早穂 - みる会図書館


検索対象: 小説トリッパー 2014年夏季号
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1. 小説トリッパー 2014年夏季号

と言ったところ、他の子から「それ、すごくいいよ ! 」と背中もので、ゆかりは一人で書いたものだった。 を押された。 ゆかりに票を入れる人なんて、おそらくいない。 「そしたら、私、副委員長になる」 本人も、その自覚があったのだろう。前に立って発表しなが 当時のクラスには、委員長の下にはそれぞれ男女一人ずつ副 ら、ゆかりの肩が震え、声がたどたどしくなって、息継ぎまで 委員長がいた。話がまとまり、すっかりその気になっていた夏あやしくなった。極度に緊張して、とても最後まで発表を続け られそうもなかった。 休み近く、ゆかりが思い詰めた顔をしながら、早穂たちの席に 近づいてきた。 早穂は、普段から、面倒見がいい、と言われるタイプだった。 普段、あの子は、人気のない子だけで構成される、寄せ集め 見ていられなくなって、立ち上がり、ゆかりの背中をさすっ のようなグループにいることが多く、教室の、自分たちの席のた。まだ泣いていないけど、泣いている子を慰める時のように。 方には滅多にこなかった。二つのグル 1 プの間には、見えない ゆかりの背中は汗ばんで、それで震えていて、早穂の手を振 国境とでも呼ぶべき線があった。 り払わず、どうにか最後まで発表を終えた。 「ー早穂ちゃん、二学期の委員長、立候補するの ? 」 小声で、「ありがとう」と言われた。そのまま、俯いて、ひっ 「しないよ」 く、ひっくと泣き出した。この、すぐ泣く、というのもゆかり 咄嗟にそう答えてしまったのは、どうしてかわからない。け が周囲から煙たがられた理由の一つだ。 れど、今、大人の世界の選挙で見ても、それはよくあることだ。 選挙は大差がっき、二学期の委員長は早穂になった。 出ない出ない、と言いつつ、直前で意向を変えて出馬するよう 副委員長に立候補する、と言っていた早穂の親友は、結局選 な人たちの気持ちが、早穂は何となくわかる。 挙に出なかった。ゆかりがあまりに泣くので、先生が気を利か ゆかりは、早穂の答えを喜びはしなかった。言葉を信じた様せて「じゃあ、副委員長をしたらどうだ」と彼女に聞いたから 子もなく、何かを言いたげに唇をぎゅっと引き結んで自分の席だ。 に戻る。その後ろ姿を見て、早穂は気の毒に思った。「出ないで もう六年生だったし、周りはそこまで子供ではなかった。早穂 ほしいと思、つなら、はっきりそ、つ言えばいいのに。 の親友も、あっさり、それならば、と引き、立候補しなかった。 二学期になって行われた選挙で、ゆかりと早穂は、ともに学 早穂とゆかりは、だから少なくとも六年生の二学期、委員長 級委員長に立候補した。 と副委員長という間柄だったはすだが、その後の記憶は不思議 一一人で黒板を背に立ち、模造紙に自分の方針を書いて発表し と薄い。選挙のことだけが鮮明だ。 合う。その模造紙は、早穂は周りのみんなに手伝ってもらった 辻村深月 16

2. 小説トリッパー 2014年夏季号

早穂が自分でやらなければならない。カメラとパソコンの入っ た重たい肩掛け鞄を直しながら、広報の女性に続いて、「失礼し ます」と中に入る。 大きな応接セットと、彼女のデスクが置かれた「塾長室ーは、 さながら学校の校長室のようだった。 中には二人の女性がいた 同じ年代の女性だったが、奥の方にいるのがゆかりだ。 首周りがくしゆっとフリル状に絞られた、高価そうなプラウ スに黒のタイトスカート。なるほど、普通の生活をしていたら、 浮いてしまいそうなマダム然とした格好だ。少なくとも、早穂 にはできない。 近づいて、息を呑む。 ゆかりはじっと、入ってくる早穂を見ていた。その視線に、 早穂は少々たじろぐ。 ゆかりのような人はきっと、笑顔で「懐かしい」とか、「久し ぶり」とか、そんなふうにそっなく早穂を迎えるはずだと思っ ていた。 しかし、その顔に今、笑顔はなく、こちらを見つめる目から はどんな感情も読み取れなかった。 誰も何も言わない数秒の気ますさに耐えかねて、早穂の方か ら「お久しぶり」と声をかける。 「覚えてる ? 小諸早穂です。今は結婚して、笹本だけどー 一歩距離をつめると、ゆかりは雑誌で見る以上に雰囲気があっ た。こういうのをオーラと呼ぶのだろうか。女優みたい、とま では思わないけれど、明らかに特別感がある。 こんにちは」 ゆかりか、ようやく口を利いた。テレビで聞く時と同じ声だ。 ただ、その声にテレビで見せるような明るさと快活さがない。 早穂は、「取材、受けてくれてありがとう」と微笑む。けれど、 ゆかりは答えなかった。 その様子を見て、微かに息が苦しくなった。 私には、何も気後れするところはないはずで、バラされ たり、触れられれば困る過去を持つのは彼女の方なはすだ。 私は気にしていないけど、ひょっとすると、こちらが思って いた以上にゆかりはまだ気にしているのかもしれない。 だとしたら、気にしなくてもいいのに、と痛々しく思う。 今日は早穂としても、仕事として通常通りの質問をするだけ で、そこに彼女の過去のことを暴いたり、蒸し返したりという 気持ちはない。面と向かってそう伝えられないのが申し訳ない ほどだった。 仕方ない、インタビューを進めるうちにわかってもらえるだ ろう、と気持ちを切り替える。 インタビューには、ゆかりの他にも、案内してくれた塾の広 報の女性と、取材を取り次いでくれた女性誌の編集者という人 が同席することになっていた。 何も答えないゆかりに代わるようにして、「文報社の和田です」 と、自分たちと同年代だと思われる女性が、早穂に向けて名刺 を出した。 「今回お問い合わせいただいた』の編集長をし ておりますー 19 早穂とゆかり

3. 小説トリッパー 2014年夏季号

早穂が夫や同僚とともにゆかりを笑ってきたのと同じくらい、 着信は、編集部からで、早穂はのろのろと折り返 おそらく、彼女の世界でも、自分は笑われてきたに違いないのす。 こ 0 誰か電話をくれましたか、と尋ねると、電話が編集長に替わっ 、」 0 『ちょっと、何やらかしちゃったの、早穂ちゃん』と、開口一 番に聞かれて、「え ? 」と問い返す。編集長の声は焦っていた。 インタビュ 1 を終え、宿泊するホテルにチェックインしたと 『日比野ゆかりのところの広報から、さっき、記事の掲載拒否 ころで、早穂は部屋のべッドに倒れ込んだ。 の連絡があったよ。今日の取材で大変不愉快な思いをしたから、 目の奥が痛い。 インタビューの掲載は取りやめてほしい。笹本早穂が記事を書 何日も眠っていない時みたいに、目を閉じてもまだ瞼の奥が く限り、今後も御社からのお仕事は一切受けられませんって』 白んでいる。 目の前では、立ち上げたパソコンが、モ 1 タ 1 音を響かせな ゆかりのピルを出てから、自分がどうやって戻ってきたのか、 がら、起動し始めるところだった。画面の光が、暗い部屋の中 覚えていない。 で電話をする早穂の顔にあたる。 原稿を書かなくちゃ、と頭の奥で声がする。 「何やっちゃったの、早穂ちゃん。一応、僕の方から先方には 今、覚えているうちに書かなくちゃ、もう二度と、日比野ゅ謝っておいたけど』 かりにはかかわりたくないけど、書かなくちゃ。 「ーすいません、編集長。今日はちょっと体調が悪いので、 どうして会いになんて行ってしまったんだろう。猛烈な後悔明日また、ご連絡させてください」 に襲われながら、胃がきりきりと痛むような気までしてくる。 電話の向こうで、まだ彼が何か言いかける気配があったけど、 気持ちが悪い それに構わず、早穂は携帯の電源を切った。 今日、一一度目になる思いが、胸にこみ上げる。 部屋でこのまま原稿を書けたらいいと、自宅を出る時に持っ てきてしまった鞄の中のノ 1 トパソコンが重たかった。 これは、いじめではないか。 着信に気付いたのは、早穂がそれでもどうにか体を起こし、 携帯をベッドの上に放り投げ、そのまま仰向けになって横に ハソコンを開こうとした時だった。まだ〆切には間があるけど、 なる。パソコンがまだ起動途中の唸りをあげるそばで、早穂は 今日のこの勢いでやってしまわなければ、逆にもう一一度と彼女肩で大きく息をする。怒るよりも、悲しむよりもまず、インタ についての原稿なんて書ける気力が湧いてこない気がした。 ピュ 1 原稿を書かなくてもよくなったことに対する安堵の方が 辻村深月 34

4. 小説トリッパー 2014年夏季号

「ちょっと」 ないと思うのに、お構いなしに彼に手紙を書いたり、妄想すれ 髪を乾かすために巻いたタオルを取り去り、眉をひそめて哲すれの「実は彼と付き合っている」というような話を周りに聞 ひんしゆく かせたりして、周囲の顰蹙を買っていた。 雄を睨む。 たわいない嘘はすぐにバレ、「彼は付き合ってないって」と他 「失礼でしよう。私の同僚たちの間だと女優みたいって言われ の女子から指摘されると、涙目になって否定した。「本当だもん」 てるんだから」 という、これもまたたやすく見破られる嘘をなぜ、あの子はっ 「だって、オバサンほいよ。子供いるのかな ? 」 いてしまうのか。まったく理解ができなかった。 「さあ、何かの記事に息子がいるようなこと書いてあったけど もう昔のことだ。 ゆかりも結婚したのだ。 あれは、いつのことだったろう。 そう考えると、とても不思議な気持ちになる。 確か、小学六年生。卒業の年だった。 今と違って、当時のゆかりは洋服に気を遣うタイプでは間違っ その年、早穂と彼女は同じクラスで、ゆかりは一学期の学級 てもなかった。 委員長を務めていた。学級委員長というと、クラスのまとめ役 中肉中背、特に痩せても太ってもいない女の子で、運動神経で、人気がある子がやるように思われがちかもしれないが、早 が悪く、鈍くさい。着ているものも、祖母の手作りだとかとい 穂たちの当時のクラスは、それは面倒で誰もやりたがらない役 う簡単なかぶりもののダサい服が多く、早穂たちが着るような職だった。 ゆかりは勉強ができたし、変に目立ちたがり屋だったから、 デパ 1 トで買うプランド名入りの洋服など、一枚も見た覚えが 誰も他に候補が出ない中、学級委員長の役職に就いた。 早穂たちのクラスの担任は、若い男の先生で、優しくて、他 頭は悪くなかったけれど、小学校時代に人気があるかどうか の先生たちよりかっこいい、と騒がれている人だった。みんな、 は運動神経で決まると言っても過言ではなかった。 球技でリーダー格になるような女の子ー早穂もそうだった先生のことが好きだった。 ( しろんな行事の打ち合 一学期の学級委員長だったゆかりよ、、 が、早穂よりもっときつい物言いをするような子たちから「ポ ケポケしないで ! 」と大声で注意されているのは、大抵はゆかわせや、先生の手伝いをよくしていて、先生とも急速に仲良く なっていった。 りだった。 早穂はそれを見て、羨ましくなった。 男子の方も、当時は運動神経が人気のバロメ 1 タ 1 になる。 ゆかりが好きになったのも、そんな子で、まったく脈なんか 何気なく、友達に「二学期は私が委員長、立候補しようかな」 15 早穂とゆかり

5. 小説トリッパー 2014年夏季号

で一気に熱くなる。 ことが、本当にあった気がする。その話をまた、ゆかりが今に 「今後の参考にしてね」とゆかりが、笑った。 も蒸し返す気がする。あんなふうな塾にはしないようにしたい 「お茶が冷たくなってしまったわね。どうしましよう、珈琲か と思っているとか、なんとか、こじつけて。 何かー」 早穂は重たい唾を呑み込んだ。 わざとらしいほどの余裕を見せながらゆかりが言って、それ 「どうして、学習塾を、お始めに」 に「お持ちしますーと、ずっと黙っていた広報の女性が立ち上 「そうですね、たとえば」 がった。「あら、ありがとう」とゆかりか礼を言う。それから、 ゆかりの瞳が、生き生きと輝いた。さっきまでとは別人のよ 早穂に聞いた。 うに弾んだ声で言う。 「早穂ちゃんも珈琲でいいかしら」 責任を持って記事にしてください、と言われた約東が、耳の 奥でこだまして、だけど、話の内容が半分も入ってこない。 さっきまで、『あなた』とずっと呼ばれ続けてきたのが、ここ 語られる、清潔で誰も傷つけない、きれいな理念の話には、 ぞとばかりに呼び名を変える。「本当に懐かしいわ」と彼女がい まったく血が通っているように感じられなかった。 まさらのように微笑んだ。 「たとえば、「いじめ』という問題がありますけど」 早穂の手は、まだ震えていた。 と彼女が話し始めた時だけ、また再び、早穂は身構えた。け 指先から、腕まで全部。細かく。屈辱から立ち直れない。正れど、早穂をちらりと一瞥したきり、ゆかりの瞳が宙に泳いだ。 直、飲み物なんてどうでもよかった。頼んでしまったことで、 「あれだって、当事者たちは、自分たちの身近にある問題ひと まだここに座り続けなければいけないのだと、泣きたい気持ちつひとつを『いじめ』だなんてとらえていないと思います。事 になってくる。 例それぞれに事情が違い、メディアで紹介されているものとは 「質問してちょうだい。なんでも答えるわー ここが違う、あそこが違うから、自分たちのこれは『いじめ』 「 : : : では」 ではない、と思っているはずで、その意味では、メディアが言 声がぶれる。自分が泣き出さないことを、奇跡のように感じ葉を作ってしまったことの罪深さを感じます。これは、『いじめ』 をしている側はもちろんのこと、『いじめ』をされている側にとっ 「 : : : 日比野さんは、塾を」 てもそうですねー 塾、と話す時、自分が昔通っていた学習塾を思い出した。髪 ゆかりの目が、再び、射貫くように早穂を見た。 を何度もかき上げる物真似、合わせてはしゃぐ塾講師。そんな 「ー自分がされていることが『いじめ』だなんて思われたく 辻村深月 32

6. 小説トリッパー 2014年夏季号

もどかしい気持ちで、早穂は続ける。どうしてこんなすぐに ゆかりが首を振る。「私には、そうは思えないの」と。 わかるようなことを、説明させられなければならないのか、と 「さえない私と違って、さえ渡って、運動神経もよくて、友達潮 村 思いながら。 も大勢いて、そのころの私が持ってなかったものを全部持って 「あれは、嘘だったんでしよう ? 」 いたように見えるあなたたちが、私の嘘くらいで傷つけられた 切り札をつきつける気持ちで、早穂は言った。 なんて、私にはどうしても思えない。ううん、傷つけられたか ったな 「ちやほやされたいからついた、あなたの拙い嘘。霊だのなんらって、どうなのかしら ? あなたのお友達の一部が、私と仲 だのの世界を仮に信じ込んでいたんだとしても、それはそれで良くしてくれたことが、そんなに気にくわなかった ? その何 イタいけど」 倍も、あの頃の私が傷ついていたとしても ? そんなささいな 「ええ、嘘ねー ものが譲ってもらえないの ? あなたの言う『霊感少女』 ゆかりはあっさりと認めた。早穂はゆっくり、息を吸いこむ。 にならなければ、私の世界は崩壊寸前だったのよ」 彼女の顔に、優美な微笑みが戻りつつあった。 「でも、だからって、あんな方法。虚言癖みたいなものじゃな 「嘘よ。しかも、かなり悪質な嘘。子供のしたかわいい嘘だと いうふうに、大人のあなたが今、流せない気持ちもわかるわ。 「ーそうね。なら謝るわ . プスで、さえなくて、 あなたの言うように、とてもイタい ゆかりが顔を上げた。 運動神経が悪くて、何の取り柄もなくて、どうしたら班替えの そして、早穂の方に堂々と体を向ける。 時に余らない人間になれるかなんて、小さなことで頭がいつば 「傷つけて、本当にごめんなさい」 いだった私が、一気に注目されるためについた嘘。実際にない テ 1 プルの上に手をつき、頭を下げた。 おっしゃ ものに頼ることでしか、私は仰る通り、友達ができなかった」 5 ゆかりが静かに早穂を見た。 「だけど、それがそんなにいけないこと ? 」 「だって、嘘だったなら」 改めて、気付くことがあった。 呆れるのを通り越して、早穂の口元に脱力した笑みが浮かん 早穂は気まずさに耐えかねながら、ソフアに座ったまま、同 席する人たちを見る。 「悪いに決まってるでしよう。人を騙して、傷つけてー」 塾の広報の女性も、』の編集長も、さっきから、 「 : : : 傷つけたというなら、ごめんなさい。でもね」 言葉の応酬を重ねる自分たちのそばにいながら、その表情をび

7. 小説トリッパー 2014年夏季号

『起業に向けての先輩女性からのアドバイス』 『子供たちの救世主』 輝くように並んだ言葉に、ふう、とため息をつく。 ー子供たちの救世主。 声に出してみると、皮肉な気がした。彼女のことを、少なく 帰宅すると、夫はまだ帰っていなかった。 とも、あの頃の私たちは誰一人救世主だなんて思わなかった。 県庁所在地の駅からほど近い場所に建つ高層マンションの部・四十代が見えてくるようになって、早穂自身も小学校の同級生 屋は、新築された際に夫とともに購入したものだ。当時はまだ たちとはもう連絡はほとんど取っていないが、みんながこのこ 珍しかった、生ゴミを処理するディスポーザ 1 や食洗機が組みとをどう思っているか、一度聞いてみたいものだ。 込まれたシステムキッチンが気に入って買った 2 *-a は、住「ただいま」 んで十年近く経っ今も、やってくる客がまだ「きれいな家だ」 玄関の方で声がして、ダイニングに座ったまま顔だけそちら と褒めてくれる。同年代の友達は、結婚するとほば郊外に新築に向け、「おかえり」と一一一口う。リビングに入ってきた哲雄が、「疲 の一軒家を持つが、早穂は頑として駅前という立地にこだわっ れた」と息を漏らして、早穂の背後に回った。 「もう風呂入っちゃったんだ ? 」と抱きしめて、首筋にキスを 夫の哲雄はコピーやプリンタ 1 などの大手のリ 1 ス会社に勤してくる口元から煙草の匂いがした。 める営業職で、若い頃に合コンで知り合った。やってきた数人 「うん。哲雄もシャワー浴びたら ? ビール、用意しとくよ」 の中で、ばっと見て惹かれるような顔立ちのよさがあり、また 「わあ。助かる。早穂、マジ女神」 飛び抜けて話が面白かった。 早穂から体を離し、ネクタイを緩めながら哲雄が言う。年を 三月末の今の時期は、リースの切り替えに入る会社が多いの経て、少しお腹も目立ってきたけど、それでも充分若く見える で、随分忙しいらしかった。早穂はため息をついて、先に風呂 し、容姿も袞えていない。 に入り、パジャマに着替えて、明日の準備に入る。 子供がいないせいか、自分たちは圧倒的に若い夫婦だという 今日、飲み会に持っていったのとは別の、資料として図書館自覚があった。結婚して十年も経っと、友達の中には夫に大事 でコピーを取った日比野ゆかりの記事をいくつか広げる。 にされない、と嘆くような子もいるが、早穂たちの場合は、新 『カリスマ塾経営者』 婚当時と同じく、年の割には仲がよい方だ。 『働く女性のワーキング術』 「何、これ ? 」 ただ、過去にあんなさえない子だったというのに、今の姿が ひとごと 滑稽だな、と、他人事としてどうでもいいと、思うだけだ。 てつお 2 13 早穂とゆかり

8. 小説トリッパー 2014年夏季号

何より先に立った。 哲雄は、夫は、まだ帰ってはいないだろう。声が聞きたかっ そして、初めて疑問が湧いた。 た 9 私、酷い目にあったよ、と話して、慰めてほしかった。悪 彼女はどうしてここまでするのだろう、と。 いのは日比野ゆかりの方だと、彼に言ってほしかった。 今、地位も名誉もあるように見える日比野ゆかりは、なぜ、 そして、おそらく、ゆかりもまた、今ごろあの美しい息子や、 こうまで大人げない、プライドもない、弱い者いじめのような早穂は会うこともない彼女の夫に、同じように泣きついている 真似をするのか。彼女にそうさせるものは何なのか。 のかもしれない。あの場に同席した編集者や部下とは、すでに 最後に現れた、あの美形の少年は、本当に彼女の息子だった散々、早穂のことを笑い者にした後だろう。 のか 教室で一人だったあの頃も、教室に友達のいないあの子には、 あの子の前に自分を立たせてまで、ゆかりは、何がしたかっ家族がいた。『いじめ』というのは屈辱的すぎて、されたことを たのか。 打ち明けられない家族と、あの子は学校の外で時間を過ごして 今の自分は安定している、と彼女は言っていた。早穂との思 い出など、自分には何の傷ももう残さない、と。 なんで、仲良くできなかったんだろう、と、あの頃の自分に だけど、今日、日比野ゆかりは全力で早穂を相手にしていた。対して思う。 目障りでも、許してあげればよかったのに。 全力で、大人げなく敵対しようとしていた。早穂がこんな目に 遭ったということを、あちこちに吹聴すれば、立場が危うくな 屈託なく、ゆかりに連絡を取り、有名人と友達なのだと言え るのは、地位のある彼女の方なのに。 るような、私もそんな軽い人間の一人だったらよかったのに。 たかが、子供時代のこと、だ。 そして緩慢な怒りが、ようやく胸に湧いてくる。 みんな、していたのに。 取るに足らない、今の自分とは違う、昔のこと。 けれど、それを無視できないくらい、彼女はきっと、囚われ みんながあの子を嫌いだったのに。私だけが、目立っていた ていた。小学校時代、クラスの中で自分がどんな位置だったのからといって、恨まれるのは筋違いだ。クラスで一番人気があっ か、それを考え、咀嚼し、何度も自分なりの解釈をそこに与え たのは、何も、私のせいじゃないのに。 ながら、おそらく一生、何かあるたびにあの場所に環りつづけ 早穂はゆっくりと体を起こし、立ち上がる。 る。 煌々と明るいノートパソコンの電源を、静かに切った。 暗い部屋に浮かんだ、べッドサイドの時計を見る。 かえ 35 早穂とゆかり

9. 小説トリッパー 2014年夏季号

「それにいじめじゃないですよ。私たち、みんなそこまで子供んだろうなあ。案外、率先してやってたりして、いじめ」 じゃないので、彼女に何をしたってわけでもない。彼女の方に 早穂はうんざりしながら「だから違うって」と返す。 こそ、ちょっと原因があったっていうか」 「私たちがいじめるいじめないじゃなくて、人気がないから自 「原因 ? 然と外れちゃうの。いじめられっ子が弱い立場だなんて思った 「ーあ 1 、これ言っちゃっていいのかな。すいません、ここ ら大間違いだよ。なんていうかなあ、ゆかりちゃんはイタいタ だけの話にしてくれます ? 」 イプ。霊感少女だったこともそうだし、好きな男子にも嫌がら 周囲の視線が自分に集中するのを待って、早穂は声をひそめれてるのに雰囲気読まないでぐいぐい行く方で、そういう自意 る。囁くよ、つに言った。 識の強さに、みんなついていけなかったんです」 「あの子、霊感少女だったんですよ。 霊が見える、幽霊と 「しかしさ、どうして日比野ゆかりは京都なんかで塾やってる 話せるってみんなに話して、それで注目を集めてた」 「え、それ、どういうこと ? 日比野さんって、そういう系の 佐藤がオリ 1 プをつまみながら、彼女の載る雑誌を見つめて 人だったってこと ? 」 言った。 「あ、じゃあ、今の成功も、そういうカのせいなんですか ? 「どうせなら、うちの県に戻ってきてやってくれればいいのに。 皆の反応に、早穂は「まさかまさか」と首を振る。 いくら出身でも、これじや意味ないな。ダメだダメだ、この子 そんないいもののはずがないのに、真意が伝わらないことに 微かに苛立ちを覚える。 「ー大学が向こうだったって話ですけど」 「霊感なんて、あるわけないじゃないですか。多分、嘘だと思 答えながら、早穂は、内心、なんと見当違いなことを言うの います。もし仮に本当に信じていたとしてもイタいでしよう ? だろう、と少し白けた気持ちになる 周りの興味を引きたくてそういうことを言い出して、実際、そ 有名人が出ると、すべては自分たちや地元の役に立つべきだ、 の時には、みんな騙されて、あの子のことも仲間に入れてたんということにしか繋げて考えられない。だいぶ酔ってはいるの ですよねー だろうけど、上の世代のおじさんたちの考えには、自分が地元 「仲間に入れてたってことはさ、早穂さん、いじめはないって誌のライターをしていてさえ、合わないものを感じる時がある。 言ってたけど、実際外してたってことじゃないの ? 」 だって、早穂はゆかりに戻ってなんてもらいたくない。 かなり酔った様子の舟木が、にやにや笑って絡んでくる。 目障りだというほどでもない。羨ましくも、もちろんない。 「早穂さんは、きっと当時からクラス仕切ってたタイプだった正直、ゆかりのことなんかどうでもいい 辻村深月 12

10. 小説トリッパー 2014年夏季号

かけに後輩が自分の名前を出したと聞いて、肝が冷えた。 出しておいた日比野ゆかりの記事を、哲雄が手に取る。 「明日、取材に行くの。だから、今日、ちょっと早く寝るね。 取材の依頼はその当時もそこそこあったはずだし、今では全潮 村 国誌を中心に仕事をしているゆかりにしてみたら、もう忘れて 悪いけど、向こ、つに一泊することになるから、よろしく」 しまった話かもしれないけれど、それでも早穂には気まずい思 「うわあ、この人、インタビュ 1 引き受けたんだ ? い出だ。この時も後輩から「同級生なんてすごいですね . と言 哲雄には、依頼をするということまでしか伝えていなかった。 われた。 自分から積極的に近づきたいかと聞かれたら、仲がよかった ゆかりがメディアに露出するようになってから、早穂は、何 度も何度も、実家の母に屈託なく「取材に行かないの ? お友わけでもないし、できることなら、もうかかわらなくてもいい けれど、周りからそんなふうにされると、早穂の立場で彼女に 達だったんだしーと言われてきた。 早穂にとって、ゆかりのことは , 微妙な ~ エピソードの数々何もコンタクトを取らないというのも、それはそれで不自然な 気がして、意を決して今回、インタビュ 1 を申し込んだ。 とともに記憶された存在だが、大人にとってはそうではない。 小さな小学校の、学年の子供すべてが顔と名前がわかった存在 「よく受けたね」と夫が言うのを聞いて、苦笑する。 だった関係性の中で、娘の元同級生が有名人になったというこ 「うん、まあね」 とは母世代には無邪気に嬉しいことらしかった。 「直接連絡取ったの ? 早穂のこと覚えてた ? ゆかりが雑誌に出始めたばかりの、今ほど有名ではなかった 「ううん。実家は知ってるけど、そっちに急に連絡するのもお 三、四年前のこと。 かしな話でしよう ? だから、彼女が教育相談やってる雑誌の 頼んでもないのに、ゆかりの母とたまたま図書館で会ったと いう早穂の母が、「お嬢さんのこと、うちの早穂も雑誌で見てす編集部に連絡を取って、取り次いでもらった。一応、私のこと / 学 ごいって言ってました」と伝えたとかで、その後しつこく「あも伝えておいたけど。結婚して、名字が変わってるけど、ト こもろ あいうふうに言っちゃった手前、連絡しなさいよ。この日とこ校の時の同級生だった小諸ですって」 「ふうん」 の日なら、帰ってくるみたいよ」とご丁寧にも、彼女の実家の 哲雄が興味なさそうに言って、見ていたのとは別の日比野ゅ 電話番号を手渡された。 その時は、どうしても気乗りしなくて、その番号を後輩に渡かりの記事を手に取る。 「マダムとかって書いてあるけど、老けてるね。早穂と同じ年 し、「取材してみたら , と丸投げしたが、連絡しても、ゆかりは なんでしょ ? 」 取材を断ったそうだ。「この番号は誰に聞いたのか」という問い