顔 - みる会図書館


検索対象: 小説トリッパー 2014年冬季号
378件見つかりました。

1. 小説トリッパー 2014年冬季号

さすがに大石は見る目があるのかもしれない。 は、その証言を頼りに、男が逃げた方向にる住宅を片っ端か 「はい。 そりや、近所で人が殺されたなんて聞かされりや、驚ら当たってゆくことになった。 さなか くのは普通ですが : 、あいつはむしろ、焦ったような感じが その最中、もしかしたら当たりを引いたかもしれない。 せいえいそう しました。なんだか、最初つから自分たちを警戒していたよう 現場から八〇〇メートルほど離れた場所 , ある「清栄荘 , と にも見えましたし」 いうアパ 1 トに住むその男は、こちらが警だと名乗ると妙に 見立ても一丁前だ 構えるような態度を見せ、昨夜の事件のこを聞くと、明らか うろた 「そうだな。ありや、なんかやましいことのあるやつの顔だな」 に狼狽えた。そして、一七〇センチの羽住・見上げるほど背が よく「刑事の勘」などと言うが、それは長年多くの犯罪者を高かった。男は昨夜は夜の一一時には寝てまっていたと言っ 相手にすることで身につく経験則だということを羽住は知って ていたが、それを証明する者はない。 いた。一課で一〇年以上も揉まれた羽住は、相手の心が読める 「ただ 羽住は男のことを頭に思い浮べながら、言葉を とまでは言わないが、何か隠し事があるかないかくらいは、顔継いだ。「あいつがホシだとしたら、調べり、絶対に何か出て を見れば分かるという自信があった。 くるはずだ。とりあえず、帰ったら報告だ 今、話を聞いたあの男はきっと何か隠している。 「はい ! 」 「もしかして、あいつが : : : 」 そう、きっと何か出てくる。 はや ふかさわゆういち 逸る気持ちが顔に出ている若い刑事を、羽住は諭した。 深澤有一、二七歳。町内の板金工場で働ているというが、 「焦るな。まだ、決め手が出てきたわけじゃねえ」 今はまだ裏は取れていない。背が高いだけ、なくガタイもよく、 夕方、別の班が行った聞き込みで、現場の近所に住む女子中黒目がちの目の奥には、なんとも言えない、んだ光があった。 学生が犯人らしき男が走って逃げるのを見ていたという証言が コンビの刑事には「まだ」と言いつつ、【住の勘は、確信に 得られていた。背の高い男だったという。 近い感触を捕らえていた。 捜査会議に参加せず聞き込みを続けることになった羽住たち あの男に違いない、と。 ( 第一回了 ) さと 89 断罪の果実

2. 小説トリッパー 2014年冬季号

記者たちが清原の顔を一斉に見た。若い広報部員は隣の年配通りを歩き始めた。 の広報部員を振り向いた。年配の広報部員は、一瞬、渋面になっ 足が重いような感覚がする。誰かにつけられているようだ。 しつも警戒心を怠らない。そうしないといっ 社会部記者は、、 なん時、自分が被害者になりかねないようなネタを追いかけて 「ミズナミフィナンシャルグループは、九七年に総会屋事件を いるからだ。だから普段から背後には気を配る癖がついている。 起こしていますね。それに原因があるってことは考えられませ んか ? その感覚にヒットした。 清原は振りかえらすわずかに足を速めた。すると背後の気配 清原はたたみかけた。今度は、記者たちが年配の広報部員に も同じように動きが速くなった。 一斉に視線を集めた。 間違いない。俺をつけている。 「それに関しても全く分かりません。それから訂正ですが、総 目指す喫茶店が見えた。清原は、ふいに立ち止まり、背後を 会屋事件は、大洋産業銀行の事件ですので : : : 」 振りか、んった。 年配の広報部員は、これ以上ないほど顔をしかめている。 「あっ」 記者会見の予定はないのかと訊く記者もいたが、全くないと あっさりと否定されて記者レクは終わった。レクチャ 1 と言っ 思わず声を挙げた。 清原の目に入ったのは、先ほど記者レクをしていた二人の広 ても内容は何もない。 報部員の内、年配の男だ。 「こんなものだな」 なぜあの男がいるのだ。 清原は呟いた。自分の足で内容を補足しなくてはならないが、 男は清原の驚く顔を楽しむかのように薄く笑みを浮かべ立ち それが社会部記者の仕事だと割り切った。ところで総会屋事件 と訊いた時は、随分と渋い表情になったが、あれは過去をほじ止まった。そして小さく頭を下げると、再びゆっくりと近づい 日 くり返されるという嫌悪感なのか、なんらかの核心を衝いたカてくる。 し らなのか : 清原はその笑みにぞっとするような冷たさを感じて、その場融 にじっと立ちつくしていた。 二人の広報部員が急ぎ足で帰って行く。追いかける記者がい 行 銀 るが、たいした数ではない。 大 巨 清原も記者クラブから外に出た。記者クラブなどという閉鎖 空間で発表記事を書いているなんて自分には出来ない。 抗 清原はコ 1 ヒ 1 でも飲みながら原稿をまとめようと、日銀ク ラブから少し離れた場所にある喫茶店に向かってビルの谷間の ニ 0 一三年六月一一十七日 ( 木 ) 午後五時〇〇分 ( 八神専用車内 ) 「山村がいろいろ動いているようだな」 やまむら 4

3. 小説トリッパー 2014年冬季号

り、という顔で訪ねてくる。 宿とは真逆の方角にある。それでもニ 1 ノは毎朝カルメンを迎 えに行き、毎タ送って帰る。 「日本からのお客さんだなんて ! 今晩はぜひ、うちへお泊ま おはよ、つ。あり・かと、つ。 りくださいな」 彼女の気怠い掠れ声を聞くだけで、ニ 1 ′は十分に幸せなの 母親は何も気がっかない ふと見ると、カルメンもリリア 1 ナも、少し退屈したような だ。不要に後を追いかけ回したりしない。小し離れて、いる。 拗ねたような、いつもの顔に戻っている。 ふとカルメンが沈んだ顔で考えごとをしていると、いつのまに かニ 1 ノが手の届くところにそっといる。 ローマでもなければ、ナポリでもない。都市でもないが寒村 でもない。どうでもよい風景が広がる、個性のない町。 ニ 1 ノは高校を出てから地方公務員として働いていたが、中 似たような小さな町が、ティレニア海とアドリア海を結ぶ道国語を学びたくて大学に入り直した。社会人だったのは二、三 年だったが、 実年齢よりもずっと年長に見えた。 中に連なっている。 学生といえばジーンズの時代に、彼はいつもスラックスなの 商いの道、侵略の道、宗教の道。 だった。中央の折り目にはプレスが利いていて、生真面目な彼 人や物資、文化や策略が運ばれていく経路にある小さな町に は、歴史の胎動を下から支えて得た、財と知恵がある。中核かそのものだ。 e シャツ姿を見たことがない。暑い日も、長袖の らは外れ、頂点に立っ機をついぞ得ることはなかったが、それ綿シャツである。地味な黒ぶちの眼鏡。丁寧に切り揃えた、鼻 ゆえに地に墜とされる危険や屈辱も知らずにきた。中庸の暮ら下の髭。 しは、細々と、しかし綿々と強かに続いているのである。 そして何より、ごく短髪の頭。二分刈りにしても、頭のてつ 不自由のないカルメンが退屈しているのは、そういう町で生 ペんが薄くなっているのはよくわかった。 きていくには傍流であり続けるのが得策であり、変えられない ニーノは、自分が老けて見え、他の学生とは異質な存在であ ることをよく自覚しているよ、つだった。 運命、と承知しているからかもしれない。 初めて彼と会ったとき、てつきり保護者か大学の関係者と勘 ニ 1 ノは、そういうカルメンのファンの一人である。 違いして敬語で話しかけた私に、 東洋語学科の同級生。毎朝ニーノはカルメンを下宿まで迎え 「僕、君と同じ学年なんだからさ」 に行き、階下で待ち、降りてくるとすぐ、辞書や教科書が詰まっ ニ 1 ノは照れて、自己紹介したものだった。 た彼女の鞄を持ってやり、肩を並べて登校する。ニ 1 ノの家は カルメン宅へ行った翌週、ニ 1 ノは自宅へ私を招待してくれ 郊外へ抜ける途中の住宅街にあり、大学を挟んでカルメンの下 したた 97 イタリアからイタリアへ

4. 小説トリッパー 2014年冬季号

フレンドにわざとらしくしがみついたまま、膨れつ面である 「日本人のお客と話すのは、初めてなんです」 を皮切りに、自分がどれほど日本に憧れているか、日本製ハ カルメンは、ナポリとロ 1 マのちょうどん中あたりに位置 イクはすばらしい、ゲイシャに会ってみたい、休暇無しで働い するこの町で生まれ育った。父親は、国立院の外科医だ。一 て辛くないのか、シンカンセンは凄いらしいね、と止まらない 最初のうちは問われるごとに返事をしていたが、そのうち車帯にただ一つの病院という。地元の名士だう。 じようぜっ 掌の饒舌に閉ロした。洗面所に立っふりをして立ち上がりかけ 「母は、勤めたことがないの。ボランティ活動に熱心で、料 ると、 理教室や合唱クラブ、テニスサークルにも、ってる」 駅前からしばらく郊外へ向かって走り、が停まったのは、 「あと四、五分もすれば着きますよ」 家に向かってゆるやかな坂が延びている門前だった。 車掌は笑顔で言い、心底ほっとした顔で息をついた。 1 の草むら。広がり、ところど 手入れの行き届いたクロー 「いやあ、がら空きの車両に一人きりだなんて、もしものこと ころに植わった果樹の実や花が柔らかな緑映えて美しい。ゅ があってはいけませんからね とりに満ちた一家の様子が見てとれる。 思いつく限りの話題を並べ、私が目的の駅に着くまで一人き りにならないよう間をつなぎ、必死で相手をしてくれたのだっ 知人の婚儀に泊まりがけで出かけていて、両親は不在である。 留守の間に姉妹は友人を呼んでパ 1 ティを開く、という。 総勢百人を超えるらしい。 カルメンは自室を私に貸して、自分は両の寝室を使うと言っ 「ありがたいのか迷惑なのか、よくわからない話ねえ」 車中での親切について話すと、カルメンは大笑いした。 私は鞄を片付けてから、両親の部屋にカメンを訪ねると、 車で迎えに来てくれた男性については、「カレ」とだけ、紹介 ダブルべッドの掛布の下から、姉妹が揃っ慌てて顔を出した。 される。車には、見知らぬ女の子も乗っている。後部座席から、 そして掛布が大きく揺らいだかと思うと、一人の間からカルメ 運転席の彼の首に両手を回し、ふざけて甘い声を上げている。 ンのボーイフレンドも頭を出したので、私仰天した。 まだ慣れないのだろう。濃い化粧が浮いて、面立ちの幼さがいっ 姉妹とも、レースの下着姿である。ボ 1 フレンドも上半身 そう目立っている。 いい加減にしなさい、とカルメンはその女の子を叱りつける裸だ。 と、 1 ティ 1 で夜更かしするから、今のうに昼寝をしておく 「妹のリリア 1 ナ。たったの十五歳、まだ高校生よ」 しやく 丿リア 1 ナはそう言いながら、姉のポ 1 フレンドの胸に顔 アナは姉のポーイ 子供扱いされるのが癪なのだろう、リリ 1 、」 0 95 イタリアからイタリアへ

5. 小説トリッパー 2014年冬季号

なかった。彼女には最初から、音楽で思考するという、夾雑物 雄介はにやにや笑いながら、隣に座って、すすの手を握った。 力なかった。 音楽なんか聴いていない様子だった。ずっとにやにやしながら、 彼女は音楽に浮かび上がる、小さくてばんやりとした無数のすずの顔を見つめていた。 光を眺めていた。なんだろうとも考えず、ただ、綺麗だな、と お前は、馬鹿だなあ。雄介はいった。俺なんかと一緒になっ 楽しく思っただけだった。光は舞台のあちこちから現れて、ホ 1 て。苦労して。 ルに広がっていった。すずの近くに寄ってくる光もあった。 ほんとにね。すずはいった。ゅーちゃんじゃなかったら、今 番前の席に男が座っていた。後ろ姿しか見えないのに、男頃お屋敷に住んで、オ 1 ケストラを家に呼んで、ステ 1 キを食 が音楽を堪能して、微笑しているのが、すずにはよく判った。 べながら、若いツバメと聴いていたかもしれない。 ばんやりした光が、登米の自然公園に飛び交っていた蛍である そんなの、まっぴら御免ですよ。ゅーちゃんと一緒にならな ゅうすけ ことも、最前列の男が川喜田雄介であるのも、彼女にはごく自 かったら、あの子たちはこの世にいなかった。ここにも来られ 然なことだった。 なかった。苦労したのは、ゆ 1 ちゃんの方じゃないですか お父さん、すずはいった。どうせなら、ここ来て一緒に聴き 雄介はにやにや笑っているだけで、答えなかった。 ましよ、つ。 まあいいでしよ。すずはいった。せつかく来たんだから、ゆっ お父さんなんて呼ぶなよ。雄介はそっと振り返って、照れた くりしていらっしゃい。今夜はうちに泊まっていけば。 ような笑顔を見せた。子供ら、今、いないんじゃないか。昔み ゃなこった。雄介はいった。俺はクラシックは苦手だよ。 たいに呼んでくれよ。 そういいながらも雄介は足を組んで立ち上がる様子を見せず、 こっちにいらっしゃい。すずは顔を赤らめて、そっと呼びかすずの手も離さなかった。 けた。ゅ 1 ちゃん。 ( 第五回了 ) とめ 藤谷治 302

6. 小説トリッパー 2014年冬季号

処理することという不文律があったからだ。その考えは経営統とにつきましては大変に申し訳なく思っています。どんな処分 合後も引き継がれている。 もお受けいたします。お二人が、反社の実態の報告をお受けに 「なにが世間の常識ですか ? 何をおっしやりたいのですか なっていなかったことは間違いありません。金融庁には虚偽報江 告をしてはおりません」 私に北沢殺しの責任があるとでもいうのですか」 大塚は憤慨して椅子から立ち上がった。 倉品は冷静に言った。 倉品は、珍しいものでも見るように大塚を見つめていた。大 「誰かが、私たちを追い落とそうと、以前から報告を受け反社 塚が、藤沼にこれだけ険しい表情で反論するのは初めて見たかの実態を知っていたという嘘の話を流布しているのではないの らだ。 「そういう意味で言ったのではありません。失礼しました。で 大塚は倉品に聞いた。 パシフィコ・クレジッ は大塚さんも反社の実態の報告を受けていないとすると、この 「誰が、そんなことを話すのですか ? 記者は間違っているということになりますね トのことに関心を持つ人などいるのですか」 「当たり前です。まあ、報告を受けなかったことは問題だと認 藤沼が眉根を寄せた。 識していますが : : : 」 「一人、思い浮かびますー 大塚は、荒い息を抑えながら椅子に座りなおした。 倉品は呟くよ、つに一言った。 「誰だ ? 「それでは冷静に考えましようか。ねえ、倉品君。 藤沼が立ち上がった。 大塚が倉品に身を寄せた。 「はい」 「八神元頭取です。 「八神さん」 倉品が、藤沼を見上げた。 大塚と藤沼が、同時に言い、顔を見合わせた。 「金融庁は、私たちが何も報告を受けていないということを納 得して、検査を終えたのだろう ? 処分は来るだろうが、知っ 「八神さんは、パシフィコ・クレジットの反社融資のことを、 早く処理しろと我々に執拗に指示されておられましたから」 た上で何もしなかったよりは、マシだ。そう言ったのは君だよ。 私たちは決して金融庁に嘘の報告をしていないぞ , 倉品は、八神と、もう一人の人物の顔を思い浮かべていた。 大塚は、倉品に腹立たしげな乱暴な口調で言った。 それは橋沼康平だった。 ( 第三回了 ) あいつなら : 「その通りです。私どもが反社の報告を失念しておりましたこ

7. 小説トリッパー 2014年冬季号

「大学にも、会社にも行ってません。一日中、電車に引きこもっ 「また、きみに逢うには、どうしたらいい ? て本を読んでいるんですー 「電車に乗ってれば、そのうちに逢うんじゃないですかね。こ 「引きこもり ? 電車に ? それって引きこもりなの ? よくの世から本がなくなったら、電車には乗ってないでしようけど わからないけど、つまりきみは、僕とおなじでニ 1 トだったんね」 じゃないか ! 」 「じゃあ、だいじようぶだ。しばらくは本もなくならないだろ 「そうですね。ニ 1 トといえば、ニ 1 トですけど、私はまだ大う。それに、一生かかっても読破できないくらいたくさんの物 語が、毎日、この世のどこかで書かれているんだ」 丈夫なほうのニ 1 トです」 「ニ 1 トにそんなのあるの ? 初耳だよ ! 」 仕事になれて、要領がよくなったら、また書き始めよう。 彼女は立ち止まって、勝ち誇ったように笑みをうかべる。 ほんとうは死ぬつもりだった。父がそうしたように。 「高校生なんです。登校拒否です。まだ若いので、やりなおし あの日、地下鉄の駅のホ 1 ムから、快速電車の前に飛びこん はきくとおもいます。だから、だいじようぶな部類のニ 1 トな で、死ぬつもりだった。僕はすっとだまっていたけど、彼女に 出会ったのは、そういう日だったのだ。 んです。両親はお金持ちですし」 「なんで今、勝ち誇ったような顔をしたの ? きみは勝ってな 「正直、告白されたのは、はじめてだったんですが、気分はわ るくありませんでしたねー それにしても、まだ高校生だったのか。大人びた顔をしてい 少女はそう言って改札を抜けた。 東京で暮らす大勢の人の流れが左右からおしよせて彼女をの たし、身長も高いので、二十代だとおもいこんでいた。高校生 というと、まだ少女と呼んでもかまわないような年齢じゃない みこみ、その姿が見えなくなった。人がまばらになったときに はもう、少女はいなかった。 「まだ私、未成年ですから、結婚とか言われても、びんときま 僕はすこしだけその場にとどまり、景色をながめてから、ホ 1 せんね。もしかして、犯罪になるんじゃないですか ? 死刑に ムへの階段をあがった。 なってください」 本作は二〇一〇年十一月、自費出版のファンジン「 U-caféオッイチ特集号」に掲載されたものに、 僕がすっかりうろたえていると、彼女は鞄からカ 1 ドケース 作者が加筆訂正を施したものです。 をとりだした。改札はすぐ目の前だ。大勢の人が周囲を行き交っ て騒々しい。僕は問いかける。 19 電車のなかで逢いましよう

8. 小説トリッパー 2014年冬季号

車掌を呼びますよ」 ほどの変態じゃないってことを確認できてから結婚ですよね : ・ 彼女が言った 9 「すみません」 電車の扉が閉まる直前、彼女は立ち上がり、風がふくみたい 「そもそも、あなたは、初対面の人に結婚を申し込む前に、や に、するりと扉の隙間をぬけていった。僕はいそいで追いかけ るべきことがあるんじゃないですか。たとえば、就職活動とか、 ようとしたのだが、目の前で扉が閉じてしま、 しハチンと顔を 整形とか」 打ってしま、つ。 「たしかにその通りです。僕がイケメンだったら、あなたもきっ 彼女はホームに立って、僕のほうをふりかえっていた。立ち と結婚を承諾してくれたでしよう」 姿も神々しい。長身で、手足がすらりとほそながく、腰にくび 「それはありませんから . れがあった。はじめのうち彼女は、勝ち誇ったような表情をう 「僕はいったい、なにをすればいいというのですか」 かべていたのだが、 途中でなぜカノ 、、、ツとしたような顔になる。 「働いてください」 電車がゆっくりとすすみはじめて、彼女は遠ざかり、線路の 「働き先が見つからないんです。春に大学を卒業して以来、自むこうに見えなくなった。電車内をふりかえると、乗客全員が 宅でゲ 1 ム実況動画をながめるだけの日々なんです。ニコニコ いっせいに僕から目をそらす。しんとしずまりかえっていたが、 動画にコメントを流し込む日々なんです」 大勢はふくみわらいをして、はやくだれかと、この一連のコン 「よくわからないけど、とにかくあなたが人間のクズだってこ トについて話しあいたいという様子だった。 とはなんとなくわかりました」 ランドセルを背負った小学生が、僕にむかって、なにか意味 電車が地下鉄のホ 1 ムに停車して、扉が開いた。数人の乗客ありげな視線をおくっていた。少年は電車の床を指さしている。 が降りていく。 さきほどの女性が、ホームでハッとした表情をしたのは、どう 「そもそも、いきなり結婚のプロポーズはないんじゃないですやらこれが理由だったらしい。彼女が膝の上にのせて、角のと か ? みなさんも、そ、つおもいますよね ? 」 ころをほっそりした指先でもてあそんでいた文庫本が、今は電 彼女が周囲の乗客に意見をもとめると、半数ほどは関わり合車の床に落ちていたのである。 いになりたくなさそうに、うつむいて床を見ている。のこりの 半数ほどは、かるくうなずいていた。 「そ、そうですよね。結婚って、 ードルたかいですよね。だ、 だって、婚姻ってわけですもんね。僕がまちがっていました。 小説の執筆をやめようと決めた。 普通は、何年間かっきあって、同棲期間をもうけて、相手がよっ 僕には才能というものかないのだ。 乙一 10

9. 小説トリッパー 2014年冬季号

たようにはしゃいでいるのではないか。 「このプログラムは女子のためのものだから、男子たちは終わ るまでそこで静かに待っててよー 陰山さんはつづけた。 男の子たちは恥すかしそうに頭をかきむしり、急にしゅんと 「のんびりと村の人たちと接して仲良くなって、いろんなこと を知ってもらうのが、この国には合っているのかなって思ってする。女の子たちはそんな彼らが怒られるのを見てわざと大き な声で笑った。 るんです。 私は陰山さんに言った。 女性たちのはしゃぐ顔を見ていると、その言葉の意味がわか 「治安の悪い都会では、あんまり見られない光景ですね。でも、 るような気がした。外国人がいきなりやってきて何かを押しつ こういう光景が都会でも広がったら、いろんなことが変わりそ けてもうまくいくとは限らない。それより現地の人たちに楽し うな気がします」 んで興味を持ってもらいながら知ってもらうことが一番なのだ。 「そうですね。少しずつでも、そういうふうになればいいです そもそもお産や育児というのは、そういうゆとりのなかで行わ ねー れるものではなかったろうか 私は研修会の光景を見ながら、陰山さんたちの活動は、そう その時、ふと保健所の周りに若い男の子たちが五、六人集まっ した機会を少しずつ広めるきっかけにもなっているのではない ているのが見えた。中学生から高校生ぐらいだ。自転車を道に 投げ出して金網の柵の向こうから中をのぞいている。出産・育かと思った。今は地方での活動に過ぎないが、お産を通じて人 と人とを結び付ける活動が広がれば、きっと都市部にも良い影 児のプログラムが開かれているのを聞きつけて見物に来たにち 響を及ばすだろう。 力いない 男の子たちは静かにしつつも、今度は懐から小さな鏡を出し 最初彼らはおとなしく眺めていたが、話が少しきわどい方向 て太陽に反射させて女の子の顔を照らしはじめた。性懲りもな へいくと、ロ笛を鳴らしてからかう。まるで女子高をのぞきに く気を引こうとしているのだ。女の子たちもすぐに気がついて きた男子高生のようだ。きっと好きな女の子がいるのだろう。 くすくすと笑ったり、「やめてよー」と言ったりしている。 彼女たちも男の子を意識して小さな声で何かを囁き合って笑っ きっと研修会が終わったら、みんなで仲良く帰るのだろう、 ている。はにかむ表情は嬉しそうだ。 ( 第四話了 ) と私は思った。 スタッフがはやし立てる男の子たちに向かって言った。 225 世界の産声に耳を澄ます

10. 小説トリッパー 2014年冬季号

屋敷は屋根の庇近くまでもある高い板塀ですっかり囲まれて いる。オープン当初からではなく、休業して以来の不法侵入を 防ぐ目的で作られた塀と思えた。この高さでは外の景色が見え ない。そんな店の造りにはしない。 よほどの事情があったと衛士は睨んだ。 中に入る戸にも頑丈な鍵がつけられていた。 「若い者らのいたずらよけ。入り込んで火でも出されちや大変 だ。文化遺産だからね」 言い訳のように言いながら岡田は開けた。 真正面に両面開きの大きな扉が見えた。 衛士と徹吾は顔を見合わせた。 とても裏口とは思えない立派な構えだ。 「本当は裏口じゃなくて馬小屋に通じていた廊下だったらしい 曲り家ってやつだ。土地の関係で馬小屋は取り払った。だから 扉は新しい。新しいっても三十年も前のもんだけど。馬小屋の 建材もそのまま残してある。復元する気になりや可能だよ 違う、と衛士は思った。 そこからこちらに延びていた廊下は大浴場に通じていたもの だった。何人もの仲間たちとわいわい騒ぎながら入った記憶が ある。 いや、そんなわけはないから、この屋敷が衛士に見せてくれ た古い言憶だろうか 「どうした ? 立ち尽くす衛士に徹吾は目を向けた。 「なんか : : : 知ってる気が」 めまい 軽い目眩を覚えながら衛士は返した。 ひさし 扉の向こうには渦の気配が感じられる。 「神棚のある座敷はそのままですか ? 」 渦と同時にその部屋が頭に浮かんだのだ。 「あんた、来たことあんの」 岡田はぎよっとした。 「遠野の古民家ならどこにだって神棚が」 察して徹吾がフォロ 1 した。 そうか、と岡田は頷きつつ、 「いろいろあったみたいで神棚は塞いでる。こっちも詳しくは 知らん。それで神様が怒ったのか、変なことがときどき起きる」 「変なこと ? 徹吾は聞き返した。 「畳が全部ひっくり返されていたり、泥の足跡がついていたり さ。遠野のことだから座敷わらしの仕業だと言うやつも居る」 「座敷わらしが住み着いていれば繁盛する」 徹吾に岡田も苦笑して、 「だよな。たぶんだれかのいたずらだ」 元の顔に戻すと扉に手をかけた。 衛士は珍しく恐れに似たものを感じていた。 ここは大事な場所だ そんな気がしてならない。 奥深い鍾乳洞に踏み込んだ気にさせられた。 暗さと静けさと広がりのせいである。 ふさ 高橋克彦 380