194 茶もショッピングも一緒だった。休みの時には待ち合わせて、映画を観たり遊園地へ出掛 けたりした。あまり仲がよくてレズじゃないかとからかわれたこともあった。 なのに、どうしてこんなことになってしまったのだ。 ただ、愛した相手が同じだっただけ。 それがすべてを狂わせた。 まぶた 美帆はまだ瞼をしつかりと閉じている。粧子は腕時計を見た。十一時を回っている。も う一度人江に電話をかけるため、粧子は病室を出た。廊下に人影はなく、粧子の足音だけ が響いた。 仲のいい友達と同じ相手を好きになる。そして反目し合う。ありふれていてドラマにも ならない。けれどそれが実際に自分の身に降りかかった。そして結末がわかっていながら、 足を踏み込んでしまう。そこがどんなに底の知れない沼であっても。 カードを差し込み、番号を押した。やはりまだ携帯電話の電源は切られているようだ。 思いなおして自宅へとかけてみた。三度目のコールで受話器が上げられた。 「もしもし」 「あ、人江さん」 「粧子か。どうした」 人江は驚いたようだ。直接自宅の電話に連絡したことは一度もない。けれど、人江が本
「わかりました。それで、あの : : : 」 「残念ですが、流産です」 茫然とちむ粧子を残して、医者は医局 ( と去 0 て行「た。 ひざ 流産 : : : 粧子の膝がガクガクと震え始めた。 どうしてそんな大切なことを美帆は言わなかったのだ。妊娠しているとわかっていたな ら、もっと別の方法で、もっと穏やかなやり方で、顔を合わせることもできたのに。 その時、ストレッチャーに乗せられた美帆が出て来た。病室に運ばれ、べッドに寝かさ れる。すっかり血の気の失せた頬は、蛍光灯の青白い光に照らされて、まるで別人のよう に弱々しかった。 「そろそろ目が覚めると思いますが、なるべく興奮させないように」 「はい : まくらもと 「では、何かありましたら、枕元のブザーを押してください」 ら看護婦が出てゆくと、粧子は枕元に立ち美帆を見下ろした。 つ「美帆・ : ・ : 」 粧子は胸がきりきりと絞り上げられるような痛みを感じた。 自分たちがこんな形で憎しみ合うことになるなんて、誰が考えただろう。 ころ 人社した頃、なかなか仕事に馴染めなくて、いつもふたりで励まし合った。ランチもお 193
192 こんとん 識は混沌としていた。粧子は大声を上げた。 「すみません ! 誰か救急車を呼んでください ! 早く、早く、誰か ! 」 後はただ動転したまま、喫茶店に横づけされた救急車に一緒に乗り込み、病院に着き、 処置室に運ばれてゆく美帆の姿を見送った。 そして今、処置室の外にあるべンチで、粧子はきつく手を結びながら座っている。 心電図の発信音がかすかに聞こえて来る。それに加わるカチャカチャとした金属音。た まに医師や看護婦の声。 中に人ってから、すでに一時間以上たっていた。 人江にはすぐに連絡を取ったのだが、携帯電話の電源が切られているのかつながらない。 ドアが開いて医者が出て来た。粧子は立ち上がり、医者のそばへ駆け寄った。 「先生、大丈夫ですか」 「ええ、母体に心配はありません。あなたは身内の方ですか」 「いえ : : : 知り合いの者です」 「ご主人は ? 」 「今、連絡を取っているんですが、なかなか捕まらなくて」 「では、いらっしゃいましたら、医局の方までいらっしやるようお伝えください」
けげん その仕草を、粧子は怪訝な気持ちで見つめた。 美帆は顔を伏せている。なかなか上げようとしない。 「どうしたの」 けれど返事はない。 「美帆 ? 」 のど うめ なか 返って来たのは、喉の奥から絞りだすような呻き声だった。美帆はお腹の辺りを押さえ てテープルにつつぶした。 粧子は驚いて身を乗り出した。 「美帆、どうしたの、苦しいの、どこか痛いの」 けれど美帆は答えない。いや、答えられない。 粧子は席から立ち、美帆のそばへと近づいた。そしてハッとした。美帆の足に赤く流れ らる血を見たからだ。それは見る間に二筋一二筋と広がった。 つ「美帆 : : : 」 うぜん 一粧子は一瞬茫然とし、それから美帆の肩を抱き締めた。 「しつかりして、美帆、美帆」 力を失った美帆は、倒れるように粧子にもたれて来た。その顔は蒼白だった。すでに意 191 そうはく
あふ フアにもたれるようなことはしなかった。あくまで毅然と、そして自信に溢れた女でいた かった。紺のシンプルなニットスーツも、それを意識して選んできた。 ドアが開いて、美帆が人って来た。 美帆もまたかっちりとしたべージュのスーツを着ている。同じ気持ちなのだと思った。 粧子は手を上げて合図を送った。 「ごめん、遅れて」 「ううん」 美帆はウェイトレスにアメリカンを注文した。粧子の前にあるミルクティはまだ手がっ けられていない。飲むことを忘れていた。 お互い顔を見合わせて、目を伏せた。次の言葉が出なかった。美帆の顔色はひどく悪い。 や はため いくぶん痩せたようだ。それは当然のことかもしれないが、そのことを除けば、傍目から らは久しぶりで会った友人同士と映るだろう。 っ 電話ではすっかり慣れてしまった沈黙も、こうして向かい合うと、ひどく息苦しいもの ま 。こっこ 0 つまず どちらがロ火を切るか、それがどう影響するか、優勢に回れるか、躓くか、お互いそ れに考えを巡らせて、ただ黙り込んでいる。 185 きぜん
「早いほうがいいわ」 「じゃあ明日。場所は ? 」 美帆は青山の喫茶店を指定した。お互い誰にも会わないですむ場所であればどこでもよ かった。 短い電話だった。粧子は意外なほど落ち着いていた自分に驚いていた。もっとうろたえ たり興奮したりするのではないかと思っていたのだ。けれどそれは逆で、会うと決めたこ とで、むしろホッとしたような気分になっていた。 あんど それはたぶん美帆も同じだったに違いない。彼女の声にもいくらかの安堵のようなもの が感じられた。 これがなければ先には進めない。無言の電話を交わし合うことに、ふたりとも限界を感 じていたのだ。 会うことは、人江には言わなかった。美帆も言いはしないだろう。これは粧子と美帆の、 決して大げさではなく、対決だった。自分たちの愛を守ろうとする時、女はいつでもひと りで立ち向かうのだ。 翌日、待ち合わせの喫茶店で、粧子は美帆を待っていた。 今、約束の六時を回った。粧子は時計でそれを確かめると、背筋を伸ばした。決してソ だれ
粧子は改めて宗吾を見た。まだそこに恋は存在していないけれど、ほのかに気持ちを温 かくさせるものがあった。 宗吾だったら、心の裏側に張りついているこのもどかしい感情を取り払ってくれるかも しれない。そんな願望があった。そしてそうあって欲しいと、粧子は願った。 プログラミングは大詰めを迎えていた。すでにテストの段階に人っていて、デスクに座 るより、隣りのコンピュータ室で過ごす時間の方が長くなっていた。今のところ、大した トラブルもなく、このままでゆけば納期に遅れることなく完成するだろう。 あれから一度、宗吾とデートした。最初のデートということで、宗吾は一流ホテルのレ ストランを予約したのだが、粧子はキャンセルしてもらった。 「どうして、そろそろポーナスだし、それくらい平気だよ」 宗吾は不満そうだった。 「何言ってるの、ポーナスって言ったって、今は不景気で大した額じゃないんだから。無 理することないの、根岸くんがいつも出掛けるそんなお店がいいの」 結局は居酒屋になった。 宗吾はたくさんのことを話した。学生時代はサッカーに夢中だったこと。本当はリー せんだいかまにこや グに人りたかったこと。仙台で蒲鉾屋をやっている両親と高校生の妹のこと。若さにあり
ない。どこから掛けているのだろう。 「ちょっと話したいことがあるんだけど、帰り、いいかな」 一瞬、迷った。 「この間の噂のもと、わかったんだ」 それを言われると断るわけにはいかなかった。 「いいわ」 「この間の喫茶店で。六時半でいいかな」 「私は大丈夫」 「じゃあ」 しばらくして、宗吾がデスクに戻って来た。もちろん、一度もこちらを見ようとはしな い。粧子も同じだ。時計の針が五時半を差すと粧子は席を立った。銀座に出て少し時間を つぶしてから向かうつもりでいた。 道 に約束の喫茶店には、宗吾の方が先に来ていた。 粧子は席につくとアメリカンをオーダーし、宗吾と向かい合った。 「それで ? 」 尋ねると、宗吾はカップを置いた。
「あ、わかった ? 本当は二千円の方の定食にしたかったのに我慢したの」 「二千円だったら、奢らなかったろうなあ」 人江が笑う。粧子も笑う。チームのメンバーもつられて笑う。いつも通りの朝だった。 これでいいのだ。人江も昨夜のことは少しは驚いたかもしれないが、一夜明けてみれば 大したことではないと思っているに違いない。 結婚したということは、それだけ美帆を好きだったということなのだ。だとしたら、粧 子だけが動揺していると思われたくない。平気だ。もう済んだことなのだ。どうってこと ない。 すぐに人江が外出してくれたので助かった。粧子はデスクにしがみつくように仕事をし た。周りから見れば没頭しているように見えたかもしれないが、少しもはかどっていなか った。ループしているのはプログラムだけではなく、粧子の頭の中もそうだった。 帰りぎわにデスクの電話が鳴った。 「はい、システム部です」 受話器を取ると、低い声がした。 「僕、根岸です」 「あら : : : 」 粧子は斜め向かいの宗吾のデスクに目を向けた。さっきまで座っていたはずなのに姿は おご
忘れることだ。今夜人江と話したことはすべて忘れる。そして今まで通り、何も変わり はしない。 そう、もう手遅れ、何もかもが遅すぎるのだから : 会社に出るのにこんなに緊張したのは初めてだった。 オフィスのドアに手を掛けると、粧子はひとっ深呼吸した。人江と会っても、何でもな いような顔をしていること。それを何度も自分に言いきかせた。昨日のことなどほんの笑 い話ではないか。結婚前のちょっとした思い出を語り合っただけなのだから。 あいさっ 粧子はオフィスに人った。いつものように上司や同僚に朝の挨拶をしながら自分のデス うわず クに向かう。人江の背中が見えた。声が上擦らないよう注意しながら、粧子は人江に言っ 「おはようございます」 3 人江は一瞬緊張した表情を見せたものの、すぐに笑顔を取り戻した。 に「おはよう」 闇 「昨夜は夕飯をご馳走になっちゃってすみません」 粧子がきちんと頭を下げると、人江は困ったように頭をかいた。 「よせよ、千円の定食ぐらいでそんな丁寧に言われるとイヤミに聞こえる」