さとうゆうすけ ー 1974 年、秋田県 生まれ。東京大学文学部卒業後、フ リージャーナリストに。 2007 年、家 業である新政酒造に入社。 12 年、社 長に就任。
金「卞拓東京大学史料編纂所准教授 北条氏に身を寄せたあと、天正三年頃には、かっての仇敵・ 家康を頼って、その居城・浜松にあったらしい。 ◎天正三年、東と西の旅人 いまひとりの島津家久 ( 一五四七 5 八七 ) は、薩摩・大隅 たかひさ に勢力をおよぼした戦国大名・島津貴久の四男として生まれ 天正三年 ( 一五七五 ) といえば、五月に有名な長篠の戦い よしひさ ている。天正三年当時の島津家当主は兄義久である。彼は当 があり、そこで武田勝頼の軍勢を撃破した織田信長が、その 後一気に天下人への階段を駆け上ってゆくことになる節目の主の弟として、東シナ海に面した薩摩国中部の港町串木野 ( 現 年であった。この年、東と西から、歴史上ある程度名の知ら鹿児島県いちき串木野市 ) を領していた。 ものもうで 氏真は「物詣の志ありてー正月十三日に遠江 ( 浜松か ) を れたふたりの武将が相次いで上洛し、それぞれ旅の記録を残 している。 出発、おもに東海道を通っておそらくその月のうちに人京し、 うじざね 四月二十一二日まで、およそ三カ月のあいだ京都に滞在した。 ふたりとは、今川氏真と島津家久。今川氏真 ( 一五三八— あたどやま するがとおとうみ いつぼう家久は「大神宮・愛宕山その外諸仏諸神参詣を遂ぐ 一六一四 ) は駿河・遠江の戦国大名・今川義元の子である。 おけはざま べきためー二月二十日に串木野を出発、陸路と海路を用い、 彼は父義元が永禄三年 ( 一五六〇 ) 、桶狭間の戦いで信長に いつくしま 討たれたあと、今川家の家督を嗣ぐものの、同十一年に武田途中厳島に参詣するなど、ゆるゆると旅しながら四月二十日 信玄と徳川家康により領国を逐われ、一時正室の実家であるに入京、途中伊勢神宮や奈良への下向を挟み、六月八日まで もてなし の戦国史 お いえひさ っ くしきの
日本の妖怪に愛嬌があるのは、水木しげるさんの漫画の影 響もあるかもしれない。 「砂かけ婆ーも、要するに砂を投げてくる困ったお年寄り なので、お洒落してる時は迷惑だが逃げれば済みそうだ。「子 泣き爺」も、彼は道端で赤ん坊の振りをして泣き、可哀想に 思った人に抱かれると石のように重くなる ( ちょっとたちが 悪いが ) のだから、重くなったらそっと地面に置いて帰れば よい。「ぬりかべーも基本的には邪魔なだけである。 昔の日本の夜は現代のように外灯もなく、開いてるお店も なく、今より遥かに暗かった。闇は人の想像力をかき立てる。 恐らく、妖怪のイメージも豊饒だったろう。 なかむらふみのり 1977 年、愛知県生まれ。福島大学 卒業。 2005 年「土の中の子供」で 芥川賞受賞。 10 年「掏摸 ( スリ ) 」 で大江健三郎賞、 1 4 年米でディ ビッド・グーディス賞を受賞。最 新刊「私の消滅」。
NO. キャラクきつず あさだまさし 979 年、三重県 生まれ。 2009 年、「浅田家』で木村 伊兵衛写真賞受賞。「家族写真は 「」である。」ほか著書多数。
今月のゲスト 宮内庁楽部楽長 多忠 , 輝 おおのただあきい 95 年、東京都生まれ。神武天 皇の皇子を祖に持っと れ、楽家の中でも最古の 多家 38 代当主。 9 歳から 父・多忠麿氏に雅楽の手 ほどきを受ける。 81 年 宮内庁楽部楽師となり、 宮内庁楽部楽長補を経 、 2014 年宮内庁楽部楽長 に就任。今上天皇即位 礼など重要な儀式に携わ りながら、楽生の指導ーも取り組む。歌・鳳笙・琵 ( がくそ ) 代表。 琶・右舞を担当。東京楽
本の理由はわからずに戦っているのだ。 もちろん、諸大名それぞれに戦わねばならぬ理由はある。 たとえば当初から東軍の主戦力である赤松家にとっては、今回の大乱は願ってもない機会だっ 赤松家は、三十年ほど前に当主の満祐が当時の将軍足利義教を謀殺したため、幕府の軍勢に攻 め滅ぼされていた。そのとき幕府勢の中心として赤松家を攻めたのが宗全で、その褒賞として赤 松家の領国だった播磨、備前、美作が山名家に下されていた。 そののち赤松家は、長年にわたってお家復興を幕府にはたらきかけ、少し前にようやく赦免さ れて加賀半国の領地を得ていた。だが旧領の播磨など三カ国は山名家が押さえているため、手が 出せない。 そこにこの大乱が起こったのである。赤松家は京で宗全を倒そうと奮戦する一方、旧領の播磨 など三カ国でも兵を起こし、山名勢を追い払おうとしている。 いや、大名の事情ばかりではない。将軍家でも義政の意向で、弟の義視に将軍位を継がせよう よしひさ としていたところに実子の義尚が生まれたため、家督争いが起きている。 いせさだちか この乱が起きる前年に、義尚を後見している伊勢貞親が、義視を追い落とそうとして義視を支 援する勝元の怒りをかい、逆に京から追われるという騒ぎがあった。このときは貞親に一味して きけいしんずい かみいけほういん いた義政の側近、李瓊真蘂や医師の上池法印なども同時に逃走している。 宗全は義尚の母富子の頼みで義尚を後押ししていたが、正直な話、どちらが将軍になってもか まわないと思っていた。肝心なのは、自分の手駒になってくれるかどうかだ。 だから当初は義尚を後押ししていたが、途中からそうもしていられなくなった。 こ 0 みつすけ よしみ いわいみよじー 1958 年生まれ。 96 年、デビュー作 の「一所懸命」で小説現代新人賞受賞。以降 2003 年 「月ノ浦惣庄公事置書」で松本清張賞、 14 年「異国合 戦蒙古襲来異聞』で本屋が選ぶ時代小説大賞ほか受 賞多数。近著は「太閤の巨いなる遺命」。
お返事 先生の 葉書褪せたり 油蝉 あ 紗希 こい・ 東直子様へ 夕暮の歌は、日差しを油にたとえていますが、高浜虚子は 「やり羽子や油のやうな京言葉ーという俳句で、京言葉を油 でたとえています。日差しも、京言葉も、形のない触れられ ないものですが、油という実体のあるものになぞらえると、 粘っこく身にまとわりついてくるような感覚をおぼえます。 夏の季語にも、油を比喩的に使った、三大「油〇〇」があ ります。一つめは「油照」。うす曇りで風のない、蒸し暑い 天候を指す季語です。「あぶらでり」と濁音たつぶりの言葉 を口に出すだけで、じっとりと脂汗が滲んできそう。二つめ あぶらぜみ は「油蝿」。ジジジジ : : : という声が揚げ物の音に似ている のでその名がついたといわれますが、焦げ茶色の翅や体も、 まるで油でカリッと揚げたよう。愛媛の実家の庭は夏になる と油蝿の帝国で、朝は彼らの合唱で目覚まし要らずでした。 三つめは「油虫」。といっても俳句の油虫は、雛菊の茎に群 がる小さなアリマキではなく、台所に出るあの嫌われ者 : ・ そう、ゴキブリです。その名から、油を塗ったように照る翅 を、いやでも生々しく思うから、言葉はときどき暴力です。 水に浮く油は水を出てゆかず窓のすべてかタ焼 け・ている 神野紗希より はね こうのさき」 1983 年、愛媛県生まれ。 - 俳句甲子園を きっかけに 16 歳で俳句を始める。 2002 年、初期句集「星 の地図」刊行。 04 年 &IO 年、 NHK8S 「俳句主国」番組司 。句集に「光まみれの蜂 1 がある。、
歌人から俳人へ 神東 野 紗直 希子 「油」 で一句詠んでください。 俳歌 人人 この連載は、東さんと神野さんが互いにお題を出し合って、 それぞれ短歌と俳句で返事をする往復書簡です。 神野紗希様へ 前田夕暮に「向日葵は金の油を身に浴びてゆらりと高し日 のちひささよーという短歌があり、八月の強い日差しを感じ ると、油が降ってくるように思えてしまうのです。「金の」 がつくと妙においしそうなんですが。 ごま油 - っすくまといし焼き茄子のむらさき しずかまた会えましたね ゅうぐれ ひまはり 東直子より ひがしなおこ ー 1963 年、広島県生まれ。 96 年「草かん むりの訪問者」で第 7 回歌壇賞受賞。歌集ーゴ東直子集」 「十階」、工ッセイ集に「七つ空、ニつ水』ほか著書多数。本 年、小説「いとの森の家」で第 31 回坪田譲治文学賞受賞。 挿画 = 東直子一 92
なごみ 昭和年 5 月日第三種郵便物承認 平成囲年 8 月 1 日発行 ( 毎月 1 回 1 日発行 ) 通巻 440 号 2 016 茶のある くらし 特集 料紙のきらめき 小特集夏着物の合わせかた 連載草刈民代「舞おどりの流儀」 ゲスト・多忠輝 ( 雅楽 ) 東直子 x 神野紗希 「歌句歌句往復書簡」 160969634
かな料紙のこれから 【対談】 佑 ) こむろひさし臼 962 年、茨城 県生まれ。祖父・徳氏が創業した 「小室かな料紙工房」の 3 代目。料 紙制作のかたわら、メディアや講 演会を通して、かな料紙の魅力を 伝える活動を積極的に行う。 祖父の代からかな料紙を作り続けている 小室かな料紙工房 ( 8 頁 ) の小室久さんと、 料紙の美しさに魅了され、独学で古筆料紙を学びながら 新しい表現方法を模索する装飾料紙鑑屋の木村詩織さん。 すべての制作工程を一人で手がけているおニ人に、 料紙制作の舞台裏や、かな料紙の今後について聞いた。 ( 左 ) きむらしおり臼 986 年、東京都 生まれ。「装飾料紙鑑屋」代表。女子 美術大学日本画専攻卒業後、かな料 紙専門店に勤務し、 2013 年独立。料 紙加工技術を生かした襖・壁紙の装 飾、家具制作なども手がける。 おニ人が料紙を 作り始めたきっかけは ? 小室私は親から料紙の技法を教わるほか に、浮世絵版画の摺り師の師匠のもとで木版 の技術を教わったことがあって、それがこの 仕事を始める入り口だったように思います。 木村私は大学卒業後にかな料紙の専門店で アルバイトを始めたことがきっかけです。作 業を手伝ううちに、古筆と料紙の魅力にのめ り込んでしまって、次第に「作ってみたい」 と田 5 うようになりました。 小室木村さんとは何度かお会いしてお話 したことがあるんですが、親の跡を継いだ かがみや