そのはずみに、ポケットから何かがごろりと落ちた。 その間に、隣に押し入って、月子を殺す。 それは、俺が踏み出そうとした足と地面の間にちょうど滑り 彼女がこの世から消え、俺があの手紙を燃やせば、誤った過品 込んだ。とたんに俺は足を取られ、ずるりと後方へ倒れる羽目去は消え、あるべき未来もなくなる。俺は自由になれるーは になった。 すだったのだ。 ガッン。 だが、大丈夫だ。警察を呼ばれたところで、足元にリンゴが 後頭部に衝撃があった。 ある以上、いくらでも言い訳はできる。喜代が出て行ったのは、 俺は倒れたまま頭上を見上げた。 ただの痴話喧嘩の範疇。彼女だって落ち着きを取り戻せばわか 「これ、どうするだ ? 」 るはずだ。何も問題はない。後ろめたいところは何も フライバンをもったー六十代のタクシ 1 運転手風情の男が 「最後に残るのはー人魚姫の感傷、か , 立っていた。 いや、待て。 「とりあえず警察だね、親父」とアフロが答える。 失われていく意識のなかで、俺は何とかポケットに手を伸ば 「だな」 そうとした。一つだけ問題があることに思い至ったのだ。 それからータクシ 1 運転手はニッと俺に笑いかけた。 「ん ? 何かポケットから光るものが見えるぞ」とアフロが言 次の瞬間、再び頭上にフライバンが振りかざされた。 意識がー遠のいていく。 よせ。やめろ。 「婚約者を殺そうとしただか ? 」 「鍵だ。コイツ、九号棟の鍵を持ってる。カウンターから盗ん 「らしいね。金になびいた嘘つき姫と、女の言葉に騙された哀だみたいだな」 そこでー意識が失われた。 れな王子。王子は遅まきながら嘘に気づき、嘘つき姫を殺しに かかった。ありうべき、『人魚姫』の後日談さ」 違、つ。 俺はーただ最後に リンゴを用意していこうと思ったの だ。リンゴは要るかと尋ねるために、バスル 1 ムに入った。 さっきポケットから落下し、俺を転ばせたのは、リンゴだっ たのだ。 喜代はリンゴが好きだ。リンゴさえ食べさせておけば機嫌が ハトカーに追いかけられる夢を見ていた。 何も悪いことをしていないのに、何故だろう、と思っていた。 逃げよ、つ。 そう言って手をとったのは、美船君だった。 でも、それは高校時代の美船君とは別人の、恐ろしい鬼のよ
して参った。走狗などと言われる覚えはない」 方円斎が笑うとともに、殺気が走った。まわりの部屋にいた 藩士たちが縁側での異様な緊張に気づいて出てきた。 源太郎が、言い切ると与市は新六に顔を向けた。 「菅殿はかように言われるが、実のところはどうなのだ」 ひとのざわめきを聞いて、縁側の奥の小宮たちがいる部屋か 与市のひややかな問いかけに新六はうなずいて見せた。 ら用人の小笠原鬼角が、顔を出し、 「菅様の言われたことにいささかも間違いはございません。城「何事だ。小宮様との話し合いをしておるというのに、うるさ いではないか。騒ぎ立ててはならん」 下での騒擾が起きぬように動かれているのです」 与市と方円斎、順太は顔を見合わせた。方円斎がふたりに目 と叱責した。鬼角は三十歳すぎでがっしりとした体つきの男 くばせをしてから前へ出てきた。 「信じられぬ」 与市があわてて駆け寄った。 方円斎はほっりと言うと、脇差の柄にそろりと手をかけた。 「申し訳ございません。菅源太郎殿が小宮様に進言っかまつり たいと言われるのですが、出雲の意を受けてのことかもしれま 源太郎を斬るつもりのようだ。それを見て、新六は前に出ると 手にした大刀を示して見せた。 せんので、質しておりました」 鬼角はゆっくりと縁側に出てきた。 武士が他家を訪問する際、玄関脇の刀部屋で刀を預けるのが 「ほう、出雲の使いとあれば、面白いな」 礼儀だった。方円斎たちも大刀を預け、源太郎も脇差だけだっ た。しかし、新六は大刀を手にして上がってきたのだ。方円斎 鬼角はじろりと源太郎を睨んだ。源太郎は蒼白になりながら は表情を変えなかった。 「いえ、ご家老の使いというわけではございません。ただ、そ 「無礼を承知で刀を携えて参ったのは、菅殿を護衛いたすため カー れがしはご家老の内意を知りましたが、それが御城下で騒ぎを 起こさぬようにするためには、何よりではないかと思い、自ら 方円斎は鋭い視線を新六に向ける。順太も脇差に手をかけ、 腰を落としていつでも抜き打ちに斬りつけることができる姿勢の思い立ちにて参ったしだいでございます , をとった。 と力をこめて述べた。 まわりの藩士たちは息を呑んで静まり返った。 新六は携えた大刀をわずかに身に引き寄せながら、 「直様、ここで斬り合えば大刀を持つ、それがしの方が有利で 「それを世間では使いと申すのだ」 あることはおわかりのはず 鬼角は嗤って、それで、出雲はどうしろと言っておるのだ、 と低い声で言った。 と源太郎に訊いた。 「そうとは限らぬ - 源太郎は皆が聞いている前でロにすべきかどうか、迷う気配 葉室麟 96
その墓の前に、花東があるのが見えた。 彼女も、わたしのことを覚えていたようで、あっと詰まるよ まだ萎れていないコスモスの花。濃いピンクなのにどこか品 うな顔になった。 が良いその花は、今日のうちに供えられたもののようだった。 「涙子さん、少しだけお時間いただけませんか ? 」 花の包みには『芙和』とあった。わたしはその包みのロ ゴの部分だけを手でちぎりとると、タクシ 1 に戻った。 涙子さんはきゅっと口を結んでわたしをひと睨みした後、店 「運転手さん、この花屋さん、知ってますか ? 主の顔をちらりと振り返った。 「おお、ここから十分くらい行ったとこかねえ」 「お店なら私がいるんだから、 いいわよ、ゆっくりしてきて。 「そこにお願いします」 角を曲がったところに喫茶店があるわ」 「なるほど、尋ね人は故人じゃねえようすら。あんた、本当に 涙子さんは頭を下げ、それから私に「少しだけならと言っ 、」 0 仕事で来てんのかい ? 案外、逃げた王子様を追ってきたとか じゃ : 彼女と夢センセは一緒にいるのではないのだろうか ? 「違いますから ! 早く出してくださいよ ! 」 いま、夢センセはどこにいるのだろう ? はいはい、と言いながらタクシ 1 運転手は車を発進させた。 「ありがとうございます」 ほどなく現れた花屋『芙 >-a 和』は、小洒落た雰囲気の店だっ わたしは、彼女を引き連れて、店を出た。タクシ 1 の運転手 た。わたしは花々に囲まれた狭い通路を通って奥へ向かった。 が、大口を開けて眠っていた。 「いらっしゃいませ」 振り返ると、店から出てきた涙子さんは、痛みに堪えるかの 元気よく現れたのは三十代半ばの女性だった。 ような苦しげな表情を浮かべていた。まるでー陸に上がって 「あの、今日こちらでコスモスの花を買ったお客さんがいたと歩き始めた人魚のように。 思、つんですが・・・・ : 」 「本木君のことも、あの小説のことも、私には何も関係があり 「今日 ? 今日はまだそんなお客さんいないと思うけど : ませんから」 ちょっと待ってね」 人魚姫は、歩くたびにひどい痛みを伴ったという。そんな痛 彼女はそう言って一度奥に戻った。 みを我慢したのに、ただの感傷なわけがない。 「ルイちゃん、ねえ、今日コスモスを買ったお客さんていた ? 二人は同じところに宿でも取っているのだろうか ? 奥からーもう一人女性が現れた。 それとも その長い黒髪。深い悲しみを吸い込んだガラスのような瞳。 涙子さん、あなたと夢センセの恋の結末を教えてくださ 現れたのは、埴井涙子その人だった。 い。まだあの小説で終わりではないはずです。そして、どこま 森品麿 76
遠ざけようとする。逃げ腰になる。そして、そんな、恥ず べきことはしてはいけないと思う。けれど、ほんとうに、 目の前に、エウレカちゃんが突進してくると、たまらなく なって、顔をそむけたりする。 すごいよね、エウレカちゃん。エウレカちゃんは最高だ。 ばくたちには、エウレカちゃんが必要なんだ、もうナウシ カって人がいなくなっちゃった以上は。そう思うんだよ、 なんとなくね。 『朝、起きたら、ばくは虫になっていた』 ばくは、舞台の真ん中で、スポットライトを浴びながら、 セリフをい、つ。エウレカちゃんは、動くこともしゃべるこ ともできないから、べッドに寝たままだ。エウレカちゃん の代わりに、ばくがセリフもしゃべるってわけだよ。 『最初は、悪い夢を見てるんだと思った。背筋を伸ばそう とした、でも伸びない。背筋がないんだ。そんな感じ。ば くは、もちろん目を閉じた。こういう悪い夢はよく見るん だ。誰だってそうだろう ? 学校に行きたくない時とか、 前の晩に、父さんに「お前はおれに似てない。バカでグズ で不良だ」っていわれた時とか。そういう時は、いつも もう一度、寝ることにする。温かいべッドの中で毛布にく るまって、今度は別の夢を見ようとする。お花畑で踊って るとか : あれ ? おかしいな。どうして、夢から覚め ないんだろう。手がない気がする。それから足がない。お かしい。なんでこんな夢を見るんだろう。最悪だ』 エウレカちゃんが、べッドの中で動いている。手も足も うごめ ない、ちっちゃな体が、不気味に蠢いている。 『ャヾい。なんだか、ヤバすぎるよ。どうなっちゃってる んだろ、つ。ど、つしてこんなことになっちゃったんだ ? くって、なにか悪いことをしたのかなあ : : : 。学校に行か なくちゃ : : : でも、これじゃあ、黒板に字を書くこともで きない。パンとス 1 プを別々に食べるのは無理だ : : : ふた 装画・岸野衣里子 エストウイング「覆」 ウイ。ウ ・定価 1 、 890 円 ( 税込 ) 津村記久子 四六判上製・ 392 頁一 SBN978 ー 462 ー 251021 ー 1 芥川賞作家の新たな達成 ! 顔だげの幽霊、ゲリラ豪雨、謎の感染症 : 不思議な災難に直面する人々のゆるい繋がりから、 静かに手わたされる日々の歓びを描いた傑作長篇 A S A Ⅲ お求めは書店、 ASA ( 朝日新聞販売所 ) でとうそ。朝日新開出版 339 青少年のためのニッポン文学全集
00 冶人一 新受第を 暠文 ' 月村了衛 うな顔をした美船君だった。わたしは怖くて、手を振りほどこ 、つとした。 けれど、それは見間違えだった。 そんな鬼も、美船君も実際にはいない。 そこはいつもの〈ホテルオーハラ〉で、夢センセが外のパト カーを見て弱々しい笑みを浮かべていた。 夢センセ、逃げますよー わたしは夢センセの手を擱んで逃げはじめる。 現実の世界のわたしには欠片も持ちえない積極性で。 わたしを見ているもう一人のわたしは、そんなわたしがま しくて仕方がない。 なぜならその手はーわたしが最も触れていたい : 「チェックアウトのお時間で 1 す ! 」 「ぐわわわー 突然勢いよくドアが開いたかと思うと大声でそう言われ、わ かけら イ b 、、 け , ー 機龍警察』の著者が放っ 書き下ろし長篇警察小説′ トラウマを抱えた無気力警官と 武闘派ヤクサ幹部の元に、 黒社会の若き首領が女を連れて現れた : 定価 1 、 575 円 ( 税込 ) 四六判上製 ISBN 978 ムー 02 ー 251111 ー 9 たしはべッドからずり落ちた。 ドアのところにいたのはー夢センセだった。 「あら : : : 」 夢センセの視線はわたしの胸の辺りにあった。 「あっ [ 昨夜ジャージに着替えるのが面倒で下着のまま眠ってしまっ たのだ。 「わ : : : ちょ : : : で、出てってくださいよヘンタイー わたしは枕を投げた。 夢センセはドアを閉めながら、ドア越しに言った。 「なんで鍵開けて寝てるんだ、この不用心女ー 「かける習慣がないんですー 「殺されるぞ。まあ鍵してても殺されるときは殺されるけどな」 「そんな心配ないですって、こんなところで」 「とにかく気をつけろ、まだ若いんだから。親が泣くぞ」 夢センセの声の調子はいつになく真剣だった。 それにしても すべての人に、価値ある - - 間を お求めは書店、 ASA ( 朝日新聞販売所 ) でどうそ。朝日新聞土版 A S A Ⅲ 81 偽恋愛小説家
見てみたい。ほんものを、ねー 『虫』は、ちょっと難しいお話なので、少しわかりやすく した。だいたい、劇なんだから、あんまり難しいセリフは 入れたりしない 。これは秋の文化祭で上演する予定なんだ。 セリフは、ばくが書いた 舞台の端っこに、べッドがあって、『虫』になったエウレ カちゃんが寝ている。なにもしなくていいよ、っていって あるけど、エウレカちゃんに伝わっているかどうかは、わ からない。エウレカちゃんを舞台に上げるのは、『リスク』 が大きいってやつだ。でも、やつばり、エウレカちゃんじゃ なきやダメだ。 いつも ( この「虫』が、エウレカちゃんが主演をする舞 台の三本目だ ) 、同じ反応なんだ。 黒子が ( 真っ黒いレオタ 1 ドを着て、顔にもすつほり黒 い布をつけて表情をわからないようにしてある ) 、静々と、 エウレカちゃんを舞台に運んでゆく。ばくたちの舞台を初 めて見る観客は、最初のうち、なにが起こっているのか気 づかない。ばくたちが、エウレカちゃんを、初めて教室で 見た時みたいに。 突然、誰かが、黒子が抱いて運んでいるのが、人形では なく、『人』だってことに気づく。でも、エウレカちゃんみ たいな『人』を、誰も見たことがない。観客席がざわっく。 そうだ。みんな、ショ 1 ガイがある子は見慣れているのに、 そういう子はかわいそうで、そういう子から目を逸らした ぶしつけ り、また逆に、見つめたりするのは不躾だってことは知っ ているのに、みんな、目を逸らしたり、凝視したりしてい る。いつもやっていることをすっかり忘れてしまっている。 時々、ばくはイタズラをする。そんな必要もないのに、 舞台の真中こ、、 ( しきなり、エウレカちゃんを置いて、黒子 が退場する。エウレカちゃんは、仰向けになったまま、し ばらく静かにしている。そして、急に、信じられないよう な俊敏な動きで、うつ伏せになる。まるで手品みたいなん だ。根元しかない手と足と、それから、他の筋肉を器用に 使って、さっとうつ伏せになると、そのまま、舞台の上を 動き回る。手も足もないのにだよ ! それは、見たことのない精巧な機械か、新発見の生物み たいなんだ。エウレカちゃんの動きは制御できない。エウ レカちゃんには、一応、いろいろ注意はするし、もちろん、 シナリオも読んでもらう。少なくとも、エウレカちゃんは、 シナリオをめくることができるし ( 手や足は役に立たない から、ロを使ってね ! ) 、どうやら、印刷された字を見たり もしているらしいんだ。けれど、エウレカちゃんが、なに をどんなふうに理解しているのか、それはぜんぜんわから ない。それでも、ばくたちはエウレカちゃんに来てもらう。 どうやら、エウレカちゃんは『劇』に出ることはイヤがっ てはいないらしいから。 エウレカちゃんが近づくと、観客たちは、本能的に体を 高橋源一郎 338
なことだと、吐き捨てるように言っていた。とすれば、志 賀は世界と隔絶しているときのその「遠さ」の甘美よりも、 ほんとうは世界とのぎしぎし軋む摩擦やそれによる裂傷の ほうにこそ向かっていたといえる。いいかえると、物語を 機能停止に追い込むこと、かわりに皮を剥がれた肉体を写 真とともに立ち上がるであろうイメ 1 ジのなかに深く挿入 すること。彼女は、かって世界に桔杭するためにおのれの 身体にかけていたその負荷を、こんどはシャッタ 1 を切る までの準備過程へとかけ換えたのだ。 とすれば志賀にとって撮るという行為はもはや《表現》 なのではない。内的なものを外に押しだす ()x ・ press) 試み、 内的な衝動の表出といったものではなくて、なにかたぐり 寄せるべきもの、手を突っ込んでみとるべきものだとい うことになる。物語の停止とはおそらくそういうことだ。 としたら、彼女の写真を前にして、そこに何か一貫した意 味を読み取ろうという解釈のいとなみは、徒労に終わるほ かない。彼女自身、おのれの行為を、もっともっと不可解 なものへと、非意味のほうへと押しやろうとしているはず だ。だから構成された写真群がいずれもフィクションであ ることを隠しもしない。リアルよりもはるかに強度の高い フィクションをめがけているにしても。 ここでふと、彼女の写真行為に《愛撫》という観念を重 ねたくなる。というのも愛撫こそ、この距離をとることと それを抹消することとの危うい拮抗のなかでなされるもの だからだ。愛撫とは相手の身体、とりわけその表皮に触れ ることへの欲望としてある。他者の身体に触れるというこ とは、それと接触するということとおなじではない。往来 でぶつかったり、満員電車で押し合いへし合いするときに も、たしかに衝突や蝟集 7 密着 ) というかたちで接触が 起こっている。愛撫はそうではなくて、まさぐるという行 為である。何かに触れるというのは、その何かをそっと、 しかし確実に擱み、そしてそれを注意深く、かついとおし くまさぐるという行為のなかでしか起こらない。押したり 引いたり、ぐっと握りしめたりそっと撫でたり、腫れ物に ふれるかのように優しく掌に包み込んだり、語りかけるか のようにとんとんと突いたり : : : と、腕が、指が、状況に 応じて力を込めたり緩めたりというふうに柔軟に対応しえ ないと、物との衝突という事件が起こるだけで、触れると いう経験は起こらない。ある隔たりを置いた対象への関心 というものがなければ、ひとは物に触れることができない のだ。 ジャン・プランが書いていたように、「手はそれ自身が触 れられることなしには触れることができない」 ( 『手と精神』 中村文郎訳、法政大学出版会、一九九〇年 ) 。触れるということ は、その意味で、何かに触れることでみすからに再帰的に る ふ 触れ返すということでもある。つまり、触れるというのは、 の 物あるいは他者の身体を経由した《反射》、つまりは送り返素 しの行為である。とすれば、愛撫とは、触れることにおい つつ いしゅ、つ
見かけに尽くされないある実質をもっていることも、とも に時間という契機によって相互補完的に成り立っこと。異 なるさまざまの現われがおなじ一つのものの現われである ことは、たえず推移する時間がおなじ一つの連続する時間 であることの了解によって裏打ちされていなければ成立し えないからである。 こうした事態に拮抗するためには、「ハアッハアツーと息 が切れるくらいの、等量もしくはそれ以上の負荷をみずか らの体にかける必要があること ( 自傷というのがその負荷 の極限かもしれない ) 。しかしそれは、何ごとも思いどおり にできるという横柄な万能感へと反転してゆくことがある こと。 そしてじっさい、はじめてカメラを手にしたとき、志賀 は眼前の現実を思いどおりに構成しなおし、支配する、そ んな感覚に酔いしれた。物も人もことごとくじぶんのイメー ジどおりの世界に引きずり込む「ガチガチの構成写真」を 撮っていたとふり返る。「構成」的というのは、別の圧倒的 なリアルをみずから仮構することである。外部世界のこう した「制圧」 ( これも志賀自身の表現である ) は、イメージ とじぶんの身体とを隔絶することではじめて可能となる。 写真とい、つのはイメ 1 ジをもろもろのシステムによって組 み立てられた世界から、ひいてはそこに組み込まれている 身体から自己を外すうってつけの媒体だった。絵を描くと きなどは「自分の手から直接線が描かれたり、なにかに触 りながら形ができあがっていく過程に対して、指先に力が 籠りすぎて気持ち悪くなってしまう感じを覚えて、つまり 生み出されるイメ 1 ジと自分の体が近すぎて、その距離感田 に耐えられないような気持ちになってしまう」が、世界と のそんなぬめった関係から抜け出すのにカメラは格好の道 具だった。スイッチ一つ、レバ 1 一つ動かすだけでものご とが整ってしまうそんな「便利な生活の居心地の悪さが、 わざわざその穴埋めをするかのように身体を酷使しつづけ なくとも、写真を撮るという、イメージをいわば暴力的に 世界から隔絶する行為によって制圧できるかのようだった。 「幼い頃からずっと抱えていた違和感から生まれてしまった 手に負えないなにかを、写真の行為で処理していたと思う」 と、彼女自身も語っている。 ( ここでわたしはふと連想する。こうした支配感は、幼く して消費主体として成熟している現代の子どもたちの異様 なまでの万能感にも通じているにちがいない。もちろんそ の万能感は脆弱なものであって、それが得られないとき子 どもは無残なほどたやすく無能感へと突き落とされる。万 能 / 無能という両極へのこのぶれは激しい 隔たりということ 志賀はそういう写真とのつきあいを「非常にナイ 1 プで 危険だったなと思う」というふうにふり返っている。ただ 奇妙な言い方になるが、暴力的だから危険だったのではな
振り向いた。 「小宮屋敷から戻ったならば、そなたの糾問をいたす。そのと 「されば、でございますー . 」 出雲は言いかけて口ごもった。 きは何もしゃべるな。その方が、そなたの体をいたぶって、楽 しむことができるからな」 伊勢勘十郎が印南新六に小宮四郎左衛門たちを暗殺させよう 勘十郎は声を出さずに笑って座敷を出ていった。吉乃は恐ろ としているのか、いまとなっては頼みの綱だ。しかし、い力に しい者を見る思いで震えながら勘十郎の背中を見送った。 対立しているとはいえ、重臣に刺客を放つなど、あからさまに ( 新六殿、助けてください ) 言えることではなかった。 心中で助けを求めたのは源太郎ではなく、新六だった。その しかも、勘十郎が新六を動かせるかどうか、まだわからない ことが、吉乃をさらに悲しい思いにさせていた。 のだ。当惑して口を閉ざした出雲の顔に忠固は鋭い目を注ぎ、 確かめるように言い添えた。 城中の御座所で、出雲は忠固の前に出ると小宮四郎左衛門ら 「なんぞ手は打っておるのだな」 の動きについて報告した。忠固は憤りで顔を赤くした。 出雲は手をつかえ、頭を下げた。 「それほどの人数で国を出ようとするのは、もはや謀反ではな 「さようにございます。されど、いかようになるかまだわから いか。ただちに討手を差し向け、一人残らず首を打て」 ぬことでございますゆえ、殿のお耳に入れることは憚られます」 忠固が声高に言うのを出雲は必死になだめた。 忠固はつめたく笑った。 「仰せ、ごもっともにございますが、家中が二つに割れて、争「ならば、聞かずともよい。そなたの打った手がうまくいけば 闘に及んだことが江戸表にまで聞こえますと、ご老中方の思し よいがな」 たまりのま 召しもいかかかと存じます。さすれば、殿の溜間詰めの障りと 「さようにございます」 もなりましよう。それでは、これまでご老中方になされた方策 出雲は頭を下げたまま、額に脂汗を浮かべていた。 が、水泡と帰してしまいますー はたして、勘十郎の狙い通りに新六は動くかどうか。すべて 「わしが老中になるためには、辛抱せよと申すのか」 がそれにかかっているのだ、と背筋がつめたくなる思いだった。 「仰せの通りにございます」 忠固は不機嫌な表情になって黙ったが、しばらくして口を開 十八 「されど、家中の者が多人数で国を出たということになれば、 小宮屋敷の門前に勘十郎は馬を乗りつけた。門は大きく開か わしの面目は丸潰れだ。そのことが老中の耳に入れば何といたれ、藩士たちがあわただしく出入りしていた。 す , はばか 葉室麟 112
ることもできる。 振り向こうとしているとー肩を叩かれた。 『彼女』は、わたしにとって特別な作品となった。その悲恋物 思いがけない顔を発見した。 語は、読み手の個人的な記憶を刺激せずにはおかないのだ。そ 「み、美船君」 んな悲しい恋をどこかでした憶えもないはずなのに、あたかも そこにいたのは、高校時代の同級生だった。 自分の重要な一部のように感じられる、そういう力を持ってい あの頃と何一つ変わらない爽やかな笑顔で、彼が微笑んでい もっとも、一つだけ〈涙子〉に具体的に共感できるところも 「久しぶり。月ちゃん」 あるにはあった。たとえば、高校時代に好きだったクラスメイ その声がーあの時代へと引き戻した。 トに名前のないラブレタ 1 を書いたこと。けれど、わたしの場「久しぶり : : : どうしたの ? 」 合は〈涙子〉のような劇的な再会も訪れることなく、平々凡々 思わず、声が弾んだ。 の人生を送っている。編集者という肩書きを手に入れ、日々忙 隣の席に置いていたバッグを腕に抱え、「よかったら、隣来 しなく駆けすり回る、ロマンスとは遠い生活。 る ? , と尋ねた。 同じ体験を持っていても現実と物語ではここまで違うものか 「あ、ごめん。連れを待たせてるんだ」 と思うと泣けてくるくらいだが、その美しい物語の一端を自分 彼の手には二本の缶コーヒ 1 が握られていた。 も担っているのだと思えば、やりがいは果てしない。 「そっか : : : 」 夢センセの小説は、真珠なのだ。 「月ちゃん、すごくきれいになったね。こんなところでまた会 きら 海の底に眠る貝からとれた煌めき。 えるなんて思わなかったよ」 あともう一つでも二つでも、真珠を取り出してみたい。 「私も : : : これからどこへ ? 」 わたしは夢センセ捜しと次作ネタ探しを兼ねて、翌土曜の朝、 「伊豆高原だよ。一泊しようと思ってね - 東京駅に降り立ったのだった。仕事は山積みだが、日曜の夜に 「え : : : そうなの ? わたしも実は伊豆高原に行くんだ」 出勤すればどうにかなるはずだ。 「すごい偶然だな。この勢いで宿まで同じだったりして」 〈踊り子号〉の車内は比較的空いていた。わたしは窓辺の席に そう言って美船君は笑った。 陣取り、何度目かの再読を試みるべく持参した『彼女』をバッ あの頃、わたしを魅了し続けたあの陽光のような笑顔で。 グから取り出した。 そう、美船君は、わたしが名前のないラブレターを書いた相 とーわたしは視界の隅に、自分に向けられた視線があるの手だった。 に気づいた。 「またね。 森品麿 64