果てに』 ( 黒川泰三編、記録刊行委員会、一由で後輩たちの逃避行を先導することに 九八四年 ) の著者であり、東京農業大学満なった七期生の東海林仲之助氏も忘れが 洲湖北農場に関係する殉難の歴史を徴にたい。昨年八月に逝去されたのだが、自 人り細を穿って記した方である。この本分の骨は墓に納めてくれるなと家族に遺 は、その解説にも記されている通り、四言されたという。学友がいまだに満洲の 〇年の歳月を要して自らの姿を冷静に振地で白骨を曝しているのに、自分だけが り返りつつ、しかもなお懊々としてやま安穏と墓に人るわけにはいかないという ない思想家としての黒川氏の精神的格闘彼の信念のゆえだ。 の所産であり、四分五裂した農大生一人なお、六期生の廣實平八郎氏と岸本嘉 一人の逃避行を細大漏らさず一つの物語春氏の二人は長年に亘って北京語の学習 として描き出した、どこまでもリアルなを継続し、一九八六年悲壮な思いで巡礼 ドキュメンタリーである。 の旅に出た。そして「、かっての湖北農場 黒川氏は、生還学生たちが卒業を記念を探し当てた記録が『餓了肥 , ーー元東京 して出版した『白樺』という手書きの回農大湖北農場訪問記』 ( 廣實平八郎著、一九 顧録の編集も担当されている。そこには八七 ) に纏められている。亡くなった五 「真珠貝は我が身の痛さに堪えずして真八名の仲間とともに胸に刻まれていた思 珠を輝かす」の箴言が掲げられ、満洲報い出の湖北農場は、現在「黒竜江省八五 国農場における殉難の出来事を繰り返し〇農場四隊」として堅実に、より美し 掘り下げることによって珠玉の輝きを析 く、より豊かに経営されていたのであ 出させようとする妥協を知らない決意のる。さらに、一九九六年七月には、廣實 表明がなされている。 氏を中心に満洲生き残り組のうちから七 越冬隊に加わり、年上であるという理名が、旧湖北農場を再訪している。その 書物史への扉 カラー版 宮下志朗 97 & 4- 開 -061134-3 四六判本体 2700 円 ( 税別 ) 西洋中世の豪華写本から越中富山の薬袋まで , 書物 と文字文化に関する愉快かっ深いお話を満載 . 書物 史研究の第一人者によるカラー版書物文化史案内 . 岩波書店 ◎愉快なお話が満載の書物文化史案内 . F 志朗 ま↓物史への 0 ・′イ
も、ときにはファイヤーストームを囲ん ( 廣實平八郎編、一九九八年 ) には、その時も苦しまねばならないのだ」と、大声で で歌や踊りに我を忘れ、大いに楽しんだの苦渋の決断が、以下のように生々しく叫びたくなる時が有ります。しかし、よ く考えてみると、沢山の後輩を見殺しに 記されている。 そうである。 一九四五年八月九日にソ連が侵攻して「或る日、偶然に、従兄弟の孫民に会した罪は、生涯、鉄のわらじを履いて鉛 きたとき、廣實氏は召集令状を受け取っいました。彼は私の近況を聞いた後言いの十字架を背負い続けても償えるもので はないのでしよう」。 ていたのだが、風土病の再帰熱に罹患しました。「皆の世話をするのも良いが、 てしまい、応召延期の手続きをするため安東にはお祖母ちゃんと憲治郎の一一人だ廣實氏は、生還者の中でも最も遅く帰 に東安の病院に出向いていた。唯一の在けだろう、お前が帰ってやらないでどう還した学生の一人であったが、帰学した 満教員であった佐久本嗣秀副農場長も四なるのだ」と。忘れよう忘れようとして際、引揚げ学生の事務を担当していた教 日前に女児を出産した夫人と共に東安にいた事を思い出さされました。瀕死の後員から、「おまえには帰ってきてもらい たくなかった。責任者である上級生のお おり、避難開始時に、いわゆる「東安駅輩たちを取るか、苦労して育ててくれた 祖母を取るか、ぎりぎりの選択を迫られまえが帰ってくるとすべてがわかること 爆破事件」に遭遇している。 その後、病のために自力で歩けなかつました。遂に私も肉親を選ぶに至ったのになってしまう」と告げられた衝撃を私 た廣實氏は、周囲の厚意に支えられて何でした。この時から五寸釘が私の胸に突に話してくれた。廣實氏にとどめの釘を とか新京までたどり着き、そこで約三〇き刺さり、今日に至っています。この釘刺したのは、実は他ならぬ母校の教員だ 名の農大の後輩たちと合流し、満洲でのは私が灰にならない限り取れないでしよったのである。 生活感覚をまったく持ち合わせていなかう。最近でも時々、夜中に五寸釘がうず廣實氏にインタビューをした翌年、新 った彼らの身の回りの世話をすることにき出して目を覚まします。眠れない床の人生として満洲報国農場の悲劇に遭遇さ なった。最終的には、安東に残してきた中で、「俺がどんな悪いことをしたのだ、れ、九死に一生を得て帰国された八期生 祖母と弟の面倒をみるために別行動を取あの時俺は全力を尽くして世話をしたでの黒川泰三氏、村尾孝氏、小川正勝氏と ることになったのだが、『生還者の覚書はないか、どうして年老いた祖母を選択の出会いが与えられた。黒川氏は『東京 き東京農業大学満洲湖北農場顛末記』したことが悪いのだ、こんなにいつまで農業大学満州農場殉難者の記録凍土の
また展示会の開催中、九月一五日には長のご息女も、この講演会のために、わ興会に就職したのだが、この組織は大政 ざわざ長野県から駆けつけて下さり、ま翼賛会の構成団体であった農業報国連盟 「東京農業大学満洲報国農場の記憶ーー 大学と戦争を考える」という公開シンポた、展示会に多くの写真を提供して下さの後継団体であったことからによ ジウムを行った。このシンポジウムでった六期生の田中博也氏のご息女も参加って解散させられ、農林省開拓局に移籍 は、「満洲からの生還とその後をふりかして下さった。田中氏は、先述の七期生することになった。その結果、引揚げ対 えって」と題して、まず村尾氏と小川氏の東海林氏と同じく、ちょうど展示会の策室の主要構成メンバーであった谷垣専 が体験談を語り、次に私が「東京農業大直前に逝去されたのである。このシンポ一、増田盛、石原治良などと同じ職場で 学と満洲報国農場の記憶・ー・大学の使命ジウムは、解明しなければならない課題働くことになり、廊下に積まれていた廃 がいまだに山積しているにも拘わらず、棄書類などから、重要なものを抜き出す と責任」というテーマのもと、かって満 、洲国拓務総局にいて満洲報国農場の構想残されている時間が少ないことを私たちことができたという。 満洲から引揚げてきた報国農場隊員の を進言した杉野忠夫 ( 一九五六年に東京農に明確に示してくれた。 調査、援護および救恤を担った上記の引 大農業拓殖科初代学科長に就任 ) の言動につ いて批判的な検証を行った。最後に京都最後に、満洲報国農場隊員の善後処理揚げ対策室のメン・ハーのうち、谷垣専一 大学の藤原辰史准教授に登壇してもらいがどのように行われたのかについて触れと増田盛は、後日、国会議員になってい 「農学と戦争ーー満洲移民の学問の責任ておきたい。国会図書館や農林省図書館る。あの悲惨な状況を目の当たりにし、 を問う」と題して、杉野忠夫の師匠であを血眼になって探してみても、一片の資直接帰還者と接していたにも拘わらず、 り満蒙開拓に最初から深く関わっていた料すら見つけることができなかったのだこれらの人物は、議員立法などの対策を 京都大学教授橋本傳左衛門に関する講演が、ごく最近になって、農事振興会が直まったく講じなかった。 をしていただいた。このシンポジウム轄していた東寧報国農場で経理を担当さ同じく、引揚げ対策室のメンバーの一 は、企画者の予想をはるかに超えて、多れていた平田弘氏から貴重な資料を見せ人で農林技官であった石原治良は、満洲 くの希有な参加者に恵まれた。ソ連侵攻ていただき、全容の把握に一歩近づくこ報国農場に関する唯一と言ってもよい詳 の四日前に生を受けた佐久本嗣秀副農場とが許された。平田氏は、戦後、農事振細な記録である『農事訓練と隊組織によ
農学と戦争 ーー東京農業大学満洲報国農場の記憶 ( 下 ) 世田谷キャン。 ( スの一隅に存在する慰であった。廣實氏は後輩たちから「機関名あまりが増派され、八月には、さらに 霊碑に気づきながら、ずっと関心を持た車」と渾名されるほどの立派な体驅の持七期生八〇名が加わった。若いエネルギ ずにいた私がこの問題に関わるようになち主で、満洲育ちのやさしい性格を併せーを注ぎ込んだ実習は、五族協和の「理 ったのは、たまたま与えられた生還者と持ち、天気予報図の上方に映る興凱湖を想郷」建設のかけ声のもと、現地調達の の邂逅が契機であった。 目にしては、消せない記憶にしばしばま資材を使い、宿舎をはじめ、台所、便 私が母校である東京農大国際農業開発ぶたを濡らすような方であった。 所、風呂場、排水溝などを次々と建設す 学科の教員となったのは一九九九年のこ 「満洲に拓殖科の実習農場を作るが参る。ハイオニア精神を存分に発揮したもの とで、その数年後、毎年卒業生向けに発加しないか」と太田正充助教授から声をであった。 行している「拓友会ニ = ース」に専門部掛けられたのは、廣實氏が満洲から「内廣實氏、岸本氏、林氏ら一三名は秋に 農業拓殖科卒業生のインタビ = ー記事を地」の農大 ( 進学した翌年、一九四四年なっても帰国せず、越冬隊として、大地 載せる企画が持ち上がり、たまたま若手一月のことであった。最初に先遣隊としも凍るマイナス四〇度の酷寒の冬を体験 であった私が担当者となったのである。 て派遣されたのは廣實氏や岸本嘉春氏らした。越冬隊の使命は、翌年四月に人学 取材によって与えられた六期生の廣實八名で、追って台湾出身の林恒生氏ら六する八期生約一〇〇名を迎える準備をす 平八郎氏との出会いは、私にとって衝撃期生および東海林仲之助氏ら七期生一一〇ることであり、蚤や虱に悩まされながら 塩海平
時の記録を含めて纏められたのが、先述に応答してくれたのである。学生のうちする運びとなった。この企画は、主催者 の一人は、後日、村尾氏が語り部を務めの思惑を越えて内外に反響を呼び、満洲 の『生還者の覚書き』である。 ておられる立命館大学国際平和ミュージ報国農場が、いまに至るまで未解決のま 私は、自分がこのような出会いによっアムを訪ね、厚かましくも、村尾氏の自ま、多くの人々の生涯に影を落としてい て変えられたように、学生たちにも同様宅に宿泊させていただくほどの熱心さをる現実を改めて想起させるものとなっ の出会いを経験してもらいたいと心から示してくれた。この企ては二〇一五年にた。 ー・村尾両氏とも、真面展示物の目玉の一つは、小川氏が実際 切望するようになっていった。幸い私も継続され、 は、専門部農業拓殖科の後身とも言うべ目に体験談を聞いてくれる後輩たちによに肌身離さず苦悩を共にした唯一の携行 き国際農業開発学科の一年生必修の農業って、生き残らされた者としての自分た品であるリュックサックであった。小川 総合実習の評価責任者になっている。そちの使命の一端を果たすことが出来たと氏は、汚れたリュックサックを帰国後母 こで同僚の足達太郎教授と相談し、二〇いう感懐を語ってくれた。二人とも、一親が丹精込めて洗ってくれたというコメ 一四年の九月に泊まり掛けで行われた実七〇名近い学生たちの感想文一つ一つにントをつけてショーケースに展示してく 習の際、ご健在な八期生の小川正勝氏と目を通し、時間を掛けて返信を認めてくれたのだが、こんなものに関心を持つ人 ださった。 がいるだろうかと最初は躊躇されてい 村尾孝氏をお招きし、夜、体験談を語っ た。しかし、このリュックサックをみる てもらうことにした。 学生たちは、自分たちと同じ学科の先戦後七〇年目に当たる二〇一五年、ためだけに長野県から足を運んで下さっ ー氏をはじめ、みなが 輩たちが、自分たちと同じ一年次の農業「満洲報国農場の記憶」という展示会のた女性があり、小月 実習中に経験した妻惨な出来事に真剣に企画を「東京農大「食と農」の博物館」恐縮したほどであった。この方は、乳児 耳を傾けてくれた。昼間の農作業の疲れに提出したところ、館長はじめ、スタッの頃、リュックサックに入れられて満洲 / から引揚げて来たのだという母親の話を にも拘わらず、一七〇名が一人として居フの方々のご理解を得ることが出来、弋 眠りをすることもなく、熱心に講演を聴月二〇日から九月三一日まで、小川氏と思い出し、いても立ってもいられず駆け き、講師として立たれた先輩たちに熱心村尾氏の監修により標記の展示会を実現つけたのだと語ってくれた。
男児として描かれているが、まあそれら学校で習った唱歌を家庭でさらえる、②としている。これも小説の話だが、宮尾 は講談的誇張だろう。だが、一絃琴を習ピアノやオルガンの指使いを覚えられ登美子の『一絃の琴』 ( 講談社、一九七八 ) い、明治一二十年代に笛を携えてアメリカる、③琴や三味線より音が奥ゆかしい、では、家がつぶれ芸妓となって一絃琴を 経由でイギリスまで足を延ばした、向こ④値段が特別に安い、⑤取り扱いが手披露したとされる弟子が塾を破門にな う見ずなアイディアマンであったことは軽、が挙げられている ( 『大正琴図鑑』全音る。明治三十年ころの話だ。また、大正 間違いない。 楽譜出版社、二〇〇一一 l) 。西洋音楽が弾け琴の土台となった二絃琴も、一名、出雲 大須観音の北側で旅芸人などの宿の集ることが売りで、家庭を主な販売対象と琴ともいうように、奉納するための音楽 まった北野新地 ( 森田屋旅館もこのあたりしていたことが窺える。遊郭の女たちのを弾くためのもので、俗曲を弾くことは にあった ) が一八七四 ( 明治七 ) 年に遊郭と姿は、この広告からは見えてこない。 厳に慎まなければならなかったという。 して公認され、翌年、観音様の西側に移橋の小説では、芸者たちを集めて練習さそこから歌謡曲に欠かせなくなる大正琴 転し旭遊郭になり、一九二三 ( 大正十一 l) せ、大阪中之島で女百人のデモ演奏会をへ飛躍するには、やはり森田吾郎と花街 年に中村遊郭にさらに移転するまで、約催した話が出てくるが、真偽の程はわか大須との一通りではない密な関係が大き 半世紀の間、大いに賑わった。当然、音らない。 な役割を果たしたのだと思う。 曲を奏でる料亭や芝居小屋も多数あった森田吾郎が子供のころから習っていた という。森田吾郎がそのような環境で育という一絃琴は、幕末に士族の間で流行村田英雄の『人生劇場』 ( 一九五九 ) イン ったことは、誰もが触れている。 した。明治に人って「士族」という枠はトロの大正琴は作曲者、古賀政男自身が そして、外国でピアノやタイプライタ取り払われても、上流階級の人々のたし弾いていたそうだ。 ーに実際に接したことが、大正琴のメカなむものだった。森田吾郎の師事した富今、聞いてみても、イントロの大正琴 ニ - ズムを発明する下地になったこともい田豊春は、一絃琴の曲集を編纂し家元とがそんなにイン。ハクトをもったことが信 うまでもないだろう。 して普及に大きな力のあった真鍋豊平のじられないくらいだが、大正琴リヴァイ 大正琴が発売されて間もないころの新一番弟子としかわからないが、小橋は小 ヴァルのきっかけになったといわれる。 聞広告を見ると、その長所として、①説の中で ( 名は梶田豊琴と変え ) 旗本の出だたしかに、ぼくが楽器店のガラスケース