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検索対象: 小説トリッパー 2014年春季号
138件見つかりました。

1. 小説トリッパー 2014年春季号

季刊 カク レヒュー ふさわ から。どうしよう、えらい夢を持ってし年に相応しい一冊でもある。 ああ、この人は作家になるべくしてなっ 物語は、主人公の葉太がニューヨ 1 ク まった。それやったら、ほんまに何もか た人なんだなあ。 時おり、そんなふうに感じる作家さんにも捨てる覚悟じゃないと、小説家になのマンハッタンで朝食をとるシ 1 ンから がいるのだが、私にとっては、西さんがんてなられへんのちゃうかと思いました」始まるのだが、冒頭の一行が、「パンまず い」。西さんの物語は、冒頭の一行にいっ まさにそうだ。歳で初めての小説を書「大それた夢」を持ってしまった西さん は、多分、本当に身ひとつで上京したのもインパクトがあって、「起きたら五時 き、 2 作目に書き上げた『あおい』とと もに、西さんは大阪からたった一人で上だと思う。そして、ある出版社に「あおだった」 ( 『通天閣』 ) 、「きりこは、ぶすで い」を持ち込む。半年後、『あおい』の出ある」 ( 『きりこについて』 ) 等々、もう、 京した。「野性時代」 2 009 年 6 月号の インタビューで、西さんはその時のこと版が決まり、西さんは夢をかなえる。そその一行で物語世界に取込まれてしまう のだけど、本書もまた同様。 の後、『さくら』『きいろいゾウ』と続き、 を、こ、つ語っている。 ようた 何プロックも歩き、腹ペこだった葉太 「上京する時、心細くて、寂しくてえらデビュー 4 作目となる『通天閣』で織田 は、プロ 1 ドウェイ沿いの「なんとか いことになったけど、それくらいつらい 作之助賞を受賞する。 本書は、西さんのデピュ 1 十周年にな」でアメリカンプレックファストを 思いをせんと小説家なんてなられへんっ て。それくらい大それた夢やと思ってたる今年最初に刊行された一冊で、節目のオ 1 ダ 1 する。しかし、それは何ともお 0 リ A R T E R Y B 0 0 K R E V ー E W 希 x by Yoshida Nobuko 吉田伸子 宵意識の檻」からの 解放と再生を描いた物語 西加奈子「舞台』 集英社 297

2. 小説トリッパー 2014年春季号

る。豊玉姫は勾玉を握りしめ、泉に赴く。まっすぐに 木の上を見つめる。 宙幸彦は今まで、誰かと目を合わせるということは なかった。誰も彼も宙幸彦を「そこにいないーかのよ うに扱っていたからである。だから宙幸彦はひとを見 るとき、どうせ相手は気づきもしないのだから、失礼 には当たらない 、と、無防備に見つめる癖がついてい た。このときも、まさか自分が目当てにされていると はっゅ思わず、今度は誰が来たのか、とじっと目を凝 らして見つめたのである。 時間が止まったかと思った。 宙幸彦はそれまでこんなうつくしいひとを見たこと がなかったし、豊玉姫もそれまでこんな気品のある若 者を見たことがなかった。まるで磁石が牽き合うよう に、互いから目が離せなくなったのだった。それだけ ではない。宙幸彦にとっては、自分をまっすぐに見つ 松浦弥太郎の 松浦弥太郎の ポンジュール、 ポンジュール、 と医、 松浦弥太部 ひ めてくれる、ということそのものが、ほとんど初めて の体験だったのである。だがいつまでもこうしている わけにはいかない。じっとしたまま魔法にかかったよ うに動けないでいる二人を残し、侍女は海神のもとへ 走った。侍女から報告を受け、駆けつけた海神は、宙 幸彦をひと目見るなり、 「虚空津彦さまー と、叫んだ。その声でようやく我に返った二人は、 当然のことながら相思相愛の間柄となる。幾晩も続く 海神のもてなしの宴は、途中で婚礼の宴に代わった。 さて念願かなって海へ漁に出た山幸彦であったが、 まるで釣果がなかったばかりか、海幸彦から借りた大 切な釣り針まで失くしてしまった。けれど実はこれは、 最初から計画されていたことであった。海幸彦から海 における彼の力を奪い取るのが目的なのであった。 「英語」「フランス語」「中国語」の三カ国語を習得して、 世界を自分の仕事場にして暮らす生き方を、 著者ならではの「ていねいでゆたかな 応 仕事論」をベースに説く。 松浦弥太郎 亠つよ、つか 定価 1 、 365 円 ( 税込 ) 四六判 224 頁 ISBN 978 ー 4 ー 02 ー 331174 ー 9 お求めは書店、 ASA ( 朝日新聞販売所 ) 朝日新聞出版でどうそ。 ASAHI 257 椿宿の辺りに

3. 小説トリッパー 2014年春季号

南さんの主人が自発的にしゃべるのは珍しかった。 「放射線をかければ癌は消える。鉄砲と同じで急所を撃た れたら死ぬわけです。物理的にわかりやすい治療だと思い ます。それからいくと抗癌剤はわかりにくいです。癌も正 常細胞もどっちをも攻撃しますからね」 「乱射ですよね」 行実がつぶやく。 「ええ、それに効き方が薬によって違うでしよう。同じ薬 を続けると効かなくなるので、次々にもっと強し薬。′ 、こ変わっ ていく」 「それからすると放射線は見えない外科手術ですねえ」 ただこっちは電気メスではなく、見えない光線なので、 切られるのは癌細胞の遺伝子だけで、臓器はそのまま残る。 「不思議と言えば、不思議な光ですねえ」 行実と南さんの主人は声を落として語り合う。 わたしは二人の話を聞きながら、マリー・ キュリ 1 の発 見したラジウムの青い火を思い出した。治療の帰りに丸善 の書棚から抜き出した本。 夜中、マリーは夫のピエ 1 ルと研究室に居残って、ラジ ウム塩のサンプルが妖しく輝く様に眼を吸い寄せられるの だ。それは二人の世にも優秀な科学者の眼にも、ただただ 不思議な光というしかなかった。 「暗闇に浮かび上がっているように見える光るものは、わ たしたちをどきどきさせ、うっとりさせました : ・輝く管は、 かすかな妖精の光のようでした。」 ピエ 1 ルはラジウムのチュ 1 プを自らの腕に十時間も巻 き付けて、皮膚に斑点が出るのを調べた。ラジウムが健康 な組織を破壊することが出来るなら、反対に癌の組織に損 傷を与えることも出来るのではないか。夫婦はそれから放 射線治療の様々な実験の世界に身を投じていったのだ。 マリ】は夜眠るときいつも、寝室の枕元にこの妖精の青 い火の入った壺を置いて寝たという。彼女はラジウムの虜 になった。やがて部屋の空気、埃、衣服、すべてのものが 見えない放射能を帯び始めた。 「もはや、わたしたちの持ち物で、完璧に放射能から隔離 されたものなどありません。」 まだ放射能の防護策が充分に講じられる以前のことで、 科学者はラジウムをしばしば素手で扱っていたのだ。 「わたし、わからないんだけど と南さんの奥さんが夫の方に向いた。 「治療は四十日もかかってやっと終わったのに、その結果 はどうしてあと三ヶ月も経たないとわからないのかしら。 もう少し早く結果がわかるようになってほしいわ」 放射線治療の全行程が終わると、患者が検査のためもう 村田喜代子 338

4. 小説トリッパー 2014年春季号

ふり返り、こ、つ一一一口、つー 北釜の方が私に「なぜ」と問わないのは、最初に私が 北釜に来た頃「なしてこげなところに」とさんざん聞 かれたあの一言にすべて集約されていたからだと思い ます。私はその「なぜ」の門を一度くぐっている。だ からあとはも、っその問いが必要なくなったんじゃない のか。つまり私は北釜の一住民に知らないうちになれ ていたのかもしれない。また「なぜ」と問わないこと は、北釜の人たちの気遣いだったのかな。ときに「な ぜ」は野暮で攻撃的にもなりうるし、そう問うたとし ても目の前の「わからなさーに対してなんの意味もも たらさないってわかっているんだって。一方でもし撮 影に対して「なぜ ? なぜ ? 」と何度も問われていた としたら、本当の意味で作品制作に興味をもってくれ たのかもしれない。そのほうがずっとおもしろかった のかもって、ちょっとそういうことが頭をかすめるん ですね。でもこうやってこねくりまわして思いつくよ うな考えに負けちゃいけない。そうじゃないんですよ。 私が北釜で「なぜ」と問われないことはそういう次元 ではないはずなんです。 志賀は北釜に来て「写真屋」として祭事や行事の写真を 撮る役を得た。そしてそれと並行して彼女自身の作品制作 を進めるうちに「だんだんとわからないことをする人だと いう理解が広まっていった」ようで、いつのまにか、被写一 体になってと頼んだら何かしている最中でも「いいよ」っ て引き受けてもらえる。その「わからなさ」の「すごく自 由な振れ幅」が心地いいと志賀はいう。「わからないーもの やことが、じぶんと外部との境界でじぶんを拒絶するもの として現われてくるかぎりは、「わからなさ」はだんだんせつ ば詰まったものになってくる。ずっとそのことにじぶんは もだ 悶え、苦しんできたのだが、そのときじぶんは「『わからな さ』の計り知れなく深い面に接する機会があったとしても スル 1 していた」。が、北釜ではじめて「わからなさーが 「人と人とのつながりのなかに連帯して存在しうる生きた感 覚であることに気づいたというのだ。そして「いまいろ いろと思い返すと、『なぜ』が問われないことを最大の魅力 として捉えているその理由は、じつは『なぜ ? 』が一番私 を突き動かす原動力なのかもしれないということーだ、と。 泣き叫ぶこどもが、泣き叫ぶおとなを見て唖然とし て泣き止むように、自分の心が本能のままにこの身を 滅ばすような欲望をぶちまけて闇に走っていかないよ うに、皮肉だけど「写真」がつなぎ止めているのだと 思う。現実と写真の世界は似ている。だから、北釜で 「なせ」と問われなかったことに驚愕したんです。それ は、住民の人からしたら全然別の理由で「なぜ」と問 鷲田清 284

5. 小説トリッパー 2014年春季号

も海も思いのままだとい、つことを、ここはひとつ、はっ きりとさせておいた方がいいかも知れない 「一度、縄張りの交換、ということをしてみないか、 兄さん」 「縄張りの交換 ? 」 「ああ」 「いやだね」 海幸彦はいかにも意欲に満ちた弟の力が怖かった。 「何を考えているんだ」 「いやだな、疑り深いんだから。毎日毎日代わり映え のしないところで、あきあきしてきたところだったん だ。たまには心機一転、新しい世界で自分を鍛えてみ たいのさ」 三度断ったが、四度目にはさすがに根負けして、一 日だけ、という約東で道具と場所の交換をした。 「ええと、ごめんなさいー と、赤信号で車を停止させた竜子さんは、謝った。 ついこの間ま 「私、これから先、なんだか思い出せない。 ではちゃんと覚えていたのに。こんなことってあるものな のですねー そういって、悲しそうに頭を振った。私はなんとか励ま み、、つと、 「海幸山幸が道具を交換し、お互いに散々な結果になった ので、借りたものを互いに返そうという段になって、山幸 が海幸の釣り針を失くしていたのがわかった、海幸は激怒歩 し、どうしても返せといってきかない。困り果てた山幸は、 梨 先ほどの宙とまったく同じ展開で綿津見の宮へ行く : ・ 普通ならこんなふうに続きますが」 「そうそう、そこがね、少し違うんですよ。綿津見の宮で は宙幸彦は大歓待されるんだけれど、山幸彦は誰からも見 向きもされないの」 青信号になり、車は再び発進した。 うろこ 竹の小舟は宙幸彦を潮流に乗せ、虹色に光る鱗が全 面を覆う、うつくしい綿津見の宮に導いた。宙幸彦は どこから入っていいものかわからない。、つろうろして いると、向こうから誰か来る気配がする。慌てて近く の木の上に上る。やって来たのは今まで宙幸彦が見た こともないきれいな女性だった。宙幸彦が上った木の 下には泉があり、女性は水を汲みにやってきたのだっ こ。ほうっと見とれていると、宙幸彦の身につけてい まがたま た勾玉がひとつ、女性の抱えている甕の中にばとんと 落ちた。その音に気づいた女性が甕の中を覗くと、や がて鎮まった水のおもてに、こちらを見ている男性の 姿があった。女性は知らぬ振りをしてその甕ごと勾玉 を宮の中に運び、豊玉姫にことの次第を報告した。豊 玉姫は海神の娘、女性は豊玉姫の侍女であったのであ とよたまひめ かめ

6. 小説トリッパー 2014年春季号

田名部との通話を終えた氷川は、冷静になれ、と自分に言い 田名部が吐き捨てた。 「もちろん、説明することはできない。しかし、いざとなった聞かせた。 だが事態を認識しようとする努力は、スマ 1 トフォンの振動 ら、正式な手続を踏んでもらっても一向に構わない。なにより、 で簡単に霧消した。 拳銃など所持しておらずー ディスプレイには、公衆電話、と表示されていた。 「ちょっと待てよー田名部が遮った。「さっきから何言ってん まず聞こえてきたのは、若そうな女性の声だった。 だ ? 」 「この番号は近藤さんですか ? 」 「だから、拳銃で撃たれた被害者の女性から聞いてもらっても、 女は、協力者の前で氷川が名乗っている偽名を口にした。そ 射入痕と射出痕の位置関係から、私ではないことが明白だ」 の言葉に、乱れた雰囲気はなかった。それどころか、訓練され 「だから、待てって言ってんだよ。もしかして、お前さんが言っ たと思われる上品な口調が印象的だった。 てるのは、昨日の、主婦が撃たれたヤマか ? まさか、それに だからなのか、氷川はそのまま会話を続けることとした。 も絡んでるのか ? 」 「そうです」 「それにも ? 」 「私、ホテルのキャビンアテンダント課の従業員でして、杉 氷川は嫌な予感が走った。 「とにかく、このままでは、オレもャパイ。いいか、お前さん村と申します。上司の松本からの指示で、伝言をお伝えするた へど たちが、嘘と欺瞞にまみれた世界に棲んでいることは反吐が出めに電話をさせて頂きました。今、よろしいでしようか ? 「松本さん、今、どうしておられます ? 」 るほど知ってる。だがな、今回は、それは通じない。本当のこ それを聞かずにはおれなかった。 とを話せ。本当とは文字通りのことだ」 「数時間前、警察の方がお越しになられまして、聞き残したこ 「そっちの仕事正面に絡むことで、私に何らかの容疑がかかっ とがあるとかで。現在はまだ、松本はそのために会議室で応対 ているのか ? 中です。伝言は、その直前に、重要なことだからと松本から申 「何でもお見通しの公安さんが、ご存じないとはな ! 」 しつけられました」 田名部の鼻で嗤うような声が聞こえた。 氷川は自分の心臓音をはっきりと意識しながら訊いた。 氷川は息を止めた。何かがおかしい。何かが起きている 「どうぞ、ご伝言を」 直感でそう思った。 「では、申し上げます。『申し訳ございませんが、来週のディナ 1 「今夜、いつものバ 1 に来い」田名部の口調は被疑者を取り調 の席は、満席でございます』。以上です。どちらのレストランか べるそれだった。「逃げるようなバカな真似はしねえと思ってい は松本から聞いてはおりませんが、何かご迷惑をおかけしまし る。時間は合わせる」 わら モニタ 145 背面捜査

7. 小説トリッパー 2014年春季号

。、 1 こ買、物こ行こうと車「もう一度聞きますが、恨まれる、または恨まれているという 「いえ、見ていないと。郊外のス 1 ノ。し ( ことはないと ? に近づき、キーの赤外線スイッチでドアロックを外した、その 「ええ」 直後、背後からいきなり撃たれた、ということです。しかし、 吉村は、面倒くさそうな雰囲気もなく律儀に答えた。 これは私の受けた印象ですが、ガンショットを受けたという事 実と、イメ 1 ジが余りにも違い過ぎるんです。普通の主婦が撃「ご主人が恨まれているようなことは ? たれるとは そう聞きながら、その可能性はあるな、と氷川は思った。 夫の会社が建設業というから、利権がらみで、暴力団による 吉村のその言葉に、氷川はロの中に苦いものを感じた。 犯行という光景がチラッと脳裏に浮かんだ。 同じような光景がかってあった。 から チャン それならそれで、この事件は、『李』の絡みからは排除できる 『張』に対する追及作業、その中で遭遇した、ラプホテルでの 事件。在日中国大使館員と関係をもっ作業をしていた日本人の 女。彼女もまた諜報戦という特殊な世界とはかけ離れたイメ 1 「彼女は、今まで、そんなことはなかったと。しかも、夫は、 ジの女ではあった 建設会社で、経理部門の課長をやっているともー」 夫から線が伸びる可能性について氷川は考えてみた。経理部 現実に戻った氷川は、質問を続けた。 門と暴力団というフレ 1 ズからカネの動きがイメ 1 ジされたか 「で、メ 1 ルでお願いした件は ? 」 らだ。 頭を切り換えようと質問を変えた。 しかし、拳銃を使用した犯行、というのはやはり尋常ではな 氷川は、スマ 1 トフォンのメールで、自分が秘撮した『李』 この国で、それを入手できる者はごくごく限られるからだ。 の顔貌写真を吉村に送っていた。それを被害者の女に見せて、 知っているかどうかを聞いて欲しいと依頼していたのだ。 捜査 1 課も、暴力団による犯行の可能性を疑っているはずだ。 しかし、壁となっているのは、やはり、被害者が専業主婦とい だが吉村の答えはあっさりしたものだった。 、つ点だろう。 「残念ながらー」 無理に考えられるもののひとっとして、誤射、の可能性があ 氷川は諦めずに質問を変えてみた。 る。 「撃たれたとき、周りには誰もいなかったと ? しかし、当時、周りには誰もいなかったというから 「そのようです 「刑事たちは、事件の見立てについて、何か言ってませんでし 「お金は取られていない ? たか ? 」 氷川が訊いた。 氷川の質問に対する吉村の答えは、期待するものではなかっ 「強盗ではないようだと刑事さんも がんほう エスピオナージ 141 背面捜査

8. 小説トリッパー 2014年春季号

「私が何を望んだと一言うの ? 「愛の逃避行。高校時代からずっと望んでいただろう ? 」 また靴音が近づいて来る。 「私はそんなもの、望んでいないわ」 「いいや。君は激しく恋していたのさー 「わかったようなこと言わないで ! 」 涙子は近寄って来る影から逃れようと一歩後退した。だが、 本木はそれ以上の速さで間隔を狭めてくる。 「『あなたの隣なら、この町は、この国は、この世界は、どんな 色に輝くのか、教えてください』」 「どうしてそれを : : : 」 ラブレターの一文。その言葉を知っているのは、潔だけのは 「本木君、なぜあなたがそれを知っているの ? ふふっと本木は笑った。 「なぜ : : : 潔の下駄箱にラブレタ 1 を移したのは俺だからさー 「何ですって 真実はいつも想像だにしない物陰から顔を出す。そうだった のか。 考えてもみれば、ずっと好きだった相手の下駄箱を間違える わけがない。 「どうして、そんなことを ? 「まさか潔が君の字を記憶してるとは思わなかったんだ。誰で もよかった。ラブレタ 1 が無駄になればいいと思ってね。あん な恋、ダメになればいいと思った」 「何て男なの : : : 異常よ : : : あなたは異常だわ ! 」 ず。 高校時代から彼の視線を感じるたびに、、濡れた鼠の毛に触れ るような総毛立っ感覚を抱いてきた。その悪寒の正体が、いま はっきりと見えた。 「君の人生を近くで見守ってきたよ。大学も、卒業後の職場も、 家も、ぜんぶ君の家の近くにした」 涙子は後すさった。だが、背後には説教台があり、これ以上 は下がれなかった。 本木はさらに近づいて来る。 「君が、僕の選んだ人畜無害な男の貞淑な妻でいること。それ が僕の望みさ。用意したレ 1 ルから外れてほしくなかったのに、 君は誘惑に負けてあの日家を抜け出した」 「あなたは : : : 頭がおかしいわ」 「なぜ ? 」 「あの頃からわかっていたことよ。はじめから私の人生を外側 から無茶苦茶にすることで欲望を満たしていたのよね ? 」 「とてもリアルなショーだったよ。でも、誰が仕掛けたのか、 今になってマスコミが俺を嗅ぎまわってる。だからもう殺さな くちゃならない 「殺す ? 「そうだよ。とても残念だ」 本木はポケットから白い粉の入ったビニールの小包装を取り 出した。青酸カリ。 「あなたが殺したのね ? 」 「そう。酔っぱらって帰ってくると、潔は風呂に入った後、必 ず寝室の窓を少し開けるからね」 「でも、あの窓から中に入ることはできないはずよ ? 」 125 偽恋愛小説家

9. 小説トリッパー 2014年春季号

長からだった。もしもし、と言う前に小池編集長が話しはじめ 出版許可が下りないだろう。 「この段階まで企画を通せなかったのは夢センセの責任でもあた。 「お前に日出出版の鈴村女史から電話が来てるんだが るんですから、言うことは聞いてもらいますー 「鈴村さんって : : : あの鈴村さんですか ? 」 いいよなあ編集者は。それでヘンテコな続編書か 「横暴だー 1 ティ 1 会場で名刺交換はしたことがあったが、それきり されて読者にそっほ向かれるのは作者だけなんだから」 「ええそうですよ。売れなかったら、私はべつの売れる作家と接点はなかった。 「どうする ? 急ぎらしいぞ」 手を組むんです。そういう世界なんですから」 編集部には一分で戻ることができる。 開き直って言い返してみたが、これがいけなかった。 「わかりました。すぐに戻りますー電話を切って夢センセに言 「なるほど。君の編集姿勢はよくわかった。それならいいよ、 う。「いいですか、このままステイしていてくださいね」 君の望み通りハッピ 1 エンドを書いてやるよー 「はいはい。あ、ケ 1 キもいい ? 「え : : : 本当ですか ! やった ! 」 やれやれ。 「その代わりーたった一か月しかないんだ。入稿寸前まで書 「何でもお好きなものをどうぞ」 。書いたものは一字一句直させないー ・ : なんですって ! 」 わーいじゃないー と内心で怒りながら、この辺りの掌を返 「べつにいいんだよ。出版したいのはそっちなんだからー したような無邪気さにはなぜか憎めないものがある。夢センセ シニカルに右の眉がくいっと上がる。足元を見られた。 「こっちだっていざとなれば出版を取り消すだけなんですから ! 」は呑気な猫のようにメニュ 1 を眺め始めた。わたしはため息を 嘘だった。実際のところ、わが社の刊行スケジュ 1 ルは一度つき、席を離れた。ドアを開けて外に出ると、乾いた風が髪を 決まったら梃子でも動かない。夢センセも晴雲出版の事情を察撫でた。 もちろん、この段階ではわたしは電話の用件など知るよしも しているのかニャニヤ笑っている。分が悪い なかった。災いは、いつも素知らぬ顔で物陰に潜んでいるもの 携帯電話が鳴ったのはそのときだった。 なのだ。 「夢センセ、もう少しお話が残ってるのでお待ちくださいね . 「アイス豆乳オ・レ頼んでもいい ? 」 しいいですよ」 「んじゃあ五分待ってやろう」 何様なんだこの男と思いながら携帯電話を確認すると、編集 突如降りかかった火の粉に、わたしは黒焦げになってしまっ 109 偽恋愛小説家

10. 小説トリッパー 2014年春季号

は、描くうちに立ってくる。つまり、ある色だけを別の色 に置き換えたりなぞすれば全体が台無しになってしまう。 絵を描き了えたときには画面のすべてがこうでしかありえ ないという必然性を帯びている。しかしその画業の意味を 問われても答えようがない。画家の元永定正はじぶんの作 品について「これは何ですか ? 」と問われるといつも、「こ れはこれです」と答えるのだという。そういう意味で、曖 味なものを曖味なままに正確に表現する、一箇所もゆるが せにしないで、正確に、これしかないという表現へともた らすこと、これが画家の力量であるとおもわれる。 このように、政治的な判断においても、看護・介護の現 場でも、芸術制作の過程でも、見えてないこと、わからな いことがそのコアにあって、その見えていないこと、わか らないことに、わからないままいかに正確に対処するかと いうことが問題なのである。そういう思考と感覚のはたら かせ方をしなければならないのがわたしたちのリアルな社 会であるのに、人びとはそれとは逆方向に殺到し、わかり やすい観念、わかりやすい説明を求める。一筋縄ではいか ないもの、世界が見えないものに取り囲まれて、苛立ちゃ 焦り、不満や違和感で息が詰まりそうになると、その鬱ぎ を突破するために、みずからが置かれている状況をわかり やすい論理にくるんでしまおうとする。その論理に立てこ もろうとする。わかりやすい二項対立、それも一方の肯定 が他方の否定をしか意味しない二者択一というわかりやす ふさ い物語に飛びつき、それにがんじがらめになって、わから ないことにわからないまま正確に対処するという息継ぎで きない潜水のような思考過程に耐えられないでいる。眼前 の二項対立、二者択一に晒されつづけること、その無呼吸 に耐えてやがてそれの外へ出るというのが思考の原型とな る作業なのに、その作業を免れるほうばかりに向かってい る。 「わかりやすさに負けちゃいけない」とみずからを叱咤し、 しりぞ わかりやすさの誘惑を斥けつづけた志賀には、援護射撃と してテオド 1 ル・アドルノのこんな言葉をふと贈りたくなる。 難解なもの、手に負えぬものこそお誂え向きだと思っ そそ ている学生の無邪気さのほうが、それだけが思想を唆 るものであるのに、複雑なものに手を出す前に単純な ことを弁えていなければならない、と指でおどしなが ら思想を警める世の大人たちの狭い了見よりも賢明な のである。そうやって認識を後日に日延べするやり方 は、認識を妨げるだけである。平易さという約東や真 理を作用連関として見る見方に従わないエッセ 1 は、 第一歩から事柄をそのあるがままの多層性において考 えざるを得ないように仕向け、それによって通常の理 性につきものの度しがたい幼稚さを矯正する。 ( 「形式としてのエッセー」『アドルノ文学ノ 1 ト』所収、 三光長治ほか訳 ) 鷲田清一 288