瑛太 - みる会図書館


検索対象: 小説トリッパー 2014年冬季号
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1. 小説トリッパー 2014年冬季号

「うん、一人。 ここでまた由梨絵が割って入る 「人工岩は上へ行くに従って初級・中級・上級と分かれていて、 園児でも初級クラスなら安全なので、親も止めてないんですー 弁解がましく聞こえるのは、瑛太を一人で外出させたという 罪悪感があるからだろう。由梨絵の気持ちは理解できるので、 凜は聞き流すことにした。 「それで、岩を登っている時に出たんだ」 「大が出たのね。その大はどこから出てきたの」 「山の上から下りてきた」 「瑛太くん目がけて下りてきたのね 「うん、そう」 「どんな大だった ? 「えっと : : : 」 瑛太は再び考え込む。 「 : ・・ : 僕よりすっと大きくてねー 瑛太の身長は一〇五センチ。それよりも大きいのなら中型大 といったところか 「このくらい ? 凜が両手で一メ 1 トルほどの長さを示すと、瑛太はぶんぶん と頭を振る。 「違う違う ! もっと大きい ? 「じゃあ、これくらい ? 「もっともっと」 「これくらい ? 「もっと」 問答を続けていくうちに両手の幅は一メートル半ほどにもなっ 「うん。それくらいだった」 「毛は何色だった ? 」 「えっと : まなじり 言いかけて瑛太はロ籠る。見かねて由梨絵が眦を上げた。 どうてん 「あの、本人はまだ襲われたショックで気が動しているんで す。そんなに矢継ぎ早に質問されても上手く答えられつこあり ません。 由梨絵の言うことはもっともなので、凜は押し黙る。 「 : : : 茶色」 しばらくして瑛太はばつりと洩らした。 「茶色なのね」 「うん。ちょっと薄い茶色ー 「瑛太くん、大の種類って分かる ? 先生が言ったシェパ 1 ド とかレトリー 1 とか柴大とか」 瑛太はゆるゆると首を振る。そう言えば幼稚園でも、まだ大 猫の種類は教えていない こんな時、凜は歯痒いような思いに囚われる。小学校に上が る前から九九や簡単な計算を教えるのに、動植物の名称や種類 あまた は教えなくてもいいと指示される。種類が数多あるのにイヌと そら しか言えない子供が九九を諳んじるというのは、教育として偏っ を 唄 ているのではないか。それとも凜の教育観が狭量なのだろうか の 君 とにかく後から図鑑でも見せて種類を特定しておくべきだろ う。警察に通報するかどうかはさておき、園児や保護者の注意闘 を喚起するには情報をより精緻にしておいた方がいい

2. 小説トリッパー 2014年冬季号

絢音の尾行に失敗した次の週、今度は塾に遅れることなど比な重傷ではなかったらしい 較にならないような事件が起きたのだ。 受付で身分を明かし、瑛太の名前を出すと病室を教えてくれ 知らせは園児を送り出した後にもたらされた。凜たちがそのた。関係者に余計な心配をかけさせないためか、受付事務員の 日の日誌を作成していると、京塚が職員室に飛び込んで来たの顔色からは瑛太の状態が推し量れない 気が急くが足が追いっかない。病院備えつけのスリッパでは 「凜先生、園児にトラブルが発生しました」 思、つよ、つに走れない 京塚は冷静を装おうとしていたが、緊張が言葉の端々に出て 焦りと苛立ちを堪えながら教えられた病室に辿り着く。引き とみざわゆりえ いた。だが凜の方はもっと緊張した。 戸を開けると、そこに瑛太と母親の富沢由梨絵、そして中年の 「誰ですか」 医者がいた。おそらく彼が妹尾医師だろう。瑛太はと見ると、 「瑛太くんです。今、母親から連絡があり、どうやら野大に噛右手首から先が包帯で覆われている。 まれたらしく : 「あ、凜先生 , 「どこでですか ? 傷は浅いんですか、本人は大丈夫なんです 瑛太が気の抜けたような声で反応した。その声と表情から察 するに、やはり大事には至らなかったようだ。 「それが母親もひどく興奮した様子で要領を得ないのです。お 安堵感とともに緊張の縛めが解け、全身からカが抜けた。だ 手数ですが凜先生、今から病院まで見舞ってもらえませんか」 が瑛太の右手に目がいくと、その物々しさに再び不安が呼び起 凜の方に否やはない。い こされる。 や、たとえ行くなと言われても行っ ただろう。瑛太が担ぎ込まれた病院名を訊き出すと、凜は職員「わざわざ駆けつけていただいて申し訳ありませんでした」 室から飛び出した。 由梨絵は申し訳なさそうに頭を下げる。彼女とも何度か顔を 既に外はしん、とした寒気に包まれていた。途端に肌が冷や合わせているが、一人息子ということもあってか瑛太を溺愛し きよ、つだ される。そして胸の中は怯懦で冷える。瑛太はどちらかといえ ている。こうして担任に頭を下げていても、視線は息子の右手 ば俊敏さに欠ける子供だった。その瑛太が野大に噛まれた。何に引き寄せられている。 かのきっかけで野大に追いかけられた挙句に襲われたのだ。そ 「わたしったら慌ててしまって、すぐ幼稚園に連絡してしまっ を の時の本人の恐怖を考えると居ても立ってもいられない。 たんです。何しろ家に戻ってきた時には出血していたものです唄 君 教えられた先は団地の近くにある個人経営の妹尾病院だった。 から : : : それで診ていただいたら、出血はしているものの傷は 予想していたよりもずっとこぢんまりとした構えで、凜は少し浅いということなので : だけ胸を撫で下ろす。少なくとも大きな病院に搬送されるよう 声は消え入りそうだった。担任の凜も気が気ではなかったが、 せのお こら

3. 小説トリッパー 2014年冬季号

やはり母親の心痛とは比較にならなかったらしい 「瑛太くん、今、お話できる ? 」 「大丈夫、瑛太くん」 「うん、 いいよ」 「うん」 「野大に襲われたって聞いたけど、その時のことを詳しく教え 瑛太は無邪気に包帯だらけの右手を掲げてみせる。 て。場所とか、どんな大だったとか , 「包帯取れるまで、こっちの手は使えないんだってさ。ごはん まだその野大が捕獲されていないなら、二人目の被害者が出 食べる時、どうしよっか」 る可能性がある。襲撃された場所と野大の特徴を把握しておく 「一週間もそうしていれば傷口も塞がるよ。それまで不便だろ のは、さしあたっての優先事項だ。 うけど我慢しなさい」 「えっと 傍らに立った妹尾医師は母子の不安を和らげるように穏やか 瑛太は俯き加減になって唇を尖らせる。そうやって記憶を辿っ な口調で話す。この医師なら信頼できそうだと思わせる話しぶ ているようだった。こういう時は焦らせない方がいいので、凜 りだった。 は黙って瑛太のロが開くのを待ち続ける。 「先生、瑛太くん、相当噛まれたんですか」 「えっと : : : 幼稚園から帰ってきてさ」 「このくらいの齢の子は男子でも皮膚が柔らかいからね。シェ 「うん」 パ 1 ドとかの猟大に噛まれでもしたら牙が骨に達することもあ 「人工岩に遊びに行った」 る。だけど今回はそれほど深い傷じゃなかったから幸運だった。 「人工岩 ? それは何」 まあ、実を言うと怖いのは傷の深さよりは感染症なんですけど すると、この質問には由梨絵が反応した。 ね」 「神室小学校の裏手はご存じですよねー 「感染症 ? 凜も話を聞いたことがある。神室小学校はマンションから五 まみ 「大や猫は雑菌に塗れている。傷口からどんな菌が侵入するか百メートルほど離れた場所にあるが、元々山林を切り拓いて造 分かったものじゃない。加えてその野大が狂大病だった可能性成地にした関係で裏手がすぐ山裾になっているらしい。 もある。でもワクチン接種したから、危険はありませんよ」 「山肌が露出したままでは危険なので、町が山肌をコンクリ 1 「富沢さん、瑛太くんを噛んだ大はまだ捕獲されていないんで トで固めて天然のアスレチック場にしたんです。在校生だけで すよね」 なく団地の子も遊び場に利用しています」 問い掛けると、由梨絵はカなく首を振った。 「細い樹が生えているし、上からロ 1 プも垂れてるから登りや 「警察には届けられましたか」 すくて面白いんだよ」 この問いにも首を振る。 「それで ? 瑛太くんは一人だったの」 うつむ 中山七里 252

4. 小説トリッパー 2014年冬季号

「それで、山から下りてきた大がいきなり襲いかかったのね」 そう提案すると、瑛太は渋々ながら頷いてみせた。 「うん。僕に飛びかかってきて右手を噛んだ」 瑛太から得た情報を纏めて、一刻も早く警察に届け出よう。 「岩を登っている最中だったんでしよ。よく転げ落ちなかった さてこの場合、警察のどの部署に被害届を出せばいいのか ね」 そこまで考えた時、妹尾医師が見透かしたように言った。 「うん : 「多分、警察では扱ってくれないと思いますよ。事故でも事件 「何かにまってたのー でもなし、大を追いかける刑事もいなさそうだし。この場合は 「 : : : うん : : : 樹。樹だよ。樹にまってたから落ちなかった保健所でしようね」 んだよ」 勘違いに赤面しそうになる。案外、一番気が動顛しているの その回答に何となく釈然としないものを感じたが、きっと瑛は自分なのかも知れなかった。 とっさ 太には似合わない俊敏さが意外に思えたからだろう。咄嗟の時、 神室町保健所を訪れ、受付の職員に事情を説明すると生活衛 人間は予想もしない能力を発揮するものだ。 生課を案内された。 「先生、明日からしばらく瑛太は休ませようと思います。まだ そして生活衛生課にいた男性職員は凜の話を聞いた後、物憂 ショックが残っているでしようし、包帯も取れないので」 げに腕組みをした。 由梨絵がそう申し出ると、瑛太は慌てたように母親を見た。 「それであなたは、園児を襲った野大をどうしろと仰るんです 「ママ、僕、明日も幼稚園に行くよ」 「だって瑛太 : ・ 「えっー 「もう大丈夫。片手が使えなくってもお友達に助けてもらうか 「保健所は大猫を殺処分しますが、野大を狩る部署ではありま ら。ねつ、 いいでしよ」 せんよ。まあ、その野大が狂大病だというのなら駆除の必要も 息子に懇願され、由梨絵は困ったように凜を見る。担任から 出てくるでしようけど、ただ子供が野良大に噛まれたからといっ も説得してくれという目をしていた。妹尾医師の方は特に深刻 て、山狩りをするようなことはしません な顔はしていないので、明日からの登園も構わないということ 「でも、また同じことが起きるかも知れないんですよ」 なのだろう。 「動物愛護法というのを知らないんですか。たとえ野良大であっ 「じゃあね、瑛太くん。明日一日だけじっとしていようよ。明 ても、無闇に殺したらそっちの方が罪になるんですよ」 日おウチにいて、噛まれた方の手が何ともないようだったら次 凜は被害に遭った瑛太の具合を訴えたが、職員は法律を盾に の日から幼稚園に来る。風邪ひいた時も、お熱が下がったから管轄違いを述べるだけで、話は全く進展しない。最後には皮肉 といってすぐにお外へ出ることはしないでしよ。それと同じ」 さえ浴びせられた。 つか か」 うなず 中山七里 254

5. 小説トリッパー 2014年冬季号

与えました。これは獣医さんからお聞きしたんですけど、クマ それで同じ団地に住む栞ちゃんに相談を持ちかけたんです。栞 というのは一度エサにありつくと、その場所をエサ場と認識すちゃんから瑛太くん、瑛太くんから仁希人くん、そして仁希人里 る習性があるそうです。つまりそれが餌付けになってしまった くんから大河くんへと輪が拡がるのはあっという間でした。子山 中 んですね。子グマは決まった時間になると団地の付近まで下り供たちにしてみれば子グマなんて動物園でしかお目にかかれな てくるようになりました。これがその子グマの写真です」 いものだから、すぐ夢中になってしまいます。ただみんな利ロ 凜はサイズに拡大した写真を皆の前に掲げる。手足が短な子なので、大人たちに子グマの存在を知られたら叱られるこ く、ころころとした黒い毛の子グマ。期せずして若い母親から とを知っています。だから五人で秘密を護ろうとしたんです。 「やだ、可愛い , との声が上がる。 ところがある日、不測の事態が発生します。瑛太くんが子グマ 「ツキノワグマの子供だそうです。本来この時期は冬眠を控え に噛まれてしまいました」 てたつぶりと食事をしなきゃいけないのですが、山中のエサが 由梨絵の顔が微妙に歪む。 ふもと 窮乏しているため、麓まで行動範囲が拡がったようです。普通 「本人に確認すると、瑛太くんの手にエサが付着していたとこ なら母グマも一緒に行動しているはすですが、今回子グマが単ろ、子グマが見境なしに噛みついたらしいです。大河くんの時 独で行動したのは、おそらく何かの事情で母グマと別れてしまっ も同様で、やはり手に付着したエサに飛びついたようです。きっ たのではないか、と獣医さんは言っておられました」 と折り悪しく子グマも相当にお腹を空かしていたのでしよう。 いぶか 凜は獣医から聞いたことをそのまま保護者たちに伝える。 こう聞くと、どうして同じ失敗を繰り返すのかと訝る親御さん 元々、人間の生活領域とクマの生活領域は緩衝地帯を挟んでもいらっしやるでしようけど、わたしたち大人だってよく同じ はっきり分かれていたので、両者が出くわす確率は低かった。 過ちを繰り返すことがあります。このことで子供たちを一概に ところが昨今は人間が里山を利用しなくなったためにこの緩責めるつもりにはなれません」 衝地帯が消滅してしまった。加えて人間が無計画にスギやヒノ 保護者の何人かが、仕方ないという風にこくこくと頷く。 キといった針葉樹を植林し続けたため、クマの食料である広葉 「瑛太くんは怪我をして妹尾病院に担ぎ込まれました。当然、 樹の木の実が急激に欠乏した。エサを失くしたクマとしては人先生やお母さんから事情を訊かれますが子グマのことを打ち明 間のテリトリ 1 まで足を拡げざるを得なかったという訳だ。 ける訳にはいきません。それで野良大に噛まれたと嘘を吐いた 「雑食性であることも幸いし、子グマの食欲はどんどん旺盛に んです。一番もっともらしい話ですからね。でも、大きさとか なっていきました。絢音ちゃんが塾に遅れるようになったのは、 色とか襲われた場所を訊かれると急に慌てました。下手なこと 子グマのエサやりが日常化してしまったからです。ただ絢音ちゃ を言ったら子グマを匿っていることが知られてしまうと思った んもそうそう冷蔵庫から食べ物を持ち出す訳にもいきません。 そうです。茶色の大型大、襲撃されたのが人工岩というのは咄

6. 小説トリッパー 2014年冬季号

「聞いていたら、その子の言葉も少し怪しくないですか。野大たされている者に皆が手を差し伸べてやれば、卑屈や絶望は生 きっと争いも起こらないだろう。 まれない。断絶も起こらない かいきなり飛びかかってきたって。普通、野良大だって訳もな いや、それどころか助け合う心が新しい社会を創る可能性もあ く人を襲ったりはしないものです。案外、その子が石を投げる る。 とか棒で叩くとかして苛めたんじゃないですか しかし、そんな希望を垣間見た日の終わりに一報がもたらさ 聞き終わらないうちに腹が立った。 れた 「動物を苛めるような子じゃありません ! 」 「二人目が襲われました : : : 」 それは日頃から瑛太の振る舞いを見ている自分が、自信を持っ て言えることだった。 職員室に入って来た京塚は、この上なく沈痛な面持ちだった。 瞬間、凜は椅子を弾き飛ばす勢いで立ち上がった。 結局、職員とは物別れになり、わざわざ保健所まで出向いた 「今度は誰ですか , ことは徒労に終わった。すぐ考えつく予防策といえば園児たち を人工岩付近には立ち寄らせないことだが、それはあくまで対「菅沼大河くんですー 名前を聞いて、凜は軽い眩暈を覚えた。 症療法に過ぎない。 また星組の子供がやられた。 いずれにしても凜一人で解決できる問題ではないので、明日 にでも園長とまりかたちを交えて検討する必要があった。 「小学校の隣にある神社で大に襲われたそうですー 「た、大河くんはどうなりましたか」 だが、事態は凜たちにじっくりと検討する間すら与えてくれ なかった。 「前回と同様に手を噛まれましたが、命に別状はないそうです。 今は病院で手当てを受けている最中とか」 瑛太が襲撃された翌々日、二人目の被害者が出たのだ。 「わたし、今から行ってきます。病院はどこですか . 「狭い町ですからね。担ぎ込まれたのは前回と同じ妹尾病院で その日は瑛太が二日ぶりに登園し、星組の皆が気遣いを見せ てくれるという嬉しい日だった。右手の使えない瑛太の代わりす。しかし、今すぐ見舞いに行くのは控えた方がいいでしよう」 「どうしてですか」 に物を取ってくれる子、傷の具合を心配そうに訊いてくる子な 「菅沼さんが非常にナ 1 バスになっている模様です。園の関係 ど入れ代わり立ち代わりやって来る。栞に至っては給食時にス プ 1 ンを口まで運んでくれたが、さすがにこれは他の男児たち者と顔が合えば、不必要なトラブルが生じるかも知れません」 指摘される前から、菅沼恵利の顔は眼前にちらついていた。 からプーイングを浴びせられた。 いにしえ かな 仲良きことは美しき哉ー古の小説家の言葉だったと凜は記普段から凜に対しては攻撃的な物言いをする母親だ。気の立っ ている母猫に触れるようなもので、引っ掻かれるのは目に見え 憶しているが、本当にそうだと思う。困っている者、苦境に立 めまい 255 闘う君の唄を

7. 小説トリッパー 2014年冬季号

「あのさ、それ、カ入れ過ぎだよ。嫌がってるじゃん」 山狩りに出ていることは知っているでしよ。こんな大騒ぎになっ 「文句なんて言ってないじゃない たら、護れる秘密も護れなくなっちゃうよ。今回は瑛太くんと 「言えないからだよ 大河くんの作戦ミス」 やはり自分の推測した通りだった。 「ちえっ 凜は足音を殺すのをやめて五人に近づく。 大河は唇を尖らす。以前は自分を護れなかった時に曲げられ 「あっ、先生」 た唇が、今は自分以外を護れずに悔しがっていた。 最初に気づいたのは瑛太だった。その声で他の四人も一斉に 「見せて、絢音ちゃん」 こちらを向く。 凜は彼女を見下ろす場所に立つ。 「凜先生 : : : 」 「見せてくれたら、助けてあげられるかも知れないよ。それと、 「ど、つしてここに」 それからあなたたち全員を 仁希人と栞はひどく怯えた顔をした。 「 : : : 本当に ? 「もしかして俺たちを見張ってたの ? 」 「そうなるように頑張ることは約東する」 大河は不機嫌そうに睨んでいる。 絢音はおすおずと身体をこちらに向ける。 そして絢音は凜に背中を向け、それを自分の身体で覆い隠そ 少女の陰に隠れて一心不乱にエサを食べていたのは、全長五 、つとしていた。 十センチほどの黒い子グマだった。 「五人ともみ 1 つけた」 凜は努めて明るい声で語りかける。絢音を除く四人は文字通 「クマ ? その子たちはクマを飼っていたんですか」 いたすら り悪戯を見つかった子供の顔だ。どこか情けなく、そして抱き 見城会長はそう言うなり口を半開きにした。彼女だけではな 締めてやりたいほど可愛い。 。集合していた保護者会の面々は一様に呆然としていた。 「なあにしてるのかなあ ? 一連の野大騒動は子供たちによる狂言だったー園からの連 凜が近づけば近づくほど子供たちは絢音を庇うような形で集絡を受けた見城会長は急遽、臨時会議を開いたのだが、狂言を まる。この期に及んでもまだそれを護ろうとする気持ちが、凜企てた子供たちの中に自分の娘が混じっていることを知り、絶 は堪らなく誇らしい 句したものだ。 「先生、どうせ知ってるんでしょ 栞の母親、西川京子はまだ半信半疑だった。 瑛太の声はひどく切実に響いた。 「大体、クマなんてもっともっと山奥に生息しているものじゃ 「大体のことはね。でもね、あなたたち。お父さんたちが毎晩ありませんか。それがどうして、あんな住宅地の近くに」 中山七里 2

8. 小説トリッパー 2014年冬季号

その時、凜の携帯電話が着信を告げた。表示を見れば妹尾医 器を携え、山野に分け入って行った。幼児を殺すようなャツは 師からだった。 浮浪者のような流れ者に決まっている。早く引き摺り出して、 「はい、喜多嶋ですー 子供の仇を取ってやれ つまりその時に行われた山狩りとは犯人の捜索というよりも 『依頼された調査の件、結果が出ました。電話で伝えますか ? 』 依頼していたのは個人的な動機で調べてもらったものだ。少 〈不審者の排除〉という性格を持っていた。自ずと捜索隊は自警 なくとも現時点では他人に聞かれたくない。 団の様相を呈し始めたのだ。 「いえ、今からそちらへ伺います , 「幼い園児を続けて殺すんだから、犯人に同情の余地はない。 しぎやく 同情の余地がなくなれば残るのは憎悪と嗜虐心だけだ。自警団 と言えば聞こえはいいけど、要はリンチ集団だ。参加していた 院長室では妹尾医師が待っていた。 人の話だと、犯人は警察に逮捕されてむしろ幸せだったって。 「二人の様子はどうです。何かに感染したような症状は現れて いませんよね ? もし捜索隊に捕まっていたら、嬲り殺しに遭っていたかも知れ なかったそうだ」 挨拶するより先に質問が飛んできた。きっとこういう医師は うわあ、とまりかが顔を顰める。 患者や家族から全幅の信頼を受けるに違いない。 「二人とも元気です。念のために両家とも体温や便通を見てい 「十五年前ってもうとっくに平成でしよ。信じられない [ ますが、異状はないそうです」 「そういう話に古いも新しいもないでしよう」 「それはよかった。あの年齢の子供はどうしても免疫力が弱い 舞子がばそりと呟く。 「普段どんなに行儀よくしていても、いったん箍が外れたら人から : : : ああ、そうそう。依頼された件でしたね」 間なんて感情の動物ですから」 妹尾医師は二枚の写真を机の上に置く。それぞれ瑛太と大河 舞子はよくこうした冷淡な物言いをする。冷めているのかその手に残っていた噛み痕のアップだった。 れとも達観しているのか、齢に似合わない老成さを覗かせる。 「右のかなり出血しているのが瑛太くんのもの。左の内出血で およそ幼児相手の仕事は不向きと思えるが、彼女の保育は母親歯型が赤く滲んでいるのが大河くんです。一一枚とも、彼らを治 たちから称賛されているのだから世の中は分からない。 療する直前に撮影しています。そして、この三枚目が二つの歯 「山狩りで何の罪もない大がとばっちりを受けなきゃいいんだ型を照合した結果ですー 妹尾医師の差し出した三枚目の写真は画像処理して両者を重 けど、無理かもね」 救いはないが、かなりの確率で起こりそうな話なので凜たちね合わせたものだった。 は言葉を失う。 「これを見る限り歯型は完全に一致しているようですね。そし しか なぶ たが 中山七里 260

9. 小説トリッパー 2014年冬季号

大がやってきた」 場合、あなたが勤めているかどうかなんて何の関係もない。第 「瑛太くんから大の話は聞いてるよね。大河くんを襲ったのも一、子供の安全に一番気をつけていなければならないのは、母 同じ大だと思う ? 」 親であるあなたのはずですー 「うん、同じ 恵利は唇を真一文字に閉じたまま、細かく肩を震わせていた。 大河は我が意を得たりとばかりに頷く。 「茶色でさ、大きくってさ、牙がこおんな形で生えてた。目も 同じ組の園児二人が立て続けに襲撃されたのだから、保護者 うんぬん さ、ぎよろっとしてた」 たちの間に緊張が走るのも無理はない。幼稚園側の責任追及云々 「図鑑見たら、大の種類も分かるよね」 は別として、その日のうちに臨時の保護者会が開かれた。 こ、つがい 「分かる : ・・ : と思う」 冒頭、息子が被害に遭った恵利の悲憤慷慨ぶりは大層な見も 急に自信が萎んだようだった。 のだった。髪を振り乱しながら、園児に安全を教えなかった園 「わたし、この責任を追及しますからね . と野大を野放しにしていた保健所に悪罵の限りを尽くす。横に 恵利が再び矛先をこちらに向けてきた。 いた見城会長でさえもが途中で発言を遮ったほど、その様は見 「あんな人気のないところで遊ぶなんて、日頃から幼稚園で安苦しかった。 全について教えていない証拠です。今回はこれで済んだものの、 ただし恵利の立ち居振る舞いと案件の重大性は別物だ。保護 もし頭や顔面に噛みつかれていたら、どうするつもりだったん者のほとんどが共働き夫婦であるため、園から戻って来た子供 ですかー これは園側の怠慢です。監督責任からの回避です。 を一日中監督しておくことはできない。瑛太と大河の事件は、 見城会長と協議の上、早速明日にでも臨時の保護者会を開いてそのまま自分の子供に起きても不思議ではない。しかも警察が 解決してくれる問題でもない。 「菅沼さん」 「こんな事件が起きたというのに、保健所は何の対策も講じて 恵利の言葉を冷徹に遮ったのは妹尾医師だった。 くれないのですか」 「そんなことをすれば恥を掻くのはあなたばかりじゃない。息 見城会長が詰るような口調で問い掛けるが、京塚はひたすら 子さんが恥ずかしくて友達の前に出られなくなる。お分かりで萎縮するばかりで明快な受け答えができずにいる。 を すか ? 今度のことは自宅に帰ったその後に起こったことです。 「わたしも再三確認してみましたが、保健所が自ら進んで野良唄 君 こちらの先生の責任でもなければ幼稚園の責任でもない。強い 大を捕獲することは有り得ないと : : : 被害を受けた園児が何か て言えば監督責任があるのは菅沼さん、あなただ。息子さんが の菌に侵されたというのであれば話は違うのですが」 一人で遊びに行くのをどうして見咎めなかったのですか。この 「じゃあ、保健所は何のために存在しているのですか。 しば みとが

10. 小説トリッパー 2014年冬季号

ンを入れてみましたが、見事にニンジンだけを選り分けて食べ何の変哲もないタマゴだった。ゆで方をどれだけ工夫しようと ていました。給食で食べたのはニンジンサラダということですも、根っからのタマゴ嫌いが完食するまで味が向上するとも思 えない。 が、何か特別な料理法だったのでしようか ? それとも特製の ドレッシングだったのでしようか ? 是非伺いたいと思います』 いったい星組で何が起こっているというのだろうか。まさか 凜は給食の献立を思い返してみる。スライスしたニンジンを園児たちが自分を喜ばせようとぐるになっているのか これもスライスした大根やレタスに添えた逸品で、かかってい そこまで考えて凜は大きく頭を振る。自分をからかう意図で、 うなず たのはごく普通のフレンチドレッシングだった。子供でも食べ大河が単独でしたのであれば頷けない話ではない。しかし、そ まゆっぱ られるような味付けに調整はされているだろうが、決して特別れに栞や仁希人が絡んでいるとなるとたちまち眉唾になる。特 な料理などではない。 に仁希人は人を騙して悦に入るような性格ではない。 極め付きは菅沼恵利からの返事だった。 とにかく確認が必要だ。 『先生は園児たちと一緒に給食を食べることはないのでしよう 翌日の給食時、凜は三人の挙動をそれとなく監視することに した。だが、・ か。大河は相も変わらずタマゴ嫌いで、今晩はおでんでしたが その日に限って生憎と三人が苦手とする食材は料 タマゴには箸もつけませんでした。先生からの報告もあったの理に使われなかった。三人の園児たちは黙々とスプーンを動か で勧めてみましたが、無理に食べてもどうせ戻すからと半泣き し続けている になってしまいました。優秀な担任として点を上げたい気持ち 「凜先生、何か変だよ 1 も理解できないではありませんが、園児をそういうことに利用 凜の振る舞いを指摘したのは瑛太だった。 するのはやめてください』 「どうして栞ちゃんや仁希人や大河を見てるの ? 先生、全然 読み終えた瞬間、頭に血が昇った。 食べてないじゃん」 凜は大河を誉めて欲しいと願っただけで、自分を評価しても その一声で三人が同時に顔を上げる。 らいたいとは毛頭考えていなかった。それがいつの間にか、自 凜と目が合うと、彼らは慌てた素振りでまた視線を給食に落 ねっぞう 分が事実を捏造したように思われている。 とす。 落ち着け、怒る前に考えろ。自分よりも子供たちのことを優「いや、あのね。三人とも食べつぶりがいいなあと思って」 先しろ 「凜先生だって、結構がつついてるよ」 深呼吸を一つ。それで少しだけ落ち着いた。 「 : : : そ、つだった ? 大河の食べたゆでタマゴが特別だったとは思えない。あの時「ダイエットとかしないの」 は凜も同じモノを食べていたが、ス 1 パ 1 で売っているような 「はい。 瑛太くん減点一」 亠のい 1 ー′、 えいた 中山七里 246