口 - みる会図書館


検索対象: 孤独で優しい夜
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1. 孤独で優しい夜

「もしかしたら : : : 」 「え ? 」 「ううん、何でもない」 美帆は一一一一口葉を濁してワインを口にした。その言いかけた一一一一口葉の先が何なのか、粧子は怪 訝に思った。 まさかと思うが、まだ人江に未練を持ってると勘繰ってるのでは。もしそうだとしたら、 それは粧子のプライドを傷つける。 でも、確認するわけにもいかず、粧子は黙ってフォークを動かした。 「私、粧子にも早く幸せになってもらいたいのよ」 「私は今でも十分幸せよ」 「そお ? 」 「幸せそうに見えない ? 」 「だって、やつばりひとりって寂しいでしよう。結婚っていいわよ。何か安心できるの。 守られているって感じかな。世の中には、キャリアを重ねてシングルで生きる人っていう のもいるけど、そういうの、どこか無理しているような気がしてならないの。やつばり女 に生まれた以上、結婚して子供を育てるっていうのが、自然な生き方だって気がするのよ げん

2. 孤独で優しい夜

両方の気持ちを知っていながら、いや、もしかしたら知っていたからこそ。 「食べようか」 そうして食事を口に運んだものの、まるで味がしない。機械的に箸を口に運んだ。 今はただ驚いていた。そして美帆のことを考えていた。いったい何のために。どうして かえ そんなことを。いや、そんなことは簡単にわかり過ぎて、却って信じられなかった。 結局、店を出るまで、ふたりはひと言も口をきかなかった。 店の前で「じゃあ」と人江は言い「ええ」と粧子は答えた。そして右と左に別れた。 すっかり日は暮れていた。 くらやみ その夜、粧子はべッドの中で、目を凝らしながら暗闇を見つめていた。 美帆は黙っていた。本当は入江は自分に好意を抱いていたのだ。それを知ってて黙って いた。 そしてもちろん、粧子の気持ちも人江には伝わっていなかった。すべてが美帆の意志の 中で葬られていたのだ。気がっかなかった。そんなことをされているなんて考えてもみな かった。 美帆が人江を好きになったのは、いったいいっからなのだろう。何度か一緒に飲みに行

3. 孤独で優しい夜

「そうじゃなくて」 「大切なのはふたりの気持ちだろう」 「あのね、根岸くん」 「今度ゆっくりご飯でも食べにゆこうよ。僕たち、もっとお互いのこと知り合わなくちゃ いけないと思うんだ。始まりが始まりだから、何か順番が逆になってしまったけど、そん なのすぐ埋められることだろう」 「あ、あの : : : 」 「ただ僕は安月給だから、あんまり高い所は無理だけど、いい感じの店はいくつか知って るから、それに友達にも会ってもらいたいし。そうだな、今度の土曜あたりどうだろう」 「あのね」 「津島さんは中華とイタリアン、どっちが好き ? 」 「いい加減にして」 粧子は強い一一一口葉で遮った。 「え ? 」 宗吾がきよとんと顔を向ける。 「話を勝手に進めないで」 さかな 今まで、宗吾の気持ちを逆撫でしないよう一一一口葉を選んで来た。たとえ年下でも、男とし

4. 孤独で優しい夜

くちゃ。本当によかった、おめでとう : : : 」 羅列する自分の一一一口葉が遠くなってゆく。美帆の笑顔が知らない人に見える。身体がしん と冷たくなって、寒くもないのに指先が細かく震えている。 私はいったい何を言っているんだろう。 ちゃんと言葉になってるのか不安になった。それでもまるで機械仕掛けの人形のように、 粧子は美帆を祝福する一一一口葉を次から次へと並べたてた。 そして咋夜、ふたりの結婚披露パーティとなったわけだ。 酔わずにいられなかった気持ち。ひとりになりたくなかったわけ。もし話せば、きっと 誰にだってわかってもらえると田 5 う。 熱いシャワーが身体を滑り落ちてゆく。敗北感と苦い後悔。それを噛みしめながら、粧 子は石けんを力いつばい泡立てた。 十二時過ぎに会社に行くと、すぐに課長のデスクに向かった。 「勝手言って申し訳ありませんでした」 課長がチラッと上目遣いをする。 「風邪だって ? 」

5. 孤独で優しい夜

172 「はい、人江です」 美帆の声だ。もちろん粧子は何も言わない。 「もしもし : : : 」 けれど美帆にもう戸惑いの気配はなかった。すぐに無言を受け人れて、美帆もまた沈黙 を選んだ。確信していた。もう間違いなかった。 受話器をもっふたりの間には、お互いの肉体は消滅し、ただ意識だけが存在している。 粧子は無言で語りかける。 美帆、何を考えているの ? そして美帆も無言で返事をする。 粧子、あなたはどうなの ? それから、無一一一口電話はまるで日課のように、交わされるようになっていた。 人江が粧子の部屋に寄る時は美帆から、寄らない時は粧子が。そして必ずと言っていい ほどお返しの電話が。そのことを知らないのは人江だけだ。その証拠に人江が部屋にいる 時、電話に出た粧子が何も話さないのを見て、尋ねたことがある。 「どうしてひと言も口をきかないんだい ? 」 「あっちも何も言わないから」

6. 孤独で優しい夜

「別に何ってわけじゃないんだけれど、たとえば仕事以外のことで、噂話っぽいことと : ううん、何もないならそれでいいんだけれど」 宗吾が振り向いた。その目から逃げるように、今度は粧子がデジタルを見上げた。 「津島さんと人江さんが神戸で一緒だったことなら、聞いてるよ」 粧子は茫然と宗吾を見つめた。 「松井さん、津島さんのこと覚えてて、すぐに東京本社の誰かに喋ったみたいだよ。ひと りに喋れば、全員に喋ったも同じことだからね。知ってる人、結構いるんじゃないかな」 宗吾は淡々とした口調で言う。粧子はすっかりうろたえていた。 「そんな : : : 」 「僕は、ふたりのことについてとやかく一一一一口う権利はないけど、やつばりマズイんじゃない かな。もっと注意深さってものが必要なんじゃないかな」 ら粧子はうなだれた。 つ「でも、もう誰に知られたって構わないって思ってるんだったら、余計なお世話だろうけ けいべっ まるで突き放されたような一一一口葉に、粧子は身を小さくした。軽蔑されたと思った。 やがてエレベーターは一階に到着した。宗吾が下りてゆく。代わりに待っていた人が人 ど」 しゃべ うわさばなし

7. 孤独で優しい夜

二の次 : : : そんな女性を今まで軽蔑してきたはずなのに。なのに今は自分がそれ。まさに そんな女になり下がっている。 粧子は席を立った。熱くて苦くて濃いコーヒーを飲みたかった。背筋をしゃんと伸ばし かっ て、自分に喝を人れたかった。 リフレッシュコーナーには先客がいた。宗吾だ。彼は粧子に気づくと、慰めともっかな い言葉を口ごもりながら一一一一口った。 「大変だったね」 自動販売機でエスプレッソを選び、粧子は宗吾の向かい側に腰を下ろした。 「ううん、悪いのは私だもの」 「課長の声は大きいからなあ」 「反省してるわ。気を引き締めなきや」 粧子はエスプレッソを口に含んだ。言葉は前向きなのに、響きに少しも力がない。それ 話に気がついたのか、宗吾が顔を上げた。 言「今朝からずっと元気がないね。何かあったの ? 」 うれ 宗吾の心遣いが嬉しかった。本当はもっと別の聞き方をしたかったのではないかと思う。 つまり人江と何かあったのか、と。けれど宗吾は立ち人ることに遠慮してくれたのだ。 「ううん、別に」 159

8. 孤独で優しい夜

時折、相手の一一一口葉にタイミングよく頷く。そこはすでに心得ているようだ。それだけで やわ 相手は気分を和らげる。ソフト制作は、ただコンピュータを相手にしていればよいという ものではない。顧客はプログラミングよりやっかいで難解な存在なのだ。 打ち合せが済んだのは六時少し前。オフィスに電話を人れると今日はこのまま帰ってい いということだった。 そのことを宗吾に告げると、彼は「やった」と思わず両手を上げた。 「あ、別にサポリたがってるわけじゃないんだけれど」 と、慌てて神妙な顔をする。粧子は思わず苦笑した。 「たまには早く帰りたいわよね」 いけぶくろ やまのてせん ふたりは駅に向かって歩き始めた。ここは池袋だから山手線で新宿まで出て、そこか ら小田急線に乗り換える。もうラッシュが始まっていてうんざりだった。 い新宿駅の改札口を出たところで、宗吾が足を止めた。 せ「あの : : : 」 返 は「え ? 」 「一緒にご飯食べない ? 」 粧子はふっと目をそらした。何となく誘われるような気がしていた。 「ごめんなさい、今日は : : : 」 119

9. 孤独で優しい夜

「もしもし : ・・ : 」 けげん 美帆の声に怪訝さが加わる。粧子は答えない。そして美帆も切ろうとしない。 ふたりの間に沈黙が訪れた。耳にだけ神経が集中し、そこから相手のすべてを読み取ろ やみ うとする。まるで闇の中で睨み合う動物のようだった。 「どうした」 不意に背後から人江の声が人って来た。 「えつ、ううん、間違い電話みたい」 美帆が答え、電話は切られた。耳元にしばらく無機質な静けさが残り、やがて機械音が 流れだした。 粧子は受話器を持ったままぼんやりとしていた。人江の名を口にすることもできない自 分の立場がひどくみじめだった。どんなに愛を語り合えても、会いたい時に声すら聞けな い。こんな理不尽なことが当然のように押しつけられる恋なのだ。 ようやく受話器を置いて、べッドに腰掛けた。頭の中でうまく言葉が整理できない。今 の気持ちを口にしても、たぶん誰にも説明がっかないだろう。 わかっている、わかっている。それを承知で始めた恋だということは。でも、わからな い、わからない。どうしてこんなことになっているのか コルトレーンの曲だけが虚しく流れ続けている。

10. 孤独で優しい夜

もうどれくらい続いただろう。 いっかこんな日が来るということはわかっていた。 その夜、鳴り始めた電話を取り、それがいつもの無言であった時、粧子はたまらなくそ の沈黙を破りたくなった。 ひとつ大きく肩で息をし、粧子はゆっくりと口にした。 「会いましよう、美帆」 の ら息を呑む美帆の様子が伝わって来る。返事はなかなか返って来なかった。けれど粧子は っ辛抱強く待った。 ようやく、低いがはっきりとした声で美帆は言った。 「そうね、そろそろ、そうすべきね」 「いつがいい」 まっさら