な像が見えてくることはない。見えたと ョウだ、逃げろ ! アラビアの商人によって構成されてい きは常にくつきりと見えている。しかし最初に届いた情報が後続の情報を待つる。冒頭のネイボンの実験結果からすれ 事実は、先に届いたぼんやりした情報にて、統合あるいは再編した結果を脳は意ば、ダリが表題に掲げた「見えない」の 基づいて逃げ始め、その後で、その事態識に上げているということになる。脳が対象は、ヴォルテールの胸像ではなく、 を「ヒョウだ ! 」と認識しているのであ最初に伝えた「逃げろ」の指令に、私た尼僧やアラビアの商人たちのはずだ。私 たちは部分よりも全体を早く捉えるのだ る。だが、私たちの知覚はこうだ。「ヒちの意識が追いつくことはない。そうだ とすれば、主人公は脳なのか、意識をから。だが、ダリはちょっと工夫して、 所有している人間の方なのか。このこ胸像の方を完全な姿で描かず、尼僧やア 場とを考えるといつも、これは科学の問ラビア商人の方を完結した姿で表現し 隷題というより、哲学のそれだろうと思た。このため見えやすさは拮抗し、ダブ ルイメージであることがわかりやすくな るえてくる。 っているのかもしれない。 のさて、この処理時間の違いによる認 胸識のずれを楽しむような絵を描いたのダリよりも早くダブルイメージの人物 なが、スペイン、カタルーニヤ地方の画を描いたのは、江戸の浮世絵師、歌川国 え 家サルバドール・ダリである。彼は、 . 芳である。彼の描いた「みかけはこはゐ 見 しばしば、全体を見たときと部分を見がとんだいい人だ」という題の絵では、 一たときで異なるイメージが見える絵、よく見ると、こわい顔が、大勢の人の集 テ ルっまりダブルイメージの作品を製作し積で描かれている。賛に「とかく、人の ヴた。たとえば、「ヴォルテールの見えことは人にしてもらわねば、いい人には ない胸像のある奴隷市場」 ( 図 1 ) 。図ならぬ」とある。大勢の人に支えられ、 中央にヴォルテールの胸像が見えるだ手を繋いで人は生きている、あるいは、 図ろうか。奴隷市場に居合わせた尼僧や人は人のあいだで人になる、というよう
めにつるした絵を垂直水平の方向に戻肖像画として姿を現わす ( 図 2 右 ) 。彼は鳥獣図屏風」と「鳥獣花木図屏風」で す。すると、抽象的なダイヤ型の色の連右手の麻痺で精巧に升目を埋めるこどはは、升目は時に角を失って丸く埋めら なりは、元の写真と瓜二つの、いや、さできなくなったが、かって以上に豊かなれ、時に装飾的な。ハターンで彩られ、 らに輝きを増し、彼独自の特徴をもった肖像画、部分 ( 図 2 左 ) はポップなのに全「白象」と同じ升目の発想に基づきつつ、 体は精巧なダブルイメージの作品を表現表現の趣旨が変わってきているようにも 獣分 鳥部 思われる ( 図 3 ) 。動物の表現も稚拙なこ するのに成功したのである。 「は 冲下 とから、若冲の「白象ーからアイデアを この手法、どこかで見たことがないだ ろうか ? そう、伊藤若冲の「樹花鳥獣得た他人の模倣作、あるいは、工房で弟 、伊屏 図屏風」や「鳥獣花木図屏風」である。子が製作した作品との説もあるようだ。 図大 木拡 これ以前に若冲が描いたとされる「白これらの屏風が若冲作かどうかの真偽 図花の 象群獣図」では、縦横九ミリメートはともかく、正確な升目をグ一フデーショ ルの正確な方眼を墨の濃淡で正確にンで埋める手法から、升目を基盤としな がらも、多色を用い、意匠的に自由に升 区切った後、その上にグラデーショ ンで象とほかの動物を巧みに描い目を埋める表現に変わった点は、クロー ( , 〈て、「升目描き」と呼ばれる技法をズの製作史とも重なってみえる。日本と = ・ $, 編み出している。この描き方は、京アメリカで、一方は西陣織、一方はデジ 都の西陣織の下絵から着想を得たとタル写真という、それぞれの時代の中心 も、西陣織の下絵として描かれたと的な技術からヒントを得て、部分と全体 も、あるいは、織物に見えるようにが異なるダブルイメージの絵を生み出し た。この点でも、やはり両者は重なって 描いたとも言われているが、クロー みえてくる。 ズの最初の手法とそっくりだ。 ( みうらかよ・心理学 ) この手法を引き継ぎつつ、「樹花
たジュゼッ。へ・アルチンポルドを思い出の助けを得て、新たな形で自身の技法を , 、す。彼は、果物や花、魚や獣、あるいは発展させる。 本などを集めて肖像画を作成した。個人それはこうだ。まず、写真に斜めの方 ( インディビデュアル ) つまり「分け得ぬも眼を書き人れ、方眼が垂直水平の方向に の」の看板としての顔を、分解可能なも並ぶように、斜めに置き直す。一方、巨 の ( デヴァイドされるもの ) を集めて描いて大なキャンバスにも拡大した斜めの方眼 みせた。国芳とは違った意味で、こちらを人れた後、それをクレーンで吊り上 もまた示唆的である。 げ、方眼が垂直水平方向に並ぶように固 現代アートの世界で、ダブルイメージ定する。車いすに乗った彼は、手と筆を の肖像画を作成している作家にアメリカ固定する用具を装着して、絵の具をつけ のチャック・クローズがいる。彼はキャた筆をそれに挟み、腕を縦と横に動かし ンバスに細かな方眼を描き、同じく方眼て、手元の写真の色に合わせてこの方眼 拡 0 の で区分けしたモノクロ写真の濃淡をそのに色を置いていく。まず四方に枠を描い 一分 を第ロ部まま、エアプラシでキャンバスに正確にた後、異なった色を中心に置くこともあ を , 0 【、ク左写し取り、 = ー。 ( ーリアリズムと呼ばれる。か 0 てのように精巧に埋めることは る精巧な自画像を製作した。近寄って見できず、角は丸くなりがちだ。あるい れば、濃淡の異なる正方形の集積なのだは、意図的に方眼を無視して模様のよう な教訓を、子どもに教えるのに使ったのが、離れて見れば巨大な顔に見えるダブに色を置くこともある。しかし、それら だろうか。こうした表現は「寄せ絵」と ルイメージだ。彼はこの手法を確立したは印象派の点描のように、遠目から見る 呼ばれるそうだ。 あと、身体の自由を失い、徴妙な力の入と一つの新たな色となり、隣の色ともっ 「寄せ絵」っまりダブルイメージの顔れ具合を必要とする、エアプ一フシでの作ながって、鮮やかな色の集合を形成して と言えば、一六世紀のウィ 1 ンで活躍し業ができなくなる。だが、彼は人と機械いく。やがて方眼がすべて埋まると、斜 ズ「 Self - Por-
「木を見て、森を見ず」とは、些細なの大きなアルファベット文字 ( たとえばているより、逃げた方が賢明だ。ちなみ ことにとらわれて全体が見えなくなるこ ) を作成し、それぞれの文字の認識時にジャガーには黒い輪紋の中に黒点があ との喩えとされる。確かに、森は大きす間を測定してみた。すると、一貫して構り、ヒョウにはない。 ぎて見渡せず、目の前の木しか見えな成文字 ( ) よりも全体文字 ( ) の方が先詳細よりも概要を把握する方が早いと い。だが、「森」という漢字ならどうだに認識された。もちろん、一目で全体を聞けば、それはそうだろうと思う。だ ろう。「森」が三本の「木」から成り立見渡せないような巨大なを、非常に大が、ちょっと驚く話でもあるのだ。私た っていることはあまり意識せず、一つのきなを集めて作れば、「木を見て、森ちの視覚野には、狭い領域を詳細に分析 塊として読んでいくのではないだろうを見ず」の喩え通り、の方が見えやすする神経細胞と、広い領域をおおざっぱ か。文字に関して言えば、「森を見て、 くなると思われるが、文字が一度に見えに処理する神経細胞、その中間程度の処 木を見ず」と言えそうである。 る大きさであれば、部分よりも全体を把理を行う神経細胞があって、常に、同じ それは一つの漢字だからと思うかもし握する方が早い。その方が環境適応的で景色を二重、三重に見ている。そして、 れない。だが、イスラエルの認知心理学もある。 小さな領域を詳細に分析する細胞の処理 者デービッド・ネイボンは小さなアルフ たとえば肉食動物の気配に気づいた時間は長い。だが、日常生活で、まずぼ アベット文字 ( たとえば ) を並べて、別ら、ヒョウかジャガーかを斑紋で判断しけた全体像が見え、その後、次第に鮮明 心理学者の 美術館歉 ). ⑩、 木を見て森を見ず ? ダリとクローズのダブルイメージ 三浦佳世
谷川俊太郎。」 & 5 これまでの詩・これからの詩 5 ・処女詩集『ニ十億光年の孤独』から『こころ』 ( ニ 9 三年刊 ) まで、現代日本でもっとも有名な詩人谷川俊太郎の単行詩集を網羅。 ・オープン・エンドの電子書籍シリーズ。ニ 0 一四年以降刊行の単行詩集も順次収録予定。 ■ほぼすべての詩集に、川村和夫、ウィリアム・ー・エリオット、西原克政、ハロルド・ライトの四氏による英訳を付した。 - タ ・各巻 15 浦篇の作者本人による朗読付き ( 音声再生機能がついたビューアでのみ再生可能です ) 。 ジ詩の作者と読者は基本的に 1 対 1 で向き合います。どんなに詩集当一九三一年東京生まれ。一九五一一年 = 一 セか売れようと、どんなに聴衆が多かろうと、詩は多数の中のたった叫十億光年の孤独』でデビ 0 ー。詩作のほ としても活躍。読売文学賞、萩原朔太郎 一人、すなわちあなたに受け取ってもらえなければ、意味のない言 賞、三好達治賞、鮎川信夫賞、日本翻訳 端店 ら葉のつながりに過ぎなくなってしまう。発表されるメディアが紙か 用書 文化賞、日本レコード大賞作詞賞ほか受 - - 専子 賞多数。子どもが読んで楽しめる詩集か 籍電 届 ( ら電子になっても、それに変わりはありません。 書要 ら、先鋭的・実験的な詩集まで、じつに 子主 本では絶版になっている詩集が電子で復活するのは作者としては 幅広い作風をほこる。その詩は英語、フ ランス語、ドイツ語、デンマーク語、ス / ト太嬉しいし、紙の詩集よりもポ 1 タブルに読める電子の詩集は、重み 末イ俊 ロパキア語、中国語、モンゴル語、韓国 端サ も手触りもないところで、かえってこれからの詩の在り方、読まれ 語などに訳されており、世界中に多くの 読者をもつ。 方に新しい方向を見出すかもしれないと思っています。 電