という言葉は、今でもしみじみ思い出します。偉そうなこと、もっともらしいこと、説 教じみたことを言うのは簡単です。でも、それらを飲み込み、相手の気持ちになり、広く 深い心で包み込んであげるには、かなりの精神力と大人のやさしさが必要だと思うので す。そして人間は「わかるわよ」と言ってもらうと不思議に、素直な気持ちで自分の今ま でを反省できたりしてしまうもの。 唯川さんから、 「私を褒めちぎったりなんかする必要はないんだからね」 と言われていました。実際に書いてみて結果はーー褒めちぎっているでしようか ? で たど も私としては、ここまで書いて来て、唯川さんを褒めたというよりも自分の心の軌跡を辿 ってきたような思いがあるのです。 唯川作品のファンのみなさんも、作品を通して思ったこと、自分が変わっていった過程 など思い出すと、今の私と同じような気持ちになるのではないでしようか ? 唯川さんか 説ら受け取ったもの、伝えられたものを大事にしているのは、きっと私だけではないですよ 解
202 まで追い詰めた。 自分の気持ちを封じ込めてしまえばよかったのだろうか。いけないことだとモラルを楯 にして目をつぶればよかったのだろうか ただ人江を愛しただけ。その気持ち以外何もなかったのに。 それから三日が過ぎた。 人江は仕事に戻り、何事もなかったような毎日が続いていた。連絡はあれきりない。美 帆の様子を聞きたかったが、それを聞くことと、人江と連絡を取ることの罪悪感が重なり、 粧子は自分からは何もしなかった。 仕事の合間にリフレッシュコーナーでコーヒーを飲んでいると、後輩の真由子がやって 来た 「いいですか」 「もちろん、どうぞ座って」 真由子は自動販売機でココアを買うと、粧子の向かい側に腰を下ろした。 しばらく向き合ってたわいない話をした。そしてその内容が神戸支社の仕事に移った時、 唐突に真由子はこう聞いた。 「あの、この間、津島さん早退したことあったでしよう、ほら、金曜日」
「それくらいのことはわかってるつもりだよ。そこまで世間知らずじゃないから。会社で は今まで通りにするよ」 「 : : : そう、ありがとう」 こわ けお 宗吾の強ばった態度にいくらか気圧されながら、粧子は頷いた。 「じゃあ」 宗吾が席から立ち上がった。伝票に手を伸ばして、粧子はそれを押さえた。 「いいの、私が」 「そう」 そして宗吾は硬い表情のまま喫茶店を出て行った。 粧子は苦い思いを噛みしめた。昨夜、自分がいかにバカなことをしたのか、改めて悔や まれてならなかった。宗吾を傷つけてしまった。そして自分自身もこんな後味の悪い思い をしている。 ま 始粧子はカップに手を伸ばした。でもコーヒーはもうすっかり冷めて飲む気になれない。 さ 二杯目をオーダーしようか迷ったが、結局は席を立った。今夜は早く家に帰って、殊勝な 危 気持ちで反省しなければと思っていた。 それから一週間。
宗吾が言葉尻を濁して視線を膝に落とした。落胆しているようにも戸惑っているように も見えた。 粧子はいくらか胸が痛んだが、ここまで自分に言わせた宗吾にも責任があると思ってい た。もっと早く察してくれたらいいのに。普通だったらわかるはずだ。そういうところが、 純情というか子供っぽいというか。 「あなたには悪いことをしたと思ってるわ。だからちゃんと謝っておきたかったの。ごめ んなさい、本当に迷惑をかけたわ」 根岸くんは悪い子じゃないけれど、粧子にとっては男という感じがしない。だからこそ、 ハメをはずすにしても、安全な人を無意識に選 昨夜みたいなことにもなったのだと思う。 んでいたのだろう。 「そうか、わかった : : : 」 宗吾が呟いた。粧子は胸を撫で下ろした。こんなやりとりはこれ以上続けたくなかった。 だから声を優しくしてつけ加えた。 「根岸くんとはこれからも一緒の仕事をしてゆくんだし、よき仲間でありたいの。そこを わかってもらえると嬉しいんだけど」 もう、宗吾は粧子の顔を見ようとはしない。俯いたまま低い声でぼそりと言った。怒り が含まれているのはしようがないと思った。
212 頼りなげに揺れて、それはまるで今の自分のようだと粧子は思った。 「人江くんに事情は聞いたよ。神戸で、一緒のところを松井くんと会ったことが噂の発端 らしいね」 「少し、行動が軽率だったんじゃないかな」 「申し訳ありません」 「いくら、君の実家の法事が早く終わったからといって、その後で神戸で会うなんてこと は、誤解を受けてもしようがない。事情を知らない松井くんにすれば、まるで君たちが前 の日から一緒にいるような印象を持つだろう」 粧子はふっと顔を上げた。部長の言葉が予想からはずれていたからだ。言い訳のために ここに来たつもりはなかった。人江もすべてを話したとばかり思っていた。 「僕が松井くんだったとしても、たぶん誤解しただろう。まあ、人江くんは新婚だし、そ んなことはあるはずがないと、よく考えればわかることなんだけどね」 頭が混乱し始めた。 人江はいったい、部長にどう告げたのだ。 「人江くんのチームはとても仲間意識が強いし、君自身も人江くんの奥さんとも仲がよか ったから、友達感覚で気楽に会ったのだろうが、少しは状況ってものを把握すべきだった
「コーヒーはいいわ。私は家に帰るから」 宗吾は不思議そうな顔をした。 きようどう 「でも、戻ってからじゃ遅刻するよ。ア。ハートは経堂だろう。ここから行けばいいじゃ ない。大丈夫、朝ご飯は僕が作るから」 その能天気さに粧子はすっかりあきれて、宗吾の顔を見つめ直した。昨日と同じ格好で だれ 出社することが、どんな想像を O= 仲間たちに抱かせるか、誰が考えたってわかりそうな ものなのに。 わずら でも、いちいち説明するのも煩わしく、粧子は丁寧に辞退した。 「ありがとう、でも気にしないで」 そして、粧子は。ハッグを手にし、あまり彼の顔を見ないようにドアに向かった。 こういう時、もう少し言っておかなければならないことがあるような気がしたが、何し ろ突発的な一夜の後なのだ、どんな一一一一〕葉で締め括ればいいのかよくわからない。二十六歳 にもなって、こういうところがまだ大人の女になりきれていない証拠だと、粧子はちょっ はがゆ と自分が歯痒かった。 ドアノブに手をかけたところで、宗吾の声が追って来た。 「じゃあ、会社には僕から遅れると言っておくよ」
どれくらいぼんやりしていたのだろう。鳴り始めた電話のコールに粧子は我に返った。 とっさ 人江かもしれない。咄嗟にそう思い、粧子は受話器を取り上げた。 「もしもし」 けれど、相手は何も答えない。 無言のままだ。間違い電話 ? それともイタズラ電話 ? そう思った瞬間、ハッとした。 粧子は息を詰め、相手の様子を窺った。 シンとして何も聞こえない。けれど気配がある。受話器を持っその人間の、決して好意 ではないエネルギーが、細い線を通して粧子に伝わって来るのだ。 まさか・ 粧子はそれを確かめようとした。その名を呼ぼうとした。けれど喉に薄い膜が張りつい たように声が出ない。 とまど 怖れと戸惑い。そしてどこか開き直ろうとする冷静さ。粧子の中でそれらが徴妙な・ハラ 話ンスを持って揺れていた。 言何かが崩れてゆく。少しずつ姿を変えようとしている。確かに今、それを感じながら、 粧子は静かに受話器を置いた。 週が明けて、人江は粧子の部屋にやって来た。 165 おそ うカか
154 「だったらそうすればいいじゃない。私はあくまで気の合う仲間と暮らしたいんだから、 別に頭下げてまで粧子に来てもらおうなんて思ってやしないわよ」 「本当は、あの男のこと根に持ってるのね」 「え ? 」 「三年前につき合ってた年下の大生よ。こっぴどくフラれたものね。それで容子は、男 性不信に陥ったんだわ。なのにりつばなこと言わないでよ」 そういうことが確かにあった。けれど決して言うつもりはなかった。考える前にロに出 てしまっていた。そして言ってしまった以上、もう引っ込めるわけにはいかなくなってい 「関係ないわ」 「あるわよ。私はね、容子みたいに恋愛もできないような虚しい生き方はしたくないの」 のろ 粧子は自分のロを呪いながら言葉を発していた。容子が怒りを研ぎすました。 「余計なお世話だわ。私は私の意志で生きてるのよ。言っておくけど、恋愛のない人生が 虚しいんじゃないわよ、目的のない人生が虚しいんじゃない。粧子、目的ある ? ないわ よね。だからいつまでたっても、男にすがる能しかない女なのよ」 「それだって容子よりマシよ、そっちの方がずっと女よ」 「最低、勝手にすれば」
ても、これから先の私たちを見てもらえば、みんなだってきっとわかってくれるはずだ たた 粧子は自分の頬をばちばちと叩いて、緊張をほぐした。笑っていればいいのだ。胸を張 ってきちんと仕事をしていればいいのだ。 けれども、いくら平気を装っても、ちょっとした視線や、誰かが交わす小声の会話が気 になった。正面から粧子に真相を尋ねて来る者はなかったが、そらぞらしい雰囲気がチー ムの中に漂っていた。 息苦しさを感じると、粧子はわざと明るく振る舞った。人に対しても、自分からよく声 をかけた。自分が気にすれば、潮が引くように、周りからすっと人が消えてゆく。孤立す ることが怖いのではなく、今までの人間関係が壊れたり、仕事の手順がとどこおってしま うようなことになりたくなかった。だから頑張った。残業もいとわなかった。そのおかげ で、仕事は順調にスケジュールをこなしていた。 夜、久しぶりに人江から連絡が入った。 声を聞いた時、粧子は自分がどれだけ電話を待っていたかを思い知らされた。張りつめ ていた気持ちが、タガがはずれたようにくしやりと崩れてしまいそうだった。 「神戸のこと、だいぶ噂になってるようだな」
「あら粧子、もしかして不倫してるの ? 」 「えつ、まさか、違うわよ」 「いいじゃない、したって別に構わない。ただ、男は社会的な生きもの、最終的には地位 とか名誉とか世間とかに左右されやすいってことは覚悟しとかなきゃね」 きれつ 容子はズ。ハズ。ハと言う。そのたびに、粧子の心に亀裂が人ってゆく。それに負けまいと、 少しきつい口調で言った。 「容子は先人観を持ち過ぎるのよ。男だってそれなりに苦しんだり悩んだりしてるのよ。 不倫がみんな、女がバカを見るとは私、思ってないから。お金より誠実な男だっているわ よ。容子は知らないだけよ」 「うーん、確かにそれを言われると弱いのよねえ。私、不倫の経験ないからねえ」 容子があっさりと引っ込んで、粧子もいくらか気が落ち着いた。 い確かに世の中の不倫と呼ばれている恋愛の大半は、セオリー通りの結末を迎えているか せもしれない。でもそうじゃない場合もあるはずだ。 をそう、私たちは違う。なぜなら、ふたりの気持ちは人江が美帆と結婚する前からあった からだ。つまり、美帆が横から強引に人り込んで来たことが原因なのだ。 けれど、それが正当化できる理由になるのだろうか。だいたい、不倫に正当な理由なん てあるのだろうか。