あと、ロを開いた。 「どこでそれを ? 」 大きな交差点を一一つ越えたところで、〈緑茶〉はそうほっりと 「見覚えはある」 言った。 氷川にはその言葉は意外だった。 今までそんな中途半端な言葉を投げかけてきたことは一度も 「ホテルで殺された女、彼女が部屋から架けた電話、その店 なかったからだ。 に現れた男ー」 ちゅうちょ 氷川が断片的に説明した。 〈緑茶〉は、事実を口にすることを躊躇している ? いっ 「で、尾けたと ? たい何のために ? 「どのあたりの記憶に ? 」 〈緑茶〉が訊いた 氷川は敢えて曖味に訊いた。質問が投げかけられるのを待っ 「私が撮った写真です」 氷川は短く答えた。 「その男はどこへ ? 「どのあたり ? 」 〈緑茶〉はひたすら歩きながら、氷川には視線も向けずに訊い 〈緑茶〉はそのとおりに訊いてきた。 「仕事正面 ? それともその裏側で ? 「まかれましてね」 氷川がすかさず反応した。 そう氷川が言ったとき、〈緑茶〉は初めて顔を向けた。 その沈黙もまた珍しい、と氷川は思った。しかも、笑みが消「あなたには珍しい」 えている。余裕をなくしているのだ。 「日本では、オレも焼きが回った、そういうんです そう言って氷川は首をすくめてみせた。 「どちらで ? 「で、私に ? 」 氷川は逃がさなかった。 〈緑茶〉がそう言った直後だった。氷川は前に出て、真正面か 「ちょっと歩きましよ、つ」 そう言うなり、〈緑茶〉は立ち上がり、出口へ向かった。伝票ら〈緑茶〉を見据えた。 にはもちろん見向きもせずに。 「ですから、どうしてもお聞きしたい , 店を出た一一人は、肩を並べて新宿通りの北側の舗道を四谷方〈緑茶〉は、大きく息を吸った。 ほほえ そして微笑みながら氷川を見つめた。 面へと歩きはじめた。 「あなた、情報源の秘密、いつもより、厳格、ならなくてはい しばらく〈緑茶〉は黙ったままだった。 氷川はそれでも待った。 麻生幾 242
氷川は無言のまま力強く頷いた。 これまでの十年間、その現実と何度ぶつかったか。 「日本国内に配置された、外交官の身分を持たない、機関員、 歳月を費やし、体を壊して、やっと手が出せそうなところに つまり日本にとってはイリ 1 ガルな機関員。そのグル 1 プとの入ったとき、目の前に現れたのよ、、 ( しつも『張』の〃手下〃だっ 連絡役、それがその男だ、と記憶しています . 「イリーガル ? 中国民航の東京支店職員などに偽変した ? 『張』は、″手下〃の背後にどっぷりと開いた、霧のトンネルの 氷川が急いで訊いた。 中へ消えていったのだ。 〈緑茶〉は大きく頭を振った。 氷川が、その男の顔を見るのは、二度目だった。 せんかく 「それは古いやり方。現在は違う。特に、尖閣の問題、それが、 ホテルでの事件の直後、協力者であるホテル従業員から非 ひどくなった直後、配置された 公式に提供を受けた、防犯カメラの映像が焼かれたー。 「配置 ? つまり、日本国内に新たに、しかも秘密に、組織的 そこには、事件の一時間ほど前、ホテルの裏側に停めてあっ なものがなにかできたと ? た、在日中国大使館所有の外交官ナンバー車を、ホテルの業者 氷川の質問に、・〈緑茶〉は「そうですーとだけ短く答えた。 専用出入り口の天井に設置された防犯カメラが捉えていた。運 「尖閣の後、というと、軍事的なことと、なにか繋がりが ? 転席でハンドルを握っていたのが、この〃写真の男 % そして後 「日本にある、アメリカ軍や自衛隊の基地、彼らは興味を持っ部座席にチラッとだけ見えるのが『張』だと氷川は発見したの ているようです」 〈緑茶〉は囁き声で語った。 一見、どこにでもいるサラリーマン風の男。しかし、氷川は、 「で、この男の役目は ? 」 全身を緊張させている男から、同じ臭いを感じ取っていて、記 氷川が答えを期待し訊いた。 憶の中に留めていたのだ。 「連絡役のようです。私の考えー」 「この男の住所を教えて欲しい 「『チャン』との ? 」 氷川は、〈緑茶〉の目を覗き込んで言った。 さえぎ 氷川は、〈緑茶〉の言葉を遮って訊いた。 「私は知らないー 氷川は考えを巡らせた。 〈緑茶〉は即答した。 写真のその男は、つまり、『張』の手下、ということなのか ? 「名前は ? 」 氷川は吐き気がした。 氷川が訊いた またしてもだ。 〈緑茶〉は大きく首を左右に振った。 つぐ その言葉が、脳裏で乱舞した。 何かを言いかけて氷川はロを噤んだ。 ぎへん ミ」 0 243 背面捜査
だが氷川の歩みは徐々に緩やかになった。スマ 1 トフォンを 街灯に明るく浮かんでいる 取りだして耳にあて、ゆっくりとした歩調となった。 なにしろ、そこにはその男しかいなかった。 対象を追いかける別の男たちの存在に気づいたからだ。 ダ 1 クス 1 ツ姿の男は背を向けて、足早に先を急いでいるよ 二人の男たちだった。 うに見えた。 氷川の傍らを猛烈な勢いで通過してゆく。異常なほどに鋭く 氷川は追尾を始めた。 なった二人の目つき、軍隊の行進を思わせるどかどかとした足 確信があるわけではなかった。体の奥底でざわめきを感じた のだ。 の動かし方ーそのどれをとっても捜査 1 課に間違いない、と このざわめきには、数々の記憶があった。苦い思い出もある氷川は確信した。 捜査 1 課員と若い所轄署員というところか。 が、激しい感動の方が多かった。 氷川は驚いた。 外事容疑者たちが密やかな接線 ( 接触 ) をもった光景をビデ 彼らは、店外にも人を配置していたのだ。 オカメラに収める瞬間、もしくはその瞬間に一斉に検挙を目的 パンカケ とした職務質問をするそのときー射精の感じに似た興奮の記 そして、氷川が感じたと同様に、彼らも、追尾するこの対象 に″ざわめき″を感じたのだろう。 憶があった。 なかなかやるじゃないか。 氷川は、その〃ざわめき″に従った。男の向かう先には、殺 された女に繋がる何かがある 氷川は素直に感心した。捜査 1 課が通るところ、草も生えな いというほど荒つほい捜査を行うという印象をもっていた、そ 五十メ 1 トルの距離を保つ。 れが裏切られたのだ。 氷川はそう自分に言い聞かせた。 しんちよく その距離は、、 しかし、それは同時に、捜査 1 課の捜査の進捗具合を推測す しつもの氷川の要領だった。五十メートルの感 るに役立っこととなった。 覚はこれまでの経験で会得している。 捜査 1 課も、いまだに被害者の身元が割れないことで焦りを 対象者が人混みにまみれても、追尾を継続できるギリギリの 距離だ。もし、対象の安全を守るための防衛要員がどこかで監強めているのだ。 ゆえにホテルの室内からの架電先は、唯一の突破口になると、 視していたとしても《追尾しているかどうか、判断のつかない 距離である。 これほど人員をかけて力を注いでいる。こんなささやかな端緒 にさえ、すがっているのだ。 視線は対象者に向けず、焦点が合わないばやけた映像のみで 氷川は、捜査一課の協力者から聞かされた、ある″数字″を 捕捉し、焦点を揃えた視線は、その向こうへともってゆく 思い出した。この殺人事件を捜査する特別捜査本部の捜査員の その鉄則を守りながら氷川は追尾を開始した。 麻生幾 230
運営役は、獲得に成功した氷川だった。 ンの皺を気にしながら腰を落とした。 暗号名は〈ル 1 フス・ドラコ〉。 「急ぐんでしょ ? フランスのソルポンヌ第四大学へ留学経験を持つ、在フラン 〈ルーフス・ドラコ〉が言った。 ス日本大使館の警察庁派遣、 1 等書記官が、ラテン語の〈赤い 氷川は苦笑して頷いた。 ドラゴン〉を意味する暗号名を強引につけたのだった。 「まあね . 〈ル 1 フス・ドラコ〉は、。、 ノリから本国に一度帰ったあと、在 そう言ってから、氷川は、四年ぶりの男を観察した。 日中国大使館に着任。ハリでの育成作業の一環で、氷川は、日 六十歳近いというのに、頭髪はあの頃と同様、ふさふさして 本の経済関係の外交政策に関する極秘資料ーもちろん巧みに いる。顔の艷もすこぶるいい。だが、下っ腹はさらに膨らんで いるよ、つだ。 加工した欺瞞情報ーを渡し、実績を上げさせていたからだっ ただ、人なつつこい、メガネの下のくりんとした目は、四年 それからも、氷川は、外務省との共同作戦で、″極秘資料〃を前と同じだった。 渡し続けた。 氷川は、男の写真がディスプレイされたタブレットを見せて 一方、〈ル 1 フス・ドラコ〉は、中国の内部情報ー真正のも から、単刀直入、『李』の名前を出した。 のだと検証可能なもののみーを提供した。 「知ってます」 〈ルーフス・ドラコ〉の要求は、五年後のアメリカへの亡命だっ いきなりの応えに、戸惑ったのは氷川の方だった。 た。五年後には、息子をアメリカの大学へ留学に出せる。そう もちろん、その可能性があるからこそ、こんな手の込んだ接 すれば、妻とともに、アメリカ政府の庇護のもと、安全に暮ら線を持ったのだ。〈ル 1 フス・ドラコ〉は、経済担当公使として、 せる 日本で活動する経済人への影響力があった。それに頼ったのだ。 だから、氷川たち警察庁警備局は、を敢えて巻き込ん 「どれほどお詳しいんです ? だのだった。 氷川は慎重に訊いた。〈ル 1 フス・ドラコ〉が、〈緑茶〉と違 〈ル 1 フス・ドラコ〉との接線は、すべて地方の町のみで行わ うのは、まずそのお上品ぶりである。いかにも仕立ての良さそ れた。 うなス 1 ツに身を包んだ〈ルーフス・ドラコ〉に対し、〈緑茶〉 そのため、警察庁警備局の本室 ( 外事課 ) が作戦を仕切り、 はいつも、上下のデザインが違う、ひと昔前の洋装である。 運営官である氷川も本室のもとに置かれた。容易に地方へ出や だが違う点はそれだけであり、狡猾さと信用ならなさは二人 すいし、組織内部で、運営官の動きを隠匿できるからだ。 とも同じだ、と氷川は思っていた。 クラブチェアを勧めた氷川に、〈ルーフス・ドラコ〉は、ズボ 「そのことに興味はないはずですね」 麻生幾 258
渡していた。 氷川が行ったことは机の周りをチェックすることだった。 何が探られ、どこがいじられ、何移動したか、それを突き 止めることは簡単だった。離席する時にも常に机の状態を頭に 叩き込み、付箋も利用して細工を万全にしていた。 かって、北京での協力者との接線で、しかも相手が用意して きた場所では必ず行ってきた、生存のための技術だった。 触られたのは、まず、名刺ホルダ 1 、住所録だ。 位置が微妙に変わっていたからだ。 つまりオレの〃人脈 ~ に興味をお持ちだったというわけだ。 また、机の一番下にある引き出しに収納された、これまでの 作業ごとに並べられているファイルも見られた可能性が高いこ とが分かった。 所轄署に戻った氷川が、警備課の大部屋へ足を踏み入れた時、 だがすぐに諦めたはずだ。いすれの場所にも鍵はかけていな 課員たちの好奇な視線が一斉に集まった。 い。つまり重要な物が入っていないことに気付いただろうから これだけ注目されるのは何年ぶりだったろうかと氷川は妙に コウソウ ファイルを手にとって、パラバラと蜷っていたとき、一枚の 愉快になった。公安総務課が、氷川の机を″捜索″したことで、 誰もが、何が起こったのか、それとも何が起きるのか、興味津々写真が目についた。 に見つめているーそんな雰囲気だった。 写真を手にした氷川は、椅子の背もたれに体を預け、そこに 写る六名の男たちをしばらく見つめた。 だがその瞳の奥には、別の光があることを氷川は知っていた。 自分はここでは、ある意味、長くいるというだけで存在を認め 十数年以上も前のものだ。 られており、同時に、バカにされていることを知っていたから 鮮明な記憶があった。皇居、北の丸公園での記念写真。かっ て、仲間たちと、天皇陛下の新年一般参賀にでかけた時のもの 遠くの庶務班から、多恵が顔を挙げて頷いていたが、氷川は すく 首を竦めてみせた。 氷川は、いすれも先輩にあたる、その一人一人をよく知って 自分のデスクの前に座った氷川は、しばらくじっと辺りを見 いた。悲劇的な現在の姿も。 、」 0 氷川が言った。 「また動きが分かったら教えてくれ」 「期待はしないで」 ぶつきらばうに多恵が言った。 「いや、君ならかけてくるよ」 だが多恵はそれには応えず、 「何をやらかしたの ? 「さあね」 実際、わからなかった。 「バカね」 多恵は笑った。 ヾ、」 0 、」 0 麻生幾 254
「どうなるの、これから ? 」 比呂美が悪戯つほい笑顔で訊いた。 「さあねー 氷川がぶつきらば、つに言った。 「ゲームは終わりなの ? 比呂美が首をすくめてみせた。 「出て行った男、誰かと待ち合わせと思うか ? 」 氷川が念のために訊いた。 比呂美が首を左右に振った。 「全然ー 「どうしてそう思った」 氷川が比呂美の顔を覗き込むようにして訊いた。これまでの 協力依頼で分かったのだが、彼女の感性に、氷川は一目置いて 「髪の毛はポサポサ、顎にはだらしない無精ひげー。それで 誰かに会うと ? 」 比呂美の言葉に軽く頷きながら、氷日よ、、 , ( しまの状況を把握 した。女の身元に繋がるであろう、せつかくの端緒を逃してし まったのだ。 氷川は、比呂美に目配せした。もはやここに長居をする理由 はなくなったのだ。 それならば、できるだけ捜査 1 課の奴らに印象を残すような ことは避ける方が優先される。 伝票を取って立ち上がり、ふと玄関へ目をやった、その時だっ 玄関のガラスドアから、車道に面した幅広の舗道が見えた。 その片隅に、氷川は目が止まった。 黒っほいズボンと、その先に黒い革靴だけが見える。 ピタッと止まっているように見えたのが、突然、姿を消した そんな風に思えた。 とっさ 氷川は咄嗟に体が反応した。伝票を比呂美に急いで渡すと、 「後で払う」と囁いただけで玄関へ向かった。 玄関から舗道へと足を踏み出すと、車道へ一度視線を送って から、男が消えた方向へ目をやった。 店の向こうには、高層マンション群へと続く、広場と見紛う ほどの広い遊歩道が続いている。 氷川はすぐにその男が目に入った。 主な登場人物 氷川航平 : : : 警部補。警視庁公安部外事第 2 課の外事警察官だっ たが、今は所轄署の警備課に追いやられている。ホテルで起き た殺人事件をきっかけに中国情報機関への〃背面捜査″を秘匿で 開始する 渡辺責一 : : : 警視。警視庁公安部外事第 2 課の管理官 松本毅 : : : 元警部。外事警察官。氷川の元上司 田島沙由理 : : : 警視庁公安部外事第 2 課 6 係で唯一の女性外事警 察官 田中美津子 : : : ホテルで殺害された氏名不詳の女の偽名。在日 中国大使館の非公開の直通電話番号をメモした紙を持っていた 張 ( チャン ) : : : 在日中国大使館経済担当公使。対日工作の統括 者 〈緑茶〉 : : : 元駐日中国大使館員にして氷川の機関員。張の敵対者 229 背面捜査
取り出したのは、背表紙に ^ 資料 4445V としか書かれて いないファイルケ 1 スだった。割れ物でも扱うように慎重な手幾 生 つきでファイルケ 1 スを氷川の前へ滑らせた。 氷川にはもちろん見覚えがあった。 ある中国人協力者の登録簿である。運営者は氷川だった。 氷川は黙って、何が起きようとしているのかを待った。 「氷川さん」岡村が身を乗り出した。「これはなんです ? 協力 警視庁本館の裏手にある警察総合庁舎の地下に降りた氷川の者登録簿に書き込むべき欄がほとんど白紙。本来なら、獲得協 鼻をくすぐったかび臭い匂いは、過激派のテロリズムが華やか力者に関する氏名を含む人定事項、対象を選び出した経緯から、 なりし頃、ここが秘匿された専用の取調室だったことを思い出獲得工作会議の議事録や工程表に始まり、本籍、現住所、家族 キチョウ させた。氷川にとっては、まだこの部屋が使われていることこ構成、交友関係といった基礎調査で得た情報の他、運営そして そ不思議だった。 育成に至った過程までが事細かく、美しいまでの時系列にして 部屋に入ると、灰色のスチール机に、見知らぬ顔の男がひと書き込まれているはずが、それがない。なぜこんなことが起き り座っていた。渡辺の姿はなかった。 るんです ? 眉間に皺を刻む男は、「指導の岡村だ」と名乗っただけで、氷「仰っている意味がわかりませんね」 川に向かって顎をしやくって座るように指示した。 岡村の表情が一変した。 「まるで取調べって感じですね」 「協力者運営をいったい何だと思ってるんだ ? 保全について 氷川は無表情のままパイプ椅子に座った。 は命を張ってこそ厳守すべきもの。しかも何より許せないのは、 岡村と名乗る男ーっまり警察庁の協力者獲得工作本部の男 / ル 1 ズ〃だということだ」 をじっと見つめながら、これから始まるであろ、つことを想像し 氷川はまだ何が起きているのか見えなかった。 たが、何も脳裏に浮かばなかった。 だが、主張すべきことは決まっていた。 「受け取り方は自由だ」 この協力者を登録したとき、岡村と同じ立場にいた者とさん 明らかに岡村は、自分に敵対的な立場にいるのだと氷川は分ざんやりあったからだ。 かった。 「暗黙のル 1 ルとして、外事の協力者の獲得作業に、警察庁が 岡村は、わざと慇懃な動きで膝に置いていたアタッシュケ 1 絡むことはありません。ライン・オプ・スタッフとなりません。 スの二重となったダイヤル式鍵を開けた。 補佐クラスが局長と直接にーそれが今でも原則のはずです」 「警察総合庁舎地下の会議室に来てくれ。至急にだ」 「総合庁舎 ? 氷川が怪訝な声で訊いた 渡辺はそれには応えず通話を切った。 いんぎん
よく見ると、ロから白い泡状のものが溢れている。唇は紫色と なってひび割れていた。 女は息が止まったように、充血した眼を見開いて口を開けた。 悲鳴をあげたのと、べッドから転がり落ちたのとどちらが先 だったのか、氷川は見過ごした。 ビデオが終わって、再び砂嵐になっても、氷川はしばらく身 氷川は、エレベータの中で上着の皺を強引に伸ばした。 動きせず、思考を巡らせた。 今の映像に映っていた男女は誰なのか ? 満員電車で思いっきり押しつけられ、せつかく貴重な朝の時 間を費やしたアイロンが台無しだった。やはり柄でもないこと 化粧を塗りたくり、虚ろな淫蕩な表情なので、識別ができな はやるべきではなかった。 い。つまり、『張』や殺された女かどうか分からないのだ。 離婚したあとの生活が長くなってもできないことはできない、 それより何より、誰が自分に送ってきたのか ? いかなる目的で送ってきたのか ? と諦めるべきだったのだ。 氷川は、反射的に窓際に立った。 それでなくとも今日はまた格別苛立っているのだ。 原因は分かっている。満員電車のお陰だ。今更じゃないか、 プラインドカ 1 テンの隙間から外を見つめた。 静かな雨が窓を叩いていた。 と言う奴がいたらぶん殴りたかった。 ゾッとするものを氷川は感じた。 満員電車での通勤を何十年繰り返そうが馴れるということな どあり得ない。マスコミでは、盛んに、地域間格差の問題を取 もしかして、誰かが、オレの動きを見ているのか ? り上げているが、ふざけんじゃない ! といつもテレビに向かっ 携帯電話の着信音に、氷川は思わず飛び上がるほど驚いた。 て叫んでいた。あの地獄のごとき満員電車が地方都市にあると 聞き覚えのない、中年風の女性の声だった。 いうのか。なぜ東京だけー恐らく大阪や名古屋もそうだろう 「氷川さんでしようか ? 」 「ええ」 がーあの地獄を毎日味わわなければならないのか。これこそ 氷川は慎重に応えた。この番号を知っているものはそういな地域間格差のなにものでもない。しかし、それもあと数日すれ いからだ。 ば逃れられると思えばいいのだが、そうできない自らの不器用 「私、村山の妻ですが、日頃から主人が大変お世話になっておさにもまた毒づきたかった。 だが、苛立ちの本当の理由は分かっていた。 りまして」 氷川は、思い出した。七年先輩の外事警察官である。 彼の死を、覚悟を決めていたとはいえ、受け止められないで しかし、あの事件で体を悪くし、退官後も入退院を繰り返し ていると聞いていた。 「本日、主人は他界致しました。生前は大変お世話にー、一 氷川は、最後まで妻の言葉を聞いていなかった。 251 背面捜査
のは、あんたへの敬意があったからだ。十年間の努力への敬意 だ」 「知ってるさ、今更 一週間ぶりに本部の机に戻った氷川は、溜まった手紙類の整 氷川は吐き捨てた。 「そもそもだ、もはや『チャン』は現役ではない。ほかの視察理に追われた。 周りには誰もいなかった。 結果からも、大使館内部で、『チャン』はバカにされている状況 ふと腕時計に目をやると、午前一一時を過ぎている。 が聞こえてきている。『チャン』は、老いばれで役立たずだとか。 今日もここで泊まりだ、と覚悟を決めた。 未だに勘違いしているとか。本筋から外され、最後のご褒美と 何通目かの封筒だった。 して日本にいるだけだとか、そんなことを言われてるんだ」 宅配ではない。大きな定形外の封筒だった。 「表面だけを見てりや、そうなりますー 自分の名前が、プリンタ 1 で印刷されたシールとして貼られ 氷川はきつばり言った。 ていた。裏側を見ると、差出人はなかった。 だが渡辺はそれには応えず、 「そんな老いばれより、国内のイリ 1 ガル機関員グル 1 プとの 氷川は、封筒の音を聞いた。悪質な犯行があるからだ。 音がしないことで、今度は、蛍光灯に晒した。 まとめ役の奴こそ重要。尖閣問題から現実的な脅威がある 封筒を振ってもう一度音を確かめた。 「いや、それでも 異常なものは何も感じなかった。 。この意味はもちろんわかるな ? 」 「これは警察庁指定作業 それでも慎重に、カッタ 1 ナイフで封を切った。 氷川は答えなかった。くさい芝居じゃないか、と思った。 封筒の中へ手を突っ込まずに、底の部分を擱んで切り口を下 警察庁指定作業になれば、作業費のすべてが警察庁から に向け、中身を机の上にぶちまけた。 国家予算から支出される。指定を外れるということはすなわち コロンという音とともに、一枚のーが入った透明ケ 1 スが机の上に転がった。 氷川は映写スクリ 1 ンの中の「李』を見つめながらしばらく 表面には何も書いていない。 黙り込んだ。 少しの間、じっとーを見つめた氷川は、自分のパソコ 「二日、待って頂きたい . ンを立ち上げてから、ドライプにスロットインした。 氷川が言った。 動画ソフトが立ち上がった。 「二日だな ? 」 最初は、砂嵐の画面で、次に、色とりどりのモザイク模様が 渡辺が訊いた。 氷川は小さく頷いた。 247 背面捜査
人員は、専従の本部捜査第 1 課から七名、管轄の所轄署員が十 五名、近隣の複数の所轄署にいる指定要員が四十一一名、機動捜 査隊から十名の計七十四名の陣容だ。 じどり その中で、今ここにいるのは、地取班、現場遺留物捜査班や 一般からの提供情報をあたる特命班を除いたー本来は身元が かんどり 分かっていれば交遊関係先を捜査するー鑑取班であるはずだ。 とすれば、この人数は、鑑取班の総掛かりに近い。 それをもってしても、いかに特別捜査本部に手がかりが乏し しかカわかった。 追尾の先頭を捜査 1 課と所轄署員の二名に任せることにした 氷川は、さらに歩みを緩めた。捜査 1 課員たちが、自分のこと には注意を注いでいないことも確認できた。 そうするときは必ず、無遠慮な視線を露骨に向けるからだ。 そういった捜査 1 課の雰囲気は、決して悪いことではない。 殺人や強盗といった凶悪な被疑者を追い詰めるには、威圧的 な迫力が絶対に必要である。 捜査 1 課員たちの後ろ姿をまっすぐ捉えながらも、時折、辺 りをそれとなく見渡した。対象の防衛要員の存在はなさそうで ある。 対象は、高層マンション群の奥へとさらに足を運んでいた。 氷川の視線の先に、閑静な住宅街が広がっている。 前を行ぐ捜査 1 課員たちが、特異な動きをしたことに氷川は 気づいた。 全身に、明らかに力が入ったと思うと、急に走り出した。 追尾する対象がそうしたから、同じ行動を素直にとったのだ。 氷川はため息が出そうだった。 もちろん氷川は走ることはしない。 歩く速度を変えずに、小走りに駆け出す刑事たちの背中を捕 提していた。 マンション群の敷地から、幅広の道路の信号機でも、刑事た ちは慌てて左右へ首を振り、赤信号のもと、車の間をかいくぐ るように渡ってゆく。 も、つバレハレだ。 氷川はそう確信した。 このままでは、まかれてしま、つ : 氷川は決断した。どうぜ、失尾してしまうのなら、〃次に繋が る″端緒を残しておきたい、と思った。 ′次に繋がる″ものこそ重要だ。 それは氷川の頭の中に常にある言葉だった。 足に力を込めた、そのときだった。 なんだ ? 自然を装って左右へ視線を回した。 特異なものは何も見えない。 だが、感覚には、その残像のようなものが残っていた。 自分に向けられた視線かカメラのような しかしそれを考えている余裕はなかった。 先の地形を予想した氷川は、」 用事たちが急ぐ道と並行する、 一本、南よりの道へと足を向けた。見失うリスクもあった。だ が、このまま、〃次に繋がる″ものが、明らかにゼロになるより はマシだと思った。 南側の舗道を氷川は走った。対象からは見えないはずだから だ。右手のコンピニを通り過ぎたとき、ふと壁掛け時計が目に 231 背面捜査