口 - みる会図書館


検索対象: 孤独で優しい夜
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1. 孤独で優しい夜

粧子は顔を上げてはっきりと言った。人江の表情にうろたえが覗く。もう後には引け なかった。言葉になった瞬間、それが本当の心のうちであることを粧子は強く感じてい こ 0 忘れてはいなかった。ずっとずっと、人江が好きだったのだ。 「まさか君の口からそんなことを聞かされるなんて」 「私も言うつもりはなかった。それは美帆のためじゃない。人江さんのために。そして私 のために。でも、思ったの、言わないでおくことにいったい何の価値があるんだろうって。 これじゃあの時と同じだもの」 人江は黙っている。言葉を選んでいるようにも、抑えているようにも見えた。 「でも、入江さんが私に対してもう何の感情もないならそれでいいの。それはそれでスッ キリするの。だってこれ以上考える必要はないわけだもの。私は、私だけの気持ちを整理 すればいいんだもの」 はらじゅく 3 すでに原宿の駅が近づいていて、人の数も多くなっていた。人江は一瞬足を止め、粧 に子を振り返った。それから細い路地に折れた。粧子がならう。どこに続く道かふたりとも 知らない。ただ話すために歩く道が必要だった。 人江は顔をきっちりと前に向け、粧子というより、とばりの下りた夜に語りかけるよう に言った。 おさ

2. 孤独で優しい夜

「もう少し飲まないか」 人江が誘い、粧子は首を振った。 「ううん、もうだいぶ飲んだから」 ワインが一本あいていた。これくらいが心地よい酔い加減だ。 「でも、肝心なこと、まだ何も話してないから」 人江が初めて口にした。粧子はスッと酔いが引くのを感じた。 「そのことはいいの。何だかもうどうでもいいことのような気がして来ちゃった」 「でも、僕にとっては肝心なことなんだ」 「少し歩こうか」 おもてさんどう 青山通りから表参道に向かう。街路樹が黒いシルエットで夜空を覆っていた。 かいわい 外国人の姿が多いこの界隈を歩くと、自分が異邦人になったような錯覚に襲われる。本 3 格的な夏になる前の、どこか青臭さが残った風が、粧子の伸び始めた髪を揺らした。 に「結局、自業自得なんだろうな。美帆に頼むなんてめめしいやり方でなく、粧子にストレ 闇 ートに気持ちを伝えるべきだった。それに答えがノーであっても、美帆とすぐにつき合う べきじゃなかった。けど、優しくされてね。フラれたことが、思いがけず痛手だったもの だから、美帆の優しさが身にしみた。それに、言い訳するようだけど、あの頃、チーフに

3. 孤独で優しい夜

「人江は、今の仕事にとても意欲を燃やしているわ。出世したいという望みも持っている。 私たちの仲人は部長なのよ。会社の人たちもたくさん招いてパーテイもしたわ。今さら離 婚なんて、自分の将来に響くようなことをあの人がするわけがない」 「そんなものより、もっと大切なことがあることに気がついたのよ」 美帆は押し黙った。今の言葉はかなり動揺を与えたようだった。次にどんな言葉が返っ て来るか、緊張しながら待った。 すると美帆は、まるで肩透かしをくらわすかのように「ちょっと : : : 」と席を立った。 洗面所に向かって歩いてゆく。ひとりになって、気分を落ち着かせるつもりだろうか。 はんすう 残された粧子は、自分がロにした今の言葉を反芻していた。そして実は少しも自信のな いことに打ちのめされていた。 聞いてない。言われてない。美帆が人江を問いただしたら、果たして今の粧子の言葉が そのまま彼の口から出るだろうか らやがて美帆が帰って来た。心なしか足元がふらついているように見える。腰を下ろした っ美帆を見て、彼女の顔色がさっきよりもひどくなっていることに気がついた。額にはうつ みけん 一すらと汗が浮かび、眉間には深くシワが刻まれている。 「どうしたの : 「何でも」 189

4. 孤独で優しい夜

「私も同じことを言うわ。彼とこうなったのは、私だけのせいじゃないわ。彼は自分の意 志で私に会いに来るの。私を愛していると言ってるわ。別れろと言うなら、私にではなく、 彼に言うべきなんじゃない」 弱気な態度を見せたら、そこで勝負は決まってしまいそうな気がした。粧子は肩に力を 込め、決して後には引かない覚悟でいた。 けいれん そしてそれは美帆も同じであり、彼女は時々頬を細かく痙攣させた。 「それで、人江は粧子に何と言ってるの、私と別れて結婚するとでも」 はじ 美帆はコーヒーを飲み、少し乱暴にカップを置いた。スプーンがテープルの上に弾き出 された。美帆は憎々しげに元に戻した。 その指先を見つめながら、粧子は何と答えるべきか考えていた。具体的な一一一口葉は聞いて いない。けれど待って欲しいとは言っている。それは結局、いずれはそこに行き着くとい うことだ。少なくとも、粧子はそう信じている。粧子はきつばりと顔を上げた。 「ええ、そうよ。そう言ってるわ」 美帆はゆっくりと首を振った。 「あの人がそんなことを言うはずないわ」 その確信した動作に、粧子はどきりとした。 「どうしてわかるの」 ほお

5. 孤独で優しい夜

粧子もいずれは結婚したいと思っている。もちろんあせるつもりはなく、心から愛する 人と自然な形で。そして子供を産み家庭を作る。ありきたりな夢と笑われてしまうかもし れないが、考えを膨らませてゆくと、結局はそこに落ち着いてしまう。 かな でも、その夢は叶えられるのだろうか。本当に好きな人など現われるのだろうか。入江 とは叶わなかった。これから巡り合えるとの保証もない。歳はとってゆくばかり。いっか 知り合うチャンスもなくなり、誰からも相手にされなくて、気がついたらひとりぼっち。 そして、待っているのは孤独な老後 : 「ああ、やめやめ」 粧子は頭を振った。 たど それだ、憂鬱を辿るといつもそれに考えが行き着いてしまう。そして不安になり、眠れ ない夜を過ごし、暗い谷底へ落ちてゆくようないたたまれなさを感じてしまう。 ま ふじむらようこ 粧子は大学時代からの友人である藤村容子に電話を人れることにした。彼女と話すと元 気になれる。彼女は損害保険会社に勤めている。お給料がいいと評判の会社だ。 危 「どうしたの ? こんな時間に」 最初の一一一口葉がこれだった。それで十二時を過ぎていることに粧子は初めて気づいた。 「ごめん、もう寝てた ? 」 ゝ 0

6. 孤独で優しい夜

宗吾がふたりのことを知っていると、人江は知らない。けれどそれを言う必要もなかっ た。宗五ロは誰にも一一一口わないだろうし、仕事をしている上でも、そんな素振りをしたことは なかった。 「出張ではビジネスホテルだけど、金曜日はちゃんとしたホテルを予約しておくよ。僕の 名前でチェックインすればいいようにしておくから」 その約束が決まってから、粧子はすぐに荷物を思案し始めた。旅立っ時の洋服は通勤着 になるが、人江とふたりだけのディナーではうんとドレスアップしたい。ナイトウェアに も凝りたい。下着にも。そして翌日はラフな格好で遊び回りたい。 人江が帰ってからワードロープを片っ端から引っ張りだし、鏡の前で当て、組み合わせ そろ を考えた。化粧水や乳液を小瓶に詰め替える。ティッシュやハンカチを揃える。それはと ても楽しい時間だった。たった一晩泊まるだけの旅なのに、それもまだ日もあるというの に、粧子はポストン・バッグに詰め込んだり引っ張りだしたりした。 話そんな自分に、たったこれくらいのことで、今までの胸の氷を溶かしてしまおうとして 言いるなんて、何て安直な女になってしまったのだろうと情けなくも思う。 けれど、考えを深みにはまらせてせつかくの神一尸を台無しにしたくなかった。粧子は余 計なことは考えず、楽しいことだけを考えようとした。 175

7. 孤独で優しい夜

らロで綺麗事を言っても、内心違う目的があるのではないかとどこかで疑っていたのだ。 けれど宗吾は違っていた。別れぎわの軽快さが、粧子に余韻を残した。気がつくと、ガ ラス窓に見える街の明かりにまぎれて、笑顔の自分が映っていた。 七月に人り、街は湿った空気に包まれていた。 雨はほとんど毎日のように降り、ビルの壁には海図のようなシミが毎日形を変えて描か れた。思いがけず寒い日があり、一度しまい込んだカーディガンを慌てて引っ張りだすこ ともあった。 納期は目前に迫り、ここのところ残業が続いていた。 今日もすでに八時を回っている。コーヒーでも飲もうと、リフレッシュコーナーに行く と、人江が座っていた。 「ああ、粧子か、ご苦労さん。悪いな、ここのところ残業続きで」 あご 人江はちょっと緊張した表情で顎を引いた。 「私は大丈夫、あと少しのことだもの」 粧子は自動販売機でプラックコーヒーを買った。ソフアに座ろうか迷った。人江とふた りきりで顔を合わすのはあの日以来だ。口をきけば、あのことが話題になってしまいそう な気がした。もし出なかったとしても、会話の裏側にびたりとそれはくつついていて、ど

8. 孤独で優しい夜

ったことがある。チームのメンバーで温泉に出掛けたりもした。その時はもう粧子の気持 ちを知っていたはずだ。それでも美帆は人江を好きになった。そして、自分たちを結びつ けたくなかった。 そんなの裏切りじゃない : 粧子は唇を噛みしめた。仲のいい友達の顔をして、ロでは慰めの一一一口葉を吐いておいて、 陰ではしつかりと自分が人江に近づいていた。 ころ そしてひと月後、ほとぼりもさめた頃にさも申し訳なさそうに自分たちのことを告白し、 それは偶然のことだと言い訳した。何もかもが嘘。最初から仕組まれていたこと。 幸福そうな美帆の顔を思い出した。もしかしたらあのマンションで花柄のエプロンをつ け、料理を作り、ダブルべッドで抱き合うのは自分だったかもしれない : : : 粧子は両手を ぎゅっと握りしめた。 ざわざわと心が騒ぎ出す。どうして美帆なんか信じてしまったのだろう。自分で直接人 3 江に告げればよかった。そして人江もまた、じかに思いを伝えてくれていたらこんなこと ににはならなかったのに : 同じ職場で同じ仕事をしていることが、ふたりを躊躇させた。そして美帆はそれを利用 2 した。考えてみたら、間に立っことを言い出したのは美帆の方だった。「ワンクッション あった方がいいのよ、恋愛っていうのは」彼女はそう言ってキューピッド役をかって出た

9. 孤独で優しい夜

112 その一一一口葉に、粧子は胸をつかれていた。そうだ、自分も確かにそういうところがある。 期待しているのは自分の人生というより、自分の人生を引っ張って行ってくれるもうひ とつの人生。いい男さえ現われれば、結婚さえすれば、何もかもが丸く納まる。面倒なこ とも煩わしいことも、みんな解決される。何て受け身の考え方なのだろう。 「子は水割りのグ一フ = をカラカラと回した。 「ても、こういうこと言うと、私のことかわいそうって思う人も多いのよね。愛情っても のを知らないんだって。でも愛情って男と女の間だけに存在するものじゃないでしよう。 そそ 動物と人間の間にもあるし、時には物にすごい愛情を注ぐ場合もあるじゃない。それと同 じ。私は今、お金に愛を注いでるの。お金って、電話をかけて来ないってイ一フィラするこ ともないし、別の女の子に浮気したりもしないし、なかなか誠実な。ハートナーよ」 うらや 正しいとか間違ってるとかじゃなく、できるかできないかでもなく、粧子は容子を羨ま しく思っていた。それは容子の人生を、というのではなく、すでに自身で選んでいるとい うことに対してだ。 粧子はまだ何も決められない。恋愛もしたい。結婚もしたい。仕事もしたい。子供も欲 しい。将来の安定も得たい。孤独な老後なんてイヤ。そのすべては、自分で手に人れよう としているのではなく、そういった状況が向こうからやって来るのを待っている。つまり、 自分ひとりでは少しも前に進めないのだ。

10. 孤独で優しい夜

集英社文庫 やさ 孤独で優しい夜 よる 1999 年 10 月 25 日 2003 年 12 月 8 日 第 1 刷 第 13 刷 かわ 川 定価はカ / ヾーに表 示してあリます。 けい 著者 発行者 発行所 印刷 製本 ゆい 唯 谷 株式 会社 山尚義 集英社 東京都千代田区ーツ橋 2 ー 5 ー 10 〒 101 ー 8050 ( 3230 ) 6095 ( 編集 ) 電話 03 ( 3230 ) 6393 ( 販売 ) ( 3230 ) 6080 ( 制作 ) 大日本印刷株式会社 大日本印刷株式会社 本書の一部あるいは全部を無断で複写複製することは、法律で認められた 場合を除き、著作権の侵害となります。 造本には十分注意しておりますが、乱丁・落丁 ( 本のべージ順序の間違い や抜け落ち ) の場合はお取り替え致します。購入された書店名を明記して 小社制作部宛にお送り下さい。送料は小社負担でお取り替え致します。 但し、古書店で購入したものについてはお取り替え出来ません。 ◎ K. Yuikawa 1999 Printed in Japan ISBN4-08-747110-1 C0193