時間 - みる会図書館


検索対象: 孤独で優しい夜
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1. 孤独で優しい夜

のどもと Ⅷれがずっと喉元にひっかかっていた。 それから何を話したのだろう。食事はどう終えたのだろう。後の時間を、粧子はどこか うわの空で過ごした。 部屋に戻ると、粧子はバッグをベッドの上に放り出し、べたりと座り込んだ。 自分はみみっちい人間なのだろうか。計算高い女なのだろうか。こんなにも指輪のこと が頭から離れない。粧子は自分を嫌いになってしまいそうだった。 どうということはない。きっと美帆に無理を言われて、しようがなく買ってやっただけ のことなのだ。そんなものは何の証明にもなりはしない。気休めに物さえ買い与えておけ ばそれでいいというのは、よく使う手ではないか。 それはわかっている。理解している。なのに苛立つのだ。悔しいのだ。 人江とっき合うようになってから、粧子はできるだけ彼に負担をかけまいとして来た。 入江のお給料がどれくらいかも知っていたし、結婚すればそれなりの出費がかかることも わかっていた。だから外で食事をする時も、高い店は粧子の方から避けるようにした。そ れも人江が気を遣うことのないよう「気楽な方が好きだから」とわざとそう言った。 もちろんそれを恩に着せたり、不満を持ったりしているわけじゃない。それだって粧子 の愛情のひとつなのだ。自分が好きでやったことなのだ。

2. 孤独で優しい夜

ーが心配そうな顔つきで粧子を見ている。 原因を考える前に、とにかく行かなければならない。粧子はすぐに席を立ち、窓際の課 長席へと近づいた。 「お呼びですか」 いす 回転椅子の背もたれに深く寄り掛かり、課長はロ角を下げて粧子を睨んだ。 「午前中、私への連絡はなかったかね」 一瞬、何のことかわからない。課長は苛ついた声で繰り返した。 「商事から、打ち合せの時間を一時間繰り上げて欲しいという連絡はなかったかね」 思い出した。確かにあった。課長が不在で、スケジュールポードを見て、了承した。そ してそのことを、課長に連絡するのを忘れていた。 話「申し訳ありません。確かに連絡がありました」 信粧子は深々と頭を下げた。 「どうしてそんな大切なことを忘れたんだ。時間の繰り上げだぞ。そのおかげでクライア ントを一時間も待たせてしまったではないか。それもあちらは常務も出席しての打ち合せ だったんだ。何も知らないで顔を出した私の身にもなってみろ。常務は非常に気分を害さ にら

3. 孤独で優しい夜

120 「本当は打ち合せにもう一時間はかかるはずだったろう。だから余った一時間だけ」 そこまで言われると断れなかった。それにそろそろ宗吾にもきちんと気持ちを伝えるべ きだとも思っていた。友達でいい、なんて状況に甘えて、いつまでも曖昧な態度でいるの は宗吾に対しても失礼かもしれない。 それに人江が部屋に来るまでにまだだいぶ時間がある。九時なら人江は食事を済ませて 来るはずだし、どうせ粧子もひとりで食べなければならないのだ。 「じゃあ、一時間だけ」 宗吾はみるみる顔をほころばせた。自分と食事をすることぐらいで、こんなに素直に喜 んでくれる宗吾を見ると、面映ゆかった。 どこにしようか迷って、お好焼き屋に人った。 「津島さん、僕とご飯を食べる時、できるだけ安い店って選んでない ? 」 「そんなことないわ、お好焼きが食べたかったの」 「だったら、いいけど」 宗吾は少し不満そうだった。けれど材料が運ばれて来ると、まるで粘土遊びをする子供 のようにはしゃぎながら焼き始めた。 ひろしまふうおおさかふう 「お好焼きには広島風と大阪風があるだろう。僕は絶対大阪風だな。メリケン粉がいいん だ、あれにジワーツと具の味がしみこんで、最高」

4. 孤独で優しい夜

「何のための避妊 ? そんなもの必要ないじゃない」 人江はしばらく返答に窮し、明らかに困惑の声で呟いた。 「参ったな : : : 僕を困らせないでくれ」 「また、それね」 粧子の腕からふっと力が抜けた。 わがまま 「いつも私の言うことは我儘で、あなたを困らせてばかりなのね」 「少し時間が欲しいと言ったろう、今は無理だ」 「じゃあ、いつならいいの ? 前にもあなた、同じこと言ったわ。でもあの時から何も変 わってない」 粧子は上半身を起こし、べッドの上に座った。言葉に険がこもる。 「もし、あなたと美帆の間に子供ができたらどうするの。その時、私はどうすればいい 「その話は別の時にしないか。会うのは久しぶりだろう。それに今夜はあまり時間がない んだ」 人江はまるで子供をあやすような口調で言い、腕を伸ばした。粧子はそれを振り切り、 はっきりと拒絶の意志を表わした。心が閉じていた。 「私はあるわ。時間ならいくらでもあるわ」 つぶや

5. 孤独で優しい夜

「粧子・ : ・ : 」 「あなた、今の言葉が私をどんなに傷つけたかわからないの ? それさえ、もう、わから ないの ? 」 思いより時間を気にする。こうして会っているのはセックスのためじゃない。大事なも のが、いつのまにか後ろへ後ろへと追いやられてゆく。そしてすり替えられてゆく。忘れ られてゆく。粧子は人江の言葉にひどく打ちのめされている自分を見ていた。 その時、電話が鳴り始めた。張りつめた空気が流れて、白けた雰囲気が漂った。粧子は 緩慢な動作でバスロープを羽織り、受話器を取り上げた。 「もしもし、津島です」 こた 応えがない。 「津島ですが、もしもし」 無言のままだ。その時、ハッとした。 話受話器を通して、しばらく息を詰めたような沈黙があった。それはまるで海の底から静 信かに湧き立っ泡のように、ひたひたと耳に打ち寄せて来る。 大した時間ではないかもしれない。けれど粧子にとっては、時間という意識が消え去る ような深い沈黙だった。 やがて静かに電話は切れた。粧子もゆっくりと受話器を戻した。 169

6. 孤独で優しい夜

どうやら朝らしい。 窓の向こうから人々の行き交うざわめきが届く。 しようこ 粧子はまどろみの中でぼんやりと聞いていた。 目覚ましはまだ鳴らないが、そろそろ会社に出掛ける準備を始める時間だ。けれど頭は からだ 重く、身体もだるくて、まだべッドから離れたくなかった。 かくせいはざま そのまま、またゆるゆると眠りに引き込まれてゆく。眠りと覚醒の狭間に漂う心地よさ。 始あと少し、もう少し : : : とぐずぐずしながら、粧子は目を醒ます時間を引き延ばした。 さざわめきにはさまざまなものが混ざっている。子供の声。自転車のプレーキ。ゴミ出し あいさっ 危の主婦の挨拶。遮断機が下りる音。どこかで大が吠えている。道路工事のドリルも。そし て、寝息までも。 その時、ハッとした。 危うさの始まり

7. 孤独で優しい夜

甘美な時が過ぎると、息をひそめていた時間が再び時を刻み始めた。 自分がここにいるという感覚を取り戻すまで、粧子はしばらくぼんやりとした。海の底 あいぶ で揺れているような虚無感。それは時には愛撫よりも心地よい。 「そろそろ : : : 」 と、いつものように人江が帰り支度を始めた。その言葉を聞いた瞬間、粧子は意識を呼 び起こされ、次に会うまでの長い時間の始まりに憂鬱になるのだった。 「そんな顔しないでくれよ」 べッドを下りた人江が悲しそうに振り向く。 粧子は急に表情を作り替え、おどけながら笑ってみせた。 「ああ、嬉しい。嬉しくてしようがない。だってあなたが帰るんだもの、さつばりしちゃ せそして、尋ねた。 は「こっちの方がいい ? 」 人江は苦笑し、腕を組んだ。 「やつばり前の方がいいな」 「明日、午前中にチーフ会議があるの忘れないで。資料は机の右の引き出しに人れておい 137

8. 孤独で優しい夜

8 うふたりとも子供ではなかった。 うわさばなし しゃれ 会社の噂話やお洒落のこと、そんなことを話しているうちに九時近くになっていた。 「あら、もうこんな時間、そろそろ私」 粧子は腰を上げた。 「まだいいじゃない。もうすぐ彼も帰って来るから」 「いいわよ、せつかくふたりきりになれる時間でしよ。お邪魔しちゃ悪いわ」 「やだ、そんな気回さないでよ」 「いいんだって、私は人江さんとは会社で毎日顔を突き合わせているんだから」 「そうね、今さら見たって嬉しくも何ともないわよね」 「ま、そういうこと。じゃあね」 美帆はマンションの前まで見送りに出て来てくれた。また遊びに来てね、と彼女は言い、 こた 粧子は手を振って応えた。それから駅へ続く道を足早に歩いた。 ゅううつ 何だか途方もなく疲れていた。そして憂鬱だった。もうひとつ自己嫌悪も。 早く、自分の家に帰りたかった。熱いシャワーを浴び、べッドに潜り込みたかった。 週が明けた月曜。 ほおづえ どうも仕事に調子が出なくて、粧子は朝からデスクに頬杖をついたり、ペンをぐるぐる

9. 孤独で優しい夜

れるかもしれない。だから言葉の端に、どちらとでもとれるような徴妙なニュアンスを含 ませておいた。 一フンチが運ばれて来た。話はそこで中断され、すぐまた新しい話題が持ち上がった。彼 女たちはフォークを動かしながらお喋りに興じた。粧子もその一員に加わりながら、意識 はすでにひとり歩きを始めていた。 今夜、人江は来るだろうか。 人江の身体は温かい。 彼の持っ熱が肌に浸透して来ると、粧子は会えなかった時間で強ばり始めていた心が、 ゆっくりほぐれてゆくのを感じる。 魔法の鍵のような人江の指と舌。それは粧子を徐々に開かせる。身体も心も開かせる。 すきま 人江はまるで液体のように粧子の身体の隙間を埋め尽くす。そして粧子の一部になる。 やがてひとつになる。いっかすべてになる。 しゅうち もう羞恥を感じる余裕はない。そんなものに時間を費やすことが惜しいほど、侵人者は 魅力的だ。 粧子は人江の身体を離さない。この指で、この手で彼を抱き締める。ただ、抱き締める。 その身体の中にこそ、愛があるから。 こわ

10. 孤独で優しい夜

130 けれど思うのだ。これは本当に入江のための我慢なのだろうか。 時間が来れば彼を帰すのも、土日は会わない約束も、もしかしたら人江のためではなく、 美帆のためにしているのではないかと思ってしまうのだ。 美帆を傷つけないために、美帆の妻という座の名誉のために。だとしたら、何故、自分 が我慢しなければならないのだ。粧子を裏切り人江を奪ったあんな美帆のために。 粧子は首を振った。 わかってる、わかってる。入江が粧子をいちばん大切に思ってくれていることは。それ だけで十分ではないか。愛を得たのだから、それ以上欲張りになってはいけない。 それがわかっていながら、自分を納得させることができない。何故、愛されている自分 がこうしてひとり置き去りにされて、美帆の待つあの部屋に人江が帰らなければならない のか。どうしてもその理由づけができないのだ。 あの時、入江を美帆に奪われた。身体がばらばらになるほど苦しかった。そして入江と 気持ちを確かめ合った。結ばれて幸福だった。そこに嘘はなかった。なのに、その至福は はかな 何て儚い時間なのだろう。今は、奪われたあの時よりずっと苦しい。人江を手に人れたは ずなのに、少しも満ち足りてはいないのだ。 こんなはずじゃなかった : 粧子は唇を噛んだ。もっと幸せになるはずだった。もっと幸せになるためにこうなった。