うのが論文である。グライダーは途方にくれる。突如としてこれまでとまるで違ったことを 要求されても、できるわけがない。グライダーとして優秀な学生ほどあわてる。 そういう学生が教師のところへ″相談〃にくる。ろくに自分の考えもなしにやってきたっ てしかたがないではないか。教師に手とり足とりしてもらって書いても論文にはならない。 そんなことを言って突っぱねる教師がいようものなら、グライダー学生は、あの先生はろく に指導もしてくれない、と口をとがらしてその非を鳴らすのである。 そして面倒見のいい先生のところへかけ込み、あれを読め、これを見よと入れ知恵しても らい、めでたくグライダー論文を作成する。卒業論文はそういうのが大部分と言っても過一言 ではあるまい。 いわゆる成績のいい学生ほど、この論文にてこずるようだ。言われた通りのことをするの は得意だが、自分で考えてテーマをもてと言われるのは苦手である。長年のグライダー訓練 ではいつもかならず曳いてくれるものがある。それになれると、自力飛行の力を失ってしま うのかもしれない。 もちろん例外はあるけれども、一般に、学校教育を受けた期間が長ければ長いほど、自力 飛翔の能力は低下すゑグライダーでうまく飛べるのに、危ない飛行機になりたくないのは 当り前であろう。 こどもというものは実に創造的である。たいていのこどもは労せずして詩人であり、小発
187 れない難解な哲学書などを、何となくのそいて見たくなる。ちょっとのつもりが、なかなか やめられなくて、ついつい読みふけって、勉強の計画を狂わせる このことはすでに書い こういう経験は″隣りの花は赤 ( 美し ) い〃ということわざのもとに分類、整理しておく と、ずいぶん思考の節約になる。遠くから見る隣りの花だから、ことさらに赤く見える。そ こへ行ってよくみると、何と虫だらけであるという場合だってないとは言えまい。目の前の 花は、実際よりも色あせて見える。 商売をする人、投機をする人は、ものの売り買いのタイミングを見きわめるのに身の細る 思いをする。もうよかろうと思って、売買をすると、早すぎる。それにこりて、こんどは、 満を持していると、好機を逸してしまう。もっと早く決断すればよかったと後悔する。商売 の人は、たえずこういう失敗を経験している。そのひとつひとつは複雑で、それそれ事情は 界違う。ただ、タイミングのとりかたがいかに難しいか、という点と、自分の判断が絶対的で . のないというところを法則化すると、″モウはマダなり、マダはモウなり〃ということわざが わ生れる。 学校教育では、どういうものか、ことわざをバカにする。ことわざを使うと、インテリで はないように思われることもある。しかし、実生活で苦労している人たちは、ことわざにつ いての関心が大きい。現実の理解、判断の基準として有益だからである。 こ
53 ェデイターシップ る表現はこうして生れる、というのである。 このようにはっきりしたやり方で組み合わせを考えることはまれであるにしても、多くの 人は頭の中で似たことをしていないとは言えない。おいしいカクテルをこしらえるには、絶 妙なコンビネーションをつくる感覚が求められる。料理にしても同じであろう。 一般的に言えば、ありきたりのもの同士を結び合わせても、新しいものになりにくい。 見、とうていいっしょにできないような異質な考えを結合させると、奇想天外な考えになる ことが亠のる。 鬼面人をおどろかすような考えを次々生み出す人の頭は、知のエデイターシップが活で あることが多い。
154 声を出してみると、頭が違った働きをするのかもしれない。。 キリシャの哲学者が、逍遙、 対話のうちに、思索を深めたのも偶然ではないように思われる。沈思黙考は、しばしば、 さな袋小路の中に入り込んでしまって、出られないことになりかねない。 声で考えるのは、現代人においても決して見すてたことではなかろう。 書き上げた原稿を読みなおして、手を入れる。原稿は黙って書くが、読みかえしは、音読 する。すくなくとも、声を出すつもりで読むーーこれを建前にしている人が意外に多い。そ して、もし、読みつかえるところがあれば、かならず問題がひそんでいる。再考してみなく てはならない。沈黙の読み返しでは、たいていこういうところを見のがしてしまう。 声は、目たけで見つけることのできない文章の穴を発見する。声は思いのほか、賢明なの であろう。 前に『平家物語』の " 頭がいい。ことを書いたが、やはり声によって洗練されたものと思 しゃべる
るのを受け入れる。それが「思われる」である。これには科学者の論文のように、はっきり 考えようとしたことですら、自然にあらわれたように、あるいは受動的な思考のように、 「であろうとぼかす場合も含めてよかろう。 ものを考えるには、 lth 一 nk という考え方と ltseemstome という考え方の二つがあるこ とになる。日本人は後者の考え方をすることが多い。しかし、このことば、なにも日本人に 限ったことではない。たいていの思考ははじめから明確な姿をもってあらわれるとは限らな し・ほんやり、断片的に、はにかみながら顔をのそかせる。それがとらえられ、ある程度は つきりした輪郭ができたところで、 ltseemstome になる。 それに対して、 I think の形をとる思考はすでに相当はっきりした形をとっており、結末 て え への見通しも立っている。完結した思考の叙述である。 ltseemstome の形式は進行形、不 定形の思考である。結論ははっきりしていないことがすくなくない。「はじめにことばあり がきーと言い放ちうるのは、「われ考う、ゆえにわれあり」の思考に通じる明確さをもってい ある。それに対して、 ltseemstome は、なお「くらげなす、ただよえるー状態にあると言っ 本てよかろう。 文「くらげなす、ただよえるーものがはっきりした形をとるようになるには時間の経過が必要 しつまでも「くらげなす、 である。混沌もやがて時がたてばさだかな形をとるようになる。、 ただよえる」状態をつづけるものは拡散崩壊して消減する。
204 われわれには二つの相反する能力がそなわっている。ひとつは、与えられた情報などを改 変しよう、それから脱出しようという拡散的作用であり、もうひとつは、く / ラ。ハラになって いるものを関係づけ、まとまりに整理しようとする収斂的作用である。 かりに十人の人に、三分間の話をするとする。あとでその要約を書いてもらう。結果は十 人十色に違っているはずだ。まったく同じまとめになることはまずない。こういう場合は、 ″正解〃はない、 ことになる。正解とは、すべての人がほ・ほ同じ答を示しうる場合でないと 考えられない。数学には正解があるけれども、右のような要約では正解は存在しない。おも しろいもの、よくまとまったものはある。これが唯一という正しい答というものはあり得な いのである。 正解の存在しないのは、なにもこういう要約に限らない。試験などでも記述による答案で は、すべて厳密な意味での正解はない。各人各様に異った形の答になっている。数学の正解 拡散と収斂 しゅうれん
ところで、論文を書こうとしている学生にどういうことを書きたいのか、テーマは何かと きいてみると、とうとうとしゃべり出す。五分たっても十分たっても終らない。ぎいている 方では、 いったい何を考えているのか、だんだんわからなくなってしまう。 これは、まだ、構想ができていない、考えが固まっていないことを暴露しているものだが、 一部には、こういう場合、なるべくことこまかにのべるのがよいという誤解があるらしい 長く説明しなければならないほど、考えが未整理なのである。よく考え抜かれてくれば、お のずから中心がし・ほられてくる。「ヘミングウェイの文体の特徴、とくに、初期作品におけ る形容詞の使用についての一考察」にしても、「ヘミングウェイの形容詞」とした方がかえ って、書く人の意図をよく伝えるかもしれない。 だいたい、修飾語を多くつけると、表現は弱くなる傾向をもっている。「花」だけでいし ところへ「赤い花」とすると、かえって含蓄が小さくなる。「燃えるようなまっ赤な花」と すると、さらに限定された花しか伝えなくなる。修飾を多くすれば、厳密になる場合もある 名 題けれども、不用意に行なうと、伝達性をそこないかねない。厭味になることもある。 マ 一般に、長い間、語り伝えられてきたおとぎ話などには、あまり形容詞がない。「花ーは テ「花」であって、「燃えるようなまっ赤な花」はまずあらわれない。名詞中心である。 表現をぎりぎりに純化してくると、名詞に至る。まず、副詞が削られる。研究論文の題目、 その他の題名に、副詞 ( きわめて、すみやかに、など ) の用いられていることは例外的であろ
心掛けないと、いたずらにノートの量の増大を喜ぶだけという結果になりかねない。細かい ことをノートすると、すぐあとに、それよりいっそう重要と思われることがあらわれる。こ れはのがせないとノートにとると、そのあと、もっと大事な知識が出てくる。これも無視で きない。 こういうことをしていると、そのうち、本を全部引き写してしまうようなことにな りかねない。 その弊をまぬがれるには、一読即座にノートをとらない。たとえば、見開き二ページをま ず読む。そして、ふりかえって、大切なところを抜き書きする。あるいは、一章なら一章、 一節なら一節の、内容の区切りのいいところまで読んで、またあと戻りして、ノートをとる ようにすれば、本を全部引ぎ写してしまうという愚は回避できる。ただ、これだと、こまか いところを見落すおそれはある。 借りた本では論外だが、自分の本なら、読むときに、鉛筆でしるしをつけて読み進むのも よい。あるいは、赤、青、黄などのサインペンを用意して、自分の考えと同じものは青、反 対趣旨のところには赤線、新しい知識を提供しているところは黄の線をひいておくというよ うにすると、一見して、どういう性格の部分であるかがわかって便利である。もっとも、こ れは自分の本で、しかも、本としての価値を犠牲にしてよいと決心できたときにかぎって実 行できる方法である。 図書館で借り出した本に線を引くことは、あとの利用者にたいへんじゃまになる。決して
何か考えが浮んだら、これを寝させておかなくてはならない。ちょっと頭の片隅に押しゃ っておく手もあるが、ひょっとすると、そのままガラクタとともに消えてしまいかねない。 そうなってはせつかくのアイディアが惜しい。忘れないように寝させておこう、などと思う と、ついつい つついてみることになって、寝させたつもりが、寝させたことにならない。 そこで、ひと工夫するのである。 これでよし、と安心できないと、寝させたことにならない。しばらくは、忘れる。しかし、 一まったく忘れてしまってもこまる。忘れて、しかも、忘れないようにするにはどうしたらい いのか。それが問題である。ずっと覚えていろ、と言うのより難しい註文だ。 手記録しておく。これが解決法である。 書き留めてある、と思うと、それだけで、安心する。それでひととき頭から外せる。しか し、記録を見れば、いつでも思い出すことができる。考えたことを寝させるのは、頭の中で 手帖 A 」ノート
単でもなんでもないことが、さっさとできてしまい、いかにも簡単そうに見える。知らない 人間が、それを朝飯前と呼んだというのではあるまいか。どんなことでも、朝飯前にすれば、 さっさと片付く。朝の頭はそれだけ能率がいい。 おもしろいことに、朝の頭は楽天的であるらしい。前の晩に仕上げた文章があって、とて もこれではいけない。明日になってもう一度、書き直しをしよう、などと思って寝る。一夜 明けて、さつばりした頭で読み返してみると、まんざらでもないという気がしてくる。これ でよいことにしようと考えなおす。 感情的になって書いた手紙は、朝の頭で再考すると、落第するけれども、すべてを拒むわ けではない。いいところがあれば、素直に認める大らかさもある。 そういうことが何度もあって、それまでの夜型の生活を朝型に切りかえることにした。四 十歳くらいのときである。まだ、それほどの年ではないが、老人がたいてい、いつのまにか 朝型になっている。あんな夜型だったのにと思う人までが、朝のうちでないと仕事ができな いと言うのをきいたこともある。 朝の仕事が自然なのである。朝飯前の仕事こそ、本道を行くもので、夜、灯をつけてする 仕事は自然にさからっているのだ。 若いうちこそ、粋がって、その無理をあえてする。また、それだけの体力もある。ところ が年をとってくると、無理がきかなくなり、自然に帰る。朝早く目がさめて困るというよう