頭の中の酒をつくるには、どうするか、については、すでにのべた。そこから生れるもの が、自分の思考であって、まざりものがない。すくなくとも、他からの混入のあとは残って いない。独創である。 こういう考え、着想をもっと、どうしても、独善的になるものらしい。ほかの考えはすべ をししが、行きすぎれ てダメなもの、間違っていると感じられてくる。自信をもっというのよ、 ば、やはり危険である。ひとつだけを信じ込むと、ほかのものが見えなくなってしまう。 アメリカの女流作家、ウイラ・キャザーが、 「ひとりでは多すぎる。ひとりでは、すべてを奪ってしまう ということを書いている。ここの「ひとりとは恋人のこと。相手がひとりしかいないと、 ほかが見えなくなって、すべての秩序を崩してしまう、というのである。 着想、思考についても、ほ・ほ、同じことが言える。「ひとつだけでは、多すぎる。ひとっ カクテル
なる。三人ばらばらになってしまったから、思うにまかせない。もちろん百円会費のような わけにも行かなくなった。 やけになったわけではないが、一流ホテルにいっしょに泊って、ひと晩存分に語り合うと いうようになった。三人のうちのだれかが、「ひらいてくれないか。みんなにきいてもらい たいことができた」と言い出す。すると、めいめい都合をつける。場所は金沢だったり、東 京だったりするが、東京が多い。 先日、広島の友人と別れるときに、こんどはうんとさかんにしようや、と笑い合った。二 人だけでも楽しい。三人ならなおさらである。 わたくしは、こういう経験から割り出して、同じ専門の人間同士では話が批判的になって おもしろくない。めいめい違ったことをしているものが思ったことをなんでも話し合うのが しいという信念に達した。ひとり勝手に、これをロータリー方式と呼んでいる。 ロータリ ・クラブは、ひとつの支部の中は、一業一人となっているらしい。同業者は同 一支部にはいよ、。 これが親睦の条件になっている。われわれ三人会はまさにロータリー方 の式である。 談ところが、同じ学問を専攻している学者たちが、やはり何十年と創造的雑談をしている例 3 がある。ロータリー方式が絶対的ではないことになる。ロゲルギストのグルー。フである。近 藤正夫、近角聡信、今井功、木下是雄、大川章哉、磯部孝、高橋秀俊というメイハ ( もっ
たにおこるものではない。すでに存在するものを結びつけることによって、新しいものが生 れる。 すぐれた触媒ならば、とくに結びつけようとしなくとも、自然に、既存のもの同士が化合 する。それは一見、インスビレーションのように見えるかもしれない。しかし、まったく何 もないところにインス。ヒレーションがおこるとは考えられない。さまざまな知識や経験や感 情がすでに存在する。そこへひとりの人間の個性が入って行く。すると、知識と知識、ある いは、感情と感情とが結合して、新しい知識、新しい感情を生み出す。 その場合、人は無心であることがのそましい。ある数学者が、長い間、ひとつの問題にと り組んでいて、どうしてもうまい解決ができないでいた。あるとき、うとうとと居眠りした。 そのあと、目をさますと、突然、謎が解けていたという。この場合も、意志の力が弱まった ところで、はじめて、それまで別々になっていた考えが結合されて、発見となったのであろ ものを考えるに当って、あまり、緊張しすぎてはまずい。何が何でもとあせるのも賢明で 媒 はない。むしろ、心をゆったり、自由にさせる。その方がおもしろい考えが生れやすい。さ 触きのような意味で没個性的なのがよいのである。 思考におけるカクテル法のことは前に紹介したが、すぐれたカクテルをつくるには、く テンダーの主観や個性が前面に出るのは感心しない。小さな自我は抑えて、よいものとよい
ねに異本をつくろうとする。のものを読んで、理解したとする。その結果は決してでは なく、、つまり異本になっている。文学がおもしろいのはこの異本を許容しているからで ある。六法全書を読んでも、小説のようにおもしろくないのは、法律では異本をほんのすこ ししか許さないためだ ( 法律でも、解釈をめぐって議論があるのは、異本がまったくないわ けではないことを物語っている ) 。 そうして、「異本論」というェッセイを書いた。わたくしにとってのひとつのビールだっ たのである。 こういうビール作りになそらえた論文のテーマの話をすると、学生が質問する。 どれくらい寝させておけば、釀酵するのか、というのである。 これが一律には行かないところが、ビール作りとは違うところで、ビールは一定の時間寝 させておけま、 。ししが、頭のアルコール作りは、ひとによって、また、同じ人間でも、場合に よって、釀酵までに要する時間が違っている。 しかし、もうよろしい、釀酵が始まったとなれば、それを見すごすことは、まずないから 安心してよい。自然に、頭の中で動き出す。おりにふれて思い出される。それを考えている と胸がわくわくしてきて、心楽しくなる。そうなればすでにアルコールの酵作用があらわ れているのである。 フランスの文豪、、、ハルザックは、こうして酸酵したテーマについて、おもしろいことを一言
では、すべてを奪ってしまう」。 この一筋につらなる、ということばがある。いかにも純一、ひたむきで、はた目にも美し い生き方のようであるけれども、かならずしも豊饒な実りを約束するとはかぎらない。いく つかの筋とそれそれにかかわりをもって生きてこそ、やがて網がし・ほられ、ライフワークの ような収穫期を迎えることができる。 論文を書こうとしている学生に言うことにしている。 「テーマはひとつでは多すぎる。すくなくとも、二つ、できれば、三つもって、スタートし てほしい」。 きいた方では、なぜ、ひとつでは「多すぎる」のかびんと来ないらしいが、そんなことは わかるときになれば、わかる。わからぬときにいくら説明しても無駄である。 ひとつだけだと、見つめたナベのようになる。これがうまく行かないと、あとがない。 だわりができる。妙にカむ。頭の働きものびのびしない。ところが、もし、これがいけなく とも、代りがあるさ、と思っていると、気が楽だ。テーマ同士を競争させる。いちばん伸び カそうなものにする。さて、どれがいいか、そんな風に考えると、テーマの方から近づいてく カる。「ひとつだけでは、多すぎるーのである。 自分だけを特別視するのは思い上がりである。ほかに優れたものはいくらでもある。小さ な独創にかまけて、これを宇宙大と錯覚、先人の業績が目に入らなくなってはことである。 りき
204 われわれには二つの相反する能力がそなわっている。ひとつは、与えられた情報などを改 変しよう、それから脱出しようという拡散的作用であり、もうひとつは、く / ラ。ハラになって いるものを関係づけ、まとまりに整理しようとする収斂的作用である。 かりに十人の人に、三分間の話をするとする。あとでその要約を書いてもらう。結果は十 人十色に違っているはずだ。まったく同じまとめになることはまずない。こういう場合は、 ″正解〃はない、 ことになる。正解とは、すべての人がほ・ほ同じ答を示しうる場合でないと 考えられない。数学には正解があるけれども、右のような要約では正解は存在しない。おも しろいもの、よくまとまったものはある。これが唯一という正しい答というものはあり得な いのである。 正解の存在しないのは、なにもこういう要約に限らない。試験などでも記述による答案で は、すべて厳密な意味での正解はない。各人各様に異った形の答になっている。数学の正解 拡散と収斂 しゅうれん
192 現実に二つある、と言ったら笑われるであろうが、知恵という″禁断の木の実〃を食った 人間には、現実は決してひとつではない。 われわれがじかに接している外界、物理的世界が現実であるが、知的活動によって、頭の 中にもうひとつの現実世界をつくり上げている。はじめの物理的現実を第一次的現実と呼ぶ ならば、後者の頭の中の現実は第二次的現実と言ってよいであろう。 第二次的現実は、第一次的現実についての情報、さらには、第二次的現実についての情報 によってつくり上げられる観念上の世界であるが、知的活動のために、い っしか、しつかり した現実感をおびるようになる。ときとしては、第一次的現実以上にリアルであるかもしれ ない。知識とか学問に深くかかわった人間が、しばしば第一次的現実を否定して、第二次的 現実の中にのみ生きようとするのは、このことを裏付ける。 かっては、主として、読書によって、第二次的現実をつくり上げた。読書人が一般に観念 第一次的現実
。それだのに、何でも直接に見聞して知っているはずの現在のことが実にわからない。ま れにわかったと思うと、とんでもない判断をしてしまう。 文学史家はこのことをよく承知している。ときに、現代文学史を試みる人もないではない : 、だいたいの史家は、現代に近づくことをおそれる。三十年、五十年前のところまでで、 筆を止めるのが普通になっている。 それでも、新しいところへさしかかるにあたっては、「まだ、これらの作家、作品は、時 の試錬を経ていない。、 しま不用意にその軽重をあげつらうことは慎しまなくてはならない」 といった意味の常套句をかならずと言ってよいほど用意しているものた。 その裏には、おびただしい失敗例がごろごろしている。なぜ、いちばんよくわかっている はずの目前のことがそれほどわからないのか。ひとつには、それまでの考え、それにもとづ く流行の色眼鏡をかけて見ているからである。まわりがひとしくかけている眼鏡をはっきり 一時的なものと看破することは難しい。そのメガネ越しでは、新しいものがあらわれても見 えない。たとえ見えても、怪奇な姿にうつるであろう。とうてい真の価値を見ることはでき 試よ、。 の 時もうひとつは、新しいものが、あまりにも新しいことが、本来の姿でない姿をさせている 3 ことがある。大工は生木で家を建てない。新しい木はいいようであるが、建築材料にはなら ない。乾燥してくると、ゆがむからである。変形する前の生木は、木材としては、いわば、
こともあったに違いない。それは、怠けていたのではない。時間を与えていたのである。 ″見つめるナベ〃にしていたら、案外、途中で興味を失ってしまっていたかもしれない。 このごろはすくなくなったが、昔は、ひとつの小さな特殊問題を専心研究するという篤学 の人がよくいたものである。わき目もふらず、ひとつのことに打ち込む。研究者にとって王 道を歩んでいるようだが、その割には効果のあがらないことがしばしばである。 やはり、ナベを見つめすぎるからであろう。ナベにも煮えるのに自由な時間を与えなくて はいけない。あたため、寝させる必要がある。思考の整理法としては、寝させるほど大切な ことはない。思考を生み出すのにも、寝させるのが必須である。 作家にとってもっともよい素材は幼少年時代の経験であると言われる。幼いころのことを もとにして書かれた、幼年物語、少年物語、そういう名はついていなくても、そういう性格 の作品が、すぐれていない作家は凡庸であるとしてよい。 なせ、作家の幼年、少年物語にすぐれたものが多いのか。素材が充分、寝させてあるから だろう。結晶になっているからである。余計なものは時の流れに洗われて風化してしまって る長い間、心の中であたためられていたものには不思議な力がある。寝させていたテー マは、目をさますと、たいへんな活動をする。なにごともむやみと急いではいけない。人間 には意志の力だけではどうにもならないことがある。それは時間が自然のうちに、意識を超 えたところで、おちつくところへおちつかせてくれるのである。
144 さきの長い題だと、それだけでもうわかったというので、読もうという気にならないかもし れない。 学術的研究ではなく、一般の書物の題名になると、さらに、内容を推測する手掛りにはな りにくい。新しい本の題名を見て、それをどういう本だときめることは多くの場合、危険で ある。 みかみあきら 三上章というすぐれた文法学者がいた。その人の主著のひとつに、『象は鼻が長い』があ る。この題名を見て、書店では、てつきり童話の本だと思って、こどもの本の棚へ入れてし まう。知らない客が、そのつもりで買うということがないとは言えない。実は、この本は二 重主格を扱った日本文法論なのである。 「英語青年」という伝統のある英文学雑誌がある。中学生が誌名につられて買ってきて読も うとしたが、歯が立たない。編集部へ抗議のはがきを書いたという話もある。 とにかく、題名、書名はくせものである。ことに外国の本の題名だけを見て、これはこう いう本であると断定するのはたいへん乱暴である。題名の本当の意味ははじめはよくわから ないとすべきである。全体を読んでしまえば、もう説明するまでもなくわかっている。 実際に、本の題名などは、中身がすっかりでき上がってしまってから、最後につけられる ことがすくなくない。また、新聞や雑誌へ寄稿する原稿には、わざと題名をつけずにおくこ とがある。編集部で、おつけください、という心である。題名ひとつで、文章が生きたり、