 1200 円 けた提言。 災的興円 放射能放出は 被面復 8 説原子力国家への道メルトダウンー こうして起こった 多衵 978 ・ 4 ・ 8628527 ー 8 吉岡斉 978 ムま 62852 よ田辺文也 ため対 わ本大災害と復旧・復興計画情報学 978 ー 8 ・ 028522 ・ 3 を過る・、 越澤明 メディアは何をどう伝えたか 何経取加 にの , 製 高野明彦・吉見俊哉・三浦伸也 れ後て上 液状化の脅威 978 ー 4 ー 8 ・ 0285 ー 5 わ事し・ 978 ・ 4 ・ 8 ・・ 0285236 判濱田政則 書 れ , 即 6 復興と日本財政の針路 叢 は国記憶と記録まるごとアーカイプス 故た課 978 ー 4 ・ 8 ・ 02852 甲 2 高端正幸 978 ー 4 ・ 8 ・ 028524 ー 7 事い諸す長坂俊成 発なる示 チェルノブイリ 原せすを 、日本鱆議の氏線量放射線被曜 から福島へ とさ面題 学者にできることは何カーと 2 通ー・ 978 ー 4 ー 8 ・ 0285398 今中哲ニ 978 ー 4 ・ 8 ・ 028525 ー 4 災化直課広渡清吾 震風 . や 大をしン 歴史・科学・ 本実録ョ 震災後の自然とどうつきあうか南海トラフ巨大地震社会 日事記ジ 東のにビ鷲谷いづみ 978 ・ 4 ま 628523 石橋克彦 978 ・ 4 ま・ 02853 一・ 5 1 138 1
9 漱石一没後百年 岩波書店の新刊 大石芳野「沖縄若夏の記憶」 ( 岩波現代文庫 / 7 月 15 日発売 ) より サトウキビ畑の風 2016 お求めの出版物が書店の店頭にない場合は , その書店にこ注文下さい . 表示した価格はすべて本体価格です . 定価はこの価格に消費税が加算されます . 小社に直接ご注文の場合は , ブックオーダー係 TEL049 ( 287 ) 5721 , FAX049 ( 287 ) 5742 , または岩波書店ホームページをこ利用下さい . http://www.iwanami.CO.jp/
時の記録を含めて纏められたのが、先述に応答してくれたのである。学生のうちする運びとなった。この企画は、主催者 の一人は、後日、村尾氏が語り部を務めの思惑を越えて内外に反響を呼び、満洲 の『生還者の覚書き』である。 ておられる立命館大学国際平和ミュージ報国農場が、いまに至るまで未解決のま 私は、自分がこのような出会いによっアムを訪ね、厚かましくも、村尾氏の自ま、多くの人々の生涯に影を落としてい て変えられたように、学生たちにも同様宅に宿泊させていただくほどの熱心さをる現実を改めて想起させるものとなっ の出会いを経験してもらいたいと心から示してくれた。この企ては二〇一五年にた。 ー・村尾両氏とも、真面展示物の目玉の一つは、小川氏が実際 切望するようになっていった。幸い私も継続され、 は、専門部農業拓殖科の後身とも言うべ目に体験談を聞いてくれる後輩たちによに肌身離さず苦悩を共にした唯一の携行 き国際農業開発学科の一年生必修の農業って、生き残らされた者としての自分た品であるリュックサックであった。小川 総合実習の評価責任者になっている。そちの使命の一端を果たすことが出来たと氏は、汚れたリュックサックを帰国後母 こで同僚の足達太郎教授と相談し、二〇いう感懐を語ってくれた。二人とも、一親が丹精込めて洗ってくれたというコメ 一四年の九月に泊まり掛けで行われた実七〇名近い学生たちの感想文一つ一つにントをつけてショーケースに展示してく 習の際、ご健在な八期生の小川正勝氏と目を通し、時間を掛けて返信を認めてくれたのだが、こんなものに関心を持つ人 ださった。 がいるだろうかと最初は躊躇されてい 村尾孝氏をお招きし、夜、体験談を語っ た。しかし、このリュックサックをみる てもらうことにした。 学生たちは、自分たちと同じ学科の先戦後七〇年目に当たる二〇一五年、ためだけに長野県から足を運んで下さっ ー氏をはじめ、みなが 輩たちが、自分たちと同じ一年次の農業「満洲報国農場の記憶」という展示会のた女性があり、小月 実習中に経験した妻惨な出来事に真剣に企画を「東京農大「食と農」の博物館」恐縮したほどであった。この方は、乳児 耳を傾けてくれた。昼間の農作業の疲れに提出したところ、館長はじめ、スタッの頃、リュックサックに入れられて満洲 / から引揚げて来たのだという母親の話を にも拘わらず、一七〇名が一人として居フの方々のご理解を得ることが出来、弋 眠りをすることもなく、熱心に講演を聴月二〇日から九月三一日まで、小川氏と思い出し、いても立ってもいられず駆け き、講師として立たれた先輩たちに熱心村尾氏の監修により標記の展示会を実現つけたのだと語ってくれた。