こしかけ ルフエウス教に伝えられる「モイライ」 を探し始めた。私はすぐ腰掛の下へ首れをけっして見過ごさない。むしろ、彼 は様相が異なる。それは運命を「紡ぐ女と手を突ッ込んで眼鏡を拾ひ出した。 の「こころ」は、人生の転機を前に、 ( 神 ) 」であり、また、その「分け前をは先生は有難うと云って、それを私の手「私」の肉体を突き動かそうとさえする。 から受取った。 ( 三 ) かる女」であり、また「免れがたい女」 だが、この日もまた、これ以上のこと でもあった。 は起こらない。次の日、「私」はまた、 「私」と「先生」の邂逅とその生涯をわずかな交わりでもよいと強く願い、同じ浜辺に行く。 考えるとき、ホメロスのモイラではな渇いていたといってよい「私」の心に 「私」には赴く理由がある。しかし、 は、感謝を述べる儀礼の言葉であっても「先生」は違う。だが、人生の引力と呼 、運命を紡ぎ、人生の問いを分かち、 そして免れ得ない出会いという三つの働強く響きわたったに違いない。 ぶべき働きが惹起されるのはこうした場 きをもったまさにモイライの姿が髣髴と先の引用は出来事としてはほんの十数面においてである。先生が沖へ向かって する。言葉すら交わすことができずにい秒のあいだに起こったことだろう。だ泳ぎはじめると、「私」はふたたび、何 た「私」にも微かな変化が訪れる。 が、「私」の眼は、その一コマ一コマをかに引き寄せられるように海に飛び込 む。 精妙に捉えている。 或時先生が例の通りさっさと海から何気ない場面だが、その光景は宿命に海の周辺には二人のほかに誰もいな 上って来て、いつもの場所に脱ぎ棄て導かれた、恋する者たちの邂逅を思わせい。「私」は自分を大きく変えることに た浴衣を着ゃうとすると、何うした訳る。このとき「私」にも人生の扉が開いなるだろう出来事が迫りくるのをはっき りと感じている。このとき、それを察知 か、其浴衣に砂が一杯着いてゐた。先た音がわずかに聞こえたのではなかった 生はそれを落すために、後向になっか。そうでなければ作家もこれほど詳細したのは彼の意識よりも肉体だった。 ふる て、浴衣を二三度振った。すると着物に、この場面を描き出すことはなかった「私は自由と歓喜に充ちた筋肉を動かし をど すきま だろう。 て海の中で躍り狂った」と小説には記さ の下に置いてあった眼鏡が板の隙間か しろがすり ら下へ落ちた。先生は白絣の上へ兵児意識の上で「私」は、何者かとの出会れている。 おび 一方、先生は海に体を浮かべているだ 帯を締めてから、眼鏡の失くなったのいなど、格別に望んでいないように思っ に気が付いたと見えて、急にそこいらている。しかし、彼の意識下の働きはそけで何もしていない。「私」は「愉快で あるとき ゆかた
待っということをめぐって、唐木順三 の力が強く働いている。たしかに『ここ が次のような文章を書いている。 人はいつも何ものかとの出会いを希ろ』においてもそうだった。 い、待ち望んでいて、一見すると偶然の出会いは、ある夏、海水浴場で起こっ 訪れるもの、よびかけ来るものは、いように思われても邂逅は、人生の必然とた。外国人と一緒にいた「先生」が っ来るかわからない。そのいっ訪れる呼ぶべきものに裏打ちされている、と唐「私」の目に留まる。外国人と一緒にい かわからないものが、いざ来たという木は感じている。 たことが「私」の目を引く伏線になって 場合、それに心を開き、手を開いて迎はじめて読んだのは四半世紀以上前、いる。だが、それは表層の契機に過ぎな え応ずることのできるような姿勢が待まだ大学生だったが、それ以来、この一 い。「私」は外国人にほとんど感心を払 っということであろう。邂逅という言節を想うたびに『こころ』が想起されわない。しかし「先生」からは目を離さ 葉には、偶然に、不図出会うというこる。邂逅は、『こころ』を貫く核となるない。このときはまだ、何も表立ったこ とが含まれていると同時に、その偶然主題だが、その起源は、幾度この本を読とは起こらないが「私」は何か予兆めい に出会ったものが、実は会うべくしてんでも謎に満ちたままだ。 たものを感じている。そればかりか、の 会ったもの、運命的に出会ったものと先の引用のとおりであれば、邂逅の生ちに「先生」と呼ぶことになる人物にど いうことをも含んでいる。 ( 『詩とデカ起において人間の意志の人る余地は小さこかで会ったことがあるようにすら感じ ダンス』 ) く、そこには私たちの思惑を超えた何かている。 邂逅への衝動 『こころ』論ー語られざる「遺言」 0 若松英輔
すね」と大きな声で言う。「先生」はす予定のない「私」は、分からないと答えよそよそしく「貴方は ? 」と語り始めた ぐに応えないが、そこには「先生」もまる。「先生」はその様子を微笑みながらら、モイ一フィは姿を消したかもしれない た、自分に何かが起こっていることを自見ている。「私」は決まりが悪くなってのである。 「私」は自ら「先生」と語ることによ 覚し始めている沈黙の時が流れている。 咄嗟にこう問いかけた。「先生は ? 」。 って、この世に師を得た。それは同時 しばらくして「もう帰りませんか」と この言葉が、「私」の口から放たれた に、「先生」には予想もしないところで 「先生」が呼びかける。これが、二人の最初の「先生」という一言だった。 間で交わされた最初の会話である。眼鏡あるとき「言」は、そのまま「事」に「弟子」が誕生するという驚くべき出来 を拾ったときの礼の言葉は会話とは呼べなる。日本では『万葉集』の時代からこ事だったのである。 その晩、「私」は先生の宿を訪ねる。 ない。それはいわば挨拶に過ぎない。 うした言葉の働きを「言霊」といった。 「先生」は拾ったのが「私」でなくても古典学者佐竹昭広が「言霊」をめぐって連れ立っていた外国人のことなどさまざ 同じことをいっただろう。 まな話をするのだが、「私」の関心は一 実に端的な記述を残している。 邂逅はどちらか一方にとってだけ、そ 「その事物の名を口に出すと、その通点に収斂する。どこかで会ったことはな れが重要な出来事であるだけでは十分でりの事物が出現し、言った通りの結果がかったかと「私」がいうと先生は「しば ちんぎん はない。それは憧憬に過ぎないこともあ出来するという、言葉の霊妙不可思議ならく沈吟したあとで」こう語った。「何 みおを ことだま る。巡り合いが、双方にとって共に、か働きを、古代日本語では「言霊」と呼びうも君の顔には見覚がありませんね。人 けがえのない事象として認識されなくて慣わしていた。「言霊の幸はふ国」とは、違ぢゃないですか」。 はならない。「私は是から先生と懇意に言語の精霊が吉事を招来する国という意そう言われて「私」は、失望を隠せな こと こと なった」との言葉が先の場面に続いてい味である。「言」がそのまま「事」に直い。しかし、このとき驚いたのは「先 結していた以上、慶賀すべき日には、ま生」だろう。「私」によって何気なく言 よごと よごと それから中二日おいた日のことであず「寿言」を唱えて「寿事」を招き寄せい放たれた質問が、自身のこころの奥に も存在していることに、「先生」ははっ る。「私」は偶然、掛茶屋で「先生」になくてはならない」 ( 『萬葉集再読』 ) 。 出会う。すると「先生」の方から、まだ「先生」という一言がこの壮年の男をきりと気づかされたからである。 ( わかまっえいすけ・文芸評論 ) 長く滞在するつもりかと尋ねる。格別の「先生」にした。もしここで「私」が、
知性の輝きを見たのだ、と考えられなく 其時私はぼかんとしながら先生の事をもない。もちろん、そうした見解が穏当何かが交わりを邪魔しているようにす 考へた。どうも何処かで見た事のあるなことは理解できる。しかし、この小説ら感じられるが「私」は、この程度では 顔の様に思はれてならなかった。然しはそうした紋切り型の認識で終わりにであきらめない。次の日も同じ時間に浜辺 何うしても何時何処で会った人か想ひきない問題をいくつも底に湛えているのに行き、「先生」の顔を見る。そして、 出せずに仕舞った。 である。 「其次の日にも亦同じ事を繰り返した」 自分でも理由は分からないが、「私」と書かれている。 先に「私」が何歳のときに「先生」のはもう一度「先生」に会いたいと強く思 この三日間、「私」は何を感じていた ことを語り始めたかを考えてみたが、到う。このとき「私」はまだ、「先生」がのだろうか。彼は積極的に行動しつつ、 底、答えが出るはずのない問いのなかにどんな人物であるかをまったく知らな出来事が起こるのを待っている。このと 「私」は、今もいるのだろう。この問いい。それでも自らの衝動を封じることがきの「私」の行動をもし、第三者がつぶ を前にしたときにも、改めてその問題をできない。 さに見ていて、その動機を尋ねたとして 軽んじることができないように思われわざわざ「翌日も亦先生に会った時刻も、「私」もまた、それに充分に応じる みはか を見計らって、わざ / 、掛茶屋迄出かけことはできなかっただろう。 さらにこの言葉を、「先生」と「」て」みると、「西洋人は来ないで先生一 ギリシア神話に登場する運命の神とし という特異な精神と直接、間接に交じり人麦藁帽を被って遣って来」ていた。掛て知られる「モイラ」は、もともと三人 合った後年の「私」のつぶやきとして読茶屋とは今日でいう海の家である。 の女神で、複数を意味する「モイライ」 むとき、その原因を「私」は前世にまで「先生」は海に入り泳ぎ始める。するだった、と神話学の泰斗カール・ケレー あと さかのぼって考えているようにすら映と「私」は、「急に其後が追ひ掛けたくニーは書いている。 ( 『ギリシアの神話ーーー る。 な」って海に人る。しかし、先生が違う神々の時代』植田兼義訳 ) 。モイラと単数 この時代には珍しく、外国人と言葉を方向に向かって進んだために声をかけるで呼んだのはホメロスで、彼によって描 交わす「先生」に、新しい時代のインテことはできない。徒労だったと掛茶屋にかれる運命の神は、強力で、耐えがた く、また破壊的ですらあった。だが、オ リゲンチャだった「私」は何か魅惑的な戻ると、「私」は帰り際の先生とすれ違 どこ あくるひ
西田は北條からことのほか可愛がられ、 洪川老師がおられたが、すぐ遷化せらされた万国宗教会議に赴いて講演を行っ その家に寄宿していた。西田は、その頃れたので、君は宗演和尚の鉗鎚を受けた。西洋社会に漢字文化圏の仏教が発信 ることとなった。暫く大学に来た事もされるようになったのはこれを以て嚆矢 の次のような思い出を書き留めている。 「私が先生の御宅にいた頃かと思う。 あったが、全然雲水同様にして苦修錬とするが、その講演稿の英訳を任された 一日、東京から e 君が来て先生と話し磨した」 ( 「『褝と日本文化』序」、『西田幾のが大拙であった。宗演はこの訪米で宗 教学者ポール・ケーラス (paul Carus 一八 ている時、先生は黙って私と e 君に多郎随筆集』頁六九 ) おらてがま 『遠羅天釜』〔白隠の仮名法語〕を一冊ず右に書かれているとおり、大拙が師事五二ー一九一九 ) と親交をもつようにな っ下さった。 e 君は褝というものはどしてわずか数か月後、明治二五年 ( 一八り、ケーラスの著 The G 。ミ。ト B に ういうものかというようなことをいっ九 (l) 一月に洪川が急逝し、大拙はそのを大拙に翻訳させて日本で出版した たら、先生は脇腹に刃を刺し込む勇気後をついだ釈宗演につづけて参じた。漱 ( 『仏陀の福音』明治二七年・一八九四 ) 。そ があったらやれというようなことをい石が宗演の下に参禅に来るのはその二年うした縁から、明治三〇年 ( 一八九七 ) 、 われた。ただそれだけである。」 ( 「北条ほど後のことであり、『門』に「この居大拙は宗演の紹介でケーラスを頼って渡 先生に始めて教を受けた頃」 / 『西田幾多士〔大拙〕は山へ来てもう二年になるとか米し、二七歳から三八歳までの十一年間 郎随筆集』岩波文庫、頁一七 ) いう話であった」 ( 頁一一〇一 l) というのは実をシカゴ郊外のラサールの地に過ごし 鎌倉円覚寺時代明治二四年 ( 一八九際とよく符合する。後年の著作『褝堂生た。といっても、正規の留学ではなく、 一 ) 、大拙上京。一時、東京専門学校 ( 早活』 ( The T ぎ品。ト zen B ミケーラスの主宰する出版社オ 1 プン・コ ート社で下働きをしながらのほぼ独学の 稲田大学の前身 ) や東京帝国大学文科大学ミ。一九三四年 / 横川顕正訳、大蔵出版、 哲学選科などに在籍はしたものの、その一九四八年 ) は、大拙のこの時期の僧堂体生活で、その暮しはきわめて貧しく侘し いものであった。しかし、その間、読書 生活はまったく鎌倉円覚寺での参褝を主験をふまえたものにほかならない。 とするものであった。西田はいう 在米時代洪川遷化の翌年、漱石参褝と思索を深めて独自の思想を形成し、初 の英文著作『大乗仏教概論』 ( 0 ミ守ご。ト 「我々が大学へ人る頃、君〔大拙〕は独の前年にあたる明治一一六年 ( 一八九一一 l) 、 り円覚寺の僧堂に行った。その頃なお宗演らが、シカゴ万博の一部として開催新ききミ一九〇七年 / 佐々木閑
新刊案内に表示した発売日は小社出庫日です 7-2016 0 岩波少年文庫 2016 夏の名作フェア ル人の作家からの贈り物 10 点 11 冊・出荷日 7 月 8 日 7 月上旬より全国の協力書店でフェアを開催いたします 大アピ長 松秘ク 石ク 大ミモ 高フ真ト 塚スぃ 罩第密ロ 島ヒ 、夜ム 勇トノく A マ 6 ゕヤモ ピつ 新の 二みカ 二郎バ お工 訳ピ中は 訳ド りル イプ の 本バイ ドの 本 本 円作 長くつ下のピッピ トムは真夜中の庭で アストリトリントクレ - ン 第 井ヒ航ド 池ェ探工 神アアッ 石エム 猪ロ マノヾ 緒海リ 桃ナ本ギ 九 申葉ズ 本夫 ! ゾメ 二子マ 二子一の 二代ヒー 訳ラ小と ロ記ト と子たニ 合訳リ 訳フ 体訳ー 各弓ン号 訳ス 団 の 8 芸巧と 本ク 本ジーさ 本 円作 ( 上 ) ( 下 ) 上 : 978-4P0- ⅱ 417 0 イ乍 シ 円 下 : 978-4P0 ー 1 14171-9 円 ドリトル先生 ムギと王さま 第九軍団のワシ 航海記 本のへやー 0- スマリサトリフ・ ツバメ号とアマゾン号 とユ - ・ 0 フインツ第 6 製を第 ア - - ・ ) ンサム物 抽選で 1 OO 名様に「「ツバメ号とアマソン号」布製ブックカバー」をプレゼント ! ( フェア帯に付いている応募券 2 枚で 1 ロの応募が可能です ) クマのプーさん クローティアの秘密 ミとヤール I 工ンデ物 大 0 をおり フィリ′ビ′ス 工ーミールと探偵たち 読者プレセント
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見ていると、自分もいっかは : : : というき、さまざまな学びを得ることができる残念ながらわれわれ医療者は、人々が ことを当然思うだろうし、いずれ自身にからだ。 病を得て、「患者になって」から出会う も訪れるできごととして、無意識の中で筆者は良き死の条件を以下のように考ことがほとんどである。家族や友人たち 死をいのちの側に取りこんでいくのではえている。 は、「患者になった」人ではなく、それ ないだろうか。 以前の健康な社会的にもいろいろな活動 その際に、死に到る過程、死に際がお それまでどういう生き方をしてきを行ってきた、「患者になる前の」その たか ? だやかであったか、人間らしい最期であ 人を知っている。だからこそ、その人が ったかどうかは、大変重要な意味を持 2 家族や友人と良い関係を築いてき健康を取り戻し、社会復帰できることを たか ? つ。 co さんのように、子どもや孫から 願うのである。したがって上記の条件の ( おそらく周囲の全ての人から ) 慕われて生 3 悔いのない介護ができたか ? 1 と 2 、つまりその人の人生の生き方 きてきた人が、自分の家で子どもたちゃ 4 最期がおだやかだったか ? と、家族や友人との関わりについては医 孫たちに囲まれておだやかな最期を迎え 5 思い出を残す。 療者は原則として関与できないと言え る。 る、そして彼女の思い出をいつまでも大 切に持ち続ける、彼女の生きた意味をそ実際に現場で在宅ホスピスの患者さん「 3 悔いのない介護」に関しては こに見る思いがする。 たちと関わっていると、いろいろな気づ我々医療者は若干の関与、貢献ができる きがある。これらの条件のうち、 1 と 2 だろう。在宅ホスピスは、家族の力が主 良き死の 5 つの条件 は、我々医療者が基本的にはあずかり知だが、在宅ホスピスチームの支えがない 在宅ホスピ - ズに二〇年以上関わってきらないところである。その人がどのよう とその実践はかなりむずかしい。医師に て、しみじみありがたいと感じている。 な人生を生きてきたのか、家族関係がどよる疼痛管理を初めとする症状緩和と緊 さんとその家族のような人々と出会うだったのか、つまり病気になる前 ( が急時 ( の対応、看護師のきめ細かな日々 い、彼らの人生の物語に、私やともに働大部分を占める ) のその人の人生の物語での観察や心理的な支援、ケアマネージャ く看護師たちの人生を重ねることがである。 ーやヘル。ハーの生活面での幅の広い支援
したのは私であった」。 と歴史』所収、一一〇〇七年 ) 。 都帝大の大学院に進学し、橋本傳左衛門 満洲国建国当初、日本では「満洲移民杉野は一九〇一年に大阪で生まれた。 の指導を受けることとなった。 不可能論」が大勢を占めていたが、強硬田中小太郎の次男であったが、四歳の時橋本は「農業経済や農村問題について な否定論者であった高橋是清蔵相が一一・ に杉野為吉の養子となり、杉野姓となっは、研究室における机上研究もよいが、 二六事件 ( 一九三六年 ) で殺害されると、 た。一九一三年に東京帝大法学部政治学同時に農村に出かけて実地に接触してみ 満洲への移民政策が一気呵成に進められ科に入学するが、その動機は「このうるる必要がある。マルキシズムが農村社会 ることになった。その中心的な役割を果わしい日本の国土で、働いても働いてにどのくらい妥当するか、よく足を地に たしたのが、日本国民高等学校校長・満も、貧乏から縁をきれない大衆を、いかつけて検討したらどうか」と進言し、一 蒙開拓青少年義勇軍訓練所長をつとめにして貧乏から解放するかということ年間、静岡県志太郡稲葉村で農村生活を 「満蒙開拓の父」と称された加藤完治、に、私の生涯を国の中堅層として、有意経験することになった。この時に、二宮 当時農村更生協会理事長であり、後に第義な生活ができるようにすることにささ尊徳の思想や報徳社運動に接しており、 二次近衛内閣の農林大臣になる石黒忠げようと決心した」からだという ( 杉野それが後日、満洲報国農場を構想する契 篤、同じく農林官僚であった小平権一、 忠夫『海外拓殖秘史ーーある開拓運動者の手機になっているのではないかと想像され 農業経済学者で東京帝大教授の那須皓、 記』一九五九年 ) 。 る。その後、日本国民高等学校の校長で 同じく農業経済学者で京都帝大教授の橋・ ' 東京帝大入学後は「そうそうたる革新ある加藤完治のもとで実習を受け、満洲 本傳左衛門らであった。彼らは「拓務派で、いわゆるマルキスト、当時、東大移民運動へと傾倒していくことになっ 省、関東軍のプレーン」と称され、関東教授で天下に名をはせた吉野作造博士のた。一九三三年には京都帝大の助教授の 軍の東宮鉄男、石原莞爾らと協力して大傘下に人り、街頭にも進出して、第一次地位を放擲して、農村更生協会や満洲移 量の移民を満洲に送り込んだのだが、世界大戦後さかんになった労働運動や学民協会で活動をはじめ、ついに満洲国開 「病弱な体を押して「没我的に」働きっ生運動の斗士として頭角をあらわしてい拓総局の参与という役職を担うことにな た」 ( 橋本伝左衛門「杉野忠夫教授の追憶」った。 づけた「裏方」」こそ、杉野忠夫であっ た ( 藤原辰史「学に刻まれた「満洲」の記憶『杉野忠夫先生追悼文集』所収、一九六六年 ) つまり杉野忠夫は、単なる東大出身の ・ー・杉野忠夫の「農業拓殖学」」『満洲記憶が、その後、那須皓のすすめを受け、京工リート官僚というよりは、泥と汗にま
うやく「戦後の終焉」が到来したといえでもそのような比喩が比喩ではなく、現知られるが、長生きしても七十年間は そうだが、アメリカの南部地方 ( または中実そのものになっている場所がある。 「一生」に近い年月だ。また、今年は普 近東をはじめ、昔の戦の記憶に燃え続ける世佐藤栄作は一九七一一年に実現した沖縄天間基地返還合意から二十年にも当たる 界各地 ) の例をみれば、フォークナーのの「祖国復帰」を以って、ようやく日本が、依然として普天間のど真ん中に、米 名言通り「過去は過去にすらなっていなの「戦後は終わった」と考えたかったよ軍基地が「どっかと居坐りつづける」具 うだが、米軍基地がいまも密集している合である。「戦後」どころか、沖縄県民 い」状況が続くこともありうるだろう。 前述の「アメリカひじき」からのくだ沖縄の地図を一暼するだけでも、まさしからみれば「占領」すら完全に終わって り、「アメリカ人は一生俺の中に、どっく「アメリカ人は一生 ( 同県の ) 中に、どいないように感じられるだろう。しか かと居坐りつづけるにちがいないーは、 つかと居坐りつづける」ような状況が確も、復帰後の沖縄占拠の継続には日本政 もし著者自身の感情を代弁しているなら認できる。沖縄での「終戦七十年」と府も加担するようになったことを考える ば、野坂にとって「戦後」に終止符を打は、換言すれば米軍と七十年にもわたと、少なくとも日本の「南部」でも、 つのには自らの死期を待つほかない、とり、好むと好まざるとにかかわらずずつ「戦後」も「戦後の終焉論」も当分消え 理解できよう。精神的な卑屈さを表すたと同居することを意味する。いや、「同そうにない。 (Michael S. Molasky ・日本文化研究 ) めに、他者に占領されるという身体的な居する」ではなく、「占拠される」とい 比喩を用いているが、野坂の死後の現在うべきだ。沖縄は国内でも長寿県として 司せ円土朧 円円円円円円円集円円わ一 0 0 一 0 集 0 集 0 た発絽 一 0 ニ集 2 加集加集 8 話第加集 0 下 〒り 中 せ爆 民話編編話編編編に冫 , 評 久久木日丈都島向比狭杉皮イ木居な荒イ独」重」 0 悔な知 さく′ヒ コ所つれの悔身、災」さイ「。 0 日渥屋栃叭京福日若阿議 ど場かくサと自ね震東しはる未