ル」の表記に従う ) の指導者で、国会議員。イギリス帝国のア 得た事件、甲斐性なしの夫に倦きてゐた中年女の英雄崇拝、夫 イルランドに対する植民地支配に徹底的に刃向い、アイルラン の出世のための一種の売春、そして一目惚れの純粋な恋などと ド国民運動の成果をあげた。人気もまたずば抜けて高かった。 いふ諸要素がまじりあった色恋沙汰であった。わたしはこの恋Ⅷ ところが、一八九〇年十一月、一気に破局が訪れる。国民党を倫理的に裁くよりはむしろ、憐れんだりおもしろがったりす 前代議士ウィリアム・ヘンリー・ オシーによって提訴され、 る態度を選ぶ。》 ネルとオシー夫人の姦通を理由とする離婚訴訟で、二人の姦通 1 ネルとオシ 1 夫妻の三角関係は、金のことやらオシ 1 の が明らかになった。味方であるはすのアイルランド国民党、自選挙やらが絡んでさらにスキャンダラスな様相を帯びるのだが、 由党、カトリック教会が一丸となってパーネルという国民的英注意すべきはジョイス自身は少年時代の知見があり、父親がパ】 雄に非難をあびせ、引退を勧告。ヴィクトリア朝風の道徳的憤ネル支持者であったのを含めて、より当事者意識をもってこの 激が襲いかかり、 ーネルはたちまち没落した。 三角関係を見ていたことである。 オシー夫人キャサリン ( 旧姓ウッド ) は、イギリス人。祖父 しつほう、『ュリシーズ』は神話的手法によって、 オデュッセウスⅡプル 1 ム がロンドン市長をつとめるほどの上流階級の娘である。カッコ ベネロペイアモリー のいいウィリアム・オシー大尉と結婚したが、オシ 1 大尉は財 テレマ 1 カス日スティーヴン 産もなく無能、たちまち馬脚をあらわしてキャサリンに経済的 に依存する存在になる。 に当る。たしかにその通りで、「この方法によって新聞の広告 一八八〇年にオシ 1 夫人キャサリンとパ 1 ネルは知り合い、 取りのつまらぬ一日は壮大なものになり、しかも同時にこっぴ 急速度で一一人は接近する。共に三十代半ば。厄介なことに、キャ どく皮肉られ、つまりその全容を示すこと」になる、と丸谷は し、つ サリンに経済的に依存していたオシー元大尉は、見て見ぬふり と思えなくもないほど、妻とパ 1 ネルの姦通を半ばほうってお ただし、もういつほうで、「プルーム夫人モリ 1 がすなはちキャ くことを続けるのである。それがかなり公然の秘密になった後サリン・オシー」というジョイスの見立てが働いていて、『ュリ も、十年が経ち、ようやく離婚訴訟になる、というほど。 シ 1 ズ』の女主人公の背後には、アイルランド史をゆるがした 丸谷は、「近代アイルランド史上第一の英雄パ 1 ネルは、この姦通事件の姦婦の影がゆらめいている、と丸谷は指摘する。「『ュ とき、一人の娼婦と一人のヒモによって翻弄される哀れな男の リシーズ』の描く一九〇四年六月十六日のダブリンといふ現実 ゃうに見え」るといい、さらに総括するように感想をもらす。 に最も近いのは、アイルランド国民運動の指導者パーネルの神 《わたしに言はせればこの姦通は、疲れてゐて孤独な中年の政話、ただし彼の姦通にからむ物語であった」のである。そして 治家が情婦であり母であり看護婦を兼ねるやうな女をはじめて 『ュリシ 1 ズ』のホメーロスにのっとった人間関係は、もう一つ
た。やはり待ち合わせていたらしい 何故なら今回の事態を引き起こした責任の一端は凜にあるか 更に数分待っていると、離れた棟から二人がやって来た。そらだ。 れで全員揃ったのだろう、五人はひとかたまりになって凜の潜 五人はマンション群の中央を縦断する舗道を真直ぐに進む。 んでいる場所とは反対方向に歩き出した。 このまま行けば敷地を抜けて裏山に突き当たる。 追跡開始。凜はそっと電話ボックスの扉を開け、五人の後を やはりあそこだったのかー凜の立てた仮説に、五人はどん 尾行していく。 どん近づいていく。なだらかな坂を上り、獣道にも似た未舗装 間隔は五十メ 1 トルほど。これなら後ろに目がついていない の道から森の中に入って行く。ここからは視界が一気に狭まる 限り気づかれはしないだろう。第一、五人は会話に夢中で注意ので、凜は足を早めて五人との間隔を縮める。 力が散漫になっている。 十一月の山は木々を色づかせ、下草を赤と黄色の葉で埋め尽 くす。繁茂する草木で陽光が遮断され、辺りは薄暗い。かさか 五人の足の早さに揃えて歩く。これくらい慎重にすれば見失 、つこともあるまい さと草を踏む他には葉擦れの音しか耳に入ってこない。この中 うかっ 五人の背中を追いながら、凜は自分の迂闊さに腹を立ててい なら背後からの足音も紛れて聞こえ難くなるはずなので、凜は いくぶん安心して尾行を続ける。 なぜ これ以上進むと五人が危険だーそう危ぶみ始めた頃、五人 何故もっと早くこのことに思い至らなかったのだろう。事実 を指し示すヒントはいくらでもあったというのに、見抜けなかっ の足が不意に止まった。 た自分はとんでもなく間抜けだ 0 「この辺だよな」 一人一人の行動を裏読みしていけば、それらが示す方向は一 「ぶ 1 ちゃあん」 、出て来いよお」 っしかなかった。妹尾医師からもたらされた情報だけが上手く 全体像の中に納まらないが、それは尾行の結果で明らかになる。 「お 1 い いずれにしても、ここまで話がこじれた理由の一つは凜の目が 「あ、来た来た」 節穴だったことに拠る。もう少し自分に洞察力が備わっていれ かさがさと草を掻き分ける音がした。紛れもなく生き物が近 づく音だ。 ば、こんな事態には発展しなかったはすなのだ。 ただし重要なのは解明することではない。上手い具合に処置「ぶ 1 ちゃんっ することだ。事が明るみになれば各方面から非難を受けるのは 「食べるもの、持って来たからね 1 」 必至、それでも凜には五人の気持ちを代弁しなければならない 「あ 1 、相変わらず汚れてる」 義務がある。 「ねえ、ちょっと動かないでよ。拭いてあげてるんだから 263 闘う君の唄を
旧大洋産業銀行出身者の中には、これで旧日本興産銀行出身こで止めてコンプライアンス委員会にも取締役会にも報告して いなかった。 の藤沼が名実ともに最高権力者になったという不満を漏らす者 かいたが、「大塚ではしかたがない」という諦めの声が多かった 「北沢が報告をしていたものと思っていました」 ことも事実だ。大塚の実力が、ミズナミ銀行という巨大銀行を 倉品はぬけぬけと言った。 率いるには力不足であることを彼らは認めていたのだ。 「議案を確認したり、議題として採りあげなかったことに気づ それを証拠づけるように当の大塚も「少しほっとしたよ」と かなかったのですか」 周辺の者に洩らしているらしい。 柿沢は、鋭い視線で倉品を睨みつけた。 「本日、会長に就任いたしました。よろしくお願いいたします」 「さあ、よく覚えていません」 大塚は柿沢に頭を下げた。 倉品は微妙に視線を避けながら言った。 「そうでしたね。 ' こ苦労様でございます」 「あなたは北沢さんから報告を受けていながら、それをコンプ 柿沢は、全くそのことに関心を示さず、すぐに本題に移った。 ライアンス委員会に報告しろと指一小しなかったということでい いですね 「今回、問題になっているパシフィコ・クレジットは旧大洋産 業銀行と親しい取引をなさっておりましたから、お二人をお呼「失念していました。申し訳ありません」 びいたしました」と二人を呼んだ理由を説明し、反社会的勢力「失念ばかりですね。報告が上がっていない以上、大塚会長も との取引実態をコンプライアンス委員会等に報告することを「失藤沼頭取もこの実態を全く知らないということですね 念」していたという北沢の報告について質問した。 柿沢は、眉根を寄せ、倉品の目をじっと見つめた。 二人は、顔を見合わせ、戸惑った様子だったが、北沢が言う 「報告していませんので、ご存じありません」 ことに間違いないと答えて、謝罪した。 倉品は、わずかに語気を強めた。 大塚は、オンライン事故などの対応に追われていて、反社会 「申し訳ありませんでした」 的勢力排除の取り組みがおろそかになっていたと、理由にもな 大塚が隣で頭を下げた。 らないことを答えた。 その後、何人かの役員にヒャリングした結果、ミズナミ銀行 「オンライン事故とどういう関係があるんですか」 では、反社問題を北沢一人に任せきりにしていることが判明し 柿沢が詰め寄ると、大塚はふいを衝かれたように驚いて「そた。反社取引の解消にも銀行全体で取り組んでいる様子は見え なかった。 れはその通りですが : : : 」とロごもってしまった。 失念したというのは嘘だと柿沢は思った。 コンプライアンス統括部部長であり担当役員の倉品は、反社 取引について報告を受けていると認めた。しかし、それらをそ 実際は、役員たちの中で反社会的勢力排除の意識が希薄化し、 175 抗争ーー巨大銀行が溶融した日
連携無償資金協力事業に申請して、資金援助を受けながら「妊 陰山さんは言った。 婦の家ーの設立を決定したのである。 「一つの家に暮らす家族みたいですよね。施設という雰囲気だ 「妊婦の家ーの計画でもっとも大切だったのは、地元の人たち となかなか妊婦さんも利用しにくくなっちゃうので、家庭的な をいかに巻き込むかという点だった。九〇〇万円ほどのに よってハコとしての建物を建てることはできるが、それを維持 感じを大切にしてるんです」 話によれば、が「妊婦の家」設立のプロジェクトを動する人がいなければ瞬く間につぶれてしまう。そこでは かし出したのは、二〇一一年のことだったそうだ。 二〇一一年の終わりに、町の有力者を中心に七名による運営委 ーティ 1 を開いてもらって資金集めを もともとはホンジュラスで別の医療関係の活動をして員会を結成し、彼らにパ 各地を回っているうちに、現地の医療関係者から したり、協力してくれる企業を集めた上で着工に入り、約一年 地方の農村でお産の事故が多発していることを教えられた。原後の二〇一三年の一月に完成に至ったのだという。 陰山さんは言った。 因は、病院に妊婦を受け入れる体制が整っていないことにあっ 「この町の『妊婦の家』は、本当に多くの協力者に支えられて 近年ホンジュラス政府は国連からの働きかけなどに応じて、 うまくいったケ 1 スだと思います。光熱費や水道代は市役所が 地方に暮らす人々に病院で安全にお産をするようにと推奨して負担してくれることになりましたし、月五千レンピラ ( 約二万 いる。だが、 五千円 ) の諸経費は地元のスポンサ 1 が負担してくれます。突 実際に農村の女性がなけなしのお金でバスに乗っ て丸一日かけて病院へやってきても、お産まですごす部屋がな発的に資金が必要になった時は、運営委員会がパ 1 ティ 1 を開 いという理由で追い返されることがしばしばあった。陣痛がき いて募金を募って何とかしますー ていなければ、病院は受け入れようとしないのだ。 私は「妊婦の家」設立の経緯までは納得できたものの、一つ だが、現実に農村に暮らす女性が陣痛の開始後に身重の体でだけ疑問点があった。この町は首都テグシガルバほどではない にせよ、治安は決していいとは言えないはずだ。そのような町す トラックの荷台や混雑したバスに乗ってくるのは不可能だ。そ れで彼女たちは町の病院は受け入れてくれないと諦めて家で産でこの家が狙われることはないのだろうか。その疑問をぶつけ を 耳 ると、陰山さんは苦笑した。 んでしまっていたのである。国全体で産婆の介助によるお産は 「危険がないわけではありませんね。この建物も完成した直後 三十パーセントに達し、難産などによって事故が起こった場合 産 の は最悪母子ともの死という結果を引き起こした。 に強盗が押し入ったことがありました。たしかテレビが盗まれ 界 世 はこうした状況を改善すべく、病院に妊婦たちが無償たんじゃないかな」 9 テグシガルバでは人口八十万人中、わずか一年で五十万人が で宿泊できる施設をつくろうとした。そこで外務省の日本 zeo
あたしはかぶりを振った。 「辞めない。今は、辞めないよ、きっと 未来のことはわからない。自分の心がどう動き変化する かなんて、わからない。でも、今は、辞めない。吹奏楽を 続ける。 久樹さんは、さして気のなさそうに「でしようねーとだ け呟いて、横を向いた。楽譜に目を落して何も言わなくな る。あたしが傍にいることなんて、忘れてしまったのだろ だから、あたしは一人で考える。 今は辞めない この気持ちは何だろう。 中学のときと今と何が違うのだろう。 あたしは手の中のピッコロをそっと撫でてみる。 つか 何が違うのか。まだ、ちゃんとは擱めていない。擱むの は、これからだろ、つ。 捫みたい。 擱んでみせる。 久樹さんが傍らで小さくハミングを始めた。 二つ目は事件とは言えないかもしれない。ホ】ル練習の とき、改めて気が付いたのだけれど、久樹さんのパ 1 カッ や、目立たないんじゃなくて、浮 ションが目立たない。い いていない。久樹さんの才能や性格からいって、集団の中 でどんと浮き上がるんじゃないかと、これは菰池くんの危 惧だったけれど、あたしも密かに案じてはいた。菰池くん とは違った意味で、久樹さんも個性的だ。際立っ個性って、 この国ではなかなか受け入れられない。個よりも全体の調 和、突出よりも協調を重んじる。 大丈夫かな久樹さん。 菰池くんほど露骨にではなく、それでも、かなり本気で 心配していた。 きゅ、つ 杞憂だった。 久樹さんのパ 1 カッションはティンパニであってもドラ ムであっても、見事に安定していてプレがない。その安定 1 カッションは 感が演奏全体の安定感に繋がっていく。。、 音楽的能力の高い者が担当すると聞いたけれど、なるほど と頷ける。 「やつば、すげえな」 菰池くんが日に三度は感心して呟く。 「好きなようにやってるだけ」 久樹さんは言う。 「え ? 周りに合わせようとか思わないわけ」 あたしの問いに、久樹さんは顔を歪めた。 馬鹿じゃないの、この人。 そういう表情だ。表情だけでなく、 「馬鹿じゃないの、相野さん」 とはっきり、言われた。 371 アレグロ・ラガッツア
がした。 岸川は頭を下げたが、悪びれた様子はなかった。 「私には、なんとも言いようがありません。捜査にはきちんと 余計な方向に転がらなければいしカ 協力をしています」 康平は、思った。 康平は渋面を作って、言った。 「おつ、美人が来たぜー 「事件の早期解決のために銀行全体で取り組んでください。私 齊藤が、相好を崩した。 も機会があれば、藤沼さん、大塚さんにそのことを言いたいと 「えつ、どこですか ? 思います。では中に入らせていただきますねー 康平は素早く齊藤の視線の先に目を走らせた。 八神は、式場へと入って行く。岸川もその後をいそいそとっ そこには小柄で、年齢は二十代前半と思われる、目鼻立ちの いて行く。 整った女性がいた。 「緊張したな」 銀行員ではない。 康平は呟いた。 康平は直感した。黒の喪服姿があでやかにさえ見える。 「あっ、パシフィコ・クレジットのことを言っていたな」 「北沢の親戚かな。美人だぜ」 齊藤が小首を傾げた。 齊藤が興味深そうに見つめている。 「そうですね : ・ よく知っていますね」 「齊藤さん、通夜の席に不謹慎ですよ , 「偶然じゃなく、情報を集めているのかもしれないな」 塚田が睨んだ。 「どうしてですか ? 「分かっているけど、気になるじゃないか」 「さあなあ、北沢が殺された理由がどうしても知りたいんだろ 齊藤は女性から視線を外さない。 うな」 女性が受付で香典を渡し、記帳した。 さかきばらともこ 康平は、嫌な予感がした。旧扶桑銀行の繋がりだけで八神が ー楙原朋子・ : 通夜の席に来たとは思えないからだ。八神が参列したことで通 康平はすばやく記帳した名前を読んだ。 夜の空気は大きく変わった。会場へ八神が歩く道すがら、参列 女性は、受付から離れると、周囲を見渡した。そして康平と ふさわ 者がその周りを取り囲んだ。通夜の沈んだ空気には相応しくな視線があった。康平は軽く頭を下げた。 い笑顔を浮かべる者もいる。旧扶桑銀行出身者たちが八神の参 女性が康平に近づいてくる。どうして ? 康平は心臓が高鳴っ 列を歓迎しているのだ。 倉品が、また旧扶桑銀行が割を食ったという者もいると、顔「おい、彼女、こっちへ来るぜ」 をしかめていたが、そういう思いが八神の周囲に漂っている気 齊藤まで興奮気味だ。 江上剛 188
体です』 呉はそう反駁しながら、どきりとする。この記者はどうして 「だれがやったんだー そう思うのだろう。こちらが関係していると、どうしてそのよ 『不明ですが、あなたに心当たりはありますか』 うに考えられるのか、その根拠はなんだろう。いま聞かされた 「あるわけないだろう。あんたはいまどこだ」 〈黒い絨毯〉とかいう闇サイトと関係あるのか。そうだ、黒いな 『ム 1 ンプリッジのゲ 1 ト前です。封鎖されていて入れません。 んとやらは先の取材のとき、あの喫茶店で、別れ際にあの記者 他のゲートも、全部です』 が言っていたような覚えがある。いったいどういうサイトなん 「どうしてそんなおおげさなことをしなくてはならないんだ」 だろう。ロ 1 ダ 1 を使うなとか電話で言っていたし、この記者 『わかりません。が、思い当たることはいくつかあります』 は、その闇サイトからなにを擱んだのだ ? 「聞かせてくれ , 『大声であなたの本名を呼んでもいいんですか ? 』 『それは言えません。ですがー』 「近くに警官がいるのか」 「特殊機動隊が投入されたというのは本当か」 『たくさん、よ、。 ( しックダジマ特区を訪れて帰る人間の検査に 『どうしてその情報を。どこから仕入れたんですか』 動員されてます。検問ですよ。一般人は入ることはできません。 「言えないな」 一方通行です』 『〈黒い絨毯〉ですね』 「なるほど、だいたい様子はわかった。言っておくが、おれは 「〈黒い絨毯〉 ? 」 その事件とは関係ない」 『〈地球の意思〉というやつが書き込んでいる闇サイトです。普『ロ 1 ダーが勝手に動いたりはしてませんか』 通のサイトではないです。あなたは本当に知らないんですか 「ローダ 1 が勝手につて、なんだよ、それ」 とばけているのなら、教えてください。なにか、とてつもない 『たすけてくれって電話してきたじゃないですか。ロ 1 ダ 1 の ことが起きているようなんですが、特区内には入れてもらえな異常だったんじゃないですか。あなたのそのロ 1 ダ 1 には、ナ いし、報道管制が敷かれてるし、こんなのは ライ機能がついてますよね』 記者の饒舌を呉は遮る。 「ああ、それがどうかしたのか」 「おれはどうしてあんたから、でかさん、なんて呼ばれなくて こいつは、おれがクピになった施設での、ローダーの異常に はいけないんだ。おちよくっているのか 気がついているようだ。 『あなたの名をだれかに聞かれるとまずいと思ってのことです。 『そいつが暴走すると着ている人間が危険にさらされるだけで あなたがやったことかもしれないでしよう』 なく、ローダ 1 の意思に操られて犯罪を犯すようなことになる 「なんだよ、それ。なんでそうなるんだ」 のではないか、それを心配しています』 神林長平 130
与えました。これは獣医さんからお聞きしたんですけど、クマ それで同じ団地に住む栞ちゃんに相談を持ちかけたんです。栞 というのは一度エサにありつくと、その場所をエサ場と認識すちゃんから瑛太くん、瑛太くんから仁希人くん、そして仁希人里 る習性があるそうです。つまりそれが餌付けになってしまった くんから大河くんへと輪が拡がるのはあっという間でした。子山 中 んですね。子グマは決まった時間になると団地の付近まで下り供たちにしてみれば子グマなんて動物園でしかお目にかかれな てくるようになりました。これがその子グマの写真です」 いものだから、すぐ夢中になってしまいます。ただみんな利ロ 凜はサイズに拡大した写真を皆の前に掲げる。手足が短な子なので、大人たちに子グマの存在を知られたら叱られるこ く、ころころとした黒い毛の子グマ。期せずして若い母親から とを知っています。だから五人で秘密を護ろうとしたんです。 「やだ、可愛い , との声が上がる。 ところがある日、不測の事態が発生します。瑛太くんが子グマ 「ツキノワグマの子供だそうです。本来この時期は冬眠を控え に噛まれてしまいました」 てたつぶりと食事をしなきゃいけないのですが、山中のエサが 由梨絵の顔が微妙に歪む。 ふもと 窮乏しているため、麓まで行動範囲が拡がったようです。普通 「本人に確認すると、瑛太くんの手にエサが付着していたとこ なら母グマも一緒に行動しているはすですが、今回子グマが単ろ、子グマが見境なしに噛みついたらしいです。大河くんの時 独で行動したのは、おそらく何かの事情で母グマと別れてしまっ も同様で、やはり手に付着したエサに飛びついたようです。きっ たのではないか、と獣医さんは言っておられました」 と折り悪しく子グマも相当にお腹を空かしていたのでしよう。 いぶか 凜は獣医から聞いたことをそのまま保護者たちに伝える。 こう聞くと、どうして同じ失敗を繰り返すのかと訝る親御さん 元々、人間の生活領域とクマの生活領域は緩衝地帯を挟んでもいらっしやるでしようけど、わたしたち大人だってよく同じ はっきり分かれていたので、両者が出くわす確率は低かった。 過ちを繰り返すことがあります。このことで子供たちを一概に ところが昨今は人間が里山を利用しなくなったためにこの緩責めるつもりにはなれません」 衝地帯が消滅してしまった。加えて人間が無計画にスギやヒノ 保護者の何人かが、仕方ないという風にこくこくと頷く。 キといった針葉樹を植林し続けたため、クマの食料である広葉 「瑛太くんは怪我をして妹尾病院に担ぎ込まれました。当然、 樹の木の実が急激に欠乏した。エサを失くしたクマとしては人先生やお母さんから事情を訊かれますが子グマのことを打ち明 間のテリトリ 1 まで足を拡げざるを得なかったという訳だ。 ける訳にはいきません。それで野良大に噛まれたと嘘を吐いた 「雑食性であることも幸いし、子グマの食欲はどんどん旺盛に んです。一番もっともらしい話ですからね。でも、大きさとか なっていきました。絢音ちゃんが塾に遅れるようになったのは、 色とか襲われた場所を訊かれると急に慌てました。下手なこと 子グマのエサやりが日常化してしまったからです。ただ絢音ちゃ を言ったら子グマを匿っていることが知られてしまうと思った んもそうそう冷蔵庫から食べ物を持ち出す訳にもいきません。 そうです。茶色の大型大、襲撃されたのが人工岩というのは咄
「周りと合わせなかったら吹奏楽にならないでしよ。ソロ 演奏じゃないんだからー 「あ、あん。そりゃあそうだけど : : 。ほら、久樹さん前 に言ってなかったつけ。周りと合わせるの苦手だって」 「無理して合わせるのはできない。でも、無理しないで合 わしていくのが吹奏楽じゃない。相野さんもそう思ってん でしょ 「あたしが ? 」 「だって、全体に溶けていく感じがするって言ってたよね。 練習のタイプで自分が変わっていくのがおもしろいって。 それ。全体に合わせてるけど無理してないってことと同じ だよね」 「あ、そっそうかな」 個性は個性のままで、全体に溶けていく。 久樹さんはそう言っているのだろうか 深くは聞けなかった。聞いて、答えを教えてもらうもの ではないのかもしれない。 でも、おもしろい。 久樹さんも、吹奏楽も。ついでに、菰池くんも。 三つ目は、部活とは関係ない。でも、一番大きな事件だっ あいさ 愛沙に会った。 偶然だ。 三年生が全国模試の実施日、教室の関係で一、二年生の 補習もカットされる。顧問の小石先生がその日を「完全オ フ日にしてくれた。夏休みに入って、初めての休日だ。 あたしは、母さんの買い物に付き合うことにした。せつ かくの休みを親とすごすなんてと、少し情けなくもあった が、「夏物の洋服、買ってあげるわよ。あんた、可愛いキャ ミが欲しいんでしょーの一言に苦もなく釣られてしまった のだ。 デパ 1 トでも駅地下でもショッピングモ 1 ルでも、今や 夏物は半額セ 1 ルの真っ最中だ。 「いやあ、 % なんてのを見ると、血が騒ぐわねえ」 なんて、母さんはにやついている。あたしは、母さんと は微妙に離れて、好きなプランドのショップを見て回って カラフルなキャミやパンツ、カットソ 1 、シャツに交っ て秋物も並んでいる。こちらは、なかなかの値段で買って もらえそうにないけれど、見ているだけで楽しい 今年の秋はロング丈のジャケットが流行りますよとか、 どうぞ遠慮なく試着してみてくださいなんて、店員さんの 誘いを曖昧な笑みで受け流して、母さんに買ってもらえそ うで、あたしが気に入った物に何点か目星をつけたとき、 店の前の通路を歩いている愛沙を見かけた。数人の女の子 と一緒にしゃべりながら、あたしの目の前を通り過ぎたの 、」 0 あさのあっこ 372
ニ〇一三年六月ニ十七日 ( 木 ) 午後五時三五分 ( 通夜式場 ) 康平は、女性を式場の人がいないところに案内した。齊藤も 一緒だ。 彼女は、しつかりしている様子だったが、非常に警戒してい るように見えた。康平は、名刺を渡した。齊藤のことは北沢の 友人だと紹介した。 女性は、名刺をじっと見つめていた。そして顔を上げた時、 急に目を潤ませていた。 「如何、されましたか ? 」 康平は訊いた。康平の背後で斎藤がじっと彼女を見つめてい 「私、楙原朋子といいます。実は、銀座のクラブ『マリ』にお ります」 「北沢とは ? 「パシフィコ・クレジットの反社融資といってもたいしたこと はありません。総会屋に巨額の融資をした大洋産業銀行事件と は、全く違います。とにかく記者の動きには注意を払ってくだ さい 「私もご一緒しましようか」 山村が言った。 「君はいい。 私が報告します」と倉品は言い、山村に近づき、 「両トップを守りましよう」とその手を握り締めた。山村は握り 返してこないで、冷え冷えとした目で倉品を見つめていた。 る。 「おっき合いをしておりまして、結婚も考えていました」 朋子は、淡々と言った。 「結婚 ? 」 齊藤が、驚きの声をあげた。康平も、同様に目を見開いた。 「最初は、本気でなかったのです。実は、北沢さんとは婚活サ イトで知り合いました」 「婚活サイト ? 」 聞き慣れない言葉に康平は首を傾げた。 朋子は、バッグからスマ 1 トフォンを取りだすと、画面を康 平に見せた。そこには北沢の写真とプロフィールが写っていた。 「これは結婚相談所のサイトです。ここに男女が入会して、お 互いのプロフィールを掲載します。そして相談所を通じて気に いった人とお見合いするんです 「おい、見せてみろよ」 齊藤が手を延ばし、スマ 1 トフォンを手に取った。 「やナこ、、 男こ写っているな」 「ええ、適度に修正を加えていますので、実物よりよく写って いますー 朋子は、微笑んだ。不謹慎だと思ったのか、再び、真面目な 表情に戻った。 「この結婚相談所のサイトを通じて北沢と知り合ったというの ですか」 康平が訊いた 「俺も、あんたみたいな人と知り合えるなら、サイトに登録し ようかな」 齊藤が、冗談ほく言いながらスマ 1 トフォンを朋子に返した。 江上剛 192