在と過去の頻繁な往復である。その往復のしかたは、頻繁でし かも精巧そのもの、といわなければならない。 浜田庄吉は、私立大学の事務職に退屈している。さして熱心 戦時下 ( 昭和十五年も含めて ) の過去が語られるのは、 に勤めているわけではないが、大過なく日々を送っている。さ らにいえば、これがぬるま湯につかっているような日々である ①浜田を第三人称で記述し、作家が語りすすめる。 ②現在の浜田が、断りもなく「ばく , 「おれ」の一人称で過去のも、どこかで意識している。 を回想している。「意識の流れ」を追うのに近いような回想のし そこに、「泥棒事件」が起こる。学校あらしらしき泥棒が逃げ かたで、これによって徴兵忌避者の逃亡流浪がリアリティをもっ てくるのに、その前に立ちふさがらない。逃げるにまかせてし て迫ってくる。 まう ( 泥棒は他の者にとり押えられる ) 。逃亡する者への、無意 しかし、注意すべきは、②のばあいでも、部分的に浜田の告識のうちでの同情、あるいは心理的加担に、浜田は今さらに気 白小説が出現するのではない、ということだ。断りもなくすっ づき、少し驚くのである。 と過去に入ったように、断りもなくすっと現在に戻ってくる、 ちょうどその泥棒事件の余波が引ききらないうちに、浜田の その絶妙な呼吸によって、語り手 = 作家が話をすすめていると庶務課長への昇進が取り沙汰される。浜田は、泥棒を追わなかっ いう姿勢が崩れることはない。 たことから、「蒋介石やルーズベルトをこわがって徴兵忌避をし このような語り方、すなわち現在と過去の絶え間ない往復は、 た」と噂され、そのひそひそ話が、課長昇進の競争者であるも 徴兵忌避者を描く困難を克服するため、という働きはたしかに う一人の課長補佐 ( 西 ) に利用されてゆく。 あるだろう。なにしろ浜田の存在を読者に納得させることには、 そういう職場内での、卑俗で卑小としかいいようがないつま つねに困難がっきまとっているのだから。 らない人びとの動きが、四十五歳の浜田をとりまいている。そ しかし、この語り口にはもう一つ、そのほうがより重要と思のような卑小な策謀は、やがて職場での意思決定者である堀川 理事にも達し、浜田の庇護者である堀川は最終的にはやすやす われる働きがある。往復せざるを得ない浜田の心情のなかで、 と浜田を裏切る。堀川にとって大事なことは、わが身の安泰で 戦後一一十年を経た現在が、逃亡を続けていた戦争中の過去と、 ほとんど同質のものとして繋っているのではないか、と読者であり、そのためには自分の決定が浜田を裏切ったようには見え ある私たちが感知してしまうことである。浜田の心の動きに寄ないようにすることである。そのような事態の成り行きを含め り添って読めばそうなる。 て、戦後二十年を経て浜田のまわりにある社会は、卑小で退屈 同質のものとは何か。同質の世間竈社会 ) が、戦争中と戦なものなのである。 後を問わずに、浜田の身のまわりを取り囲んでいる、というこ 昭和四十 ( 一九六五 ) 年、前年に東京オリンピックが開催さ とである。このことには、もう少しこみいった説明が必要だろれ、日本は高度経済成長の右肩上がりのカープに入り始めてい 湯川豊 1
後に連続する日常によって裏切られる。浜田は最後には戦後の の席で、黙々と酒を飲みながら浜田が過去を思うこの場面は、 すばらしい一節といっていいだろう。それほどまでに戦後社会時間のなかで覚めなければならなくなる。 以上のような論旨は、まことに山崎の卓見というべきだろう。 の、仕方がないとでもいうしかない日常を描き切っている。そ 私が過去現在を往復する浜田の心情のなかで類推し、探ろうと して軍歌が歌われているからというわけでは必ずしもないが、 戦時下の軍隊の成員としていたのは、ここで歌っている人びと したことを、戦争の特質とその戦争を遂行した軍隊のありかた だったのである。 という大所高所から割り出し、提示してみせている。 そのように山崎の所論を評価したうえで、私にはなお留保を とすれば、浜田のあの反省、ただ日本の軍隊が嫌いだという つけておきたいことがある。浜田庄吉が忌避したものは、軍隊 理由で徴兵忌避をしたというのだって、あり得るのではないか。 という社会を支配していた耐えがたい日常性であったことは確 いや、そこまで決めつけなくても、軍隊という組織の基盤には、 かだとしても、戦時下の浜田の前に現われた、というより浜田 戦後社会の組織の基盤とはっきり通底していたものがあった、 が逃れた社会は別な姿をしていた。国家権力のよそおいを強め と気づかざるを得なくなる。 ここで私は山崎正和の卓見を改めて想起するのである。山崎た、強固な表情をもっ社会が、折につけて浜田の前に現われた のである。 は「徴兵忌避者が忌避したもの」 ( 一九七一一年刊薪鋭作家叢書・ 国家は、強固な社会的内実をもっていなくても、権力だけを 丸谷才一集』初出 ) でいっている。 日本社会の「日常性」は、戦時中と戦後にまたがってまご、つ肥大させることができる。あるいは、無批判的に肥大させた権 かたなく連続している。あの戦争は「食わんがための戦争」だっ力のなかに、それが社会的内実をそなえているかのように見せ たと意味づけることができる。イデオロギーとかを動機にしてかけることができる。浜田庄吉は、つかまれば殺されるという いた戦争ではなく、「食わんがため」という日常そのものが動機恐怖におびえながら、そういう姿をした国家に反逆している。 になっている。だからこそ、戦前社会の日常がそっくりそのま流浪する浜田の姿が、いくつかの場面で息を飲むように美しい ま軍隊のなかに移されてしまった。軍隊 ( 日本陸軍 ) の内務班のは、そういう反逆が行なわれているからである。 的生活は、戦前の日常社会の規範がそのまま支配していた。そ 戦時下の浜田庄吉は、、 しつ終わるとも知れないタ闇か夜のな の日常への嫌悪が、浜田を徴兵忌避者にした動機の、大きな部 かをさまよっているような趣きがある。行きあう人びとの顔は 分を占めているのではないか、というのだ。 浜田は戦前・戦時中の日常性に反逆した。そして奇蹟的にそ ( 阿貴子とその母親をのぞいては ) 、みなはっきりした輪郭をもっ てはいないのだけれど、そのことによって逆に存在感が増し、 れに成功した。戦後はその必要がなくなったと錯覚し、日常の なかに、楽々と安易に身を置いている。その錯覚が、戦前・戦浜田にとっては恐怖の対象になる。 湯川豊 190
たとえば逃避行のごく初めのほうで語られる、横手の町内会社会の埒外に生きているという抽象的なことをまざまざと実感 の小山という平凡な老人ですら、そのタ闇のなかにいるという させるのである。 だけで、何か底光りを放っているかのような人物になる。 浜田はさらに和歌山の縁日で憲兵と話を交わすし、朝鮮の釜 さらにいえば、浜田庄吉が新潟で出会う砂絵屋の稲葉は、堅山から下関に帰り着いたときは、本物の刑事につきまとわれる。 気でない「お友達」の世界の住人であるからというだけではな流浪の浜田は、つねに緊張と恐怖のなかにいる。 、忘れがたい印象を残す。三半規管に故障があるらしい五十 和歌山で憲兵と、同窓生の岩本にはからずも声をかけられた 男は、車にはねられて死ぬのだけれど、社会の外に生きるその後、浜田は宿屋の薄い蒲団にくるまって寝ようとするが、うま 風貌はあざやかである。杉浦健次という偽名で通す浜田は、ラ く眠りにつけない。そして、自分の取越苦労を笑おうとする。 くだ ジオや時計の修繕屋から、稲葉の砂絵屋を継ぐことにする。「おこころみに、その条りを引いてみよう。 らちがい 友達ーは、社会の埒外にいるという点では安心だけれど、とき 《そう、笑おう。笑ってから眠りにつこう。彼は笑い声を立て として埒外にいる者に特有の、果てしない虚無を見せて怖い た。しかしその笑いのあとで杉浦は、馬蹄の響きを聞きとろう それでも、浜田は時計の修繕では食っていけないと見通し、砂として耳を澄ませている自分に気がついたのである。そして、 絵屋を継ぎ、稲葉の持っていた「大日本神社仏閣縁日案内ーを夜が更けてから強くなった風は、裏山の笹を激しく鳴らしつづ 頼りに、社会外の世界を渡り歩く。その世界の男であることを け、乾いた、硬い、悲しい笹のざわめきは、現実の、あるいは 示す「家名 . を持たず、持たないことに細心のいいわけを準備幻の、馬蹄の音を厚く覆い隠している。》 しながら。 流浪している徴兵忌避者という存在を、まるごと伝えるよう なお、逃避行の浜田は杉浦健次の偽名を使っているのだが、 な、引き締った文章である。こういう文章で描かれる場面は、 ここでは原則として浜田で通すことにする。 浜田の戦後にはなかった。 浜田が倉敷で目をつけられる、朝比奈恵一という男は、稲葉 戦後の登場人物たちを一瞥してみる。 とは段ちがいに気味が悪い。おそらく社会の埒外にいる者を集 浜田の姉の美津、弟の信二、さらには妻の陽子をいちおう除 めて利を得ている、一種のロ入れ屋なのだろうけれど、仕事の外すると、大学の職員の小社会、それに浜田とっきあいのある うえでも、人柄の点でも、輪郭をけっして相手に ( すなわち浜教員たちが残る。この教員たちは、適当に進歩的であったり、 田に ) さらさない恐しさがある。その背後に、国家権力がある適当に正義派であったりするが、職員の身にふりかかる災難を かのようにチラつかせ、いわば恐怖によって人を支配しようと本気で防ごうとする者は一人もいない。浜田のいる職場はもと している。 もと教員たちに差別されているのだから、役割としてはにぎや この「倉敷の恐怖」に、数年後松本の蕎麦屋で出会う場面は、 かしに過ぎない。 191 丸谷才ーを読む
兄が考古学の助教授である青地正子という職員は、浜田と恋る意思を描いて凄味さえあるというべきだろう。 これに較べれば、経済学部の野本教授の裏切りなど、小心翼々 愛関係であるようなないような存在としてちょっと面白いが、 として可愛いものに見えてくる。浜田は階段みたいなものを、 兄である青地助教授は、妹が職員ふぜいと仲良くするのをけっ して許そうとしない。浜田が身を置く小社会がどんなものであまず野本教授の言動を知って一段下り、堀川理事のけっして口 にはしない意思を知って、一気にどん底に落ちるのだ。 るかを、この浜田と正子とのエピソードがあっけらかんと明ら 落下を加速させるのは、最後にやってきた事件である。若い、 かにしてみせる。 職員の小社会は、浜田の同僚である庶務課長補佐・西が、ほ美人の妻である陽子がつまらない万引きで捕る。どうやらずつ とんど代表といっていいほどに実態を示している。執拗な出世と以前から盗癖をもっ女であったらしいことが、陽子を引き取 りにいって明らかになる。 欲を背景にした、執拗な嫌がらせ。その嫌がらせを可能にする、 そこで浜田は考えざるを得ない。自分を取り囲む小社会では、 浜田排除の空気づくり。 これぞ日本の会社社会の原型であり、戦前戦後を通じて一貫誰もが自分が徴兵忌避者であるのを知っている。そしてあの堀 してあったものだ。その証拠ででもあるかのように、終戦直後 川理事は ( 仲人役を果たしたのだから ) 陽子の盗癖を知ってい には許されていた ( ばあいによってはプラス評価にさえなりそて、二人を結びつけたのではなかったか。 いったい誰と誰が、自分の前歴と妻の盗癖を知っているのだ うだった ) 徴兵忌避の前歴がくるりとひっくり返って、許すべ からざる反逆者、反社会的人間として後ろ指を差されるのであろう。多くの人びとがそれを知っていて、自分に軽蔑と憐憫の る。 目を向けているのではないか。そう考える。 そう考えるのは、社会のなかにある位置を占めて、自分がど 正面切って指弾されるのではない。反動的な右翼雑誌と民主 うふるまうべきかと考えるのとはほど遠い。社会から排除され 的かに見える学生新聞がひそかに使われて、「空気」が醸成され る。西課長補佐と堀川理事のあうんの呼吸でともいうべき画策たところにいて、社会の埒外から幻影のような社会らしいもの を見ているのだ。それは、戦時下に社会に背を向けて流浪して がその裏で働いている ( とおばしい ) 。 いた徴兵忌避者の位置にきわめて近い存在なのである。浜田は 堀川理事が最後に浜田を呼び、浜田の地方への出向が、徴兵 忌避あるいはそれに類するイデオロギ 1 が理由ではないことだ最後にその認識を得ることになる。 けを告げる場面は、浜田の現在いる社会を示して余すところが 先に、堀川理事の描き方がみごとである、といった。決定責 ない。「話はこれだけだよ、浜田君 . という堀川理事のせりふで 終るこの二頁ほどのエピソ 1 ドは、圧巻である。七十歳を過ぎ任をけっして明らかにせず、大学職員という小社会のなかで周 た堀川の保身の姿は、責任をけっして負わないで何かを決定す到に目くらましをかけて生き延び続ける姿の、描き方はみごと 湯川豊 192
る。ただ私立大学の事務局には、高度成長への動きは直接的に代の前半の五年間、逃走をつづけた。いちばんよく見る夢は憲 あざむ は波及しないから、煩雑ではあってもつまらない日常が、高度兵の夢であったし、それにもちろん、欺かねばならぬのは憲兵 成長の代価みたいにしてよどんでいるだけである。 や警官だけではなく、日本という国全体が、駅も港も町も、彼 浜田はその日常社会から逃れるようにして、過去を思い出す。 ひとりの敵であった。が、彼は逃げおおせた。彼の徴兵忌避は あるいは、自分がいつのまにか過去のなかにいることに気づく。 成功した。》 そして浜田の過去現在の往復が度重なるほどに、ずっと同じ社 では、浜田の動機はどのようなものであったか。 会が続いているのではないかと、私たちは直観的に思うに至る 浜田は職場の慰労会のような宴会の席上で、酒がまわって浜 のだ。 田を除く全員が「陸軍小唄」を合唱するのを耳にしながら、「何 もちろん、徴兵忌避者がその外に逃れようとし続ける社会は、度も何度も考えたあげくおこなった」徴兵忌避の理由について 現在のぬるま湯につかっているような社会と同じ姿をして浜田思い出す。学生気分の抜けない若者らしい分類癖で、四つに分 の前にあったのではない。しかし、浜田は通底しているものを けて考えていたな、と思う。 感じ、それが読者である私たちにも伝わってくるという径路が 一、戦争そのものへの反対。二、この戦争への反対。三、軍 ある。その径路をもっと奥までたどるために、私たちは浜田庄隊そのものへの反対。四、この軍隊への反対。 吉が徴兵忌避をした場に立ち会い、その理由を明確に知らなけ この四つの反対理由について思いをめぐらしながら、四つの ればならない。 理由がどれもすこしずつあるような気がして、自分の動機を一 つにしばることができないままに、時間切れのようなかたちで 浜田庄吉の徴兵忌避は、小説の進行の早い時期、「泥棒事件ー行動に踏み切ってしまった、と考える。 の直後ぐらいに、はっきりと記述される。 それにひき続き、奇妙なことを思う。四つのうち、「ほかの三 《昭和十五年の秋から昭和二十年の秋まで、浜田は徴兵忌避者つはみな何とも思っていなくて、ただ日本の軍隊が嫌いだとい として生きつづけた。昭和十五年は、日独伊三国同盟が締結さ う理由だけで徴兵忌避をこれからしようとしている ( 今してい おうせいえい れ、汪精衛の傀儡政府が成立した年である。太平洋戦争は翌十る ) のじゃないかという疑惑」に捉えられるのだ。「厭なのは往 うぐいす 六年の暮れに始まり、二十年の八月に終った。徴兵制度は戦前復ビンタじゃないのか ? 鶯の谷渡りじゃないのか ? 浜田、 きやはん の軍国的な日本の最も重要な基礎で、それに逆らうことは、当班長殿の脚絆を取らせていただきます、じゃないのか ? 」若かっ 然ー日本軍によって銃殺されるか、あるいは最も危険な戦場た浜田はそんなふうに自分をいじめるように自問し、そうでは に送られて敵軍の砲火によって殺されるかはともかくー確実ない、と思いつづけた。 な死を意味する。その暗い運命を思いつづけながら、彼は二十 「若い血潮の予科練の : : : 」などという軍歌が放歌される宴会 かいらい 189 丸谷才ーを読む
であっても、その姿そのものはあまりに卑小で、やはり退屈し 朝の五時、阿貴子は芋の葉の露をとりに行くために起き出す。 てしま、つ。 その露で墨をすり、短冊に歌を書くためだ。 それにひきかえ、浜田の過去には、逃亡者の緊張がつねにつ 七夕のとわたる舟のかぢの葉に きまとっている。そして、阿貴子と関係する場面の美しさは、 いく秋かきっ露の玉づさ 戦前の官立高等工業学校 ( 旧制 ) の無線工学科の卒業生であ 戦時下の浜田には、それが逃避しているというかたちをとっ る浜田は、この歌は『古今集』あたりにあるのだろうと見当を ているとしても、命がけで対立しているものがあるから、生きつけながら、阿貴子に望まれるままに短冊に書く。 ていることじたいに緊張がある。 ほんとうは「新古今和歌集』所載の藤原俊成の歌なのだが、 そして結城阿貴子とは何かといえば、つつましやかな不良少それはさておいて、阿貴子は母に教わったとおりに上五文字を 女だといえるだろう。時代を考えればずいぶんと思い切った家「しちせきの」と読む。そして、「しきたり通りにしないと、母 出によって、ついフラフラと社会からはみ出しているのである。 さんが寂しがるから . といって、七夕の竹を飾り、母親を交え 当人はそのことを半ばは意識しているから得体の知れない「杉て西瓜や真桑瓜を食べる。それがずっと昔から行なわれてきた 浦健次」と結ばれる。 字和島の「七夕様」なのだ。 男は社会から逃げまわっている。女はかりそめに社会からは この場面、きわめて哀切感が深い。なせなのだろう。 み出している。そのことによって、二人ともぎりぎりのところ 母子が毎年のようにやってきた、ささやかな行事である。そ で、わずかに個人として生きているのである。だからこそ、異れは日常性には違いないのだが、祭りのなかに伝統的文化が見 様なほどの美しい場面が出現する え隠れしている。はるかな昔から連綿と伝わっている伝統が暮 隠岐神社の桜を見、その後で二人が結ばれる場面を、「胸が痛らしのなかにふと顔を出し、そのことによって日常の生活がふ くなるほど美しいラブシ 1 ン」と評したのは米原万里である。 だんの卑小さをきれいに越えてしまうのだろう。 鋭い、またひろやかな感受性をそなえた米原は、浜田の過去 母親が下がった後、浜田と阿貴子は交わる。終った後で、奇 への往復を正確に捉えたのだろう。浜田は「ここで初めて過去妙な会話を交わす。阿貴子は、戦争が終ったらどうするつもり む によって現実から解放される」ともいっている。浜田の「現在」かと浜田に問い、浜田は、いつまでも終らないだろうと答える。 読 を は、見かけとはまったく逆に、まわりくどいやり方で社会から気分として、終らないことを望んでいるようだ。社会に戻る、 才 排除されているのである。 その戻り方の見当がっかないのである。 そんたく 浜田の「過去ーの場面で、もう一つ忘れられないのは、宇和 この場面で、阿貴子の心情を忖度するとともに、阿貴子の母疋 島で阿貴子母子の家にかくまわれた後の七夕の祭りである。 とは何であるのか、私はあらためて考えさせられた。家出娘が 「戦後 - の退屈さとは対照的にきわだっている。
奇妙な若者を連れて戻ってくる。娘の懇望を入れて、仕方なく を置いた社会から排除されようとしている。そこには同質の社 浜田をかくまう。そのとき娘も母も、浜田が何者であるのかが会が続いていて、自分はそのなかには入れないのだ。浜田はそ豊 判っている。そしてかくまった後は、ひたすら「世間体を気のことをはっきりと知ってしまう。 湯 にして、波風が立たぬように息をつめて暮らすのである。 浜田は、徴兵忌避によってこの社会をいったん否定した身だ 山崎正和は先に言及した論考のなかで、母親は「世間体ーのからという理由で、堀川理事と正面切って対立しないと決めて ために国家を敵にまわす覚悟をかためる、といっているが、じ いる。ある意味では賢い決心かもしれないが、そのあとで、自 つに正しい観測だろう。宇和島の小さな町だけが彼女の世界で分は「残軅ーなのだという、終戦直後に字和島の町で思ったこ あり、全社会なのだ。その社会のなかで平穏に暮らすためには、 とを、もう一度身にしみて感じざるを得ない。万引きで捕った 国家という抽象的なものと対立することになっても、知るとこ妻が、帰りの車のなかですやすやと眠っているのを見て、「残軅 ろではないわけだ。 である浜田は、自分は最後までこの社会に反抗をし続けるほか そう考えると、阿貴子の母は社会を代表する一つの顔なので はないと覚る。 ある。その社会は、国家に直接的に繋らないという意味で、一一 そのことを確認するかのような、『笹まくら』の終結部がくる。 重構造をつくっているともいえるだろう。 明日には赤坂の三連隊に入らなければならない浜田は、しか そして阿貴子が奇妙な会話のなかで予感したように、終戦後、 るべき準備を整えた、 ? んで、タクシ 1 で東京駅に向う。「おれは 浜田はたったひとりで東京へ戻る。阿貴子は母親の望む通り、 自由な反逆者なのだ」という高揚感にひたりながら。小説の終 字和島の老人の後妻になる。放蕩娘が字和島の小さな社会に帰りにやってくる「出発」は、私たちに衝撃を味わわせるととも 還するのである。 に、もう一度この小説の冒頭に立ち返らせようとする。 東京へひとりで戻った浜田庄吉は、「戦後社会」なら自分を受 さらにもう一つ、小説が終ったこの先に、何かが始まるので け容れるはずだと考え、就職運動をし、堀川理事にひきあわさ はないか、と予感させもする。 浜田庄吉は、戦後二十年経った社会のなかで「市民である れて、私立大学の職員に収まる。そして畑違いの仕事ながら、 かって命がけで否定した社会に戻ったつもりになる。自由な社 ことがついにできなかったが、ではどういう姿で市民はあり得 会のなかでなら自分の居場所はあるはずだ、と。 るのか。日本の不定形の社会のなかで、「たった一人の反乱」を しかし、この物語の最後に至って、それが錯覚であるのを痛演じたりしながら、市民は生存し得るのか。そういう問いかけ 烈に思い知らされる。軍隊という社会も、それが上に乗ってい が読者のなかに残るのである。 それは社会と個人の衝突、というより泥沼につかるような見 る隣組的小社会をも、徴兵忌避という非常手段で否定した。そ して徴兵忌避者であった事実を敵方に存分に使われて、現在身 えにくい両者の関係であるかもしれない。「出発ーは、この関係
避けて通るわナこよ、、 ー。ーし力ないことでありながら、一言でいえば後に書いた時評である ( 一九六六年八月十一日「読売新聞」タ これほどっまらないことはない。ちょっといい直して、日常生刊 ) 。そこに、こんな一節がある。 活のつまらなさをこれほど象徴的に示している事柄はそう多く 《こういう事実は果たしてありうるか。もしありうるとしたら、 ほとんど奇蹟的といっていい。その稀有の事実を、いかにあり そうではあるけれど、結城阿貴子の死のほうは、つまらない そうな事実として、最後まで読者になっとくさせるか、という 日常のしきたりのなかで考えるわナこよ、、 ー。 ( し力ない。なにしろ「昔困難な腕だめしを、著者はここで遂行している。》 の恋人で、しかも命の恩人ーであるのだから。 そしてこの鋭敏で知られた時評家は、「著者の困難きわまる腕 浜田庄吉は、現在、どんよりした、生ぬるい日常Ⅱ社会生活だめしは、果たしてよく成功しているか。私はほば成功してい に取り囲まれているが、過去には、忘れることができない、思 ると思う」と評価している。 い出すだけで緊張するほどの出来事があった。その二つを同時 戦後一一十年の時点で、平野は徴兵忌避者の逃亡を「到底あり に示している「香奠の金額 . なのである。 うべからざる事実」として捉え、これを読者に納得させるのは、 そして、浜田が数年前に上京してきた阿貴子のことを思い出力のある新進作家の腕だめしである、と考えた。 すというかたちのなかで、過去の出来事とは太平洋戦争中のこ 平野謙は、丸谷才一自身が高く評価していた文芸批評家であ とであることが自然に明らかになっていく。 る。『笹まくら』について、も、つ少し中身のある評言を期待して 浜田は昭和十五年の秋から昭和二十年の秋まで、徴兵忌避者 いた私はこれを読んでややがっかりした。そして、その後で思 として生きつづけた。全国を流浪しながら逃げおおせたのは、 い直した。これは常時文学の現場にいようとした、平野らしい ほとんど奇蹟的なことだったけれど、ともかくわれわれの主人正直な感想なのだろうと。徴兵忌避者というものがいたとして、 公はそれに成功した。それから二十年が経ち、四十五歳の浜田戦後二十年という時点ではそれを小説の主人公として受け入れ ることじたいが、きわめて困難であった。私が平野の短い時評 は私立大学の職員であるというのが、小説の現在である。 戦後二十年、昭和四十 ( 一九六五 ) 年という時点で、世間は を読んだのは、『笹まくら』を読んだずっと後だったけれど、 あの戦争で徴兵忌避者だった人間をどのように考え、遇するのまこの長篇を論ずるにあたって、留意しておいていいことだと む か。戦後から七十年を経た私たちとしてはやはり留意する必要思っている。「腕だめし」という言葉に同意するつもりは少しも があるだろう。成功したのはほとんど奇蹟、と言下にいえるよ ないが、徴兵忌避者をリアリティをもって描くには確かに困難を 才 うな感覚は私自身のなかでも薄い。難しかったのだろうな、と が山積していたことは推察できる。 谷 丸 は理解するとしても。 そこで想起するのは、平野謙が『笹まくら』刊行の約一カ月 『笹まくら』の語り方において、もっとも特徴的なことは、現 8
生きているあいだに一度でいい、この目で見てみたいと。 れ教室内にしみこんでいきました。その時、彼女の身体はただ 「死に際に走馬灯のように人生の記憶が」、なんていう話はよくの空洞になり、めいつばい音を増幅させてわたしたちを揺らし 聞きますけれど、眉唾ですね。わたしのように、未来を見せらていました。 れ復活する者もいるということです。 歌声を聞いた途端、これは彼女が数十倍の倍率なんてものと もせず、この場で合格を勝ち得るのだとわかりました。その場 にいた受験生、試験官、全員がそう思ったはずです。彼女が音 楽院、そして歌劇団にいるのといないのとでは大違いだという 沙咲由舞 ( 本名】浜田志乃 ) ことも。寂しげな真冬の海岸でやるビーチバレー、もしくは、 木の葉がすべて落ちてしまった森をゆく森林浴。彼女ひとりい はじめて由美子を見たのは、あれは入学のための筆記試験の ないだけで、物足りない、期待はずれの集団になってしまった 日でしたから、二月の終わりでした。彼女がギリギリになって でしよう。学院はしごく当然のジャッジをくだしたのです。 教室に入ってきた途端、周りの温度が一度か二度、上がった気 声楽の試験が終わって教室を出るときに、机の上に置き忘れ がしたんです。あたたかい紅茶を飲んだようにホッと首の周り られた番号札に気づいて、あわてて追いかけました。由美子は があたたかくなって、身体いつばいに広がっていくような。斜 小さな顔をほころばせてわたしに礼を言い、 め前に座った由美子からしばらく目を離すことができずにいま 「歌い終わったら一気に気が抜けちゃったんだ」 した。試験が始まり、答案用紙に解答を書き終えると、残りの とおどけてみせました。その時ふいに彼女の身体から、強い メント 1 ルのかおりが漂ってきて鼻をさしました。 時間はずっと彼女のストライプ模様の制服の線を数えて過ごし たことを覚えています。一本、二本、三本、 : : : 十八本、十九 「踊りの稽古で、傷めたの ? 」 わたしかうかカうように、おそるおそる聞くと、 本。その数を数えた分だけ、彼女と近しくなっているような気 がして、ひとりで舞い上がってしまって。 「ああ、この湿布 ? 違うよ、ローラースケートで転んじゃっ だから数日後に声楽の試験で一緒のグル 1 プになったときは、 わたしの心臓は小躍りしているようでしたよ。つい先ほどのこ と言うものですから、思わず「えつ」と聞き返してしまい ました。 とのようにハッキリと覚えています。試験官の前にまっすぐに 立って歌い始めた由美子のソプラノは、彼女の細くて白い首を 由美子はシャツのすそをまくって、背中に貼った湿布剤をわ 這い上がり、上あごに沿って、一音一音がわき出るようにこば たしに誇らしげに見せました。 81 メントール
つだそうきち 歴史家であり、日本思想史の大家である津田左右吉の『文学ある。 ゆが に現はれたる我が国民思想の研究』批判の文章なのだが、いま 日本近代文学の、独自で頑なな歪みこそ、丸谷が生涯をかけ 読み返してみると驚きの連続という印象である。 て正そうとしたものであった。その持続する意識は、最後の本Ⅷ 何よりもまず、津田という歴史家の、文学を見る目の頑なな格的評論集である『樹液そして果実』まで貫徹しているのは、 偏狭さに驚かざるを得ない。日本自然主義と私小説を中心に形たとえば集中の一篇「王朝和歌とモダニズム」を見れば明らか 成された、日本の「純文学」概念 ( というより趣味というべきである。そして丸谷の近代日本「純文学」への批判は、『梨のつ か ) で、古代以来の日本の全文学を裁いているのである。そしぶて』に始まっているのだ。 て、文学の伝統を「因襲」という言葉で退けようとした。蕉風 この二冊の本、『笹まくら』と『梨のつぶて』を丸谷の文学的 の俳諧。ー こよ「和歌連歌から継承してゐる因襲的自然観が纏綿し出発点として定位させるとしても、しかしそれはあくまで見取 てゐる」というぐあいに。 図のようなものにすぎない。山脈状に連なる丸谷文学に分け入っ では津田が肯定し、信じたものは何であったか。まず「個性」てゆくのに、ここから始める必要があるといっているだけであ である。ロマンティックな個性信仰である。そしてその個性が る。見取図は便宜のためにある。そこから小説や批評のもっ文 体験する実生活と実感を表現することである。津田にとっては、章の声が聞こえてくるわけではない。 それが最先端をゆく文学趣味であり、文学受容の規準だった。 だからここでは、まず『笹まくら』に身をひたして、この長 その尺度を不機嫌そうに用いて、古代からの日本文学の伝統を篇が発する声に耳をすませることから始めたい。 裁いている。 さすがに、『文学に現はれたる我が国民思想の研究』は、刊行 当初から ( 大正五年、十年刊 ) 津田は文学が判らないという批 こうでん 評かなくはなかったらしい。しかし丸谷は、「文学が判らない」 「香奠はどれくらいがいいだろう ? ーという一行から、この大 という言葉を慎重に避けて、津田の偏狭な文学観が何に由来し長篇は始まる。この一行にはすでに二重の中身がこめられてい ているのかを冷静に分析している。 る。香奠の額を考える浜田庄吉は、いつほうで「昔の恋人で、 日本近代文学の主流となる「純文学ー概念が、十九世紀のフ しかも命の恩人である女」の死亡通知を受けとって、結城阿貴 ランス自然主義を、英語の翻訳で学び、せつかちに移入した結子のことを思い出さざるを得ない。同時にもういつほうでは、 果であると、丸谷は論証する。それは、近代日本の社会が欧米大学事務局に勤める課長補佐として、明日葬儀がある名誉教授 に学ぶとき自らのつごうにあわせて「西欧化」を「工業化」との香奠額を決めなければならない役割がある。 受けとってそれを推進したことと同じ経緯である、というので 香奠の金額をきめる、というのは、世間のつきあいのなかで