「もしかしたら : : : 」 「え ? 」 「ううん、何でもない」 美帆は一一一一口葉を濁してワインを口にした。その言いかけた一一一一口葉の先が何なのか、粧子は怪 訝に思った。 まさかと思うが、まだ人江に未練を持ってると勘繰ってるのでは。もしそうだとしたら、 それは粧子のプライドを傷つける。 でも、確認するわけにもいかず、粧子は黙ってフォークを動かした。 「私、粧子にも早く幸せになってもらいたいのよ」 「私は今でも十分幸せよ」 「そお ? 」 「幸せそうに見えない ? 」 「だって、やつばりひとりって寂しいでしよう。結婚っていいわよ。何か安心できるの。 守られているって感じかな。世の中には、キャリアを重ねてシングルで生きる人っていう のもいるけど、そういうの、どこか無理しているような気がしてならないの。やつばり女 に生まれた以上、結婚して子供を育てるっていうのが、自然な生き方だって気がするのよ げん
両方の気持ちを知っていながら、いや、もしかしたら知っていたからこそ。 「食べようか」 そうして食事を口に運んだものの、まるで味がしない。機械的に箸を口に運んだ。 今はただ驚いていた。そして美帆のことを考えていた。いったい何のために。どうして かえ そんなことを。いや、そんなことは簡単にわかり過ぎて、却って信じられなかった。 結局、店を出るまで、ふたりはひと言も口をきかなかった。 店の前で「じゃあ」と人江は言い「ええ」と粧子は答えた。そして右と左に別れた。 すっかり日は暮れていた。 くらやみ その夜、粧子はべッドの中で、目を凝らしながら暗闇を見つめていた。 美帆は黙っていた。本当は入江は自分に好意を抱いていたのだ。それを知ってて黙って いた。 そしてもちろん、粧子の気持ちも人江には伝わっていなかった。すべてが美帆の意志の 中で葬られていたのだ。気がっかなかった。そんなことをされているなんて考えてもみな かった。 美帆が人江を好きになったのは、いったいいっからなのだろう。何度か一緒に飲みに行
「そうじゃなくて」 「大切なのはふたりの気持ちだろう」 「あのね、根岸くん」 「今度ゆっくりご飯でも食べにゆこうよ。僕たち、もっとお互いのこと知り合わなくちゃ いけないと思うんだ。始まりが始まりだから、何か順番が逆になってしまったけど、そん なのすぐ埋められることだろう」 「あ、あの : : : 」 「ただ僕は安月給だから、あんまり高い所は無理だけど、いい感じの店はいくつか知って るから、それに友達にも会ってもらいたいし。そうだな、今度の土曜あたりどうだろう」 「あのね」 「津島さんは中華とイタリアン、どっちが好き ? 」 「いい加減にして」 粧子は強い一一一口葉で遮った。 「え ? 」 宗吾がきよとんと顔を向ける。 「話を勝手に進めないで」 さかな 今まで、宗吾の気持ちを逆撫でしないよう一一一口葉を選んで来た。たとえ年下でも、男とし
くちゃ。本当によかった、おめでとう : : : 」 羅列する自分の一一一口葉が遠くなってゆく。美帆の笑顔が知らない人に見える。身体がしん と冷たくなって、寒くもないのに指先が細かく震えている。 私はいったい何を言っているんだろう。 ちゃんと言葉になってるのか不安になった。それでもまるで機械仕掛けの人形のように、 粧子は美帆を祝福する一一一口葉を次から次へと並べたてた。 そして咋夜、ふたりの結婚披露パーティとなったわけだ。 酔わずにいられなかった気持ち。ひとりになりたくなかったわけ。もし話せば、きっと 誰にだってわかってもらえると田 5 う。 熱いシャワーが身体を滑り落ちてゆく。敗北感と苦い後悔。それを噛みしめながら、粧 子は石けんを力いつばい泡立てた。 十二時過ぎに会社に行くと、すぐに課長のデスクに向かった。 「勝手言って申し訳ありませんでした」 課長がチラッと上目遣いをする。 「風邪だって ? 」
172 「はい、人江です」 美帆の声だ。もちろん粧子は何も言わない。 「もしもし : : : 」 けれど美帆にもう戸惑いの気配はなかった。すぐに無言を受け人れて、美帆もまた沈黙 を選んだ。確信していた。もう間違いなかった。 受話器をもっふたりの間には、お互いの肉体は消滅し、ただ意識だけが存在している。 粧子は無言で語りかける。 美帆、何を考えているの ? そして美帆も無言で返事をする。 粧子、あなたはどうなの ? それから、無一一一口電話はまるで日課のように、交わされるようになっていた。 人江が粧子の部屋に寄る時は美帆から、寄らない時は粧子が。そして必ずと言っていい ほどお返しの電話が。そのことを知らないのは人江だけだ。その証拠に人江が部屋にいる 時、電話に出た粧子が何も話さないのを見て、尋ねたことがある。 「どうしてひと言も口をきかないんだい ? 」 「あっちも何も言わないから」
「別に何ってわけじゃないんだけれど、たとえば仕事以外のことで、噂話っぽいことと : ううん、何もないならそれでいいんだけれど」 宗吾が振り向いた。その目から逃げるように、今度は粧子がデジタルを見上げた。 「津島さんと人江さんが神戸で一緒だったことなら、聞いてるよ」 粧子は茫然と宗吾を見つめた。 「松井さん、津島さんのこと覚えてて、すぐに東京本社の誰かに喋ったみたいだよ。ひと りに喋れば、全員に喋ったも同じことだからね。知ってる人、結構いるんじゃないかな」 宗吾は淡々とした口調で言う。粧子はすっかりうろたえていた。 「そんな : : : 」 「僕は、ふたりのことについてとやかく一一一一口う権利はないけど、やつばりマズイんじゃない かな。もっと注意深さってものが必要なんじゃないかな」 ら粧子はうなだれた。 つ「でも、もう誰に知られたって構わないって思ってるんだったら、余計なお世話だろうけ けいべっ まるで突き放されたような一一一口葉に、粧子は身を小さくした。軽蔑されたと思った。 やがてエレベーターは一階に到着した。宗吾が下りてゆく。代わりに待っていた人が人 ど」 しゃべ うわさばなし
二の次 : : : そんな女性を今まで軽蔑してきたはずなのに。なのに今は自分がそれ。まさに そんな女になり下がっている。 粧子は席を立った。熱くて苦くて濃いコーヒーを飲みたかった。背筋をしゃんと伸ばし かっ て、自分に喝を人れたかった。 リフレッシュコーナーには先客がいた。宗吾だ。彼は粧子に気づくと、慰めともっかな い言葉を口ごもりながら一一一一口った。 「大変だったね」 自動販売機でエスプレッソを選び、粧子は宗吾の向かい側に腰を下ろした。 「ううん、悪いのは私だもの」 「課長の声は大きいからなあ」 「反省してるわ。気を引き締めなきや」 粧子はエスプレッソを口に含んだ。言葉は前向きなのに、響きに少しも力がない。それ 話に気がついたのか、宗吾が顔を上げた。 言「今朝からずっと元気がないね。何かあったの ? 」 うれ 宗吾の心遣いが嬉しかった。本当はもっと別の聞き方をしたかったのではないかと思う。 つまり人江と何かあったのか、と。けれど宗吾は立ち人ることに遠慮してくれたのだ。 「ううん、別に」 159
時折、相手の一一一口葉にタイミングよく頷く。そこはすでに心得ているようだ。それだけで やわ 相手は気分を和らげる。ソフト制作は、ただコンピュータを相手にしていればよいという ものではない。顧客はプログラミングよりやっかいで難解な存在なのだ。 打ち合せが済んだのは六時少し前。オフィスに電話を人れると今日はこのまま帰ってい いということだった。 そのことを宗吾に告げると、彼は「やった」と思わず両手を上げた。 「あ、別にサポリたがってるわけじゃないんだけれど」 と、慌てて神妙な顔をする。粧子は思わず苦笑した。 「たまには早く帰りたいわよね」 いけぶくろ やまのてせん ふたりは駅に向かって歩き始めた。ここは池袋だから山手線で新宿まで出て、そこか ら小田急線に乗り換える。もうラッシュが始まっていてうんざりだった。 い新宿駅の改札口を出たところで、宗吾が足を止めた。 せ「あの : : : 」 返 は「え ? 」 「一緒にご飯食べない ? 」 粧子はふっと目をそらした。何となく誘われるような気がしていた。 「ごめんなさい、今日は : : : 」 119
「もしもし : ・・ : 」 けげん 美帆の声に怪訝さが加わる。粧子は答えない。そして美帆も切ろうとしない。 ふたりの間に沈黙が訪れた。耳にだけ神経が集中し、そこから相手のすべてを読み取ろ やみ うとする。まるで闇の中で睨み合う動物のようだった。 「どうした」 不意に背後から人江の声が人って来た。 「えつ、ううん、間違い電話みたい」 美帆が答え、電話は切られた。耳元にしばらく無機質な静けさが残り、やがて機械音が 流れだした。 粧子は受話器を持ったままぼんやりとしていた。人江の名を口にすることもできない自 分の立場がひどくみじめだった。どんなに愛を語り合えても、会いたい時に声すら聞けな い。こんな理不尽なことが当然のように押しつけられる恋なのだ。 ようやく受話器を置いて、べッドに腰掛けた。頭の中でうまく言葉が整理できない。今 の気持ちを口にしても、たぶん誰にも説明がっかないだろう。 わかっている、わかっている。それを承知で始めた恋だということは。でも、わからな い、わからない。どうしてこんなことになっているのか コルトレーンの曲だけが虚しく流れ続けている。
もうどれくらい続いただろう。 いっかこんな日が来るということはわかっていた。 その夜、鳴り始めた電話を取り、それがいつもの無言であった時、粧子はたまらなくそ の沈黙を破りたくなった。 ひとつ大きく肩で息をし、粧子はゆっくりと口にした。 「会いましよう、美帆」 の ら息を呑む美帆の様子が伝わって来る。返事はなかなか返って来なかった。けれど粧子は っ辛抱強く待った。 ようやく、低いがはっきりとした声で美帆は言った。 「そうね、そろそろ、そうすべきね」 「いつがいい」 まっさら