私たちが駅で待ち合わせたのは彼を出迎えるためでも、連れ 駅は、不思議なアルバムのようだ。 分厚いペ 1 ジから漏れ落ちていたことも、ふとした拍子に鮮立ってどこかへ発っためでもなかった。 アントニオは営業マンで、私たちがプラットフォームで落ち 明な情景となって目前に戻ってきたりする。 アルバムをめくるうちに、取るに足らない、と片付けていた合ったのは、写真のためなのだった。 ことや封じていた嫌な思いが、実は自分の岐路を決めた重要な 大学を出た後、日本のマスコミヘイタリアからのニュ 1 スを できごとだったり、その言い合いがあったからこそ迷いから抜 送る仕事を始めた私は、イタリアに事務所を開くことを決めた け出せたのだ、と今さら気づいたりする。 とき、迷わずミラノを選んだ。学生時代に訪れたミラノ駅のあ のひんやりした様子を思い返してやや怯んだものの、この町に これまで何度、ここから電車に乗って別の町へと出かけていっ は新聞社や通信社、出版関係の大半が集中している。躊躇は無 ただろう。 好奇心や勇気に駆り立てられて、新しい場所を訪ね見知らぬ用だった。 日本でもイタリアでも、世界各地を網羅するように支局を置 人と会うのだ、とあの頃は張り切っていた。しかし本当は、 く媒体はない。主要都市ですら報道拠点を設けるのは大手だけ カ所に留まり自分と向き合うことが恐ろしく、それを先送りし で、たいていは現地の通信社を通じて情報を入手する。それで ようとして出発を繰り返していたのではないか。 マスコミ各社は、独自の現地情報を入手できるよう現地でのネッ ばんやりあれこれ思いながら、コンコ 1 スに走る斜めの縞を トワ 1 ク作りに苦心する。 見ていると、 新聞でも雑誌でも、海外ニュースの誌面は限られている。そ 〈物事、まっすぐには進まないもの〉 れをさらにアメリカやアジア、中近東にロシア、欧州で分ける と、足下から駅の声が聞こえてくる。 のだ。私が扱う情報は欧州のなかのイタリアについてであり、 〈いってらっしゃい。でもまた帰ってきてね〉 つか よほどの特ダネでもまない限りは、大きな枠を押さえるのは 見送りに来てくれた、遠い日の友人の声を聞いたように思う。 難しかった。 当時イタリアで話題性のあるニュ 1 スといえば、圧倒的にサッ 「明日の始発で着くから。いつもの通り、中央駅のプラット カ 1 だった。ところが、日本にはまだリーグすらなかった時 フォ 1 ムの頭で待ち合わせよう」 過ぎた日のかけらを一つずつ拾っていると、遠くからアント代である。野球一色の日本のスポーツ報道界へ、いくらイタリ ニオの声も聞こえてきた。昔、そう言って、頻繁に彼から電話アの花形とはいえ、サッカーは売り込めない。 芸能ニュ 1 スとなると、長らくイタリア映画界は低迷し続け を貰ったものだった。 ひる 49 イタリアからイタリアへ
だろう。ム・サンも開拓時から家族付き合いしている村人たち 「それだけ村の女性に頼りにされているってことですよ」と私 は一言った。 に頼まれると断るわけにいかなかった。どこそこで陣痛がはじ まったと聞けば家に駆けつけて無事に生まれるまで付き添った 彼女はにんまりと笑った。 りしているうちに、次第にム・サンは産婆として認められるよ 「当たり前でしよ。看護師になんて負けてられないわよ。わた 、つになった。 しの方がずっとすごい経験をしてるんだから」 そんな話をして笑っていたところ、別の若い母親が七、八カ ム・サンは糸繰車を動かしながらつづけた。 「気がついたら産婆の仕事をするようになっていたけど、いっ月ぐらいの赤子を抱いてやってきた。赤子を真っ赤なアフガン くる かは誰かしらがやらなければならないことだからね。それがた に包んで背負い、垣根越しに顔をのぞかせてから、ゆっくりと やってきた。彼女もまた首にリングをつけていない。 またまわたしだったってだけ」 母親はム・サンのところまでやってくると、アフガンをほど 「大変なこともあったでしよう」 いて素っ裸の赤子を膝に抱えてからうつぶせにし、深刻な表情 「そうね。角の生えた赤ん坊が生まれて、どうしていいかわか らずにうろたえている間に死んでしまったこともあった : でカヤン族の言葉で何かを訴えはじめた。背中から股にかけて 長らくお産の現場に立ちあえば、障害や奇病を持っ子供を見肌が赤くただれたように炎症を起こしており、どうやらそのこ たこともあったはずだ。 とについて相談しているようだった。 ム・サンはいったん糸繰車から離れて赤子を抱くと、背中の 「何かあった時、やはり病院に運んだりすることはできないん ですかー 肌の症状を調べるように指でつついたり、他の箇所を見たりし 「昔は難しかったわね。今では町までバスで三十分ぐらいだけ た。赤子は不安げに顔を歪め、はち切れんばかりの声で泣きは ど、昔はバスもほとんどなくてもっとかかった。ただ数年前に じめる。二人の女性たちがそれを見て忍び笑いをした。 ム・サンは赤子のお尻をベンペンと手で叩くと、ちょっと待っ 看護師がこの近くに来てくれるようになってわたしの気持ちは ててと言い残して高床式の家へ上がった。しばらくして下りて 楽になったわ。相談に乗ってくれるの。村人は嫌がるけど きた時、彼女の手には草をすりつぶしたようなものを入れたビ 「嫌がる ? ニール袋があった。そして何かを言いながら母親の手にそれを 「ええ。看護師よりわたしに来てもらいたがるのよ。なんせ、 握らせた。 みんな甘えん坊だからね ! 」 ム・サンは三十年前に森を開拓して以来、数えきれないほど 二人の女性が、渡したものはム・サンがつくった民間薬だと の赤子を取り上げてきた。若い妊婦からすれば、言葉も文化も教えてくれた。森にある草花を集めて調合する伝統的な方法が あるそうだ。 違う、よそから来た看護師よりずっと信頼できるのだろう。 35 世界の産声に耳を澄ます
れてミイラのように横たえられている。さっそく顔にハエがたついて少しだけ訊いてみた。この村ではどうやって夫と知り合っ て一緒になるものなのか、と。ム・マイは突然の質問に目を丸 かって、お腹や胸のあたりには巨大な蟻が何匹も歩いており、 くしたが普通に答えてくれた。 子供を持っ私としては、大丈夫かな、といささか心配になる。 「村では親が決めた人と結婚することになっていますよ。大体 私もどちらかと言えば小さなことは気にしない性格で、子供の 顔には砂や米粒ぐらいついていてしかるべきだと考えているの十六歳から十八歳ぐらいで決められるんです」 「男女が自由な恋愛で結婚することはないのですか」 だが、さすがに生後二日目から虫にたかられるとなると話は別 「それはないかな。なぜかっていうのはわかりませんけど、昔 という気がするのだ。 からそうなので」 私はム・マイに質問をする時、日本語をしゃべれる友人とピ 「あなたは何歳でご結婚したのですか」 ルマ語をしゃべれる村人の二人を介さなければならなかった。 「十六歳の時でした。夫とは十歳違いますが、この村じゃ夫婦 彼女は学校へ行っていないため、ビルマ語をろくに理解するこ はたいてい年齢が離れています。夫は畑を持ってその仕事がで とができなかったのである。 きるようにならないとダメですから、そのぶん遅くなるんですー 「昨日出産したのにもう動いて大丈夫なのですか」と私は訊い 窓の外で雨の音が一層激しくなるのが気になったのか、ム・ てみた。 マイは体ごと後ろをふり向いた。リングのせいで首が曲がらな ム・マイはスパイスのついた指で金色に光る首輪をなでなが いので、体ごと向けなければならないのだろう。 ら答えた。 「女性は結婚すれば家事に畑仕事に子育てと大変だと思います 「何てことないですよ。洗濯も掃除も済ませましたから。家に が、そんな時でもずっと首輪はつけているんですか。つまり邪 入ってください」 彼女はハエがたからないようにスパイスの上に布をかぶせて魔にならないのですか」 彼女は首輪のことに話が及ぶと笑顔を見せた。 から赤子を抱きかかえて、私たちを高床式の家に招いた。辛そ 「つけたままですよ」 うな赤いスパイスが赤子の顔についたが、起きる気配はない。 「体を洗う時も ? 」 家の中は十畳ほどの広さがあり、昨日お産があったとは思え ないほどきれいに片づけられていた。急に外で雨の降る音がす「ええ、わたしたちは川の水で洗いますが、もちろんリングは つけたままです。外すことなんてありません」 る。雨季は終わりにさしかかっていたものの、まだ日に四、五 「寝ている時もですよね」 回ぐらいは驟雨が降るのだ。土に埋めたはずの胎盤がでてこな よぎ 「横になってみましようか」 いかという懸念が脳裏を過る 彼女はそう言ってタオルを取り出し、高枕のような形にして 私はお産について尋ねようと考えていたが、その前に結婚に しゅ、つ、つ 29 世界の産声に耳を澄ます
を転ばせたり、何かしら無視以外の嫌がらせをしている。麻奈散るだろう。 に無理やりダンスをさせて、それをネットにアップしたりもし バスは海を背にして、摩周温泉に向かう。今日の宿泊地だ。 ている。担任の勘がもう少しよければ、首謀者と同じグル 1 プ バスに戻っても、おばあちゃんは麻奈の話には触れてこなかっ のあたしが無視だけで責任を免除されていることに疑問を抱い た。話し疲れて喉が渇き、水を一気飲みした後のペットボトル たはずだ。 おじいちゃんが校長を務めていた隣町の私立高校を瑠伽は受を見て、よかったらおばあちゃんのも飲んでね、と言ってくれ ただけだ。おばあちゃんの手記を読み、初めは自分をおばあちゃ 験するつもりだと聞いたことがあったけど、それと今回の件は 関係ない。瑠伽から見れば、あたしは誰よりも大きな仕事をしんに重ね、すぐにそれは道代さんへと変わり、最後にはおじい ちゃんへと変わっていつな。 ていることになるのだから。 夢を追い求める人、夢をあきらめる人、夢を手助けする人、 おもしろいネタの提供。夢工房に『ガラスちゃん』の誹謗・ 中傷コメントを書き込んだのは、多分、瑠伽やクラスメイトた夢を妨害する人。 あたしがおばあちゃんの手記をパソコンで打ち直したのは、 ちだ。 旅のあいだに持ち歩いていたかったからだ。なのに、それを行 麻奈の心が折れてしまったのは、教室内でのイジメよりも、 きのフェリ 1 の中で早々に手放したのは、自分で持っていても 『ガラスちゃん』を非難され、書籍化のチャンスが断たれたこと の方が大きかったはずだ。学校で辛いことがあっても、大きな何の答えも出せないとあきらめたから。そして、読み返せば読 世界に繋がる夢というよりどころがあれば、耐えることができみ返すほど、おじいちゃんの姿に自分が重なったから。理由も たかもしれない。なのに、一番大切な場所を土足で踏み荒らさ知らずに学校に行かないあたしを責めたおじいちゃんは、きっ れた。麻奈の絶望と恐怖はどれほどのものだったのか。奪われと同じような感じで、東京に行くために駅に向かったおばあちゃ んを待ち伏せし、一方的に正論を振りかざして、おばあちゃん たのは『ガラスちゃん』という一つの作品ではない。この先、 を家に連れて帰ったのだ。 新作を書いても、プロの作家としてデピュ 1 しても、どんなに 手記はおじいちゃんが待ち伏せしていたところで終わってい 人気が出ても、バカたちはネットという道具を使って簡単に追 たけど、おばあちゃんがあの町で暮らし続けてきたことが答え いかけてくるのだ。 を物語っている。おばあちゃんは自分の夢に区切りをつけるた その、バカの筆頭はあたしだ。 その上、無意識じゃない。あたしは心の奥底で麻奈のことをめにあの手記を書いたのかもしれない。ただし、最後の場面を 妬んでいたのだ。瑠伽が攻撃するかもしれないなんて思っても書ききることができなかった。夢が消えた瞬間は、それほどに いなかった、と言ってしまえば、あたしの体は木端微塵に砕け辛かったのだ。 177 物語のおわり
おばあちゃんは若い子みたいに口をとがらせた。さらりと流れていた。だから、おじいちゃんに責められてもあたしの味方 になってくれたし、旅行にも連れてきてくれたのに。 してみたけれど、あたしにはおばあちゃんのような発想はない。 おばあちゃんはあたしに失望しているだろうか もしもおばあちゃんが小説家になっていたら、どんな物語が生 「あの町じゃ、ささやくような声で話しても、こだまになって まれていたのだろう。 「もしもね : : : 。外国で夢をかなえたいと思った子がいて、そ広がっちゃうから、何にも言えないでしよ。ごめんなさい、だっ て相手にだけ聞こえれば十分なのに、みんなに聞こえるから詮 の夢に手が届きそうなのに周りの人に止められて、あきらめる 索されておかしな噂が広がってしまう。でも、ここなら大丈夫。 ことになったら、その子には海が砦のように見えると思う ? とさらに視線おばあちゃんは誰にも言わない」 海を見ていたおばあちゃんは、そうねえ : : : おばあちゃんはあたしをまっすぐ見つめて、力強く頷いた。 を遠くに向けたけど、うん ? と眉根を寄せてあたしの方を見 、」 0 あたしは自分自身の背を押すようにぐっと力を入れて空を見上 「やつばり、萌ちゃんは世界文学全集を読んでいたのね」 あたしは黙って頷き、視線を落としたまま、おばあちゃんに 萌ってコン部だよね。麻奈と仲いいの ? ずっと訊きたかったことを口にした。 放課後、瑠伽に突然そう訊かれたのは五月の中頃だった。 「夢を奪われるのって、どんな気分 ? 」 。部活中も麻奈は そんなこ、中 。イカいいってわけじゃ : 少し待ってみたけど、おばあちゃんの返事はない。何十年も 前の出来事でも、やはり、大きなしこりとなって残っているのずっと一人でパソコンに向かいつばなしだから。 もしかして、オタク ? キモい趣味でもあるとか ? だろうか。触れてはならない傷となっているのだろうか。ごめ ううん。普通に小説書いてるだけ。「ガラスちゃん』って んなさい、と言おうと顔を上げると、おばあちゃんは悲しそう いう作品が、夢工房っていう小説投稿サイトで読めるけど、けっ な顔であたしを見ていた。 こ、つおもしろいよ 「萌ちゃんは誰を傷つけてしまったの ? へえ、おもしろそう ! どうしてわかったんだろうと、今度はあたしが口をつぐんで 瑠伽はそう言って、あたしの肩を叩いた。よくやった、とい しまう。でも、少し考えれば簡単なことだ。あたしが被害者な 、つふ、つに。 ら、被害者の気持ちなんて訊ねない。自分が一番理解している 麻奈があたしに原稿を渡してくれた翌日、夢工房にも『ガラ ことだから。おばあちゃんが悲しそうなのは、あたしをずっと スちゃん』最終章がアップされた。圧巻だった。ガラスちゃん 被害者だと思ってくれていたからだ。学校に行かれなくなった はもとのからだに戻れるか、死んでしまうのか、そういう一人 理由をクラスの子たちのせいにしたあたしの言い分を信じてく 175 物語のおわり
ひとまず拳銃を確保でき、しかも立派なライフルを見つけて、 を下ろした。 多少は安堵できた。玄羽兄弟は魔物じみているが、相棒である 「これは」 黒いライフル銃らしきものが入っていた。再び周囲に目をやっ汐見もまた魔物みたいな野郎だ。その実力を今では認めている。 この男が味方でよかったと、今は思う。 てから、ガンケースから抜き出す。 汐見はライフルの技術もピカイチだ。実戦では目撃していな レミントン 7 0 0 だ。全長約一メ 1 トルのポルトアクショ いものの、榊らがいる邸宅の地下室で、ライフルを試射する汐 ン式のライフルだった。性能のよさと堅牢な造りから、世界各 見の姿を目撃している。 国の警察や法執行機関、それに軍隊まで、幅広く採用されてい 距離が短いとはいえ、吊るした射撃用標的のど真ん中を、い る。狩猟用や竸技用としても用いられ、日本でも厳しい規制が とも簡単に射抜いていた。標的の中央に弾が集中し、五百円玉 あるものの、所持している愛好者は多い。 ほどの穴ができていたものだった。 五十発入りのア 1 モケースと、ミドルレンジタクティカルの 汐見はさらにライフルを撃ち、発射した弾丸を穴のなかへと スコープがついている。狙撃の腕さえあれば、七百メートル先 くぐらせた。楙によれば、汐見の師匠である忍足は、業界でナ の獲物も仕留められるだろう。銃弾は 308Wi 約三十口径 ンバ 11 と呼ばれる狙撃銃の使い手だと言われている。しかし、 の銅弾頭だった。 現役時代の汐見は、師匠を凌駕する射撃能力を持っていたとい 「やけに立派なものが残ってるな」 なま う。五年ものプランクのせいで、腕が鈍ったとはいえ、伊吹か 渡辺が顔をまっ赤にして説明した。 「せ、先代の社長がひそかに持ってたもんだべっす。本人は何ら見れば神業のようなものだ。 そのいかにも立派そうなライフルが、ガラクタのなかから見 年も前に死んじまったけんど、拳銃と違って、みんな使い方が つかった。鬼に金棒という言葉は、こういうためにある。とい わがんねえがらって」 うより、これぐらいのウェポンがなければ、あの兄弟を地獄へ 伊吹は渡辺から手を離した。寒風が熱くなった頭を冷やす。 送るのは不可能といえた。 渡辺のダウンジャケットの埃を払ってやる。 伊吹は銀ダラをんだ。 「悪かったな。ついカッとなっちまって」 おとり 「おれが囮になる。あんたはどっか遠くから、あの兄弟をケネ 渡辺は、迎合するような曖味な笑みを浮かべた。 使い道のない防犯グッズやエアガンが出てきたときは、怒りディの頭みたいにしちまえばいい」 汐見はじっとトランクを睨んでいた。伊吹の意見を否定も肯 を通り越して、腰を抜かしそうになった。 相手は玄羽兄弟だ。実銃を所持した敵でも、いとも簡単にあ定もしようとしない。やがて彼は渡辺に言った。 「まずは案内してくれ。お前の兄貴たちのところへ」 の世へ葬り去るような化物どもだ。しかし、粗悪品とはいえ、 327 ショットガン・ロード
ない」 「そんなに焦ってもしようがねえだろう。隣の母子だったら、 「とてもそうは見えないせ。誰彼かまわず、喰い殺しちまいそ 地元の連中が保護しているんだろう ? あの兄弟がいくらャパ うなツラしてた」 いといってもよ。こんな無案内な土地じゃ、すぐには見つけら 汐見は顔をなでた。眉をひそめる。自分では気がっかなかっ れねえはずだぜ」 たらしい 伊吹は思わず身構えた。汐見が強張った表情で見つめ返した。 「本当か」 その顔は、今にも飛びかかろうとする軍用大に似ていた。 「ちっとも、落ち着いちゃいねえよ。おれもあんたも 彼は深呼吸をしてから答えた。首を振る。 げんば 伊吹は肩をすくめた。汐見は軽く微笑を浮かべ、両肩を揺す 「いや : : : 玄羽兄弟の手に落ちていると考えたほうがいい。楙 り、リラックスしよ、つとした。 の手下がすでに捕まっている。その線から地元の極道まで、あっ せつかくの試みだったが、うまくいったとは言いがたかった。 という間にたどりつく。無案内な土地だったら、地元に明るい やつを捕獲して案内させる。やつらは殺しのプロだが、追跡もふたりの間に緊張が走る。 一階のロピーには、黒のダウンジャケットを着たニキビ面の 得意中の得意としている。ヤクザのロを割らせるのも、あいっ ガキがいた。金の刺繍が入ったジャージズボンを穿いている。 らにとっては、赤子の手をひねるよりも簡単だ」 いかにも田舎のヤンキ 1 兄ちゃんといった風情だ。 汐見は静かな口調で答えた。しかし、いつもより早ロだった。 ホストみたいにウルフカットの金髪にしているが、手入れを 伊吹としては、黙って耳を傾けるしかなかった。昨日までだっ たら、しつけの悪い座敷大みたいに、キャンキャン吠えて異論おろそかにしているためか、根元から三センチほど黒い地毛が を唱えてみせただろう。たいした根拠もないまま、ただ汐見に生え、〃プリンんと呼ばれる状態になっている。そのくせ、眉だ けは極細かっ丁寧にカットしていた。その顔は、死人みたいに 噛みつきたいがために。 じっさい、沼津のホテル街でそれをやり、危うく玄羽兄弟に青ざめている。ッラだけで非常事態を告げていた。 飛行機で移動した伊吹と汐見は、当然ながら武器を所持して 殺されかけた。筋肉モンスターの弟と、毒劇物を扱うサディス おしたり いない。沼津で玄羽兄弟と戦ったさいに、銃火器類を置いたま トの兄。もともと忍足チ 1 ムは、世界を股にかけ、どんな土地 だろうとお構いなしに腕を発揮してきた殺し屋集団だ。片田舎ま逃走せざるを得なくなった。あの怪物兄弟を仕留めるため、 たつみかい 群馬の楙を通じて、巽会系の地元組織に武器と車を用意するよ にやって来たからといって、実力や嗅覚が鈍るとも思えない う、伝えてあった。 汐見は言った。 、 0 、 1 し その地元組織にとっても、非常事態というべき状況だろう。 心酉するな。とても 「 : : : それに、おれは焦ってなどいなし 楽観視できない状況だからこそ、余計に落ち着かなければなら極道がぞろぞろ集まって大歓迎してくれるとは思っていないが、 323 ショットガン・ロード
てことですかねえ。会ってみると、他人という感じがしないの 更に、洋上の人工島での完全自給自足のコロニ 1 実験、フォッ サマグナに沿って行なう地熱発電システムの開発実験、民間に も大きいかもしれません。けっこう、我々と血の繋がりは濃い よる海底資源のボウリング調査という、組織の中でも突飛過ぎみたいですし」 ると言われていた三つの案も、すんなりと認可が下りた。 六賢人の一人が、古い経済雑誌のインタビュ 1 にそんなこと 先進国の大企業がこぞって月資源の探索や火星の地球化計画を答えていた。 に関する事業に多額の予算と人員を投入する中、組織の目は主 暫くして、傍観していた中国やアメリカ、欧州各国が「大東 に地中と海中に向いていた。 亜共栄圏を思い起こさせる」として、組織を大東亜などと呼び 組織は、表向き国の思うがまま仕事を続けつつ、全力で半世始めた。 紀後の日本の形を実現しようとしていた。 これに反応して、名もなき組織は改めて名称について考えた。 だが更に十年ほど経って、このままでは実現不可能であると ちょうど、同盟を結ぶ国と地域がオセアニア諸島を経てチリ の結論に至る。 やエルサルバドルまで達し、環太平洋エリアである程度サ 1 ク 休眠農地の再生エネルギーへの転用は成功したが、それによっ ルを描くようになった頃のことだった。 て食料自給率を上げるのは容易ではなくなった。洋上での様々 彼らは敢えて日本語を避け、 Pacific Rim Nations " XZ を な実験は目覚ましい成果を上げたが、これも漁業従事者に皺寄 せが行く。 国土、それも食物を作るのに安全な国土が不足していた。加 えて、一次産業と二次産業に携わる労働人口も。この二つばか りは、一朝一タでどうにかなるものではない。 そして組織は国への新たな交換条件として、どの国と手を結 び手を結ばないかを、政治上の問題とは無関係に自分達の判断 に一任するよう依頼した。 組織は、物理的に距離が近いエリアの国と地域に同盟関係を 呼び掛ける。特段、選り抜いたわけではなかったが、組織の呼 び掛けに呼応する国と地域は東南アジアの経済的中小国に限ら れた 「考え方が近くて、良くも悪くも過去にこだわらない国と地域っ 前号まで 二〇年、世界の産業の多くをグループが掌握し、日本 国内では社会から外れて生きる人々のコミュニティが「地下」に広 がっていた。リオは地下住民の仲間達と地上で窃盗をして生き延 びているが、窃盗団は近頃、何者かに狙われていた。 主な登場人物 リオ窃盗団のエ 1 ス格。機知に富み抜群の身体能力を持っ歳。 カイ最近仲間になった正体不明の青年。アフロを自作できる。 遠野リオ達を泳がせている私服警察官。 ー。リオ達と一時 キョマサシプヤの地下コミュニティのリーダ 的に手を組んでいる。 425 Y. M. G. A.
ムセ 1 へ行った時に村に残したという六人の子供のうちの一 した後、ムセ 1 で就職先を見つけて社会人となった。学校での 勉強が実り、一人は地元の会社に勤め、もう一人は教師になつ人なのだろう。彼女は恥ずかしそうに手で顔を覆ってドアの陰 に隠れた。子供たちがからかうように彼女の背中を押して家へ たのだ。ム・ペイノは末の娘二人が自立したことで役割を終え たと感じ、中国人観光客相手の仕事を辞め、コンタオ村にもど入らせる。 丸顔の女性は三十歳前後らしく、首にリングをはめておらず、 ることにした。村にはこれまでの仕送りの余りと、残してきた シャツ姿だ。ムセ 1 で育った二人と同様に彼女もまた民族衣 六人の子供たちのおかげで、木造の家が一軒できており、そこ 装を捨てて生きることにしたにちがいない。ム・ペイノは娘た で余生を過ごすことができたのである。 ちがやむを得ないとはいえカヤン族らしさを失ってしまうこと ム・ペイノはそこまで話すと、目を輝かせながらこう感想を に、母親として嘆く気持ちはないのだろうか 漏らした。 私は丸顔の女性に話しかけた。 「今思えば、十四年間ムセ 1 で働くことができたのは幸運だっ 「こんにちは。今、お母様にムセ 1 で働きながらお子さんを育 たわ。夫を亡くしてラブ 1 村を離れた時、目の前は真っ暗たっ てたという話を聞かせていただいていたんです。あなたはお母 たけど、八人の子供を育ててこうやって暮らしていける幸運に 様のように首にリングをつけなかったんですね。この村でも若 恵まれたんだもの。これ以上の幸せはないわよ」 い人はそうなんですか」 「思い通りにならないこともあったんですよね 「はい。学校へ行ってる子はみんなっけないですね 「もう終わったことだからいいの。ぜんぶ忘れた。子供たちが 子供たちが話の内容そっちのけで、好奇心で目を輝かせて忍 うまくやっていければそれでいい」 び笑いをしている。このうちの何人かが彼女の子供らしい ム・ペイノは強がるふうでもなく、爽やかに笑顔を見せた。 私はム・ペイノに目を向けて言った。 その時、ドアのところから声が聞こえた。ふり返ると、入り 「この村に残してきたお子さんもまたリングや民族衣装を捨て 口に幼稚園から小学生ぐらいの子供たちが七、八人集まっての ぞいていた。泥遊びの最中に外国人がやってきたと聞きつけてたんですね。このままカヤン族の伝統はなくなってしまうんで しよ、つか」 やってきたらしく、みんな手足が汚れている。その後ろには、 ム・ペイノは何を言っているかわからないとい、つよ、つに首を 十代から二十代の若い女性たちの姿もあり、私と目が合うと照 かしげた。ミャンマー人の友人がもう一度通訳をする。すると、 れ臭そうに肩をすくめて笑う。 彼女は一笑に付すように答えた。 ム・ペイノは丸顔の女性を指さして言った。 「変な心配はいらないわよ。娘は祭りの時には首に短いリング 「わたしゃ妹の孫たちょ。すぐ近くに家を建てて暮らしている をつけているもの」 の。そこに立っているのは、わたしの娘の一人 41 世界の産声に耳を澄ます
がノックもせずに入ってきた。彼女は床に横たえられている赤マンを交えて踊ったりうたったりするようだ。 私はふと十五年ほど前、大学二年生の時に初めてミャンマー 子をのぞき込んで微笑みうなすくと、私たちの輪の中にやって きた。友人が「彼女は目立ちたがりなので、私たちが来たのをでカヤン族に会った時のことを思い出した。カロ 1 という田舎 町を訪れた時、郊外にカヤン族が暮らしていると聞いて会いに 知ってインタビューを受けに来たのでしよう」と苦笑する。 行ったのだが、三人の中年女性の他は、彼女たちの娘も孫も首 産婆はム・マイをどかして真ん中にすわり、「話をつづけて、 にリングをつけておらず、服装も民族衣装ではなく市場で売ら つづけて」と言うものの、自分がしゃべりたくてしようがない といった眼光を放ってくる。ム・マイも年配の彼女に恐縮してれているようなシャツ姿で、「最近の子は昔ながらの伝統的な格 好をしなくなった」とばやかれたことがあった。カヤンの間で 押し黙ってしまった。私は仕方なく産婆に尋ねた。 「今お産のことを聞いている最中でした。村のお産はあなたが少しずつ伝統を守る空気が薄れているのかもしれない。 かかわると思、つのですが、起こり、つる難しい出産とはど、つい、つ 「この村ではいっ頃からそういう女性が増えてきたんでしよう 状況なのでしようか」 か」 産婆は質問にうなずいたものの、よそを見て答えようとしな 「どうかな、二、三十年ぐらい前じゃないかしら。リングを買 うお金がないというのが一番。親のリングは死んだ時にお墓に い。そしてしばらく黙った後、唐突にこう言った。 「わたしは女たちがお産を済ませた後も面倒をみているんだけ一緒に埋めてしまうので、つかい回しができないから新しいの をつくらなきゃいけないんだけど、そのお金がないのよ」 ど、最近の若い子たちは首のリングをつけないわね。なんてい うか、いろんなことが変わったわ」 かってリングは村の職人が米や農作物と引き換えにつくって いたそうだが、最近は現金が必要になったのに加えて、材料と いきなりまったく違う話になって面食らったが、残念なこと へきち に途上国の僻地ではこういうことが頻繁に起こる。郷に入れば なる真鍮も町の市場で高いお金を出して買わなければならなく なった影響が大きいという。 郷に従え、だ。やむなく私はその話をつづけてもらうことにし 「村を出ていった人たちも同じなんでしようか」 「そんなのわかんないわよ。本人たちに訊いてみてはどう ? 「この村の若い人たちが伝統を守らないということですか」 ロイコーの近くに、彼女たちが住んでいる村がいくつかあるか 「村の女にもいるけど、ここを出て行った人たちの方が多いわ。 村の貧しさに耐え切れなくなって、何十年も前からたくさんのら。今は昔からあった村より、移住者たちがつくった村の方が 人たちがここを離れていったんだけど、四月のお祭りなどたま多いわ。ねえ、あんたが連れて行ってあげなさいよ」 産婆はそう言ってム・マイを促した。ム・マイも「うん」と に帰ってきたりする時はリングをつけていないことが大半よ」 言って立ち上がろうとする。私はさすがにお産の翌日に赤子を 四月にはカヤン族が信じる精霊信仰のお祭りがあり、シャー 31 世界の産声に耳を澄ます