はない。そばをとおると、そのひんやりした空気が感じられた。 「コートをおあずかりしましようか ? 」と、ミセス・ポールソンがいった。「玄関に いるときにコーヒーのことなんかきいて、キッチンへきてからコートのことをいいた すなんて。このごろちょっとおかしいの、わたし」 ふたりはコートを脱ぎ、彼女はキッチンの木釘にそれらをかけた。スカーベッタは 木釘のひとつに手編みのまっ赤なマフラーがかけてあるのを見て、ギリーのではない かとふと思った。キッチンはここ数十年改造されていないようで、時代遅れの白黒の 市松模様の床に、古びた白い器具がおかれている。窓は木のフェンスで囲まれた細長 い庭に面していた。フェンスのうしろには、スレートぶきの低い屋根がある。スレー トがところどころはがれ、ひさしには落ち葉がつもり、こけがまだらにはえている。 ミセス・ポールソンがコーヒーをつぎ、三人は窓ぎわの木のテープルについた窓 からは裏庭のフェンスと、その向こうのこけむしたスレート屋根が見える。スカーベ ッタはキッチンが清潔できちんと片づいていることに目をとめた。寄せ木のまな板と 水切り板とシンクのうえには鉄のフックがならび、鍋やフライバンがさがっている。 ータオルかけのそ からっぽのシンクはびかびかに磨かれている。カウンターのペー ばに、せきどめシロップのびんがあるのに気づいた。去痰薬のはいった市販のせきど
でもそんなものよね。人間て、手にはいらないものに恋いこがれるのよ」 ギリーの寝室のほうから、マリーノのプーツの音がきこえてきた。さっきとちがっ て、重たげな大きな足音だ。 「愛してくれないものを愛してしまうのね」と、ミセス・ポールソンはいった。 キッチンへもどってからスカーベッタはメモをとっておらず、メモ帳のうえに手首 をのせたままだ。ポールペンはいつでも書ける状態だが、静止している。「その —捜査官の名前は ? 」と、たずねた 「ええと。カレン。ちょっとまって」目をつぶってふるえる指を額にあてる。「いろ バーかな。カレン・ウェーバー んなことをおぼえていられなくて。ええと。ウェー 「リッチモンド地方局の人 ? 」 マリーノがキッチンへはいってきた。プラスチックの黒い釣り道具箱を片手でつか み、もういっぽうの手に野球帽をもっている。やっとその帽子を脱ぐ気になったよう だ。殺害された女の子の母親、ミセス・ポールソンに敬意を表そうと思ったのかもし れない 「ええと。たぶんそうだと思う。どっかに彼女の名刺があるはず。どこにおいたかし
こなわれている。その一方、ゲイの男はふつうではないと思われている」 「ミシシッピにはいったことがないな」と、ドクター・マーカスは気がなさそ , つにい った。首吊りにしろほかのどんな悲劇にしろ、自分の人生に直接影響のないことには という意味だったのかもしれない。だがスカーベッタはちゃんときいて 興味がない、 いなかったので、そうはとらなかった。 「協力したいのはやまやまだけど」いまはその必要がないにもかかわらず、オリープ オイルの新しいびんをあけながらいった。「あなたが担当する事件にわたしがかかわ るのは、まずいんじゃないかしら」 腹がたっていたがそれを否定しつつ、キッチンのなかを動きまわっていた。設備の 整った広いキッチンには、光沢のあるみかげ石の調理台とステンレスの器具がある。 大きな窓からは内陸大水路が一望できた。彼女は実はアスペンの件を怒っている。だ が自分ではそれを認めようとしない。腹がたっているが、いまあなたがついている職 上 を自分はくびになり、それで二度ともどらないつもりでバージニアをでたのだ、とド 跡 クター・マーカスにずけずけといいたくはない。しかし彼がいつまでもだまっている 痕 ので、わたしが友好的な状況でリッチモンドをはなれたのではないことはご存じでし Ⅱよう、といわざるをえなかった。
じゃないでしよう。その犬が死んでればべつだけど。それでもあなたのようなお医者 さんは、死んだ犬をどうこうするわけじゃないわよね」 「わたしはあらゆることに関心があるの。どんなささいなことでもききたいわ」 そのとき、マリーノがキッチンの戸口にあらわれた。彼の重たい足音はきこえなか った。頑丈なプーツをはいた大男のマリーノが、足音をたてずに歩けることにスカー ペッタは驚いた。「マリーノ」彼をまっすぐ見ていった。「この家でかわれていた犬の ことを何か知ってる ? いなくなったそうなの。スイーティっていうメス犬。犬種は : なんでしたつけ ? 」ミセス・ポールソンに助けを求める。 「バセットハウンドよ。まだ子犬なの」彼女はそういってすすり泣いた 「先生、ちょっときてほしいんだが」と、マリーノはいった。
231 痕跡 ( 上 ) 「わかった」マリーノはキッチンをでていった。古い木の床に彼のプーツの音が重々 しくひびく 「ギリーはよくなりかけていたのよ」と、スカーベッタはいった。「肺を調べたら、 それがわかったの」 「でもまだ元気がなくて、ぐたっとしてたわ」 「ギリーはインフルエンザで死んだのではないわ、ミセス・ポールソン」スカーベッ タはきつばりといった。「それをわかっていただかないと。もし彼女がインフルエン ザで死んだのなら、わたしがここへくる必要はない。わたしは手助けしたいと思って いるの。そのために、 いくつか質問に答えていただきたいんだけど」 「あなたはこのあたりの方じゃないようね」 「もともとはマイアミの出身なの」 「そうなの。いまもそこに住んでるのね。そのそばに。昔からマイアミへいきたいと 思ってるの。こんな天気のときはとくにね。陰気で気が重くなっちゃう」コーヒーを つぎたそうと立ち上がった。脚がこわばっているようで、ぎごちない歩きかたで、せ きどめシロップのそばのコーヒーメーカーのところへいく。スカーベッタは彼女が娘 をベッドにうつぶせにして、おさえつけているところを想像してみた。不可能とはい
て、写真をとるよ。指紋もとってみよう。窓と窓枠、ドレッサー、とくにいちばんう えのひきだし。そんなとこだな」 「そうね。いま現場をあまりいじってもしようがないわ。もう大勢の人が前にきてる んだから」この寝室を現場と呼んだことに気づいた。ここをそう呼んだのははじめて 「じゃ庭を見てみるよ」と、マリーノがいう。「でも二週間たってるからな。スイー ティのクソも見つかんねえだろう。一度も雨がふってなきゃべつだが、ふったことは わかってる。だからほんとに犬がいて、それがいなくなったのかどうか、わかんねえ な。プラウニングは何もいってなかったし」 スカーベッタはキッチンへもどった。ミセス・ポールソンはテープルの前にすわっ ている。さっきからまったく動いていないようで、同じ椅子に同じ姿勢ですわって、 宙を見つめている。彼女は娘がインフルエンザで死んだとは思っていない。そんなこ 上 とを思うはずがないではないか。 跡 「なぜがギリーの死に関心をもっているのか、だれか説明してくれました ? 」 痕 スカーベッタは小さなテープルをへだててすわってきいた。「警察は何といったのか し、らワ・」
185 痕跡 ( 上 ) ではなく、ティクアウトのレストランかクリーニング屋、あるいはホーム・デボにで も電話しているかのようだ。 「前の家宅侵人のときは、どの刑事が担当しました ? 」と、オペレーターがきいた。 「こちらから連絡をとるのはふつう、刑事だけで、鑑識課員に連絡をとることはあま りないんですよ」 「とにかく鑑識課のダレッシオという人が対応してくれたの。刑事さんは家にはこな かったと思う。病院へいっただけじゃないかしら。泊まり客が入院したので」 「ダレッシオは非番のようですが、メッセージを伝えましようか」九一一番のオペレ ーターは自信なさそうにいった。無理もない。彼女は鑑識課員ジョン・ダレッシオに 会ったことも話したこともなく、無線で声をきいたこともないのだ。ルーシーの世界 では、とはサイバースペース拠査官のことで、ルーシーや部下が侵人したコン この場合、そのコンピューターはプロワード郡 ピューターのなかにしか存在しない 保安官事務所のものだった。 「名刺をもらっているから、自分で電話するわ。どうもありがとう」ルーシーは電話 を切った。 ルーシーとルーディはキッチンに立ってりんごを食べながら、顔を見あわせた。 tn
183 痕跡 ( 上 ) 「警察に通報したほうがいいかもね」ルーシーは鍵を受けとっていった。「厳密にゝ うとこれは緊急事態だもの」 「指紋とか、重要なものは何も見つからなかったんだな」 「イメージャーではね。警察が絵をもっていかなければ、薬品を使って調べてみるけ ど。もっていってほしくないわね。もっていかせないようにするわ。でも通報はした ) よ一つ、刀しし ) と思う。外でだれか見かけた ? 」キッチンを横ぎって、電話を手にとる。 「あなたに見とれて、道路をそれちゃった女性たちはべっとして」キーパッドを見 て、九、一、 一、と押す。 「いまのところ指紋は見つからないんだね」と、ルーディがいう。「まあ、まだあき らめるのは早い。圧跡はなかった ? 」 ルーシーは首をふり、「不審者を発見したんですが」といった。 「不審者は現在、敷地内にいるのですか ? 」オペレーターは冷静な、てきばきした声 できいた。 「いないみたい。でもこれは以前にそちらへ連絡した家宅侵人事件に関係あるんじゃ ないかと思一つの」 オペレーターは住所を確認し、通報者の名前をたずねた。彼女の目の前のモニター
173 痕跡 ( 上 ) ルーシーは三階のマスタースイートで寝るのをやめ、下の階にあるずっとせまい寝 室にとじこもるようになっている。ヘンリがおそわれたときに寝ていたべッド、海が 見える豪華なスイートのまんなかの、手塗りのヘッドボードがついたあのばかでかい べッドを使わないのは、捜査上の理由からだ、と自分にいいきかせている。証拠物件 のため。彼女とルーディがいかに人念に調べたとはいえ、見逃している証拠物件がな いとはか、きらない ルーディはモデナにガソリンを入れにいった。すくなくとも、そういってキッチン のカウンターからキーをとっていった。でもほかに目的があるらしい。きっと街を走 りまわっているのだろう。だれがあとをつけてくるか見ようと思っているのだ。とい っても、正気の人間ならだれも、ルーディのようなたくましい大男のあとをつけよう とは思わないだろうが。しかしあの目、いまやふたつの目を描いたケダモノは、街の どこかにいるのだ。彼は見ている。この家を。おそらくへンリがいないことに気づか ず、あいかわらず家と二台のフェラーリを見張っているだろう。いまこの瞬間にも、
120 知ったことじゃないわ」 べントンにはわかった。ヘンリが事実をいっているとすれば、ローションは犯行と は無関係なのだろう。ルーシーのことを考えた。ルーシーをかわいそうに思うと同時 に、怒りもおぼえる。 「全部話して。あたしに何がおこったのか。あなたが考えてるとおりに。そうしたら あたしかそ一つ、とか、ちかうと力いうから」へンリはそういってほほえんだ。 「ルーシーが家に帰ってきた」と、べントンはいった。これはすでに知られている情 報だ。あまり早い時期にいろいろなことをあかしてしまわないように気をつけなけれ ばならない。「正午をすこしすぎていた。玄関の鍵をあけると、すぐにアラームがセ ットされていないことに気づいた。きみを呼んだけど、返事がなかった。そのとき庭 のプールへ通じる裏口の戸が、戸止めにばたんとぶつかる音がしたので、そっちへ向 かって走った。キッチンへはいると、プールと防潮壁へ通じる戸があけはなたれてい ヘンリは目を見開いて、ふたたびべントンのうしろの窓の外を見つめた。「彼を殺 せばよかったのに」 「そいつの姿は見えなかったんだ。ルーシーが黒いフェラーリで私道にはいってくる