女主人が水割りを作って、呉の前におく。綺麗なグラスだな ちゃったかな」 と思う。先に作ったオンザロックのグラスを女は手にして、乾「興味がないような口ぶりですね 杯と言う。呉もグラスを上げる。グラスを合わすことなく女主 「どうでもいいわ」 人はさっさと一口やって「おいしいーと言い、笑顔を見せた 「本当に ? 「事件と事故 , 「ええ」 グラスを目の高さまで持ち上げ、それをゆっくりとまわして 本当のようだ。呉には女の考えが理解できない。ほば間違い 琥珀色を楽しみながら女は言った。きつばりとした口調だった。 ないだろうに、この目の前の人間が殺人者だというのは。事件、 「事件と事故、ですか。それで封鎖になった ? 事故、ゲート封鎖、という、女の言っていることが事実ならば、 「殺人事件と、そのとばっちり 女のグラスがチンと音を立てる。氷がグラスに当たったのだ。 「ニュースとか、見られないですか」 くいっともう一口飲み、ふうと息をついて、女はグラスを置く。 テレビというものはこの部屋には見当たらない。自分のスマ まさかな、と呉は自分の思っていることを打ち消そうとする。 ホはどこだろう。そこで呉は、あの記者に助けを呼んでいる途 積年の恨みを晴らしてきたことと関係ありなのでは。自分のロー 中で失神したことを思い出した。 ダ 1 が殺人に使われたのではないよな ? 「ニュ 1 スにはなってない。見ても無駄よ。ネットにも流れて 女主人から目を離さずに呉も水割りを一口飲む。いい香りだ。 ないし」 しかしなんだか薄い気がした。これでは気付薬にならない 「じゃあ、どうして、あなたは知ったんですか ? 「犯人は捕まったんですか」 「そういえばそうね。どうしてかしら」 「捕まってないから封鎖が解けてないんでしよう」 「おれの、いえ、わたしのスマホはー」 「はやく捕まってほしいな」 どこにあるのかと訊いたつもりだが。 「でないと帰れない、か . 「ああ、そうだ」と女はうなずいた。「それよ。あなたのスマホ 「そうでしよう、そういうことになるのでは」 に出ていたの , 「せつかく一万ドルも払ったんだから、ゆっくりしていけばい 「わたしのスマホに、ですか ? 」 いのに、逃げ出したいの ? 」 「ええ。画面に。ックダジマ・ゲートアイランドのすべてのゲ 1 「捕まらないと思っているんですか ? 」 トは緊急封鎖されるって。それから、死んだ人と負傷した人の だれ、とは言っていない 名前。特殊機動隊が投入されるとかなんとか」 「さあ、どうかしら。ピザをどうぞ、熱いうちに。もう冷め 「どこです」 神林長平 128
喜多原は、眉根を寄せた。 るが、実は国際的にはかなり異常な制度と言える。先進国で、 「いえ、残念ながら、洗脳に近いことが実際に行われているん極端な起訴便宜主義をとり、警察と検察が合法的に証拠を隠す です , 篠岡は、大げさにかぶりを振る。「たとえば、袴田事件で ことができ、二〇日以上の長きに亘って被疑者を勾留して取り は、警察は一〇時間を超える長時間の取り調べを連日行い、 最調べる国など、日本の他にはない。この国では、あまりにも大 終的には、被疑者を棍棒で滅多打ちにするなどの拷問的な手法きな権力が警察と検察に集中してしまっていると言えるだろう。 まで使って、自白に追い込んでいたのです」 まともな司法制度のある国では、捜査機関が収集した証拠は 「いやでも、それは昭和というか、昔の話ですよね ? 」 無条件の開示を原則とし、被疑者の勾留期間は最長で二日か三 「はい。さすがに今は棒で殴るようなことはしていないと思い 日程度、しかもその間も自由に取り調べができるわけではなく、 たいのですが : : : 、未だに、取り調べは録画も録音もできない 完全に録音・録画された状態で、長くても合計二時間程度とい 密室で行われていますし、多くの場合、逮捕された被疑者は警う時間制限の中で行われるのが普通だ。また、起訴便宜主義の 察署に勾留されて外部との接見も著しく制限されます。酷い人逆のあり方である「起訴法定主義」に重きを置き、検察官の裁 権侵害があっても、外からは分からないようになっているんで量に拠らず一定の条件を満たした事件はすべて起訴して、有罪 か無罪かを裁判で決めるのが、法治国家の国際標準と言える。 日本では警察が逮捕した被疑者を拘東できる期間は、最長で なぜ、諸外国がこんな仕組みを採用しているのかと言えば、 一一三日にも及ぶ。まず最初に逮捕した警察が検察に事件を送致検察や警察に権力が集中しすぎると、どうしても、暴走し、冤 するまでの期限が丸二日、四八時間。送致された検察での調べ罪ー無辜の処罰ーが生まれてしまう恐れがあるからだ。 の期限が丸一日、二四時間。その後、検察官がさらなる調べが こういった日本の刑事司法制度のあり方は、国連の拷問 必要と判断して裁判所に勾留請求をすれば、プラス一〇日間、 禁止委員会でも名指しで『まるで中世だ』と批判されているの 勾留延長がされれば更に一〇日間、勾留できる。締めて二三日です。事実、冤罪を生むような捜査機関の暴走は何度も起きて います。国は批判を真摯に受け止め、証拠の原則開示、勾留期 実際には更に勾留期間を伸ばす手段もあるのだが、一応はこ 間の短縮、そして取り調べ時の弁護人の同席などの改革を進め の二三日を一つのメドと考える。、この間、検察と警察は自由に てゆく必要があるんじゃないでしようか 何度でも非公開の取り調べを行うことができることになってお 「なるほど。で、篠岡さんも検察時代に思わず暴走しちゃった ことあるんですか ? り、最終的に検察官が起訴する事件では、ほとんどの場合、こ の間に被疑者を割る。 喜多原が軽口を叩く。 日本の司法関係者はこれを当然のことのように受け入れてい 「ええ。暴走というか、検察官として被疑者に対峙するときは、 葉真中顕 76
「なにを寝言のようなことを。ロ 1 ダ 1 というものを、あんた 「ど、つい、つこと」 使ったことがないんだろう、だからそんなオカルトのよ、つなー .. 一 「情報が統制されているということです。いま電話した記者も 『でかさん、わたしに助けを求めてきたのはなぜです、なにが報道管制が敷かれていると言ってました。特区は治外法権なん ですかね。積年の恨みを晴らしても、なにをしても、外には漏 あったんですか』 「作業中に転んだんだ。顔を打って死ぬかと思った。言っておれないのかもしれない」 くが、ロ 1 ダ 1 は着けてなかったよ。着けてたらこんな怪我は いや、そのような私憤による犯罪事実を隠蔽するために国が しなかったさ。腫れてひどい顔になっちまってる」 取材を制限し報道管制をわざわざ敷くことはないだろう。しか 『ほんとにそれだけですか』 も対応が素早い。まるで特区内でいきなり戦争が始まったかの 「それだけって、もっと痛い目に遭ってたほうがよかった、みようではないか。 たいな口ぶりだな」 緊急時に開戦するかどうかを決めるのは首相とそのプレーン 『そうじゃありません、でかさんー』 なのだろう、なんていったかな、国家安全保障室だったか戦略 「こっちにすれば、こんなものですんでよかったと思ってるよ。 会議だったか、そういうやつ。利権が絡み合う官僚たちにとっ とにかく、すまなかった。心配させてしまったな。つい、頼っ ては既得権益が無視され頭ごなしに命じられるそうした存在は てしまった。でも、もう心配ない。それを知らせようと思った面白くないに決まっているが、そういう頑固な官僚たちを押さ だけだ。じゃあな」 えつけてなお強権を実際に発動するなどというのは、よほどの 『なにか、こちらにできることはありませんか。こんどは謝礼 緊急事態でもなければ横やりが入りまくって実現しないだろう。 金も出しますので、ぜひ取材させてください。ム 1 ンプリッジ・ いま、そ、つい、つ〈よほどのこと〉か起きているとい、つことか 単なる事件事故ではなさそうだ。なんだろう ? ゲートです、待ってますので、会いましよう』 「いまのところ」と呉は言った。「間に合ってるんで」 「やったことが漏れたから、警察が入ってきているんじゃない ? 『でかさん、ちょっと、もうちょっとだけ、わたしの話を聞い 女主人が呉の言葉を受けて、言った。 「いいえ、竹村さん」 の 呉は考えを中断し、現実に戻って首を横に振る。 電話を切る。スマホをテ 1 プルに置いて、呉は女主人に言っ 「警察はまだ来てないじゃないですか。まだ捕まえてない。捕ロ まってないでしよう」 「大変な騒ぎになっているってことが、わかりました。でもこ オ の騒ぎの様子がどこにも流れていないとしたら、そのほうが事「捕まえる気がないということかしら 件かもしれない 「かもしれないですね」
味のことを言う。 「検事」 検察官は大抵の場合、難関中の難関とされる司法試験に合格 「聞こえてました」倉科は机に向かったまま手を止めることな しているのだから、優秀なのは当たり前だが、その中でもずば ちょ、つーば く答えた。「西多摩郡菜見原町の住宅で一家三人殺害。捜査本部抜けた人間というのがいる。仕事が早く、判断に迷いがなく、 は西多摩署。種類は特捜。初回会議は八時開始、ですね ? 西そして決して間違えない。かれこれ二〇年に及ぶ事務官生活の 多摩署まではどのくらいか調べておいてください 中で、遠藤は何度かそんな者たちに出会った。倉科も間違いな 「はい、ちょっと待ってください」 くその一人だろう。 遠藤は慌てて、キャビネットから地図帳を取りだして、自分 倉科は、東京の西側、一一三区外の市部で発生する事件を担当 の事務机の上に広げて道順を調べる。 する、この東京地検八王子支部の本部係検事で、遠藤はその秘 「えっと、距離的には四〇分位で着きそうですが : : : 、念のた書のような役割を担う検察事務官である。 め一時間は見ておいた方がいいでしようね」 世間には警察と検察をほとんど同じもののように思っている 西多摩郡は、ここ八王子の北西。一六号から四一一号に入り人も少なくないが、警察が捜査機関なのに対して、検察は司法 青梅方面に向かった先だ。 機関。事件を捜査するのが警察で、警察が逮捕した被疑者を起 「分かりました」 訴して裁判にかけるのが検察、といった具合に役割分担されて いる 返事をしつつも、倉科のペンは動き続けている。 「行かれますか ? 」 が、互いの仕事は密接に関わっており、逮捕後の被疑者の勾 「はい、こっちはもうすぐ終わります。あげたら、すぐに出ま留や取り調べなどは、警察と検察が協力して行う。きっちりと しよ、つ」 事件を解決するには、両者の円滑な連携は欠かせない。 もう終わるのか、と遠藤は内心驚いていた。 ゆえに、捜査本部が設置されるような重大事件が発生したと 倉科が書いているのは、今担当している連続放火事件の犯人きは、その捜査段階からオブザ 1 バ 1 的な立場で検察官も参加 の起訴状なのだが、書き始めてまだ数分しか経っていない。考することになる。この役を担う検察官が、倉科のような「本部 えながら書いていたらこんなに早くは終わらない。きっと、最係」の検事であり、大抵は地検のエース級の人材が任命される。 初から頭の中に起訴状の全文が浮かんでいて、それを書き写し カタッとペンを置く音がしたかと思うと、倉科は起訴状を手 ているのだろう。 に取り、席を立った。 遠藤にはそんなことはできないので実感としては分からない 「刑事部長にあげてきます。遠藤さん、出る準備しておいてく が、これまで出会った異常に仕事の早い検事はみなそういう意ださい 葉真中顕 84
「これだ」 いいます。少しお話をさせていただいてもよろしいでしようか ? 机に新聞を広げた。 どこか話ができる場所はありますか」と言った。 ミズナミ銀行員刺殺される 「はい」 本日、早朝六時半ごろ、自宅マンション前でミズナミ銀行に勤 織田は、審査第一部の応接に北沢を案内した。 務する北沢敏樹さん ( 四八歳 ) が、何者かによって刺殺された。 応接と言っても狭い。通路の一角をパーティションで区切っ 警視庁と高井戸署は、捜査本部を設置し、殺人事件として捜査ているだけだ。中にはソフアと小さなテープル。織田は、固い を開始した」 表情でソフアに座り、北沢と向き合った。 北沢の真面目そうな顔の写真が小さく掲載されている。 北沢は、自分の名刺をテープルの上に置いた。 織田は全身の震えが止まらない。額から汗がにじみ出てくる 「コンプラ部の方が、どういうご用件でしようか ? 」 ような気がする。 織田は訊いた。 新聞をその場に放置したまま、織田は、本店の外に飛び出し 北沢とは、初対面だ。こうやって近くで向き合うと、陰気さ てしまった。何かに突き動かされているかのように急いでいた。 かより強く伝わってくる。 そしてこの喫茶店に逃げ込むように入り、柳井に電話をかけ 「審査部ではどういうご担当をされているんですか」 たのだ。柳井は電話に出ない。織田はメッセージを送った。「北 北沢は、なにやら一般的な質問をした。 沢が死んだ。殺された。至急、会いたいーと。 「私は新宿エリアの支店を担当しています。そこから上がって 来る案件の審査です。あの : ・ 、時間がないんで、何か特別な 北沢と織田が初めて会ったのは、いつだっただろうか ? 確用があるんですか」 か二カ月前だ : ・ 織田が顔をしかめた。 北沢は突然、審査第一部に訪ねて来た。 北沢は、織田の苛立ちが分かっているに違いないが、それを 「織田健一審査役はいらっしゃいますか」 表情に表さない。 受付で言う声が耳に入った。 織田は、警戒した。この男は事情聴取に慣れているに違いな 織田は、すぐに立ち上がって、「はい、 何か ? と答えた。 受付を見ると、真面目と一言うより陰気な雰囲気を漂わせた男 コンプライアンス統括部は、行内における法令順守を担当し が、こちらを見つめていた。 ている。言わば行員に規律を守らせるセクションだ。そのセク 嫌な感じがした。 ションの人間が、訪ねて来たということは、織田に法令違反の 警戒しながら、近づくと、「コンプライアンス統括部の北沢と疑いがあるということではないのか 195 抗争ーー巨大銀行が溶融した日
記者レクとは、記者会見ではないが、記者の質問に答えると 「私的な怨恨ですか ? それとも仕事が絡んでいるんですか ? いうものだ。 「何も分かりません」 通常、社会部記者は、日銀記者クラブに出入りすることはな 「殺された北沢さんはどんな人でしたか」 。しかし、社会的事件などが発生した際は、なんとか頼みこ 「 : : : 真面目な行員でした。こんなことになるなんて痛恨の極 んで日銀記者クラブの会見に顔を出し、質問することがある。 みです」 今回もなんとかもぐりこむことができた。もっと他社が来て 「どんな仕事を担当されていたんですか」 いると思ったが、思った以上に少ない。顔なじみの社会部記者「コンプライアンス統括部の次長でした」 もいない。 「それはどんな仕事ですか」 不安になってくる。少ないということは、今回の事件に関心 「銀行の仕事がコンプライアンスを守っているかを点検する部 がないのか、それとももっと違う情報ル 1 トがあるのでわざわ署です。 ざ記者レクにもぐりこまなくてもいいとい、つことなのか 「客から恨みを買う部署ですか ? 記者クラブの入り口に記者が集まっている。いよいよ広報が 「それはないと思いますー 来たか 次々と投げかけられる質問に若い広報部員が沈痛な表情で答 清原は、立ち上がって入り口に向かって歩き始めた。 える。内容は全く何もない。 二人の男が記者に囲まれている。ミズナミフィナンシャルグ 総会屋 ? 清原の頭にふと浮かんだ。それは某編集委員がロ ル 1 プの広報なのだろう。 にした一言だった。 二人の内、若い方か配っているリリースへノ ーを奪い取っ ミズナミフィナンシャルグル 1 プを構成する大洋産業銀行は、 今から十六年前の一九九七年に総会屋に利益供与をし、東京地 「たいしたことは何も書いていないな」 検に摘発されて多くの逮捕者を出すという金融スキャンダルを 清原は吐き捨てた。そこには、事件があったという事実と、 起こしている。某編集委員は、その時、現場の取材にあたった 捜査に協力しますというお決まりの文句だけだ。これではなん経験があった。清原が、今回の事件のことを訪ねると、総会屋 の腹の足しにもならない。 事件の亡霊が出て来たんじゃないかな ? と小さく言った。ど 「犯人の目星はついているんですか」 ういう積りで言ったのかは分からないが、清原の頭の中にその 清原は、記者に囲まれている広報部員に訊いた。 言葉が残っていたのだ。 「まだなにも分かっていません」 「総会屋事件が原因しているってことはないですか」 清原の質問を契機に他の記者が質問を発し始めた。 清原は、ひときわ大きな声で言った。 江上剛 182
てきているらしい 「わかった。いいだろう」大河内はうなずく。それから、「鎌谷 「通行中の車のフロントグラスを突き破っている、そうだ。も選手、きてくれ」と鎌谷を呼び戻す。 鎌谷は呼ばれるまでもなく社内電話を切るのももどかしそう しもし、崎本さん、救急車、取り急ぎ、呼んでください。人命 に飛んできた。 優先です。はい、はい、お願いします。鎌谷選手を向かわせま 「単なる事故にしても大事になっている」と大河内は鎌谷に手 すんで、よろしく。すぐまた、かけてください、はい、はい。 短に説明する。「真嶋くんの捫んだ、例の、無差別同族殺戮とい ではいったん切りますー ( ししか、もし関連があるとすれば、こい うやっと関係なけれよ、 「落下した人が車に当たったんですか。その、投げ落とされた つは大事件だ」 とい、つ人が ? ・」 「大スク 1 プですーと真嶋。 「そうだろう。車は歩道に乗り上げてクラッシュしているらし 直接真嶋のその言葉に応することなく、大河内が言う。 おおごと 「崎本さんがいい絵を撮ってくれてるといいんだがな」 「大事じゃないですか」 「特区内での事件事故は滅多に起こらない。こんな事故はめず「記者時代には社長賞を何度か取った敏腕ですよ、局長は。い や前局長は」と鎌谷。「そこはぬかりないでしよう」 らしい。まさに大事、大事件だ」 「そうだな」 「自分も行かせてください、お願いします 「血が騒いでるに決まってる。じゃあ、庶務でもらって、 大河内デスクは大部屋を見やり、それから真嶋に目を戻した。 その足で向かいます」 どうしようかと迷っているのだろう。 「真嶋選手を連れていってくれ。文化部代表だ」 「デスク、呉とわたしは実際に会ってます。彼が被害者であれ、 「了解です」と鎌谷。「うちのデスクにも言っておきます 落とした人間であれ、全然関係ないのだとしても、わたしなら 鎌谷はすんなり大河内の言葉に従う。 確認できます」 「例の〈地球の意思〉に詳しい人間を呼んでくれるかーと大河 「こちら本部でも」と大河内。この大部屋のことを〃本部″と いうのも大河内の言い方だ。「〈地球の意思〉とこの件との関連内。「編集会議に必要だ」 「新人がいいな」と鎌谷。「お 1 い、立花、ちょっとこい。しし を知る人間が必要だろう。とくに、いま起きているヤマはきみ から、突発だ、早くこい が取ってきたやつだぞ」 トッパッという言い方は突発対応ともいう。報道部門での符 ヤマを取ってきたーものすごく嬉しい言葉だが喜んでいる 丁、隠語だ。真嶋にはあまりなじみがなくて、ちょっとした疎 余裕はなかった。 外感を味わう。 「だからこそ、わたしに現地に行かせてください、デスク」 神林長平 122
イドの裏返しとして、無罪判決を酷く恐れる気持ちを抱いてい うに警察の見込みが外れ、冤罪を生んでしまうことも、あるの ます。日本の裁判所 ( ー こよ自白の証拠能力を高く評価する傾向がです。ですから、やはり捜査は『疑わしきは罰せず』という推 ありますから、有罪を確実にするために、取り調べのときはい 定無罪の原則に則り、行われるべきでしよう」 つも、何がなんでも割るーあ、検察では自白を取ることを『割「う 1 ん、でもなあ。推定無罪だからって、疑わしいやつらを る』と言うのですがーそのつもりで臨んでいました。たぶん、見逃していたら、犯人を逃すことになりませんか ? 今回の事件の捜査関係者もそうだったのだと思いますー 「そうかもしれませんね。しかし、だからといって冤罪を生ん 検察を辞めたことを「逃げ」と言われれば、そのとおりだとでいいことにはなりません。近代刑事司法の大切な理念の一つ むこ 篠岡は思っている。 に『無辜の不処罰』というものがあります。これは『たとえ一 しかし、ときに逃げることか正しいとい、つこともあるだろ、つ。 〇人の真犯人を逃すとも、一人の無辜を罰するなかれ』という 俺は確かに逃げた。あのまま、あそこにいれば、いっか、無格言で言い表されます」 実の人間を割ってしまうんじゃないかと思えた。それが恐ろし 「『それでもボクはやってない』の最初に出てくるやつですよ かった。だから、逃げたのだ。 「でも、中には嘘をついてしらを切っているやつもいるんです 女性アシスタントが、少し前に話題になった痴漢冤罪をテ 1 よね ? 」 マにした映画のタイトルを口にして合の手を入れた。 篠岡と同じくコメンテーターとして出演しているロひげを生 「そうです。あの映画は、まさに無辜と言うべきなんの罪もな きたはらこう じゅうりん やし丸いサングラスをかけた男が口を挟んだ。喜多原哮という い善良な市民の生活が、司法により蹂躙される様を描いたもの ノンフィクション作家だ。 です。喜多原さんだって、ある日突然、やってもいない罪を着 「取り調べが厳しくなるのは致し方ない部分もあるんじゃない せられて、処罰されたくはないですよね ? ですか ? 」 水を向けると喜多原は苦笑しながら、同意した。 台本どおりだ。細かいやりとりまで事前に決めているわけで 「そりゃあ、そうですな」 はないが、この喜多原は、篠岡のコメントに疑問を投げかける 「特に日本には死刑制度があるわけですから、冤罪があるとい ことになっている うことは、罪のない人が国家に殺される可能性があるというこ 「はい。実際、罪を逃れるために容疑を認めない悪質な犯罪者とに他なりません。事実、袴田事件で容疑をかけられた男性は、 はいます。まあ、警察だってさすがに当てずっぽうで逮捕して執行されなかったものの死刑判決を受けているのです。ですか いるわけではないので、被疑者が否認していても、ほとんどのら、警察や検察は自分たちがときに間違いを犯すことを自覚し、 場合は、クロ、犯人ではあるのです。しかし、ときに今回のよ もっと謙虚に捜査を進めることが 葉真中顕 74
森謙介は、そんなものに劣情を催すような余裕はまったくな やがて、一件目の犯行現場のすぐ近くに住む四一歳の男性が、 く、突如として現れた非日常を前に腰を抜かし、自分のものと有力な被疑者として捜査線上に浮かんだ。男性に容疑がかかっ 思えないような甲高い悲鳴をあげた。 たのは、まず被害者たちの証言から作成した似顔絵によく似た 一〇月九日、五時五七分のことだった。 ひげ面だったからだ。さらに県警が調べを進めると、男性はレ ンタルビデオショップで学校の制服を着た女性がレイプされる という内容のアダルトビデオを頻繁に借りており、また、二件 の事件が発生した時間、どちらにもアリバイがないことが分かっ ひど 、ロ、 0 酷い。あまりにも酷し てきた。 スタジオに設置された大型モニターに流れる映像を眺めなが 県警は男性に任意で事情聴取を行い、その際、気づかれない しのおかしゅうじ ら、篠岡修司はそう吐き捨てたくなるような気分を味わってい ように被害者たちに顔を確認してもらう、面通しを行った。す ると、二人とも、犯人と似ていると証言し、これを受けて警察 モニターの画面には、法廷のイラストが映し出され、そのバッ は男性の逮捕に踏み切った。 クに、男性のナレーションが深刻めいたト 1 ンで流れる。 逮捕された男性は当初「身に憶えがない」と潔白を訴えてい 〈ーそして、裁判では違例とも言える無罪求刑が行われ、担たが、」 川事たちが厳しく取り調べたところ、犯行を自白。長野 当検事は、被告人の男性に頭を下げて謝罪の言葉を述べたとい 地検の担当検事はこの男性を、強制猥褻罪と強姦罪で起訴した。 、つ〉 このときまでは、誰もが、この男性が犯人であることを疑わ えんざい 先週、被告人の無罪が確定した、冤罪事件のあらましを伝えず、裁判でも有罪判決が出ることは確実視されていた。 るだ。 ところが、まだその公判中だった先月末、隣の新潟県で発生 今年の始め、長野県長野市で、婦女暴行事件が一一件連続で発した別の婦女暴行事件で逮捕された男が、余罪としてこの二件 生した。被害に遭ったのは、、 しずれも下校中の女子中学生で、 を自白してしまったのだ。新潟県警からの問い合わせを受けた ひとけ 部活などで帰りが遅くなった日に、人気のない路地を歩いてい 長野県警が、再度、証拠を精査してみたところ、どちらの犯行 たところを、ナイフを持ったひげ面の男に襲われたという。 現場からも、同一人物のものと思われる毛髪が発見されており、 犯人の見た目に加え、ナイフを突きつけ「少しでも声をあげその型が真犯人の男と一致した。 たら殺す。すぐ済むから、黙ってろ」と脅してことに及ぶとい かくして、最初に逮捕された男性は当初主張していたとおり、 う手口が、まったく一緒だったため、長野県警は同一犯による事件とは無関係であり、やってもいない犯行を自白させられて 連続婦女暴行事件とみて捜査を進めた。 いたことが明るみになった。 、」 0 わいせつ 葉真中顕 70
第 五 章 思 柿沢は、北沢を記憶していた。コンプライアンス統括部の次 長をしていて、反社会的勢力との取引に関する謝絶対応などを しかし悪い印象はない。 担当していた。真面目で、やや暗い。 いわゆる銀行員らしい銀行員だった。派手さのない実直な行員 だったよ、つに思、つ。 金融検査は、ほば終了したが、その際、最も関心があったの は、ミズナミ銀行のコンプライアンス態勢についてだった。特 に反社会的勢力に対する対応については柿沢自身で関係者のヒ ニ〇一三年六月ニ十七日 ( 木 ) 午前九時 0 〇分 ( ミズナミ銀行ャリングを実施した。 この件に関しては近年、社会的な関心が高い。少しでも彼ら 本店 ) かきざわひろし と関係しようものなら社会から猛烈な批判を浴びることになる。 金融庁の主任検査官柿沢寛は、金融検査に割り当てられたミ 些細な問題だと見逃していたらとんでもない事態、それこそ経 ズナミ銀行本店二十階の会議室にいた。 テ 1 プルの上には、コ 1 ヒ 1 を入れたポットがある。柿沢が営危機とでもいう事態を引き起こすことがある。 ところが銀行のそれらに対する危機認識は急速に薄れつつあ 持参したものだ。銀行と監督官庁である旧大蔵省との癒着が大 きな問題となり、財金分離が実施され、予算などは財務省、金る。 以前、ミズナミ銀行の前身である旧大洋産業銀行が総会屋に 融行政は金融庁が担うようになった。 それまでは接待漬けと言っても過言ではなかった金融検査の利益供与をしたという事件で大きく経営が揺らいだことがあっ た。その結果、総会屋など反社会的勢力の排除が進み、現実の 様子は一変した。銀行側からは検査官が仕事をするスペースは 日 問題として銀行が総会屋や暴力団に脅迫されるという事態が少 借り受けるものの水の一杯も提供を受けることがなくなった。 し 融 なくなったからだ。 それ以来、柿沢は自宅からコーヒ 1 を持ってくるようにしてい 総会屋という言葉も死語になった : ・ る。この方が気楽でいいと思っている。 柿沢は時代の移り変わりをしみじみと実感する。それにつれ銀 「まだ来ませんね。何をやっているんですかね」 巨 てどの銀行の対応も形式的に過ぎると最近、憤りにも似た思 検査官の蛭田克也がいらついた様子で柿沢の席にやってきた。 いを抱くことがある。 手には新聞を握りしめていた。 新聞には、ミズナミ銀行の行員が殺害されたという事件が掲「災害は忘れたころにやってくる」。柿沢は、この諺を銀行関係抗 者に思い出して欲しいと思っている。そのため金融界における 載されている。被害者は、北沢敏樹という行員だ。 ひるたかつや きたざわとしき ことわざ