仕事 - みる会図書館


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1. 慟哭

美絵の名を聞き、先日の捨て台詞を思い出した。離婚の話を具体的に煮詰めようというのだ ろうか。しかしそれにしても、特捜本部にまで電話をしてくるとは尋常でない。美絵は新婚時 代も含めてこれまで、一度も佐伯の仕事場に連絡してきたことはなかった。 ブップッと短い電子音の後に、回線が繋がった。 「もしもし」 美絵の焦ったような声が届いた。 「どうした」 佐伯は短く言った。周囲の目が気になる。長話をする気はなかった。 「大変なのよ。大変なの」 美絵は狼狽しているようだった。慌てぶりが電話を通しても伝わってくる。 「落ち着け。何がどう大変なんだ」 佐伯は力強く言った。美絵に頼もしいと思われるとは考えなかったが、それでも多少は効果 があったようだ。 「い、家のそばを変な男がうろついてるの」 「変な男 ? 」 佐伯は声を潜めて、周りを見回した。こちらを見ていた数人の事務員が、慌てて目を伏せる。 「ちょっと待て。今、家か ? 「そうよ」 378

2. 慟哭

違うか」 「下衆の勘繰りだ」 佐伯は吐き捨てた。 「同情してるんだよ、おれは」石上は押しつけがましく言った。「汚れ仕事は大変だろうとね」 返事をするのも馬鹿馬鹿しかったが、ひと言言い返さずには肚の虫が収まらなかった。 「汚い仕事をしてるのはそっちだろう」 「ふふん」石上はせせら笑った。「確かにあまり愉快な仕事とは言えないな。何しろ、おれが 暴かなきゃならないのは、同じ警察官の罪なんだから。しかしこれほどやりがいのある仕事も ないんだぜ」 佐伯は無言で睨んだ。 「おれが警察を綺麗にしてるという自負が持てるからな」 うみ 「それは大きな勘違いだ。警察の膿が外部に漏れないように、内々に事を終わらせるのが監察 官の仕事のはずだ」 「その膿だ」石上は佐伯の指摘を平然と無視して続けた。「この前会ったときに話した、警察 官名簿の流出の件だが、どうやら犯人の目星がついたよ」 「犯人は捜査一課の人間じゃなかったから、安心してくれたまえ」 255

3. 慟哭

「すみませんね。いつもこんな遅くに」 谷尾は頭を掻いた。 「仕方ないさ。君も仕事だ」丘本は茶をひと啜りした。「息子が中学を受験するんでね。ちょ っとびりびりしてるんだ」 「そうですか。それはすみませんでした。ご迷惑でしたね」 「いい。そんなに大声で話さなければ、勉強の邪魔にもならないよ」 「どこを受けるんですか」 かいめい 「開明学院だ」 「開明ですか。名門じゃないですか」 谷尾は眉を吊り上げた。途端におどけた表情になる。谷尾は昔からこの人懐っこい表情で得 をしてきた。それはもう四十に手が届いた今でも、まったく変わっていなかった。 「開明に入ったら、高校まではストレ 1 トでしよ。しかも学校内で百番以内の成績だったら、 東大も確実じゃないですか」 「まだ受かったわけじゃない。受けるだけは誰でもできるからな」 「誰でも受けられるわけじゃないですよ。うちの坊主が開明を受けるなんて言ったら、担任の 先生もギャグかと思って大笑いしますよ」 谷尾は身振りも交えて、大袈裟におどけてみせた。 「そうまで言うものでもないだろう。君のとこの息子さんは、幾つになったつけ」

4. 慟哭

彼は了承して電話を置いた。 約束の時間に、川上は十分遅れてやってきた。新聞を読んでいた彼の姿を見つけると、川上 はペこペこと頭を下げて近寄ってきた。 「すみません。遅れちゃいましたね」 「そうでもないですよ」 彼は新聞を畳んで、脇の椅子に置いた。 川上は慌ただしげに彼の前に腰を下ろすと、メニュ 1 も見ずにウェイトレスにコーヒ 1 を頼 んだ。 「すみません。仕事が長引いちゃって」 川上は改めて詫びを言った。 「いえ、そんなに待ってませんから、大丈夫です。私も仕事をしてるときは、とても時間どお りに行動したりできませんでしたよ」 「松本さん、以前のお仕事は何をなさってたんですか」 川上は何気なく訊いたのだろうが、彼は返事に窮した。 「ああ、すみません。別におっしやらなくていいですよ」川上は如才なく手を上げて遮った。 「で、なぜ私が教団を辞めたか、ですよね」 川上はスーツの内ポケットから煙草を取り出すと、断ってから火を点けた。 212

5. 慟哭

は努めて慇懃に迎えたが、補佐官は侮蔑の色を隠さなかった。 「結局こういうことになったな」 見下すように補佐官は言った。補佐官の階級は、佐伯と同じ警視だった。だがその職掌は天 と地ほども違う。捜査一課長は新任者が着任すると全国紙で告知されるほど花形のポストだが、 刑事部長補佐官の実質的な仕事はゼロに等しい。本来の人事であれば、この補佐官こそが今頃 は一課長でもおかしくはなかったのだ。それが佐伯のために、いわば閑職に弾き出された恰好 になっている。補佐官が佐伯に対し、愉快な気持ちになれないのも無理はなかった。 「残念です」 悔しさを押し殺して、佐伯は短く答えた。傍らで聞いている刑事課長が、いい気味だとばか りに横目であざ笑っていた。 「私は常日頃、佐伯君がどのような捜査方針を執っているのか、興味があったよ。今日はじっ くり話を聞かせてもらおうと、楽しみにやってきたんだ」 実際に甲斐刑事部長が捜査本部にやって来るのは明日である。補佐官の役割は、その先触れ ただ でしかない。 1 街き込みから帰ってきた刑事たちから捜査の状況を聞き、不明な点があれば質す。 そして、もう一度それを刑事部長の前で発表させるのだ。二度手間をかけさせられた上に、が みがみどやしつけられるのだから、刑事たちにしてみればたまったものではない。 現場にはい やがられる、合理性にまったく欠けた悪習と言えた。 補佐官自身も、自分の存在が煙たがられているのがわかるから、よけいに面白くない。その 193

6. 慟哭

「あ、ああ」 佐伯は我に返った。まるで伊津子の話を聞いていなかった。 「聞いてなかったでしよ、人の話。ここのとこ、コミュニケーション不足だぞ」 「すまない」彼は体を捩って、灰皿に煙草を押しつけた。「考え事してた」 「仕事のこと ? 」 「ああ、そうだ」佐伯は顎を引いた。「すまないな」 「いいのよ、あたしだって仕事の話してたんだから。お互い様」伊津子は軽く佐伯の右腕を叩 いた。「ごめんね、考え事の邪魔して」 いいんだ。大したことじゃない」佐伯はべッドから降りて、伊津子を見下ろした。 「喉が渇いた。なんか飲むか」 「うん。ゥーロン茶が冷蔵庫にあるわ」 佐伯はキッチンに行って、冷蔵庫を開けた。缶を両手に持って、ひとつを伊津子に抛る。右 手に残った缶を開けて、ぐいとひとロ呷った。 「そうだ、君にも聞いてもらおう」 べッドに戻りながら、佐伯は言った。 「何を ? 」 「事件のことさ。おれが今取りかかっている、幼女殺害事件についてだよ」 「珍しいわね。あたしに事件のことを話すなんて。捜査事項は秘密じゃなかったの」 204

7. 慟哭

伊津子は体をひいて、佐伯を奥へ通した。 リビングに足を運ぶと、相変わらず綺麗に片づいた様子が窺えた。事前に来ることは電話で 知らせておいたが、慌てて片づけたわけでもないのだろう。仕事の資料も、きちんと机の上に 積み上げられている。 「仕事の途中じゃなかったのか」 振り返りながら訊くと、伊津子は唇をへの字にしておどけた表情を見せた。 「中休みよ。ワープロに向かってりや、 しいものが書けるってわけでもないしね」 伊津子はグレーのざっくりしたトレ 1 ナーという、かなりラフな服装をしていた。佐伯が来 ようか来まいが変わらない、 いつもの部屋着だった。短い髪型のせいもあって、初々しい少年 のように見える。佐伯はこんな姿も嫌いではなかった。 「初めて逢ったときは、確か髪の毛が長かったよな」 上着を脱ぎ、ソフアに身を落ち着けてから、背後の伊津子に言った。 「そうよ。突然、何 ? 」 キッチンに立った伊津子は、背中を見せたまま答えた。 「いや、今日警察庁に行ったら、君の話が出た」 「どうして ? 」 興味を持ったのか、手を濡らしたままそばにやってきた。佐伯に食べさせるものを作ろうと していたようだ。 262

8. 慟哭

らしめている特徴は、余人の追随を許さない博覧強記ぶりにあった。愛読書が百科事典だとい うのだから、その異能が知れる。世の中の事象に知らざるはなきが如き弁舌を振るう須藤は、 当然のことながら周りから敬遠されていた。須藤自身も、他人を馬鹿呼ばわりし近づけようと しなかった。 そんな人間と佐伯が親しくなったきっかけは、もう思い出せない。佐伯にも、須藤に共通す る偏屈な部分があったということだろう。卒業後は、佐伯が警官、須藤は出版社と道を分かっ たが、忘れた頃に連絡を取り合っていた。互いの仕事に微妙な接点があったのも、付き合いを 持続させる要因になっていた。こうして仕事に関するヒントをもらうことも、これまでに再三 あった。 「いつも利用してすまないが、また教えて欲しいことがある」 コーヒーが来てから、佐伯は切り出した。 うるわ 「お前から麗しき友情を示してもらえるとは期待してない。百科事典代わりに、せいぜいおれ を利用するがいいさ」 須藤は小さなエスプレッソのカップを啜った。卒業して十年以上になるが、須藤はまったく 外見が変わらない。武道でもやっているような引き締まった体格をしているくせに、スポ 1 ッ はまるでやらない。肌は女のように白く、顔立ちも美形と形容しても大袈裟でないものだった。 かんしよう ただ目許は癇性な性格を示すようにピクピクと震え、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。 「ああ、そうさせてもらう」佐伯は鞄から週刊誌を取り出した。「この記事なんだ」 すす 319

9. 慟哭

丘本は苦笑した。もう自分の子供たちは、親の言うことを鵜呑みにする年ではなくなった。 頭ではわかっているが、なんとなく寂しいものだった。 「今日は帰れない。今、東日野署にいるんだが、今夜はここに泊まる」 「大変ね」 妻は仕事のことに口を挟まない。事件が起きたのはニュースを見て知っているだろうが、そ れについては何も言わなかった。 戸締まりについて注意をした後、おやすみと言って受話器を置いた。なんということのない 会話だが、丘本はそれなりの満足感を得ることができる。娘を失った親に対面してきた今日は なおさらだった。 余った十円玉を財布にしまいながら、佐伯一課長の会見は終わっただろうかと、ふと考えた。 そして我が身のささやかな幸せをもう一度噛み締めた。 おぼろげ 佐伯の家庭の事情は、朧気ながら察している。丘本が見るところ、あまり佐伯の夫婦仲はう めあわ まくいっていないようだ。噂が本当だとすれば、佐伯夫婦は互いの両親の思惑で娶されたとい うことになる。夫婦のことは他人の丘本にはわからないが、うまくいってない原因はそもそも なそ の馴れ初めにあったのではないかと考えずにはいられない。もしそうだとしたら、双方にとっ て不幸なことだ。娘をひとりなしたきり、佐伯は仕事にかかりきりで家庭を顧みている様子は ない。自宅に帰らず、別に借りたマンションにいる日数の方が多いようだ。出生にまつわる事 実といい、佐伯はあまり肉親の情に恵まれているとは言えない。

10. 慟哭

「どこから話したらいいかな : ・ 。まず、どうして私が入信したかをご説明しましよう」 川上はセールスマンそのものの口調で、澱みなく一 = ロった。 / ー 彼よ黙って頷いた。 川上は横を向いて煙草の煙を吐き出してから、語り始めた。 「そもそも私は、大学時代の友人に誘われて入信したんです。私自身、学生時代から思想関係 の本を読んだりして、宗教に興味があったものですから、抵抗はありませんでした。その友人 とは親しくしてましたし、あまり強く勧めるので、断る理由も見つからぬままに入信していた んです。 その友人がどこから教団のことを聞いたかと言いますと、伯父さんからなんですね。彼の伯 父が熱心な信者で、甥の友人にまで入信を勧めたというわけです」 川上は煙草を消しコーヒーで喉を湿らせてから、言葉を続けた。友人の伯父は精密機器製造 では名の通った、小さいながらも堅実な仕事で知られた企業の社長だった。中小企業のオーナ ーが新興宗教に凝るのは珍しいことではない。身内を自分の会社に入れることも、さして奇異 なことではなかった。 「伯父であり、社長である親戚の一 = ロうことに、友人は逆らうことができなかったんです。友人 にとって、伯父の存在は絶対でしたから」 友人は半信半疑で入会したが、やがて本気で川上を誘うことになる。入社して三年目、仕事 の良い面も悪い面もわかってきた川上は、ようやく生活に退屈を覚える時期だった。川上は、 自分でも経験がないほどの真剣さで、教団の活動に打ち込んだという。 213