母親 - みる会図書館


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1. 小説トリッパー 2014年夏季号

た元の部屋にもどっていく。 を加えた。 最初、私は妊婦がトイレに行っているのだろうと思って大し 「グアテマラはカトリックが多いから中絶が禁止されているん だよ。母親の体が危険な時は病院で堕胎手術をすることもあるて気に留めなかったが、母親が心配そうに見に行ったり、声を かけたりしていて、どうにも様子が異なると感じるようになっ けど、一般的には若い子が妊娠しても堕そうとすることはない た。だいいち陣痛で苦しんでいる間に頻繁に用を足したくなる んだ」 ものなのだろうか。妊婦が四回目に奥の部屋から出てきた時、 「未婚だったり、極端に若くても ? 」 「そうだね。十五、六歳でも、未婚のまま普通に産んだりする私は母親に尋ねてみることにした。 「先ほどから奥の部屋に行ったり来たりしているのはお嫁さん ですよね。一体あの部屋に何をしに行っているんですか」 中南米では宗教上の理由で人工中絶が禁じられており、キュー 背の小さな丸い体格をした母親が答えた。 バなど一部の国以外は母体に生命の危険がある時など以外は原 「あの部屋はタマスカルです」 則として中絶手術が認められていない。グアテマラにおいても 同じなのだそうだ。 私が首をかしげると、ジョナサンが「サウナのことだよ . と 「じゃあ、未婚のまま出産したら、誰が生活や赤ちゃんの面倒教えてくれた。マヤ系先住民の間にったわる伝統サウナらしい 見学させてほしいと頼んだところ、あっさりと許可してくれ を見るの ? ーと私はジョナサンに尋ねた。 た。ドアを開けると、暗い二畳ぐらいの部屋があり、湿った熱 「家族だよ。うちの妹もそうだったよ。十七歳で妊娠したんだ けど、結婚の意思がないのに、そのまま産んで二十歳で別の男気がむわっと押し寄せてくる。息苦しさはまさにサウナのそれ である。五分も入っていれば全身から汗が噴き出すぐらいだ。 と結婚するまで、家族や親戚みんなで育ててた」 母親が説明した。 「家族も子供の父親も本人もそれで平気ってこと ? 」 「村の家には大抵タマスカルがついているんですよ。焼いた石 「だって、できちゃったんだから仕方がないじゃん」 に水をかけて蒸気を出して部屋を暑くするんです。きれい好き ジョナサンは剥げた頭をかきむしりながら軽く笑い飛ばした。 な人は毎日入りますよ」 私はラテン気質だなと思いながら、同じようにスキンヘッドの 頭をかきむしった。 村の人にとってはお風呂の代わりらしい 「陣痛が起きている時にそんなところに入って大丈夫なんです こんな会話をしている最中、時折、視界の隅を黒髪を伸ばし よぎ か」 た妊婦が過ることがあった。手前の部屋から出てきたかと思う 「もちろん。昔からお産の時はタマスカルに入ると、陣痛が和 と、大きなお腹をかかえてよろよろと奥の部屋へ移るのだ。そ らぐし、健康な赤ちゃんがすぐに出てくるっていわれているん してしばらくすると汗だくになって姿を現し、蟹股になってま がにまた 石井光太 230

2. 小説トリッパー 2014年夏季号

ば首から下はまったく動かないだろう。それでも心地よさそう だ。父親によれば、畑仕事に飽きて花を植えているうちに、そっ に眠っている。 ちの方が楽しくなって夢中になっているんだと自慢げに笑った。 中南米やアジアの農村で、このように赤ちゃんを拘東して背 畑では、長男のお嫁さんが水を入れたバケツを両手で持って 運んでいた。水道がないために、沢から運んでこなければなら中にくくりつける光景をよく目にする。貧しい女性たちは妊娠 の翌日から農作業や家事をしなければならないのに、生まれた ないのだそうだ。彼女の名前はオランダさん、三十四歳だとい ばかりの赤ん坊はうつ伏せ寝による窒息の危険があったり、少 う。彼女もまた丸っこい体型をしており、目は三日月のような し大きくなれば勝手にハイハイして事故に遭ったりしかねない。 形をしていた。 そこで母親たちは赤子を布で巻き身動きできないようにして持 父親はオランダを呼び止めた。 ち運ぶのだ。 「おい、チーナが来たぞ ! おまえと話がしたいんだってさー これに似た習慣で私が知っている中で興味深いと思うのが、 私は「ハポネス ( 日本人 ) です」と小声で訂正したが、耳を 内モンゴルの砂漠地帯の村にったわるものである。 傾けてくれなかった。 オランダはバケツを手にしたまま、大きく微笑んで近づいて 村の女性は陣痛がはじまると砂漠へ行ってこれまで踏んでい きてくれた。色黒で黒髪で背が低いという典型的なマヤ系先住ない新しい砂 ( 砂は常に動くので、足跡がなければ「新しい砂。 とされる ) を家に運んできて、床に敷き詰め、その上に横たわっ 民だ てお産をする。砂は温かい時には冷たく感じ、寒い時は温かく 「この中国人が子育てについて聞きたがっているんだよ。ちょっ 感じるために体に優しい上に、分娩をした時に出てくる羊水や と時間を貸してくれ」と父親が言った。 血液をすべて吸収してくれるので衛生的とされているのだ。 わよ」とバケツを地面に置いた。よく見ると、 彼女は「いい 母親は赤子が生まれると、一メートル x 五十センチぐらいの 赤子を背中に負ぶっている。顔から判断するに、 ' 生後半年ぐら いだろうか 木製のゆりかごをつくり、そこに同じく新しい砂を敷いて寝か たいそく せる。そして、小さな手足を体側に沿ってまっすぐに伸ばして 「オランダさんのお子さんですか ? ーと私は尋ねた。 から布で体を巻いてミノムシのようにした上で、しつかりとゆ 、え、姉の赤ちゃんなのよ。姉はちょっと離れたところに 住んでいるんだけど、病気だから、わたしが代わりに預かってりかごに固定する。 こうする理由を、母親たちは「赤ちゃんの体が伸びるから」 いるの」 とか「背筋が真っ直ぐになるから」と説明するが、科学的な根 のぞいてみると、赤子は布でミイラのようにぐるぐる巻きに されて背中にくくりつけられていた。ハイハイをしたり、つか拠はないだろう。おそらく、ゆりかごに赤子をしばりつけてお まり立ちをしようとする年頃だが、このように体を固定されれくことで、母親が自由に家事や仕事をできるようにしているの 石井光太 232

3. 小説トリッパー 2014年夏季号

母親は見下したように言った。 「見たところ学生みたいだけど、母親になった苦労も知らない で偉そうに だが目の前の母親は苦労しているという感じではなかった。 「じゃあ、あんたは赤ん坊だった時、電車の中ではひと言も泣 かなかったの ? 自分のこと棚に上げて他人を責めないでよね」 我慢しようとしたが、もう限界だった。 こんな場面でヨハネの福音書もどきを聞かされる羽目になる 「あの、お子さんがさっきからぐずっているんですが」 とは思ってもみなかった。 りん もた 歩み寄った凜がそう告げても、目の前に座った母親はスマー 凜はじわじわと自己嫌悪が頭を擡げてくるのを感じた。赤ん トフォンの画面に見入って顔を上げようとしない。 坊を泣かせた母親に食ってかかる図など、傍目からは醜悪にし 「自分の子供が泣いている横で、スマホなんて弄らないでくだ か映らないのも承知している。 さい」 凜の起こすトラブルは大抵それが原因だった。正しいと思っ すると、初めて母親は尖った目で凜を見上げた。 たことをすぐ口にする。幼稚な正義感が通用するのは小学生ま 「別に通話してないでしよ」 でで、社会との接点が多くなるにつれて正論を吐くことが必ず 「いえ、通話とかそういうことじゃなくって。赤ちゃん、ずつ しも正しいことではないのを理解し始めた頃も、己の胸が異議 とぐずってるじゃないですか」 を唱えた時はロを開かずにはいられない。そしてその結果、偏 ベビーカーの赤ん坊は火が点いたように泣き喚き、その勢い 屈者とレッテルを張られ、友人を少なくしていく。 とど せき は止まるところを知らない。 だが一度堰を切った言葉を途中で止めることはできなかった。 「赤ん坊なんて泣くのが仕事じゃないの。少しの間くらいは我「わたしが泣いたかどうかなんて関係ないでしよう。それに何 慢してよ」 度も言うようですが、赤ちゃんが泣いたのを責めてる訳じゃあ 「赤ちゃんが泣いているのをとやかく言ってるんじゃありませりません」 ん。泣くのは何かの合図を送っているからだし。だから泣いて 「あのね 1 、母親って毎日忙しいの」 いるのなら、あやすなり何なりして欲しいと言っているだけで 母親は再びスマートフォンの画面に指を滑らせ始めた。もち す , ろん、泣き続けている赤ん坊には一顧だにしない。 「生意気言ってんじゃないわよ」 「夜泣きなんかされたらまともに寝られないしさ 1 。旦那は会 一闘いの出場通知を抱きしめて わめ はため 91 闘う君の唄を

4. 小説トリッパー 2014年夏季号

であっても、その姿そのものはあまりに卑小で、やはり退屈し 朝の五時、阿貴子は芋の葉の露をとりに行くために起き出す。 てしま、つ。 その露で墨をすり、短冊に歌を書くためだ。 それにひきかえ、浜田の過去には、逃亡者の緊張がつねにつ 七夕のとわたる舟のかぢの葉に きまとっている。そして、阿貴子と関係する場面の美しさは、 いく秋かきっ露の玉づさ 戦前の官立高等工業学校 ( 旧制 ) の無線工学科の卒業生であ 戦時下の浜田には、それが逃避しているというかたちをとっ る浜田は、この歌は『古今集』あたりにあるのだろうと見当を ているとしても、命がけで対立しているものがあるから、生きつけながら、阿貴子に望まれるままに短冊に書く。 ていることじたいに緊張がある。 ほんとうは「新古今和歌集』所載の藤原俊成の歌なのだが、 そして結城阿貴子とは何かといえば、つつましやかな不良少それはさておいて、阿貴子は母に教わったとおりに上五文字を 女だといえるだろう。時代を考えればずいぶんと思い切った家「しちせきの」と読む。そして、「しきたり通りにしないと、母 出によって、ついフラフラと社会からはみ出しているのである。 さんが寂しがるから . といって、七夕の竹を飾り、母親を交え 当人はそのことを半ばは意識しているから得体の知れない「杉て西瓜や真桑瓜を食べる。それがずっと昔から行なわれてきた 浦健次」と結ばれる。 字和島の「七夕様」なのだ。 男は社会から逃げまわっている。女はかりそめに社会からは この場面、きわめて哀切感が深い。なせなのだろう。 み出している。そのことによって、二人ともぎりぎりのところ 母子が毎年のようにやってきた、ささやかな行事である。そ で、わずかに個人として生きているのである。だからこそ、異れは日常性には違いないのだが、祭りのなかに伝統的文化が見 様なほどの美しい場面が出現する え隠れしている。はるかな昔から連綿と伝わっている伝統が暮 隠岐神社の桜を見、その後で二人が結ばれる場面を、「胸が痛らしのなかにふと顔を出し、そのことによって日常の生活がふ くなるほど美しいラブシ 1 ン」と評したのは米原万里である。 だんの卑小さをきれいに越えてしまうのだろう。 鋭い、またひろやかな感受性をそなえた米原は、浜田の過去 母親が下がった後、浜田と阿貴子は交わる。終った後で、奇 への往復を正確に捉えたのだろう。浜田は「ここで初めて過去妙な会話を交わす。阿貴子は、戦争が終ったらどうするつもり む によって現実から解放される」ともいっている。浜田の「現在」かと浜田に問い、浜田は、いつまでも終らないだろうと答える。 読 を は、見かけとはまったく逆に、まわりくどいやり方で社会から気分として、終らないことを望んでいるようだ。社会に戻る、 才 排除されているのである。 その戻り方の見当がっかないのである。 そんたく 浜田の「過去ーの場面で、もう一つ忘れられないのは、宇和 この場面で、阿貴子の心情を忖度するとともに、阿貴子の母疋 島で阿貴子母子の家にかくまわれた後の七夕の祭りである。 とは何であるのか、私はあらためて考えさせられた。家出娘が 「戦後 - の退屈さとは対照的にきわだっている。

5. 小説トリッパー 2014年夏季号

社が忙しくって面倒見てくれないしさー。電車の中くらいしか て降りてしまった。 スマホ弄る暇なんてないの。分かった ? 」 あまりに逃げ足が速いので凜は声を掛けそびれる。 「あなたは自分の子供よりもスマホの方が大事なんですか」 今、降りた駅が本当の目的地ならいいのだけれど 凜の言葉を受けた母親が顔色を変えた時だった。 悪いこと、しちゃったかな。 反対側の座席から拍手が聞こえた。凜が振り返ると、事の成 再び自己嫌悪が襲ってくる。良識を振り翳すことがどれだけ り行きを見守っていたらしき老人が面白そうに手を叩いている。 無神経で醜悪なことかも分かっている 「よく言った、お嬢ちゃん。あんたに一票だ」 「お嬢ちゃん」 母親がきつい視線で睨んだが、老人は全く気にしない様子で 惑っていると、最初に拍手してくれた老人から声が掛かった。 笑、つ。 「何やら難しそうな顔をしとるが、あんたのやったことは間違っ 「確かに泣くのは赤子の仕事。しかし、それをあやすのが母親ておらんよ。あの母親が降りたのはあくまでも本人の意思だ」 の仕事だ」 「あの、でも」 母親が反論しようと口を開きかけると、隣にいた疲れたサラ 「最近の若いモンには珍しく堂々とものを言ったね。しかし本 リーマン風の男も遅れて手を叩き出した。 来ならわしらみたいな年寄りが注意すべきだったな。その辺は 「わたしも一票。営業の合間に寝られるのは移動中だけだが、 まことに面目ない その大事な睡眠時間を邪魔された。赤ん坊に罪はないが、放置「いえつ、わ、わたし、ちょっと出過ぎた真似をしたみたいで」 した保護者の責任を問いたい」 「卑下するこたあないさ。正しいことを正しいと言うにも勇気 「わたしもねえ」 と覚悟が要る。今はそんな風潮だからね。少なくともこの年寄 と、今度は離れた場所に座っていた老婦人も賛同の声を上げ りよりお嬢ちゃんの方に、その気概があったってことだ」 しわがれた声が胸をじわりと満たしていく。角の取れた老人 「昔、子供にはずいぶん泣かれたけど、赤ちゃんが泣く時って の声というのは、不思議に説得力があった。 のはやつばりお母さんに何かして欲しい時だからねえ」 「 : ・・ : ありがとう、ございます」 波紋が拡がるように拍手が増えていく。 「それにしても本当に学生さんかね ? あの母親はそう言って 今まで不遜な態度だった母親は状況の変化にひどく慌てた様おったが、わしにはとてもそう見えんかった」 子で、こそこそとスマ】トフォンをバッグの中に収めた。そし 「それはお爺さんが正しいです」 て電車が次の駅に停車すると、逃げるようにベビーカーを押し ああ、これなら晴れ晴れとした気分でロに出せる。 かざ 中山七里 92

6. 小説トリッパー 2014年夏季号

その梶野が琥代に薄く笑いかけてくる。 はかまわず言葉を続ける。 「放課後に一人一人呼び出しているそうですね。関係のない子 「私は教師としての立場から、今回のいじめの解決に努力した どもまで。やめて欲しいんですけど、そういうこと いと思っています。ですが、学校の中だけでは限界があります。 琥代は表情の読めないその顔に言った。 みなさんの協力がぜひとも必要なんです」 「関係なくはありません」 「協力って ? 「なんで ? ねえ、なんで関係なくない ? 」 「子どもをきちんと叱ることです」 「いじめの首謀者は、あなたの娘さんですから」 またも冷たい視線。琥代はそれに気づかない。 ストレートヘアで丸顔を隠したその薄笑いが、くしやりと歪 「大切なことだとは思うけど、それって授業とかうちの子の勉 んだ。 強に差し障りはないんですよね ? 「な、なに、いきなりあなた。首謀ってなに、犯罪者みたいに。 他人事のように言うその母親の息子は、いじめを先導してい るグル 1 プの一員だ。 第一、何を証拠に言ってるの」 「確証がなければ、こんなことは言いません。ただ、梶野陽菜 「そう、迷惑って言うとあれですけど : : : もし、いじめがあっ : いじめられる たとしても、こういう言い方はあれですけど : さんだけじゃない。複数の人間が加担しています。自分が標的 になりたくなくて、消極的に参加している生徒も含めれば、か お子さんにも問題があるんじゃありませんか」 と言うこの親は、自分の息子が、田中由衣にみんなが牙を剥 なりの数です。ですから、みなさん全員に自分のお子さんの問 題として聞いていただきたいんですー く前の標的になっていたことを知らない 保護者たちが黙りこみ、琥代を睨んでいた目を下に落とす。 保護者会は、株主総会みたいなものだ。出席者の誰もが「う うちの子とは関係のない、クラスでの一部の出来事、とタカを ちの子」という財産を守るために、その利益を図るためだけに、 くくっていた自分の身に火の粉が飛んできていないかどうかを 奔走する。前任の教師が鬱になった原因が、校長のパワーハラ スメントのほかにもうひとつあるとしたら、おそらくそれは親確かめるように。 たちからのプレッシャ 1 だ。梶野陽菜のストレートパ 1 マを注 沈黙を破ったのは、この中では年長の父親だ。 意したら、母親から商品クレ 1 マーのような猛抗議が来たそう 「いじめは確かにみんなで考えなくちゃならない問題だ。やり ましよう、おおいに」 だ。「うちの子は天然パ 1 マなのよ。それがコンプレックスだっ この暑いのにスーツを着、ネクタイも締めている。確か家庭 たからストパ 1 をかけたのに。子どもの心を傷つける気 ? , コ ンプレックス ? ストレ 1 トパーマの前には、ゆるふわパーマ調査票に、緊急連絡先でないかぎり記入する必要のない、自分 を天然パーマだと言い張っていたのだが。 の勤務先の社名を書いていた保護者だ。 荻原浩 44

7. 小説トリッパー 2014年夏季号

「私も息子と腹を割って話してみます。最近ろくに会話がない 「え ? 」 から、いい機会だ。ですがね、先生。あなた、まだお若いから、 「あなたですよ。もういっぺん言ってみなさい。保護者だから 匙かげんがわからないんだろうけど、モノには言い方ってある何を言っても許されると思ったら、大間違いですからね」 でしょ 騒ぎがいちだんと大きくなった。 何を言いたいんだろうこの人は ? 「先生のその喧嘩腰じゃ、話し合いになりませんよね。子ども 〇 の前でもそうなんですか ? そういう挑発的な態度が、子ども たちをネグレクトしている部分もあるんじゃないかな」 琥代は小学生の頃、いじめに遭ったことがある。田中由衣の 先生が「センセ [ と聞こえた。はるかに年下の若い女に偉そケ 1 スと似ているかもしれない。たいしたことのないきっかけ。 うなことを言われ続けているのが腹立たしいだけか。校長の話相手はそれまで友だちだと思っていた子と、そのグル 1 プ。誰 し方とよく似ている。自分の存在感を示したいだけの言葉のた も口を聞いてくれす、教科書や下履きを隠された。 めの言葉。 近所の同級生の親からその話を聞かされた琥代の祖父が、相 「そうよねえ」異ロ同音の賛同の声がいくつもあがった。気を手の家という家に怒鳴りこんで事は ( 丸くではなかったけれど ) 治まったのだが、 良くした父親が琥代に上目づかいを向けてくる。 琥代本人に、いじめられていたという自覚は 「ねえ、先生、そう思いませんか、 あまりない。幼い頃から琥代は「空気を読むことができない」 「思いません」 からだ。いじめの相手は久しぶりにできた友だちで、孤立する 父親の顔が凍り、教室がざわっいた。囁き交わす声が琥代の ことにも、もともと慣れていた。 耳に飛びこんでくる。 いまにして思えば、いじめの原因だって、琥代の言動にも問 「なに、この女」「有名よ、この学校じさ「だから副担任しか題があったのだと思う。なにしろ、「その服、似合わないと思う」 やらせてもらえないんじゃないー「こんな人が担任じや心配」 「絵が下手なんだね」なんて人に平気で言ってしまう子どもだっ 琥代とそう変わらない年齢の茶髪の女が、聞こえよがしに、 たから。悪意があるわけではないのだ。物事を把握し、分析し ガムをころがすような声を出す。 た結果をそのまま口にしてしまうだけ。 「このセンセイ、頭おかしいんじゃなあい ? もしかして前の 人の感情や、その場の雰囲気を読み取ることが生まれつき苦 先生と同じ心のピョ 1 キ ? 」 手なのだ。幼稚園の頃、みんなと同じように行動できない琥代 琥代は茶髪に指を突きつけた。 を心配して、母親に小児心療内科に連れていかれた。そして発 「そこ」 達障害、もしくは知的障害のない自閉症の疑いがあると診断さ 45 サークルゲーム

8. 小説トリッパー 2014年夏季号

ここで切り出すとは、思っていなかったのだろう。 い、化粧と香水の匂いが漂っている。土曜日の午前。保護者会 が開かれているのだ。 「あのお、それって本当なんですか」 二学期の保護者会にしては出席率は悪くない。集まったのは 「何か具体的なトラブルでも ? 由々しき事態だ、という言葉を口々に発するが、お互いを探っ 一一十五人。数人を除いてみな女性だ。たぶん担任が琥代に替わっ たからだろう。 ているようにも聞こえる。うちの子には関係ないのでしようね、 とい、つふ、つな。 まず、自分が新しい担任であり、教師生活が八年目で、受け 「いじめなんかないってうちの子は言ってますけど」 持っている教科が数学であることを伝え、それから保護者一人 一人の名前を聞く。それが終わるやいなや、一人が切りだした。 琥代は声の主に顔を振り向けた。四十歳前後の、娘とよく似 「先生、数学の授業の進み具合についてお聞きしたいんですけ たロングへア。梶野陽菜の母親だ。 「あります」 「すみません。今日はまず違う話をさせてください , 壁にずらりと並んだ習字の半紙の文字は、痛烈な皮肉だ。並 クラスにいじめ問題があることは、校長から遠回しに口止めんでいるのはみな同じ三十九の言葉。 されている。 『友情』 「矢村先生、最近、生徒に個別面談をしているって耳にしたんで 琥代の断言に梶野が露骨に顔をしかめる。 すが、ちょっと先走りすぎじゃあありませんか。事実関係をき 「どなたか知りませんが、当事者の親御さんには考えてもらわ ちんと把握してからでも遅くないんじゃないかなあ、僕あ、そなくちゃならないにしても、先生にだって責任はあるんじゃあ う思うのだけれど。もちろん保護者の方々にお話しするのもね」 りません ? 知ったことか 「今後のこのクラスに対する責任はもちろんあります。しかし、 そうしている間にも、事態は深刻になるかもしれない。少し 二学期からの担任ですから、これまでという意味なら責任はあ 前、夏休みが終わる日に、県内の公立中でいじめを苦にした生りません」 別の母親が、琥代ではなく隣の人間に不満を漏らす。 徒が自殺したばかりだ。 琥代は全員の顔を見まわして、本題を口にした。 「そんな居直られても、ねえ。 「このクラスにはいじめがあります」 星川翔太の母親だ。琥代は星川に視線を向けて言った。 みんながほかんと口を開けた。いくら校長が口止めをしたと 「子どもを育てるのは親の責任です」 ころで、琥代が始めたいじめの事情聴取のことは少なくない親 琥代より十も二十も年長の人間たちの、ただでさえ容赦のな の耳に入っているはずだ。知らなかったのではなく、いきなり い視線が、研ぎ澄ました矢を向けるように冷たくなった。琥代 ど」 43 サークルゲーム

9. 小説トリッパー 2014年夏季号

「え ? ど、ついうー 「お前の母親だよ。よく見てみろ。大丈夫、母親にはお前のこ 問いかけの言葉が終わらないうちに、灰色の世界に色と音と とが見えていないし、声も聞こえていないから」 形がなだれ込んできた。そして気づけば僕は、自分の家にいた。 ルシフェルの言うことが本当かど、つかたしかめよ、つと足を踏 一階の客間。ガラス戸の向こうから、アプラゼミの声が浸み込み出した僕は、学校の上履きを履いたまま畳の上に立っている んでくる。 ことに気づいた。 部屋の中にいるのは一人。どこか見覚えのあるおばあさんが、 「これ、靴 見覚えのない小さな仏壇の前で手を合わせている。遠い親戚だ 表情を窺ってみてもただニャニヤしているだけの悪魔を見て、 しば ろうか。頭の後ろで無造作にまとめた髪には白髪が目立ち、萎僕は「そうか」と頷いた。現実の僕は校舎から落ちている途中 んだような小さな背中からは年寄りじみた陰気な気配が漂って だから、『この僕はきっと霊体のようなものなのだろう。だから いる 畳の上を歩いても、靴跡がついたりはしないはすだ。 鋭い陽射しの当たる庭に、黒い影が現れた。ルシフェルだ。 上履き越しの畳の踏み応えにとまどいながら、僕はそのおば あさんのそばにそっと近づいた。 ガラス戸を開け、セミの声を引き連れながら室内に入ってくる。 悪魔が真後ろを横切っても、親戚のおばあさんはまったく気づ くすんだまぶたを閉じ、胸の前で手を合わせている。よく似 力ない ている。だけど、これがお母さんの五年後だとはとても思えな い。お母さんはこんなに刺々しい顔はしていない。眉間にこん 「ちがうぞ」 僕のそばまで来ると、ルシフェルは赤い口を横に広げて笑っ なに深い皺なんてないし、唇は歪んでないし、髪だって黒々と 、」 0 していて、こんなに痩せてはいない 「え ? 首を伸ばし、仏壇を覗いてみる。ェアコンの微風に揺れる線 「『親戚のおばあさん』じゃない。五年後のお前の母親だ」 香の煙の奥に、僕の写真がある。水色の背景が合成されている けれど、このシャツは去年の家族旅行のときに着ていた物だ。 「まさかー僕は、仏壇の前で正座する小さな背中を盗み見た。 「嘘だ。五年後じゃ、お母さんまだ五十歳にもなってないもん . 写真の入った額より一段高い位置に置かれた位牌には、戒名と 「五年後だよ。ほら」 今日の日付が書かれている。 はなすす 僕が生み出した悪魔が、枯れ木のような手で壁のカレンダ 1 ふいに、洟を啜る音が聞こえた。見ると、おばあさんの目尻 を指さす。日付はたしかに、五年後の八月になっていた。僕のを涙が伝っていた。 誕生日に、サインペンで印が付けられている。 「あ」 「でも、たった五年でこんなに老けるわけがないー 声が漏れてしまった。 とげ・とげ 65 20 センチ先には

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ようにして建っている。修道院の薄茶色の外壁の上には、ナポ ふと対筒を返してみると、差出人住所に〈元〉と前書きを入 リに切り取られた朝の空が薄青く広がっている。朝焼けを受け、 れ、両親を看取った家の住所が記されていた。 一つ二つ浮かんだ雲が濃い橙色に輝いている。あと十数分もす れば斜面にも朝日が届き、複雑に重なりあう建物が浮かび上がっ 高くて細いリナの声が耳元に蘇る。 てくるだろう。 一瞬のうちに、あのときの音や匂いが無数のかけらとなって 不条理の向こう側には必す果てのない自由が待っているのだ、押し寄せた。 と朝景を見ながら思う。 ル 1 力はもう、ナポリには戻らないだろう。 高台のリナと下町のルーカ。 黒いひび割れと中庭に響く弦の音色。 いろいろなことが変わった。 ハイクの排気と風になびくシーツ。 あれほど濃い時間を共にしたのに、ルーカが広場からいなく ほど なると、結び目が解けたように、仲間たちとの繋がりは弱まり、 ナポリでの記憶は、物や場所には繋がらず、五感の底にじんそのうちすっかり消えてしまった。 わり残った。 それは、目覚めるや否や美しい夢の詳細を忘れてしまい、た 日本に戻って振り返ると、現実に起きたことではなく、長い だ甘美な心地だけが残るのと似ていた。 白昼夢を見ていたような気がした。 今、思い出を現実に引き寄せてみたところで、あのときのナ ポリの気配はもう二度と味わえないのだ、と自分に言い聞かせ ルーカは結局、大学を終えることができなかった。老いた父る。 親が、そして母親が連なって他界し、兄姉たちが早々に家を整 理したがったからだった。心と身体の拠り所を同時に失って、 〈ニッポンで、迷子になっていない ? 〉 ルーカはしばらくは兄姉の間を回って暮らし、追悼ミサを終え しばらくして、小学校に上がり字が書けるようになったリナ ると、大学とナポリを後にした。 からの手紙に、そうあった。 〈スパッカナポリで暮らせないのなら、もう僕がナポリにいる しつかりと握り締めた小さな手の感触が、蘇る。 意味はありません〉 夢の中の路地から抜け出たつもりで、実はリナが書いたよう ル 1 カからの転居通知は、ナポリへの訣別状でもあった。文に、私は未だ道順もわからないまま右往左往し続けているのか もしれなかった。 面は、素っ気ないほど簡素だった。転居先として、東洋のどこ か、とだけ書いてあった。 ( 第二話了 ) 彼女の小さな、力強いつま先を思い出す。 271 イタリアからイタリアへ