このごろアメリカで、日本人が繊維のある食べもの、たとえば、ご・ほうのきんびら、のよ うなものを常食していることが、腸をつよくし、老化を防いでいるといって、それを見倣お うとする風潮が見られる。戦争中に捕虜にごぼうを食わせた、雑草の根を食わせたのは捕虜 虐待であると、訴えられて、戦犯になった収容所長のあったことを思い出す。 塩分のとりすぎは糖分のとりすぎ以上によろしくない。少塩多酢。塩分をへらして、酢で 味つけをすべし、ということを説える人もある。 老化は、端末から始まる。足と手、指をよく動かすようにする。歩いて、手はものをこし らえたり、字を書いたりして、はせないようにしなくてはいけない。指ではことに小指を 動かすと内臓がつよくなる。 近代医学の立場からこれらにどの程度、客観的価値があるのか、それはわからない。しか し、医学の言う通りにしていれば、病気にかからない、死にもしないというわけにも行かな いのも事実である。 こういう話を聞き流してしまうのでなく、書きとめておくと、しろうと健康学も、そのう 恵 ちに、だんだん幹と枝葉がのびてくる。 知健康は食べものだけによるのではない。病は気からという。精神的要因が大きくものを言 う。近代人ほどそれが顕著であるように思われる。 あるアメリカの社会学者が、死亡の時期の研究をして、誕生日の前しばらくは死亡率がぐ
145 テーマと題名 死んだりする。それほど重要なものである。テーマを明示したり、あるいは象徴したりする からである。 アメリカで出た論文作成の指導書に、 「テーマはシングル・センテンス ( 一文 ) で表現されるものでなくてはならない」 という注意があった。おもしろいと思ったから記憶にのこっている。はじめにのべたように、 テーマを説明させたら、十分も十五分もしゃべっているようでは、とても、シングル・セン テンスでまとめるなどという芸当はできまい。一文で言いあらわせたら、その中の名詞をと って、表題とすることは何でもないはずである。思考の整理の究極は、表題ということにな る。
頭の中の酒をつくるには、どうするか、については、すでにのべた。そこから生れるもの が、自分の思考であって、まざりものがない。すくなくとも、他からの混入のあとは残って いない。独創である。 こういう考え、着想をもっと、どうしても、独善的になるものらしい。ほかの考えはすべ をししが、行きすぎれ てダメなもの、間違っていると感じられてくる。自信をもっというのよ、 ば、やはり危険である。ひとつだけを信じ込むと、ほかのものが見えなくなってしまう。 アメリカの女流作家、ウイラ・キャザーが、 「ひとりでは多すぎる。ひとりでは、すべてを奪ってしまう ということを書いている。ここの「ひとりとは恋人のこと。相手がひとりしかいないと、 ほかが見えなくなって、すべての秩序を崩してしまう、というのである。 着想、思考についても、ほ・ほ、同じことが言える。「ひとつだけでは、多すぎる。ひとっ カクテル
戦後しばらくのころ、アメリカで対潜水艦兵器の開発に力を入れていた。それには、まず、 潜水艦の機関音をとらえる優秀な音波探知器をつくる必要があった。 そういう探知器をつくろうとしていろいろ実験していると、潜水艦から出ているのではな い音がきこえる。しかも、それが規則的な音響である。この音源はいったいなにか、という ことになって、調べてみると、これが何と、イルカの交信であった。 それまでイルカの″ことば〃についてはほとんど何もわかっていなかったのに、これがき つかけになって、一挙に注目をあつめる研究課題としておどり出た。 もともとは、兵器の開発が目標だったはずである。それが思いもかけない偶然から、まっ たく別の新しい発見が導かれることになった。こういう例は、研究の上では、古くから、決 して珍しくない。 科学者の間では、こういう行ぎがけの駄賃のようにして生れる発見、発明のことを、セレ セレンディビティ
218 「思われる」と「考えるー 文庫本のあとがきにかえて 日本へ来たばかりのアメリカ人から、日本人は二言目には lthink : : というが、そんな に思索的なのか、と質問されて、面くらったことがある。日本のレトリックがよくわかって いないのでびつくりしたのだろう。 日本語で話しているとき、たえず″と思います〃という言い方をする。別にはっきりした 判断にもとづいているわけではなく、ただなんとなく口ぐせのようになっているのである。 「はである」と断定してしまってはあらわにすぎる。あるいは相手への当りが強すぎる という気持がはたらく。なにかでこれを包みたい。そう言えば、われわれはひとに金を渡す ときにも包みに入れる。店先きで買物をするときにはもちろん裸かの金であるが、いくらか でも社交の意味合いのこもった金を贈るとき、むき出しの金ではいけないのは常識である。 お祝いをもらって、袋をあけると、すぐ紙幣が見えると、なんとなくおもしろくないよう に感じる人間がかなりある。それでていねいな祝儀袋には中にもうひとっ袋がある。外を開 いてもすぐお金は見えない。 この方が品がよいように思われる。包むむはこんなところまで も及んでいる。
214 には、″機械的〃側面が大きく、それだけ、″人間的〃性格に問題をはらんでいるとする考 え方に立っているからである。 いちはやくコンビューターの普及を見たアメリカで、創造性の開発がやかましく言われ出 したのは偶然ではない。人間が、真に人間らしくあるためには、機械の手の出ない、あるい は、出しにくいことがでぎるようでなくてはならない。創造性こそ、そのもっとも大きなも のである。 しかし、これまで、グライダー訓練を専門にしてきた学校に、かけ声だけで、飛行機をこ しらえられるようになるわけがない。はたして創造性が教えられるものかどうかすら疑問で ある。 ただ、これからの人間は、機械やコンビューターのできない仕事をどれくらいよくできる かによって社会的有用性に違いが出てくることははっきりしている。どういうことが機械に はできないのか。それを見極めるのには多少の時間を要する。創造性といった抽象的な概念 をふりまわすだけではしかたがない。 本当の人間を育てる教育ということ自体が、創造的である。教室で教えるだけではない。 赤ん坊にものごころをつけるなどというのは、最高度に創造的である、つよいスポーツの選 手を育てあげるコーチも創造的でなくてはならない。芸術や学問が創造的であるのはもちろ んである。セールスや商売もコン。ヒューターではできないところが多い。その要素が多けれ
のないような案もあらわれるであろうが、ブレイン・ストーミングの〃ルール〃では、どん っ とか、非現実的な、とかい な奇妙な考えでも、それをほかのものが、そんなつまらない、 て水をさしてはならないことになっている。批判のことばによって、頭をのそかせているア イディアがひっこんでしまいかねないからである。 ″しゃべる〃の章で、へたに、ほかの人に相談すると、せつかくのおもしろいテーマがつぶ されてしまう、と書いた。われわれの頭から生れる考えというこどもは、たいへん臆病で、 ち . よっとしたことにおびえ、どこかへ逃げて行ってしまう。よほど上手に誘い出さないと、 とらえることができない。 ブレイン・ストーミングはこうして、いろいろな考えを引き出すのだが、はじめのうちに 出てくるものは、多く常識的で、さほどおもしろいものではない。もうあらかた出つくした というところで、さらに頭をし・ほっていて生れるのが、本当に新しい、これまでは夢にも考 えられなかったようなアイディアである。 て え よく、考える、という。すこし考えて、うまくいかないと、あきらめてしまう。これでは 越 を本当にいい考えは浮んでこない。もうだめだ、と半ばあきらめたところで、なお、投げない 垣で考え続けていると、すばらしい着想が得られる。せいてはいけない。根気が必要である。 月光会も、アメリカ流に言うならば、ブレイン・ストーミングのすばらしいチームだった わけである。ロゲルギスト・グルー。フもそうである。
168 学科からなっている。活な知的創造にとってきわめて不便な環境と言わなくてはならない。 伝統の長い大学、学科ほど、生々した活力が見られにくいのは、イン。フリーディングの害毒 をそれだけつよく受けた結果であろう。 それと対照的なのが、新設の大学や研究機関である。同じ専攻の人間であっても、それま で違ったところにいたというだけで、異質な要素が大きい。近親交配の弊もそれだけすくな くてすむことになる。 スコットランドの月光会が目ざましい業績をあげたのも、めいめいが別々のことを専門に していたという点が大きくかかわっていたはずである。インブリーディングの心配はまった くなかった。それで、桃太郎のようにつよくて、たくましい知的創造が可能になったのであ る。 ブレイン・ストーミングという集団思考の技法がアメリカから紹介され、ひところ企業な どで注目されたことがある。 これは、何人かでチームをつくる。問題を出して、めいめいが、それに対する解決法を考 えられるだけ出し合う。たとえば、という建物とという建物の連絡の方法いかん ? と いった問題を考える。メッセンジャーを往復させる、連絡通路で屋上と屋上を結ぶ、ケー。フ ルでつなぐ、などなど、何でも思いついたものを言って行く。 記録係が、片端からそれをメモする。奇想天外なアイディアが出る。とても、実現の望み
ンディ。ヒティと呼んでいる。ことにアメリカでは、日常会話にもしばしば出るほどになって いる。自然科学の世界はともかく、わが国の知識人の間でさえ、セレンディ。ヒティというこ とばをきくことがすくないのは、一般に創造的思考への関心が充分でないことを物語ってい るのかもしれない。 遠くにいる潜水艦の機関音をキャッチしようという研究から、イルカの交信音をとらえた のが、とくにすぐれたセレンディビテイだというわけではないし、特筆すべきほど目立った 例でもない。ただ、ここではひとつの例としてあげたまでである。発見、発明において、セ レンディビティによるものはおびただしい。 ところで、このセレンディビティということばの由来が、ちょっと変わっている。 十八世紀のイギリスに、「セイロンの三王子ーという童話が流布していた。この三王子は、 よくものをなくして、さがしものをするのだが、ねらうものはいっこうにさがし出さないの テに、まったく予期していないものを掘り出す名人だった、というのである。 この童話をもとにして、文人で政治家のホレス・ウォルポールという人が、セレンディビ ンティ (serendipity) という語を新しく造った。人造語である。 セそのころ、セイロン ( いまのスリランカ ) はセレンディップと一言われていた。セレンディ 。ヒティというのは、セイロン性といったほどの意味になる。以後、目的としていなかった副 次的に得られる研究成果がひろくこの語で呼ばれることになった。
ては、いつまでたっても煮えない。あまり注意しすぎては、かえって、結果がよろしくない。 しばらくは放っておく時間が必要だということを教えたものである。 考えるときも同じことが言えそうだ。あまり考えつめては、問題の方がひっこんでしまう。 出るべき芽も出られない。一晩寝てからだと、ナベの中はほどよく煮えているというのであ ろう。枕上の妙、ここにありというわけである。 ことと次第によっては、一晩では、短かすぎる場合がある。大きな問題なら、むしろ、長 い間、寝させておかないと、解決に至らない。考え出して、すぐ答の出るようなものは、た いした問題ではないのである。本当の大問題は、長、 し間、心の中であたためておかないと、 形をなさない。 ・・ロストウはアメリカの経済学者で、ケネディ大統領の経済顧問として世界的に知 られた人で、その『経済伸長論』は画期的な学説として高く評価された。その序論を読むと この問題にはじめて関心をいだいたのは、、 トの学生としてであったと、書いてある。 それから何十年もの歳月が流れている。忙しかったから、まとめるのが遅れたなどというこ せとではない。い つも、心にはあった。あたためていたのである。それがようやく、卵からか 寝えったのである。こういうように、大問題はヒナにかえるまでに、長い歳月のかかることが ある。 ロストウにしても、この理論にだけかかわっていたのではなかろう。ほかのことを考える