顔 - みる会図書館


検索対象: 小説トリッパー 2014年冬季号
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1. 小説トリッパー 2014年冬季号

「愛沙 ! 」 ほとんど無意識に呼んでいた。 愛沙が振り向く。 振り向いて、大きく目を見開いた。 みゆ 「美由 : ・ 「愛沙、久しぶり あたしは微笑んだ。思いの他、すんなりと笑えた。 懐かしい。その想いがっきあげてくる。 愛沙は女の子たちに何か告げると、ゆっくりとした足取 りであたしの前まで戻ってきた。 薄らと化粧をしていた。ロゴの入ったタンクトップに短 パン、編み上げの夏用のプーツを履いている。 見違えるほど大人っほくなっていた。でも : ・ 「今日は、愛沙たちもお休みなのー かし 愛沙は首を傾げ、夏休みだからねと返事をした。声だけ は、変わっていない。あたしの耳に馴染んだ愛沙の声だ。 「美由たちは、まだ補習とかあるのー 「あ、そうじゃなくて、部活。今日、休み ? A つほ、つ 東峰は吹奏楽の名門校だ。全国大会の常連校でもある。 桜蘭より、ずっと厳しい練習が続いているとばかり思って 「あ、あたし辞めたから」 表情をまったく変えず、愛沙が告げる。 「え ? 辞めた : : : 」 あたしはどんな顔つきになっていたのだろう、愛沙が苦 笑する。 「何よ、その顔。はは、美由は相変わらず顔に出ちゃうん だね」 「で、でも。愛沙が吹奏楽、辞めるなんて : : : 」 暫くの間、おそらく十秒足らずの間、愛沙は黙っていた。 すく それから、ひょいと肩を竦めた。少し芝居がかった仕草だ 「向いてないって言われた」 「え ? 」 「あたし、ユーフォニアムには向いてないんだって。てい うか、あたしよりずっと上手い人が、一年生にもいつばい ヾ 1 こよ入れな いて、どんなに頑張ってもレギュラ 1 メンノ。 ( いんだって、わかったの。三年生でもさ、一度も舞台に立 てない部員がけっこういてね。そ 1 いうの、嫌だし 何と答えていいかわからない。 あたしは愛沙を見詰めたまま、何も言えなかった。 「楽しいよ」 愛沙が笑う。苦笑ではなかった。 「吹奏楽部を辞めても、けっこう、楽しんでるから。楽し いこと、あるからね。強がりじゃなくてそれがわかったの。 じゃ、友だちが待ってるからー 会えてよかったよ、美由。 そう続けて、愛沙が背を向ける。 「愛沙」 373 アレグロ・ラガッツア

2. 小説トリッパー 2014年冬季号

康平は、視線を寺の入り口辺りに据えたまま言った。 「来ていないのか : 道理で寂しいと思ったよ」 「ほほう、元頭取ねえ 八神は、薄く笑みを浮かべた。 「行員が殺されたというのに通夜にも来ずに、どこかで宴会で 齊藤が、康平の視線の先を見た。 二人の男が、玉砂利の上を受付に向かってゆっくりと歩いてすかね。冷たいものですね」 くる。一人は、細面の顔に眼鏡をかけ、鋭い眼光は威厳を感じ 岸川が八神に媚びるように言った。 「きっとお二人ともお忙しいのでしよう。ところで君は、北沢 させる。体型もやや細身で、それが余計に鋭さを印象づけてい さんの上司かねー る。もう一人は、反対にやや太り気味の体型で、顔も幅広だ。 細い目をやたらと周囲に走らせ、落ち着きがない。 八神は、康平を見つめた。 「はい、コンプライアンス統括部で総括次長をしております橋 「あの細い方が、元頭取で、今も旧扶桑銀行グループに隠然た けいたろう 沼といいます る力を持っている八神圭太郎です。もう一人の太っている方は、 とおる 元システム担当常務の岸川徹 : : : 。同じく旧扶桑銀行です , 「なにか分かったのか ? 」 「事件についてでしようか ? 康平は、視線を動かさず、齊藤に言った。 「それ以外、何がありますか」 「二人とも扶桑銀行か : 北沢も扶桑銀行だったから、参列 したのかな」 「今のところ、何も分かりません」 齊藤が呟いた。 康平は困惑した表情を浮かべた。 「そうか : : : 。早く事件を解決できなければ、北沢さんが浮か 「そうでしようね」 ばれない 八神が、受付に近づくと、辺りの空気は急に張り詰めた。 八神は暗い表情になり、目を伏せた 康平は、八神に頭を下げた。 「北沢さんは、反社を担当していたんだろう ? 恨みを買った 八神も小さく頭を下げた。 んじゃないのか ? パシフィコ・クレジットを担当していたん 「この度は、大変なことだったね」 だって聞いたぞ . 八神は、康平を睨むように見つめると、受付に香典を渡し、 岸川が横からロを挟んだ。 記帳した。 康平の表情が強張った。 「藤沼さんや大塚さんは ? 「岸川さん、あまり憶測を口にするものじゃありません」 受付を終えた八神が康平に訊いた。 八神が言った。 「いらっしやってません」 「申し訳ありません」 康平は答えた。 187 抗争ーー・巨大銀行が溶融した日

3. 小説トリッパー 2014年冬季号

「あのさ、それ、カ入れ過ぎだよ。嫌がってるじゃん」 山狩りに出ていることは知っているでしよ。こんな大騒ぎになっ 「文句なんて言ってないじゃない たら、護れる秘密も護れなくなっちゃうよ。今回は瑛太くんと 「言えないからだよ 大河くんの作戦ミス」 やはり自分の推測した通りだった。 「ちえっ 凜は足音を殺すのをやめて五人に近づく。 大河は唇を尖らす。以前は自分を護れなかった時に曲げられ 「あっ、先生」 た唇が、今は自分以外を護れずに悔しがっていた。 最初に気づいたのは瑛太だった。その声で他の四人も一斉に 「見せて、絢音ちゃん」 こちらを向く。 凜は彼女を見下ろす場所に立つ。 「凜先生 : : : 」 「見せてくれたら、助けてあげられるかも知れないよ。それと、 「ど、つしてここに」 それからあなたたち全員を 仁希人と栞はひどく怯えた顔をした。 「 : : : 本当に ? 「もしかして俺たちを見張ってたの ? 」 「そうなるように頑張ることは約東する」 大河は不機嫌そうに睨んでいる。 絢音はおすおずと身体をこちらに向ける。 そして絢音は凜に背中を向け、それを自分の身体で覆い隠そ 少女の陰に隠れて一心不乱にエサを食べていたのは、全長五 、つとしていた。 十センチほどの黒い子グマだった。 「五人ともみ 1 つけた」 凜は努めて明るい声で語りかける。絢音を除く四人は文字通 「クマ ? その子たちはクマを飼っていたんですか」 いたすら り悪戯を見つかった子供の顔だ。どこか情けなく、そして抱き 見城会長はそう言うなり口を半開きにした。彼女だけではな 締めてやりたいほど可愛い。 。集合していた保護者会の面々は一様に呆然としていた。 「なあにしてるのかなあ ? 一連の野大騒動は子供たちによる狂言だったー園からの連 凜が近づけば近づくほど子供たちは絢音を庇うような形で集絡を受けた見城会長は急遽、臨時会議を開いたのだが、狂言を まる。この期に及んでもまだそれを護ろうとする気持ちが、凜企てた子供たちの中に自分の娘が混じっていることを知り、絶 は堪らなく誇らしい 句したものだ。 「先生、どうせ知ってるんでしょ 栞の母親、西川京子はまだ半信半疑だった。 瑛太の声はひどく切実に響いた。 「大体、クマなんてもっともっと山奥に生息しているものじゃ 「大体のことはね。でもね、あなたたち。お父さんたちが毎晩ありませんか。それがどうして、あんな住宅地の近くに」 中山七里 2

4. 小説トリッパー 2014年冬季号

「なにを寝言のようなことを。ロ 1 ダ 1 というものを、あんた 「ど、つい、つこと」 使ったことがないんだろう、だからそんなオカルトのよ、つなー .. 一 「情報が統制されているということです。いま電話した記者も 『でかさん、わたしに助けを求めてきたのはなぜです、なにが報道管制が敷かれていると言ってました。特区は治外法権なん ですかね。積年の恨みを晴らしても、なにをしても、外には漏 あったんですか』 「作業中に転んだんだ。顔を打って死ぬかと思った。言っておれないのかもしれない」 くが、ロ 1 ダ 1 は着けてなかったよ。着けてたらこんな怪我は いや、そのような私憤による犯罪事実を隠蔽するために国が しなかったさ。腫れてひどい顔になっちまってる」 取材を制限し報道管制をわざわざ敷くことはないだろう。しか 『ほんとにそれだけですか』 も対応が素早い。まるで特区内でいきなり戦争が始まったかの 「それだけって、もっと痛い目に遭ってたほうがよかった、みようではないか。 たいな口ぶりだな」 緊急時に開戦するかどうかを決めるのは首相とそのプレーン 『そうじゃありません、でかさんー』 なのだろう、なんていったかな、国家安全保障室だったか戦略 「こっちにすれば、こんなものですんでよかったと思ってるよ。 会議だったか、そういうやつ。利権が絡み合う官僚たちにとっ とにかく、すまなかった。心配させてしまったな。つい、頼っ ては既得権益が無視され頭ごなしに命じられるそうした存在は てしまった。でも、もう心配ない。それを知らせようと思った面白くないに決まっているが、そういう頑固な官僚たちを押さ だけだ。じゃあな」 えつけてなお強権を実際に発動するなどというのは、よほどの 『なにか、こちらにできることはありませんか。こんどは謝礼 緊急事態でもなければ横やりが入りまくって実現しないだろう。 金も出しますので、ぜひ取材させてください。ム 1 ンプリッジ・ いま、そ、つい、つ〈よほどのこと〉か起きているとい、つことか 単なる事件事故ではなさそうだ。なんだろう ? ゲートです、待ってますので、会いましよう』 「いまのところ」と呉は言った。「間に合ってるんで」 「やったことが漏れたから、警察が入ってきているんじゃない ? 『でかさん、ちょっと、もうちょっとだけ、わたしの話を聞い 女主人が呉の言葉を受けて、言った。 「いいえ、竹村さん」 の 呉は考えを中断し、現実に戻って首を横に振る。 電話を切る。スマホをテ 1 プルに置いて、呉は女主人に言っ 「警察はまだ来てないじゃないですか。まだ捕まえてない。捕ロ まってないでしよう」 「大変な騒ぎになっているってことが、わかりました。でもこ オ の騒ぎの様子がどこにも流れていないとしたら、そのほうが事「捕まえる気がないということかしら 件かもしれない 「かもしれないですね」

5. 小説トリッパー 2014年冬季号

「たとえば、今回の犯人である大を誰かが捕獲した場合、一定「そうですねえ」と、これは京塚が賛同する。 期間引き取るということはあるそうです。期間内に引き取り手「聞いた話じゃ、前の山狩りだって男親たちが率先して参加し が現れなければ殺処分という流れです , たらしいからな。あの時と状況は似たようなものだ」 「つまり幼稚園もしくは保護者会がその大を捕獲しなければな 「あのー らないということですか」 気になって凜は挙手した。 : なります , 「そう : 「前も同じようなことがあったんですかー 一一人のやり取りを聞きながら凜は嫌な予感を覚えた。何回か すると声を上げた男親が、思い出したような顔で笑った。 の会話で見城会長の人となりは把握している。子供のためとい 「ああ、若い先生たちは知らないか。いや、本当を一言えば俺だっ う大義名分があれば、園側にどれだけでも滅私奉公を強いる人て参加した訳じゃなくて親父から聞いたんですけどね。十五年 ここに通っていた女の子が次々に殺された事件があった 「それでは有志を募って山狩りをするしかなさそうですね」 でしよ。あの時も保護者会の有志を募って山狩りをしたんです そらきた。 よ。めでたく犯人が逮捕されたんで、親たちの働きは無駄になっ 有志といっても、彼女の頭にあるのは幼稚園の職員と保護者ちゃったけど」 会の男親だけだ。自分が野分け山分けするつもりなど毛頭ない 「でも今回は大でしよう。山野に慣れている分、手強いんじゃ に決まっている。 ないんですかねー かみじようたくや まりかや舞子が抗議の手を挙げるのではないかーそう考え 「とんでもない。人間がこの世で一番恐ろしい。上条卓也、だっ ていると、意外にも保護者会の中から声が上がった。 たか。あの連続殺人の犯人に比べたら、野良大なんて可愛いも 「自分の子供が噛まれることを思ったら、多少不慣れなこともんだよ せんといかんでしようなあ 京塚と男親は顔を見合わせて笑う。 保護者会の参加メンバーには珍しい男親の一人だった。 だが凜は到底笑う気にはなれなかった。 「山狩りするなら、男親が参加するのが筋というものだ。それ で頭数が足りないのなら、申し訳ないけど園の方から男手を借 りる。まあ、そんなところですかね。 男親の提案に見城会長は渋々といった体で頷く。保護者会が 瑛太と大河に図鑑を見せたところ、二人は襲ってきた大の品 優先的に人を出すのはいささか業腹だが、男親の方から先に言種をドーベルマンと断言した。ただし首輪をしていたかどうか い出したのでは今更撤回もできない。 までは記憶にないと言う。 中山七里 258

6. 小説トリッパー 2014年冬季号

「これだ」 いいます。少しお話をさせていただいてもよろしいでしようか ? 机に新聞を広げた。 どこか話ができる場所はありますか」と言った。 ミズナミ銀行員刺殺される 「はい」 本日、早朝六時半ごろ、自宅マンション前でミズナミ銀行に勤 織田は、審査第一部の応接に北沢を案内した。 務する北沢敏樹さん ( 四八歳 ) が、何者かによって刺殺された。 応接と言っても狭い。通路の一角をパーティションで区切っ 警視庁と高井戸署は、捜査本部を設置し、殺人事件として捜査ているだけだ。中にはソフアと小さなテープル。織田は、固い を開始した」 表情でソフアに座り、北沢と向き合った。 北沢の真面目そうな顔の写真が小さく掲載されている。 北沢は、自分の名刺をテープルの上に置いた。 織田は全身の震えが止まらない。額から汗がにじみ出てくる 「コンプラ部の方が、どういうご用件でしようか ? 」 ような気がする。 織田は訊いた。 新聞をその場に放置したまま、織田は、本店の外に飛び出し 北沢とは、初対面だ。こうやって近くで向き合うと、陰気さ てしまった。何かに突き動かされているかのように急いでいた。 かより強く伝わってくる。 そしてこの喫茶店に逃げ込むように入り、柳井に電話をかけ 「審査部ではどういうご担当をされているんですか」 たのだ。柳井は電話に出ない。織田はメッセージを送った。「北 北沢は、なにやら一般的な質問をした。 沢が死んだ。殺された。至急、会いたいーと。 「私は新宿エリアの支店を担当しています。そこから上がって 来る案件の審査です。あの : ・ 、時間がないんで、何か特別な 北沢と織田が初めて会ったのは、いつだっただろうか ? 確用があるんですか」 か二カ月前だ : ・ 織田が顔をしかめた。 北沢は突然、審査第一部に訪ねて来た。 北沢は、織田の苛立ちが分かっているに違いないが、それを 「織田健一審査役はいらっしゃいますか」 表情に表さない。 受付で言う声が耳に入った。 織田は、警戒した。この男は事情聴取に慣れているに違いな 織田は、すぐに立ち上がって、「はい、 何か ? と答えた。 受付を見ると、真面目と一言うより陰気な雰囲気を漂わせた男 コンプライアンス統括部は、行内における法令順守を担当し が、こちらを見つめていた。 ている。言わば行員に規律を守らせるセクションだ。そのセク 嫌な感じがした。 ションの人間が、訪ねて来たということは、織田に法令違反の 警戒しながら、近づくと、「コンプライアンス統括部の北沢と疑いがあるということではないのか 195 抗争ーー巨大銀行が溶融した日

7. 小説トリッパー 2014年冬季号

なる。けれど道程はまだ長い。癌はまず五年の関所がある その後にもう五年。やがて関所の警備も緩くなる。 今日は技師長の納富氏もいる。彼らの靴音がひたひたと 遠ざかる。もうライカ大は来なくなった。と思ったときそ ばに人の気配が寄って来た。眼だけ動かして見るといつの 間にか八鳥の顔があった。彼の眼が今日はぎらぎら光って いる。何かやろうとするときの顔である。 何か勘違いしてない ? 八つちゃん。ここはロケットの 発射台じゃないのよ。あたしたち、どこにも行かないのよ ほら、ライカ大だっていないでしよ。 言いかけたとき、熱くて長い舌に首元をザラリと舐めら れた。ライカ大はそのまま照射台によじ登ってきた。 早瀬、おれたちいよいよ行くんだぞ。 八鳥が言う。彼は首まですつほりかぶる白いぶかぶかの 服を着ていた。字宙服のようでもあり、達磨大師か何かの 法衣のようでもある。その頭にはギラギラ輝く金色の、竹 藪の家で祖父が折り畳んだというか、ヘし折ったともいえ る、あの阿弥陀の後光みたいな帽子をかぶっている。 ねえ。八つちゃん、その頭のキンキラは何なの ? 宇宙帽だよ。見てわかるだろ。字宙に行くんだからさ。 ライカ大も八鳥もひどい勘違いをしている。 ブザ 1 が耳をつんざくように高くなる。ズンツと背中に 強い圧がかかりどんどん増大していく。 光。光。光。光。 辺りは眼も眩む光だらけになる。いや違う、違う。宇宙 は暗い闇の世界だ。成層圏の上のほうでも真っ暗なのだ。 こんな光まみれの空はない。何かの間違い 行くぞ。 と言って、一・ : 、と八つちゃんは数えた。十 : ・・ : 、百 それ何なの ? 省略してるのよ、遠いから。 何のことだかわたしにはわからない。 八鳥だけ勝手に燃えている。 こう かん それって何だっけ ? 十の四十四乗の世界だって言ったろう。頭はガンマー ナイフの釜の中に押し込まれても、脳味の中は無限だっ て。超大数を打ち上げながら昇って行くんだ ! ごく なゆた ごうがしゃ あそうぎ 極 : ・恒可少・ : : ・ 、阿僧祗・ : 那由多 : : : 、不可 思議・ : 八鳥の数える声に乗って、わたしたちはピュ 1 ウ、ビュ 1 ウと飛んで行く。やがて光どころではない、行く手に巨大 な火の玉が炎に包まれて燃えていた。炎は風に煽られるス カートの裾のようにひらひらと揺れる。 八つちゃん。 わたしは眩しさに眼をこすりながら言った。 あたしたち、あそこへ帰るのね。 力し 153 焼野まで

8. 小説トリッパー 2014年冬季号

師匠はしまったという顔をする。急いで拾ってバッグの中に もどした。でも、もう遅い。私はショックで何も言えなくなっ 私はたまらなくなって、走り出した。呼び止める声をふりきっ 乙 た。師匠が働こうとしている ! 小説の執筆はどうするのだろ て、無我夢中で。そして、迷子になる。しらない家でトイレを う ? サッカシボウをやめるのだろうか ? 香澄さんは感激し借りて、駅の場所を聞いた。 た様子だった。 携帯電話にたくさんの着信履歴がはいっている。一人で電車ッ 「康壱さん ! ロでは就職したくないと言ってるけど、働く気に乗り、車窓から見える景色が、次第に暗くなっていった。車ナ はあったのね ! 」 両には、私しか乗っていない。窓ガラスに自分の顔がうつりこ 師匠は私にうったえる。 んでいる。胸がくるしくて、涙がこみあげてくる - 。ふと、葉山 「違うんだ蜜柑君 ! 決して君たちを送ったついでに履歴書を先輩の言葉を思い出した。 買いにいくつもりだったとかではないんだー さっきの、 「恋愛小説を書きなさいー 3000 枚の原稿 : : : 、蜜柑君の速筆に自信をなくしたわけじゃ 一週間、私は学校を休んで、部屋でふさぎこんでいた。すこ あないんだよ。就職とかは、まだ考えてないよ。ただ、アルバ し気がゆるむと、師匠のことをかんがえてしまう。電話やメ 1 イトをしよ、つと思ってね。何と一言、つか、家にひきこもってばか ルが来ても無視をした。働こうとするなんて : 一緒にまた りでは書くことが限られてくるからね。外に出て、人と触れ合 小説道を邁進していこうと誓ったのに、就職なんか : : : 。労働 わないと良い小説は書けないよ。すべては小説のためであって、 意欲を見せたことに、元交際相手である香澄さんや、恐らくは 決して妥協したとかじゃ : ご両親も、喜んでいることだろう。傍目から見たら良い変化だ。 「嘘をつかないでください ! 」 でも、私は祝福することができない。裏切られた気持ちだ。師 私は師匠に詰め寄る。 匠は、小説の執筆を後回しにしたのだ。真人間になってしまう 「み、蜜柑君 : : : ? 」 のだ。私は、おいてきばりをくらったような気持ちになる。何 「周りが働けって言うから、アルバイトでお茶を濁そうとして もやる気が起きなくて、一日中、べッドに横たわってすごした。 るんですね小説のためなんて嘘ですよね 小説の執筆をしようと、 ハソコンに向かいあっても、集中でき 図星のようで師匠はロごもる。 なかった。文章をつむいでいたら、師匠のしよばくれた背中を 「師匠だけは、師匠だけは就職をしないと思っていたのに : 思い出してしまう。哲学者のように、一文字ずつ入力している 無職じゃない師匠なんて、師匠じゃない ! 」 姿が頭をよぎる。師匠は、サッカだ。まだ、デビューしていな 「無職は僕のアイデンティティなの いというだけで、実にあの背中はサッカ的であった。私は、す 「師匠なんか : ・ 師匠なんか : : : 。就職してしまえばいいん こしだけ小説を書いては、ため息をつく。ちっとも筆がのらな

9. 小説トリッパー 2014年冬季号

『せや。小奇麗な格好してるくせに″腹減った″とか言うてな。 地の〃善良な人々〃窃盗団を駆逐しながら、〃このままで済ます " スゲ 1 戦力になると思うよ ~ とか生意気なこと言いやって。すかい ~ 思ててん、あの子は。あんたのどこを見込んだのか知ら く追い返したわ。ちょっと、チョンポちゃん』 んけど、あんたと組めばイケる思たんやわ』 モニターの中で複数のフォルダが開いた。チョンポが「これ 「組む : : : か」 ですーと言うと、動画が映し出された。 予想通りの返答だった。すぐに雨狗の言葉が思い起こされた 「あんまりけったいな奴やったから、警察か機動隊の筋かと思 が、同時に気が重くなった。 て残しててん。けど、改めて考えたら違うな。喋りも動きもな アフロがあれば、国にもにも対抗出来る。雨狗はそう 言っていた。 んか落ち着かん坊やで、あれは地上のポンポンの暇つぶしやわ』 ハルの店の天井に吊るされていたであろうカメラで撮られた 雨狗は、自分などとはスケ 1 ルが違う。会ったこともない人々 僅か数秒の動画だった。確かに小奇麗な身なりをしており、地もひっくるめて全国の、ひょっとしたら全世界の地下住民のこ 下住民には見えない。かと言って地上のチンピラにも見えない。 とを思い、すべてを引っくり返そうとしている。 彼女の言う通り、比較的育ちのいい二十歳前後の青年だ。 自分など、ただ気の向くまま無軌道に地上に喧嘩を売ってき 「どうかしましたか ? 」 ただけだ。自分達の存在を無視し続ける世の中を振り向かせて モニタ 1 を見詰めるリオに、チョンボが話し掛けた。 やりたいと思っていたが、 地下住民を取り巻く環境を本気で変 動画は、細部まではっきり確認出来る代物ではない。だがリ えてやろうなどと思っていただろうか オは、どこかで見た顔だと思った。確かなことは分からない。 ソウゲンなら「〃あたしのことを見て、″って、まるで図体だ 直接会った人間ではなく、ここ数週間のうちにニュ 1 スかなに けデカい駄々っ子じゃねえか」とでも言いそうだ。そしてそれ かで見たような気がする顔だ。 は、正解だ。 「いや、なんでもないー 『これでおばちゃん、肩の荷い下りたわ』 そう答えながら、リオはその動画を自分の携帯端末にコピー スピ 1 カーから、そんな言葉が聞こえた。殆ど抑揚のない音 した。 声だが、溜息混じりのように聞こえた。 リミットの二十分が近かった。そろそろ切り上げなければな 『みんな、生きてるだけやのにな。働いて、おまんま食べて、 らない。だが、 もう一つだけ訊いておきたいことがあった。 屁えこいて寝て、起きて、また働いて。運に恵まれたらええ人 でおう 「ユージンがあたしに、ここに来るように言った理由はなんだ に出逢て子供授かって、アホ言うて笑て泣いて。ただそれだけ と思います・か ? 」 でええのにな。なんでこないにしんどいんやろか』 「そら決まってるわ。表向き〃太陽の塔〃に言われるがまま各 変わらない筈のハルの表情が、ほんの少しだけ自嘲の笑みを わろ 三羽省吾 348

10. 小説トリッパー 2014年冬季号

反社会的勢力排除の象徴的存在であるミズナミ銀行の金融検査 「はつ、申し訳ありません」 においては、この点に力を入れた。 「取締役会などで報告をしていないということであれば、これ しかし、結果は失望でしかなかった。 らの取引を排除もしていないということですね」 「申し訳ありません」 柿沢の質問に北沢はようやく頭を上げ、苦しそうな表情で 柿沢は、青い顔をしながら頭を下げた北沢の顔を覚えている。 「はあ」と気が抜けたような声を出した。 はんしゃ 柿沢が、「パシフィコ・クレジットのローンにおける反社チェッ 「なぜ報告していないのですかー クの結果はコンプライアンス委員会や取締役会に報告していな 「私が失念しておりました。申し訳ありません」 いのですか」と訊いた時のことだ。 北沢は深く頭を下げた。 北沢は、担当役員以外の役員には反社チェックの結果を報告 「失念とは、また安易な答えですね」 していないと言った。 柿沢が怒りに満ちた表情で睨むと、北沢は動揺を見せた。 柿沢は、驚いた。なせこんな重要なことを取締役会などで役「 : : : それはこのロ 1 ンの審査や与信管理はすべてパシフィコ・ 員に報告しないのか クレジットが行っていまして : : : 。私どもとしては当事者意識 銀行のガバナンス規定では、反社会的勢力に関する報告は、 が薄かったと申しますか、これではいけないと思ってはいたの コンプライアンス委員会と取締役会に報告することになってい ですが : : : 。事後チェックをして、それをパシフィコ・クレジッ るはずだ。 トに伝えましたら、その後は彼らが上手くやってくれるだろう 反社会的勢力排除の象徴であるミズナミ銀行が、トップと現と思っておりました」 場が一体となってこの問題に取り組んでいなければ、どうして 柿沢が問題にしているパシフィコ・クレジットの消費性ロ 1 他の銀行が真剣に取り組むだろうか ンとは、確かに北沢の言う通り全てはパシフィコ・クレジット シフィコ・クレ 「本当ですか ? それは重大な問題ですよ にお任せの金融商品だ。 ジットの消費性ロ 1 ンの中には反社取引があったわけでしよう」 客が、パシフィコ・クレジットと契約している店で物品購入 柿沢は半ば脅すように北沢に言った。 のためのローンの申し込みをする。パシフィコ・クレジットは、 「私どもの調査では約百万件のロ 1 ンの中に約二百二十件程度その申し込みを審査し、問題がなければその旨を店に連絡し、 見つかりました。全部が全部、暴力団というわけではありませ店にロ 1 ン金額の資金を交付する。パシフィコ・クレジットが ふほうぞくせいさき ん。いわゆる不芳属性先がほとんどですー 客に代わって立て替えしていることになる。資金を受け取った 北沢は、柿沢に目を合わさず、つつむいたままで答えた。 店は客に物品を渡す。 「一件でもあってはいけないんですよ」 パシフィコ・クレジットは、客が選んだ提携金融機関にロ 1 江上剛 172