「インフルエンザになる前だね。いつだっけ ? 二週間ぐらい前 ? 」 「わかんない」へンリは意地になってきた。フェラーリのことはこれ以上何もいわな いだろう。べントンも無理にききだそうとはしない。彼女が答えなかったり、はぐら かしたりすること自体が、何らかの事実を物語っているからだ。 べントンは、相手がいわなかったことを解釈するのに長けている。ヘンリのいまの 話から、彼女が好きなときにフェラーリに乗っていたこと、自分が目立っていたのを 知っており、それを楽しんでいたことがわかる。彼女はつねに注目をあびていたいの だ。どんなときでも騒ぎの中心にいて、騒ぎをまきおこし、自分自身の身勝手なドラ マの主人公でいなければ気がすまない このことからも、警察や法心理学者は、殺人 未遂事件は彼女がうった芝居だと考えるだろう。犯行現場も彼女がそれらしく見せか けたもので、事件は実際にはおこっていないと。ところがヘンリがおそわれたのは事 ヘントンはルー 実だ。皮肉なことに、この一風かわった危険なドラマは実話なのだ。、 シーのことを心配している。いつもそうだが、今回はとくに心配だった。 跡 「電話でだれと話してたの ? 」へンリがさっきの話をむしかえす。「ルーディはあた 痕 しに会いたいのよね。彼をモノにしとけばよかった。あのとき、時間を無駄にしちゃ った」
Ⅷよかった、とマリーノは思一つ。十年ぐらい前かいちばんよかった。ルーシーにトラッ クの運転のしかたやバイクの乗りかた、銃の撃ちかた、、 ビールの飲みかた、うその見 破りかたといった、生きていくうえで大切なことを教えるのは、楽しかった。そのこ ろは彼もルーシーをおそれてはいなかった。「おそれている」は、マリーノが感じて いることをあらわすのにふさわしいことばではないかもしれない。だがとにかくノー シーは力をもっており、彼はもっていなし ) 。ルーシーと話したあと電話を切ると、マ リーノはたいてい落ちこみ、みじめな気持ちになる。ルーシーは好きなことをやりな がら金も手にいれ、人に命令することもできる。マリーノにはそれができない。正式 な警察官だったときでさえ、ルーシーのように力を誇示することはできなかった。で もあいつをおそれてはいねえ、とマリーノは自分にいいきかせる。とんでもねえよ 「必要なら、あたしたちそっちへいくわよ」と、ルーシーかいっていた。「でもいま はちょっとまずいな。こっちでやってることかあるから、いきにくいわ」 「だから、くる必要はねえっていってるだろう」マリーノは機嫌の悪い声をだした。 不機嫌になるのは、人に自分のことよりも彼のことを心配させるための、奥の手だ。 「こっちで何がおこってるかを知らせただけだ。きてもらう必要はねえ。何もやるこ とはねえよ」
106 ぎり、キッチンへいった。戸棚をあけていちばんうえの棚にピストルをおき、カップ をふたっとりだして、コーヒーを注ぐ。ふたりともコーヒーはプラックで飲む。 「ちょっと濃いかもしれない。おかわりもあるよ」べントンは彼女のカップを脇テー プルにおいて、カウチへもどった。「おとといの夜は怪物の夢を見たんだね。『ケダモ ノ』ときみは呼んでいた。そうだね ? 」鋭い目で彼女の不安そうな目をさぐる。「ゆ うべもそのケダモノがでてきた ? 」 ヘンリは答えない。さっきとは気分ががらっと変わっているようだ。シャワーをあ びているときに何かあったらしい。だがそのことはあとできこう 「気がすすまないなら、ケダモノのことは話さなくてもいいんだよ、ヘンリ。でもい ろいろ話してくれたほうが、そいつをつかまえやすい彼をつかまえてほしいんだろ 「だれと話してたの ? 」あいかわらず子供っゝ ーし、小さな声だ。しかし彼女は子供で はない。無邪気とはほど遠い。「あたしのことを話してたんでしよう」と、 る。ガウンのベルトがゆるみ、肌があらわになる。 「きみのことじゃない。誓ってもいし きみがここにいることはだれも知らないん だ。ルーシーとルーディ以外にはね。わたしを信用しているだろう、ヘンリ」ことば
盟だ。あの人がだれでも彼でもみんなここにいれるから。で、当人はここへくるか ? 」 またクリップポードにメモをとりはじめる。「いいや、きやしない。着任して四カ月 にもなるのに、一度も検屍をしてない。ああ、それからね。もうわかったと思うけ ど、彼は人を待たせるのが好きでね。趣味なんだな。彼がどんな人物かって話はだれ からもきいてないんだね。下手なシャレをいってごめん」ふたりのあいだに横たわっ ランダウン ている、トラクターに轢かれて死んだ男性を指さす。「電話してくれれば、こないほ う力いいって忠告してあげたのに」 「そうね、電話すればよかった」スカーベッタは、太った女性の遺体を、五人がかり で移動べッドからステンレスの台に移そうとしているのをながめた。女性の鼻と口か ら血のまじった体液がしたたっている。「あの人の組織層、ものすごく厚いわね」組 織層とは、この死んだ女性のように肥満した人の腹部についた、皮下脂肪の層のこと だ。スカーベッタが実際にフィールディングこゝ ( しいたいのは、ドクター・マーカスの ことをモルグで話すわナこよ ) ゝ ( 。こし力ないということだ。まわり中に彼のスタッフかいる のだから。 「あのくそいまいましい事件はぼくの担当なんだ」と、フィールディングがいう。ド クター・マーカスとギリー・ポールソンのことをいっているのだ。「遺体が運ばれて
「わかるわ。彼女は黒いフェラーリには乗っていなかった。だってあれは傷がついて しまったから」 「そのことを話してほしいな」 「駐車場で傷がついたの」へンリは打ち身になった親指をまたしげしげと見ながらい った。「コラルスプリングスのアトランティック通りにあるジムの。あたしたちがと きどきいくところよ」 「それがおこったのはいっ ? 」べントンは内心の興奮をおさえて、さりげなくきい た。この情報はいままでにない、重要なものだ。それがどこへつながるかも察しがっ く。「きみがジムにいるあいだに、黒いフェラーリに傷がついたの ? 」べントンは真 実を話させようとうながす。 「ジムにいたとはいってないわ」へンリは怒ったようにいう。やはり思ったとおり ヘンリはルーシーの許可を受けずに、彼女の黒いフェラーリに乗ってジムへいった にちがいない。黒いフェラーリを運転することはだれも、ルーディでさえ許されてい ないのに。 「どんな傷か話してくれ」
材スな魅力がある。目鼻立ちは整っているとはいえない鼻が目だっし、彼女の思いこ みによると、大きすぎる。歯も完璧ではない。だが彼女の笑顔は美しく、自分ではそ の気がなくても、男心をそそる。本人はそのことに気づいていないし、べントンも気 づかせようとはしない。そうするのは危険だからだ。 「だれかと話してたでしよう。ルーシーだったの ? 」と、ヘンリかきいた。 「そう」不満そうにロの端が下がり、目に怒りの色がうかぶ。「ふーん。そうなの じゃ、だれだったの ? 」 「個人的な話をしてたんだよ、ヘンリ」べントンはめがねをはずした。「お互いの領 分てものについて、ずいぶん話しあったよね。毎日そのことを話したじゃないかそ 一つ」ろ一つワ・」 「わかってるわよ」踊り場で手すりに手をのせたまま、ヘンリがいう。「ルーシーじ ゃないなら、だれ ? 彼女のおばさん ? ルーシーはおばさんの話はかりするのよ ね」 「ルーシーのおばさんは、きみがここにいることを知らないんだよ、ヘンリ」べント ンはさとすようにいった。「知ってるのはルーシーとルーデイだけだ」
ってるのかも」ルーシーは運転に神経を集中させながらいった。もしかするとルーデ ) 。「さっきみたいなこと イのいうとおり、自制かきかなくなっているのかもしれなし ゝつもはあんなことをしないよう、慎重に行動するの をやっちゃいけない。絶対に。し ゝレーディは強情そうに歯をくいしばって 「きみは慎重だ。でも彼女はそうじゃなし」ノ いた。ミラーコーティングしたサングラスの奥の目は、黒く見える。彼がこちらを見 よ , っとしないことカノ ゞ、レーンーは気になった 「さっきのヒスパニックの男のことを話してるんじゃなかったつけ」 「最初からずっといってるだろう。自分の家にだれかを住まわせたり、車や自分のも のを使わせたり、自分の生活空間で勝手に行動するのを許したりするのは、危険だ と。きみやぼくと同じルールで生きてはいない人、われわれのようなトレーニングを 受けていない人、それにぼくたちがすることや、ぼくたちを大事に思っていない人 に、そ一つい一つことをさせるのは」 「人生のすべてにトレーニングがかかわっているわけじゃないわ」と、ルーシーはい った。愛している人が自分を大事に思っているかどうかよりも、トレーニングのこと のほうが話しやすい。ヘンリのことよりも、あのヒスパニックのことを話すほうが楽
274 の中継器がちゃんと再生し、デュアルテープデッキが二重録音することをたしかめ ーをオンにしてヘッドフォンを た。コマンドセンターを電話回線につなぎ、レシー つけ、ケイトがジムか寝室でだれかと話していないか調べた。話し声はきこえない : ルーシーはオフィスのテープルにすわり、太陽が水 し、まだ何も録音されていなし 面にたわむれ、ヤシの葉が風にそよぐのを見ながら、耳をすました。感度レベルを調 節して、待つ。 何もきこえないまま数分がすぎ、ルーシーはヘッドフォンをはずしてテープルにお いた。立ちあがって、クライムサイト・イメージャーがのっている台にコマンドセン ターをもっていった。雲が太陽をおおったと思うととおりすぎ、部屋の明るさが変化 した。さらに雲が太陽のうえを流れ、オフィスはうす暗くなったり明るくなったりす る。ルーシーは白い綿の手袋をはめた。目の絵を封筒からとりだし、汚れていない大 きな黒い紙のうえにのせた。また椅子にすわってヘッドフォンをつけ、指紋検出キッ トからニンヒドリンの缶をとりだす。缶のふたをあけ、絵のうえに薬品をスプレーし た。ぬらしすぎないように注意しながら、紙をしめらせる。このスプレー缶にはフロ ンははいっておらず、環境には害を与えない。だが人間には無害ではないらしく、噴 霧液を吸いこむと肺にしみ、せきがでた。
てケイトに見はられているのを感じた。胸のなかで怒りがうずまいている。ふだんは 胸の奥にひそみ、うずくまり、眠っている怒りは、何かにつつかれると目をさます。 : ティーナ : : : なんだっけ。ラストネームを忘れちゃった。彼女かいわなかった のかな ? そんなはずないわね。いろんなことを話してくれたもの。ポーイフレンド のことや、おそわれたのでハリウッドへ帰っちゃった、あの若い女の人のことや ルーシーはポリュームをあげた。紙をじっと見つめ、隣人がヘンリのことを話すの を真剣にきいていると、紫色の痕跡がぼやけてきた。彼女はヘンリがおそわれたこと をなぜ知っているのだろう ? 新聞にはのらなかった。ルーシーはストーカーのこと しか話していない。だれかがおそわれたなどとは、ひとこともいっていない 「すごいかわいいの。プロンドで顔もきれいだし、スタイルも抜群。ほっそりしてて ね。 ハリウッドの女優さんて、みんなそういう感じよね。さあ、それはよくわかんな 上 でもたぶん彼はもうひとりのほうのポーイフレンドだと思う。ティーナのね。ど 跡 うしてわかるかって ? だってあたりまえじゃない プロンドのほうの恋人だった 痕 ら、彼女がここをでていったときに、 いっしょにいくでしよう。あの家にだれかが押 しいって、パトカーだの救急車だのがきたとき以来、彼女はここにいないもの」
川「彼女はだれといっしょに住んでいたの ? 」 「くわしいことは直接会って話そう。非常にデリケートな状況なので」 最初は、これからアスペンへいって二週間ほどすごすつもりなので、といって断ろ うと思った。だがそうはいわなかった。もはや事実ではないからだ。アスペンへはい かない。何カ月も前からいくつもりにしていたが、結局やめることにしたのだ。うそ をつくのは気がとがめたので、仕事を理由にした。やっかいな事件をかかえているの で、リッチモンドへはいけないといった。首吊り事件だが、むずかしい状況で、遺族 はその死が自殺によるものであることを認めようとしない 「その首吊りの何が問題なんだ ? 」ドクター・マーカスがきいた。彼が話せば話すほ ど、スカーベッタはきく気がなくなる。「人種的なことがからんでるのか ? 」 「その男性は木にのぼって自分の首にロープをまきつけて、気を変えて途中でやめら れないように両手を後ろにまわして手錠をかけたの」そういって、明るく気持ちのよ いキッチンにある戸棚をあけた。「木の枝からとびおりたとき、第二頸椎が折れて口 ープがずりあがり、後頭部の頭皮を押しあげた。そのために顔がゆがんで、苦悶の表 情をうかべているように見える。そのことや手錠のことを、ミシシッピにいる家族に いんべい 納得させるのかいかに大変か。奥深き南部のミシシッピじゃ、隠蔽はごくふつうにお