療の癌マーク追尾システムと、洋上での波の揺れを相殺する姿 8 勢制御装置だった。 電池は業火の中にも深海にも字宙にも行き、追尾システムは 半世紀ほど前、東京の片隅で町工場の経営者同士が申し合わ米軍のミサイルに逆転用され、姿勢制御装置は様々なジャンル せ、互助会のようなものを作った。 の様々な技術に応用され、日本発の技術として久々に世界から 望んで手を結んだわけではない。最後の職人などと呼ばれて注目を浴びた。 それらは日本を代表する大企業や大学病院によって開発され 無形文化財のように扱われながら、生活の糧となる簡単な仕事 たものだったが、 ある海外メディアが、東京の片隅の町工場が の大半は海外に奪われ、止むに止まれず「互いに仕事を紹介し 三つすべての開発に漏れなく関わっていたと報道し、瞬く間に 合って喰い繋ごう」と組織化したものだ。 やがてその組織の下には、技術は確かだがそれを活かす場が世界中から取材と仕事の依頼が殺到する。 なくなった、あらゆるジャンルの職人達が続々と集まって来る。 日本国内での嘲笑気味の声を跳び越えて、山谷の技術者集団 は世界から高い評価を得たのだ。 鋳造、研磨、金属加工等から始まり、ダイヤモンドドリルの 組織には、諸外国から技術提供の要請が次々と舞い込む。そ 先端を冷す放水システムだけを作り続ける町工場、世界最小の の数と動く金の額は、組織の対応力を完全に超えていた。 折り鶴を折り上げる手術用ロポットア 1 ムの油圧部分を専門に 大きな仕事の交渉は国の息が掛かった大手商社が受け持つよ 製造する鉄工所等、限定された技術のみに長けた者達、そのう うになり、そうこうしているうちに、組織の動向は国の行く末 ち、ソナ 1 を使わず正確に魚群を探り当てる漁師とか、木と会 と、つじ に関わるところまで来てしまう。 話出来ると言われる伝説的宮大工、菌の魔術師と呼ばれる杜氏 組織の人間は、誰一人としてこうなることを望みはしなかっ なども加わった。 要は、一つ一つの技術はどれも異常なほど高いのだが、国内た。ただ、喰っていくことに必死だっただけだ。最初は自分達、 の一般市場からは「凄いは妻いけど、そこまで求めてねーよ」次に周辺地域、少し余裕ができれば産業の乏しい地方都市、更 と言われる者の集まりだった。 に余裕が生まれれば国の為に、今が大丈夫であれば未来の為に、 といった具合に。 『頑張れ、マウンテン・・ハレ 1 の野武士集団』 だが、本人達が望むと望まざるとに拘らず、組織の一挙手一 組織の興りは、そんなふうにどこかコミカルな調子で伝えら れた。 投足は世間の注目を浴びるようになる。 そんな中、組織の立ち上げに関わった野武士の一人が、理想 ところが十年ほど経った頃、その扱いはガラリと変わる。 きっかけは、世界最大容量を誇るシ 1 ト状電池と、放射線治とする国の形について発言する。 4 かて
世界の果てまでした〔 治〕和 裕し友 対ー Yoshida Tomokazu 旅行作家は意外と非行動的 ? トラブルが起きると、「これで書ける ! 」 1990 年に『 12 万円で世界を歩く』で旅行作家としてデピューした下川裕治さんと、 2002 年に初めての海外旅行で世界一周新婚旅行に出かけ、 そのままプロの書き手となった吉田友和さん。 世代は違えど共通点の多い二人が、作家の視点から旅を語った。 構成・日吉久代 Hiyoshi Hisayo photographs by Kudö Ryütarö
・フロイトの「エス」 ( 超自我 ) 「私は考える」「私は何々をする」、この言い表しで一番重要な ・近代小説の柱である犯罪小説、探偵小説の誕生 のは「私 . です。主語の位置に「私」が就く。しかし、かって その主語の位置にあったのは霊魂、あるいは神々だった。フロ 近代小説は、無意識の領野に新たな冒険の分野として飛びつ いた。物語というのは、基本的には冒険物語ですから。という イトはそれを「エス」、超自我と呼んだ。 こういう考え方は、仏教や東洋思想の中ではごく普通のこと場所にいる人間がという場所に行って何を発見するか、その途 かもしれません。しかし、フロイトのように明快に解き明かし中でどんな苦難があるか。十六、十八世紀の冒険は、基本的に てくれるとい、つことはなかった。 は新しい世界を発見することでした。過去という未知の世界を アルチュ 1 ル・ランポ 1 も感覚的にそれを見抜いていた。『見対象とする歴史小説、地理上の未知の世界に出かけて行って新 しい体験をする冒険小説。そこには見たこともない文明と民族 者の手紙』の中で「私は一個の他者である」と言っています。 がいる。近代小説の大きな舞台となります。 つまり「エス」であると言っている。私は私自身を支配できな 他者なんだ。これはランポ 1 が手紙の中で書いていること あるいは大都会。江戸やロンドンやパリは、未開の大陸と同 じで、田舎からたくさんの若い男女の働き手が集まってきて、 ですが、「私が考える、 ( ジュ・ ンセ je pense) とい、つのは間 違いである。人が私を考える ()n me pense) と一一一口うべきである」大都市が生まれる。スラムが生まれ、人間がうごめく。犯罪が と。 多発する。そういう世界も未知の世界ですから、犯罪小説、探 フロイトが着目したのはこの「エス」の部分です。彼は医者偵小説が書かれるようになり、それが近代小説の大きな柱になっ ていきます。大航海時代の冒険物語と大都会における犯罪、警 ですから、われわれが精神を病むいろいろな原因がこの部分に 抑圧されて閉じこめられている。この制御が利かなくなったと察物語、探偵物語などです。 さて、二十世紀の未知の世界はどこにあるか。われわれが冒 きに発症すると考えました。ちょっと乱暴に話してきましたが、 険に出かけて行くべき未知なる世界は ? それが「無意識」と 大概こんなところでしようか いう世界だった。 かってわれわれは、この無意識の世界を神々に、あるいはそ の代理人としての祈師やまじない師に預けていた。気が狂っ たりするのはこの部分だと昔から思われていたので、夢判断や 占いをしてもらったり、ときには魔女裁判にかけられて殺され たり、さまざまなことがありました。いたこ、巫女やシャ 1 マ ンはいわば伝統的精神分析医だったのです。 1 東大で文学を学ぶ
も、次々に仲間に入るように列に加わり、女の数はどんど んどんどん増えていった。声はますます大きくなっていっ た。女を殺すな、一一人を救え、救えー なんだなんだ、男たちは騒いだ。女王は立ち上がった。 『女王、女を殺すな ! 友を殺すな ! 』 叫び声が近づいてくる。 街の女たちが初めて、語り合ったのだった。メロ子の行 動を見て、そして見て見ぬふりをしてきたセリ 1 ヌの悲惨 を振り返り、話し合ったのだった。 誰もが知っていた。セリーヌが夫に殴られ、蹴られ、何 度も死ぬ目にあっていたことを。ある晩、いつもより酷く 殴られたセリーヌが、酔っ払った夫を刺したことを。誰も が皆、セリーヌに同情していた。でも、誰もが口を閉じ、 目を背け、知らないふりをしていた。が、もう黙ることは ないのだ。一人ではないから、怖くはない。ただ、女は手 をつなげばよいのだ。女王に向かって、世間に向かって、 叫べばよいのだ。友として」 この後、「走らないメロ子」は大団円を迎えるのだが、そ れは、みなさんが自分で確かめてください。とにかく、 原さんは、女ばかりの「走れメロス」 : : : じゃなくて、「走 らないメロ子」を書いた。ここで、厳しく批判されている のは、男たちなのだ。ある意味で、男の友情を男の視点で 描いた「走れメロスーもまた、批判の対象といえるのかも しれない。 そんなのあり ? あり、なのだ。なぜなら、太宰治もま た、彼の多くの作品において、原作を、その原型を留めぬ ほどに、変えてしまう名人だったのである。 だとするなら、「男」たちの世界観を批判する、女版「メ ロス」の誕生を、草葉の陰で、太宰治も喜んでいるのでは あるまいか さて、二十一世紀の「走れメロスーは、どのようなもの なのだろう。 太宰治が書きたかったのは、単なる友情の物語ではある まい。メロスは、不正を憎む、正義の人である。みんなが、 「空気」に流されている時、たったひとり、「それは違う」 という人である 6 少数派であることに誇りを持つ人である。 この世界の真実を知りたいと願う、迷惑千万なやつである。 そのような人間は、みんな「メロス」の資格があるので 集 はないか。 全 北原さんのように、「女」の「メロス」もいるだろう。あ文 ポ るいは、少数民族や亡命を余儀なくされる人やパスポ 1 ト を持たぬ人びとの側に立つ「メロス」もいるだろう。「走る の め メロス」、「走らぬメロス」、「眠るメロス」に「環境保護活 の 動に勤しむメロスーだっているかもしれない。 年 わたしは、わたしのメロスを書いてみたい。そして、みャ なさんも、ぜひ、みなさんのメロスを書いてみてください。 いそ
しようめい あったのです。優れた芸術家には必ずこのような神々の召命と 本の文化にとって一番重要な場所といえます。 しかし、これで関西の地理を言い尽くしたことにはなりませでも呼ぶしかないものがあります。 谷崎に、西からの呼び声があった。ひとつは生身の水辺に住 ん。北に若狭・丹後、南に吉野・熊野という神話と伝説の色濃 む魅惑的な女性の、ひとつは物語の声。 い風土が控えています。 淀川は大阪に入ると大川と呼ばれます。 隅田川も大川と言いますが、現在の河口付近の淀川は新淀川 ・芥川龍之介との「筋のない小説論争」 と呼ばれます。本来の淀川は、毛馬から大阪市中をいく筋にも 昭和二年 ( 一九二七 ) 、谷崎の関西生活は五年目を迎えていま 分かれて流れ、まちまちを巡り、運河が四通八達して、水の都 した。その間、上海に遊び、『痴人の愛』を大阪朝日新聞に連載 と呼ばれていました。この水のほとりの船場に、一人の女性が し、吉野に入っています。三月、芥川龍之介が大阪にやってき いた。根津松子です。 ました。有名な「筋のない小説論争」を二人が闘わせていた最 谷崎の乗った船はゆっくりと彼女の住む船場へと近づいてゆ きます。 中です。芥川は佐藤春夫夫妻と谷崎の家に泊まり、翌々日、皆 で弁天座で人形浄瑠璃をみました。芥川を歓迎する宴が開かれ、 よく谷崎の関西移住を伝統回帰、日本回帰などと呼びますが、 そんな単純なものではありません。これは谷崎たったひとりにそこには根津夫人松子がいた。谷崎と松子の出会いはこのとき です。しかし、彼女は芥川のファンでした。芥川に会いたくて よって敢行されたルネッサンス、文芸復興の試みだったのです。 谷崎は一一十世紀文学、モダニズム文学の申し子です。第一次歓迎の宴に出かけたのですが : ・ その夜、芥川は谷崎と別れ難く、彼を大阪の宿に引き留めま 世界大戦がありました。関東大震災がなくとも、既にあらゆる 場所で確固とした世界観、世界像は崩壊していました。ジェイす。 芥川が死んだあとに書いた文章です。 谷崎が、 ムズ・ジョイスが自らの文学宇宙を形成するのに、この崩壊と 空虚に秩序を与えるために、ホメーロスの叙事詩『オデュッセ 然るに君 ( 芥川 ) は人生のこと、文学のこと、友達のこと、 ィア』に依拠して『ュリシ 1 ズ』を書いたように、谷崎はいわ ぶ 学 江戸の下町の昔のこと、果ては家庭の内輪話まで持ち出し ば関西に古代ギリシャの役割を与え、そこから作品世界を構築 を 学 て、夜の更ける迄それからそれへと語りつづけて、「自分は しようとしたのです。 文 実に弱い人間に生れたのが不幸だ」と云い、「僕は此の頃精で 十五世紀イタリアが中世の神の一元支配の崩壊の兆しのなか 東 神上のマゾヒストになっていてね、誰か先輩のような人か で、ギリシャに赴き、プラトンを発見したように、谷崎は関西 らウンと自分の悪い所をコキ卸してもらいたいんですよ』 へと赴き、「源氏物語』へと辿り着きます。たしかにうながしが せんば
で首長族が暮らす力ャー州に外国人が許可なしで立ち入ること けて産んだ赤子に対する無限の祝福。それは自らの命を未来に ができるようになったのを思い出し、十年来のミャンマ 1 人の 引き継いだという喜びであり、自分の命より大切なものを腕に 友人に連絡を取り、この地にたどり着いたのである。 つつみ込んだ幸せに他ならなかったのだろう。 この病院での体験から数日して、私の中で結びつくように思 カヤ 1 州で私が拠点としたのは、ロイコ 1 という州都の町だっ い起こされたのが、これまで世界の貧しい国々で出会った人々 た。カヤー州はミャンマ 1 の七州でもっとも人口が少なく、山 の姿だった。私は学生の頃から途上国のスラムや路上や戦場と いった場所で生きる人々と生活を共にし、語り合い、その体験岳部を中心にわずか二十六万人が住んでいるだけで、ロイコ 1 を執筆することを生業の一つとしてきた。彼らは自分たちがどの町もこぢんまりとしている。 んなに貧しくても、どんなに危険な状況にあっても、子供を産 町の中心部には濁った川が流れており、その横に魚と果物と み、共に食事をしながら大きな声で笑って生きていた。それが鶏の臭気が充満する雑然とした東南アジア特有の市場がある なぜなのかずっと不思議だった。 周辺には個人商店が固まってはいるものの、店主は一様にやる だが、病院で妻の出産に立ちあったことで、私は彼らが人生気がなく、うとうとと居眠りをしているか、横になってテレビ を謳歌できるのは子供という希望を持っているからではないか を見ているか、あるいは商品をつまみ食いしながら談笑してい るかだ。無論、ホテルと呼べるような宿泊施設もなく、私は連 と思った。どんなにつらい現実に直面していようとも、子供と いう無限の愛情を注ぐ対象があり、そこに未来を託すことがでれ込み宿と一体化した南京虫だらけのゲストハウスに投宿して きるからこそ、自らの人生に光を見出すことができるのではな 私がお産のことを調べるために訪れたカヤン族の村は、ロイ それを思った時、私はこれまで自分自身が彼らの「状況」を コ 1 の町から車と徒歩で三時間ぐらいのところの森の奥深くに 見つめることはあっても、彼らの根本の希望がどのように生まあった。樹木の間に所々高床式の家屋がひっそりと建っており、 れるかとい、つことについて目を向けてこなかったことに、はこ 一軒につき一世帯から三世帯ぐらいの家族が身を寄せ合ってい る。 と気がついた。人々が子供を身ごもり、産み、育てる現場を目 にすれば、そのことがわかるのではないか。父親となった今な 村には水道すら通っておらず、・・女たちが川の水で食べ物や衣 らば、愚鈍な私であっても同じ立場の者として少しぐらいは共服を洗っている光景が見受けられる。木造の家屋が高床式になっ 感できるところがあるかもしれない。 ているのは、雨季に膝上までたまる雨水が入らないようにする ことと、ネズミやキツネといった森の生き物たちの侵入を防ぐ そんなふうに考えた私は、子供が一歳の誕生日を迎える直前、 ためだという。ただ、家は簡素な造りでもろく、雨季に毎年襲 世界のお産を巡る旅をはじめることにした。そしてミャンマー 27 世界の産声に耳を澄ます
このあと『古事記』には儒教的な考えや仏教が入ってきて、 ユダヤ人ですが、人類愛を唱える。これは『旧約』の世界に対 限りなく口マンチークから遠ざかってゆきます。文学的なもの、 登 する批判以外のなにものでもない。だからこそ、イエスはユダ 詩的なものが切り離されて、別の世界を担うようになってゆきヤの長老、祭司長らによって十字架にかけられた。キリスト教辻 ます。倭建命と軽太子の一一つの物語から貴種流離譚と恋の心中・ は『旧約』と『新約』をひとつにして聖典としていますが、厳 道行というわれわれの物語の二つの祖型を導き出すことができ然とした違いがある。大きな距離があります。その距離の中か る。 ら神話批判の試みを読み取ることができそうです。 貴種流離譚といろごのみを体現するのが倭建命や源義経など ここで、『古事記』を『旧約』に、『源氏』を『新約』になぞ のヒーローとその物語。もう一つが恋の心中・道行物語、江戸らえてみるのも面白い になると近松門左衛門など浄瑠璃作者による心中物語に結実し てゆく。ついでですが、心中・道行物語というものは、中国に はないらしい。それどころか世界中探してもみつからないよう で、どうやら世界文学の稀種と言えるでしよう。 ・紫式部は『源氏物語』をサロンで読み上げる 紫式部は九七〇年に生まれ、一〇一四年に亡くなったらしい 『源氏物語』が書かれたのは藤原道長の絶頂期です。摂関政治の 時代ですから、天皇は現実の政治には余りタッチしない。実権 ・神話批判としての「源氏物語』 は摂関家が握る。摂関家とは、天皇の后を出す一族、むろん、 『源氏物語』にもざっと触れておかなければなりません。私は、 世継ぎ ( 東宮 ) を産むことが条件ですが、妻の実家が権力を握 『源氏物語』は神話批判の試みだと思います。もちろん、紫式部る。いろごのみの延長線上です。最も勢力のある部族の娘を天 に神話を批判しようというような意識などありえません。しか皇がめとるというこの関係から摂関政治が生まれます。 し、現在のわれわれが『源氏物語』を読むとき、『古事記』に描 当時は六十六代一条天皇の時代で、宮廷には二つのサロンが かれた神話世界に対する批判の試みだと思えるのです。 ありました。皇后定子のサロンと、中宮彰子のサロン。天皇の 「古事記』はいわばキリスト教の『聖書』における「旧約聖書』后二人が二つのサロンで張り合っています。皇后定子のサロン のようなものと言える。『旧約』では天地創造から始まってユダ には清少納言が、中宮彰子のサロンには和泉式部がいます。サ ャ民族の歴史が語られます。『新約聖書』の「福音書」では、イ ロンというのは女性の機智、ユーモアやエスプリを競う場でも エスという一人の人間が登場して人類愛を訴える。『旧約聖書』あって、天皇も面白いサロンのほうに通います。清少納言は才 はユダヤ教の聖典ですから、人類愛の思想はなく、ユダヤ民族気煥発ですから一条天皇もそちらに足繁く通うので、道長は片 だけが救われるとされる。しかし、『新約聖書』では、イエスも方にだけ天皇が肩入れをするのはまずいと考え、誰か面白い話 アーキタイプ
それでも、ト 1 タルで見れば今の日本は勝ち組だ。そもそも、 殆ど声が出ていない。 と言いたかったようだが、 リオとそれほど歳の変わらない女性だった。肌が透き通るよ勝ち負けなどの頭にはないのかもしれない。 生き残る。 うに白く、目は赤ん坊のように陰りがない。恐らく全身のどこ いれずみ 彼らの行動原理は、それだけだ。 にも刺青はなく、レジャ 1 以外で汗を流したり寒さに震えたり 明確に言葉にしてはいないが、彼らは身の丈以上に肥大した したことがなく、ひょっとしたら自分の血も見たことがないか この国の形に異議を唱えたのだ。目指すところは成長ではなく、 もしれない。なにもかも、リオと正反対のような女だった。 緩やかに本来あるべき姿に縮小することであるように思われる。 いいかな」 「なにもないなら、 十九世紀に戻るというような、幻想的な目標ではない。だか 返事を待たずに閲覧室を出ようとするリオの背中に、可愛ら ら、国内で賄えないものは素直に海外に頼る。 しい咳払いと小さな「はい . という声が聞こえた。 但し、過去一世紀、関わる機会の多かったエリアは良くも悪 一階、大量の絵本に囲まれたキッズコ 1 ナ 1 では、小さな子 くも近親憎悪のような感情を拭えない。条件が悪ければ、きっ 供達が賑やかに騒いでいた。 ばりと関係を断つ。 「撫でるだけじゃ、めくれねーって。馬鹿じゃねえの ? 自ずと相手は日本よりも貧しい国と地域に限られるが、資源 紙の本に接することに慣れず、思うようにペ 1 ジを蜷ること や食料や労働力を単純に金で買うだけでなく、技術を売って相 が出来ず泣いている女の子を横目に見て、母親らしき女がパシー ンと頭を叩いた。女の子は一瞬黙ったが、すぐに火が付いたよ手側の生活水準の底上げを請け負う。つまり、恩を売って手を 結ぶ。 うに泣き始めた。 そういう相手は、偶然も手伝って環太平洋エリアだった。遺 それを見て、他の子の母親達がゲラゲラ笑った。 伝子レベルで近い民族は、文化、風俗、生活習慣、ありとあら 「クソがー 階段を下りながら、吐き捨てた。カウンターの女性やキッズゆる価値観が近い。 こういうのを、本当の意味でグローバルと呼ぶような気がす コ 1 ナーの母親達に対してではない。 結成当時、まだ名もない組織だった p--æz が掲げていた理想る。 リオはのことを初めて凄いと感じた。 が、悔しいが正しいと思われたからだ。 食料や労働力よりも、どうしようもなく足りないものは国土、 今やは上位五カ国に大きく水を開けられた世界第六位、 外交ではアメリカの言いなりのうえ、なにかと言うと中国、韓それも自然災害の少ない土地だ。地震大国であり台風の通り道 国、ロシアに因縁を吹っ掛けられる。食料とエネルギ 1 の自給でもあるこの島国は、数百年単位で考えれば残念ながら人間が 住むには厳しい環境だ。地球規模の不動産屋がいたら「プレ 1 率を上げようとする動きには、世界中から圧力が掛かっている。 427 Y. M. G. A.
探偵小説もたくさんありますが、それは単に書き手の能力、探 仕組まれたものです。 私の友人で「探偵小説やミステリ 1 は読まない、嫌いだ」と偵小説のできが悪いということに過ぎないのです。探偵は、物 語のためにつくられた存在、犯行現場を再現する役目を、書き 言う人がいる理由はそれです。全部ジグソ 1 パズルのようにきっ ちり組み立てられているのですから。われわれが、『アンナ・カ手、神から仰せつかった存在ですから、最終的には間違えっこ ないのです。前にも言ったように迷路の出口から入口をたどる レ 1 ニナ』や『金閣寺』を読むときの、時間の流れに乗って、 ので、絶対間違えっこありません。 さまざまなものを見聞しながら、自由に物語世界を読み進めて いくという感覚はありません。 『赤と黒』のジュリアン・ソレルは、愛するレナール夫人をピ ・「家族小説」補遺、文字化されない物語 ストルで撃ち、ギロチンにかけられますが、ジュリアン・ソレ 先のフロイトの「家族小説ーについて、付け加えておきたい ルのような人物を探偵小説の主人公にはできません。なぜなら、 常に枠を外れようとするからです。私生児物語の主人公も、古ことがあります。 フロイトは、この論文で何が言いたかったのか。われわれは 代の英雄にしてもみんな、人間の通常のパターンから外れてゆ この教室で小説、物語を論じていますが、それは基本的に文字 く人物たちで、彼らが探偵推理小説の住人となることはありま 化された物語についてです。しかし、物語というのは文字化さ せん。 れない物語のほうが、はるかに歴史もあり、膨大な世界です。 以前、この講義で作家は結末から見ていると言いましたが、 意識と無意識の世界と同じように、物語も実際に文字化されな 本当の意味で書き手が神様なのは探偵小説の書き手だけです。 い世界のほうが限りなく大きい。人類史においても、個人にお 通常の文学の書き手はそんな偉い立場には立てない、全能では いてもそうです。 ありません。 文字化されない想像力の世界が基本にあります。声の言葉に 探偵は無謬性というものを持たざるを得ない、絶対に最後は 間違ってはいけないということが前提です。時々推理が間違っすらなっていない想像力の世界がまずあって、そこから声の言 葉による物語の構築、そして最後の段階が文字によって想像あ たりしますが、最後には犯行現場を再現しなければならない。 ぶ 学 るいは思考を表現する。これはごく最近のことですし、われわ 探偵は神のような絶対知性や、あるいは大のような絶対嗅覚を を 持っている超人ではありません。この小説は探偵のために組みれの精神世界のごく一部分です。文字化されない想像力の世界学 で 立てられている物語に過ぎないので、込み入った筋立てを分解というのは、まず子供の世界です。 大 東 子供のときにはあったのに、大人になる過程で抑圧され、忘 するのが役割ですから、別に探偵が偉いわけではなく、そのよ れ去られる。文字化されない沈黙の文学作品。フロイトは、こ うにつくられている存在に過ぎない。探偵がうまく機能しない
ち、朝起きて夜寝るまで目覚めていますが、概ね意識に基づい て行動する。でも、全部意識で占められているかというとそん なことはありません。一番はっきりするのは眠りの世界、ある いは半醒の世界にいるときです。 無意識や夢の世界は私たちには考えられないぐらい広い。夢 を思い出してみてください、自分の知らない世界のことがいっ ばい出てきますが、なぜそんなものが脳細胞に入っているのか ・精神分析の面白さ、無意識の広がり と思います。悪夢なんてひどいもので、目覚めたらもう生きて しかし、私は精神分析というのは面白いなと思うことがあり いたくないぐらいの悪夢を、見るのではなく、何者かに見させ られてしまう。 ます。精神分析学がどうして出てきたのか。もちろん、それま で人間の精神や心理を分析し治療する方法がなかったのかとい 私は私である。こう言った時点でわれわれはもう「神を殺し うと、そんなことはありません。フロイトが「無意識の世界」 た」。つまり意識を持った時点でわれわれは神を殺している。神 を発見したのではありませんが、彼の一番大きな功績は、性の の信仰がどうのこうの、ということではありません、神という 衝動を中心に人間の無意識の世界を考えたことです。「抑圧」と より神々と言ったほうがいいかもしれません。一神教というの いう考えで、これは納得できる部分が確かにあります。 はごく一部の、砂漠の民の信仰ですから。 単純に言うと、動物の中で人間だけが常に発情可能です。ほ 神々を殺してしまった。私が私であると考えたとき、それは かの動物は、一定の時期にしか発情しません。これは神様の按私を成り立たせているのは私であるという考えですから、そこ 配でしよう。ところが、人間は常に発情していては生きていけ から神の概念は除外されています。 ません。生きていくためにはこの性衝動を抑圧、抑えなければ 昔の人はそういう言い方はしなかった。「私」という言い方も いけない。抑えることによって文明・文化というものが成立す今のような使い方はしません。私を支えているのは神々だ。無 る。しかし、抑えているわけですからどこかで無理が出てくる、 意識は神々の領野です。その神々が、つまり無意識が実はわれ とい、つところにフロイトの考、ん方があります。 われを支え、生かしている。しかし、この部分は制御できない。 われわれに内面があるとして、これを心とします。意識とい 自分で制御できないから、これを神々に預ける。神々は、われ う考え方は近代の産物ですが、この部分は「われ考える、故に われの外側にいるだけではなく、われわれの中にいて、宰領し ている。 われあり」です。私は考える、ゆえに存在する、私は私である という、この部分でわれわれは生きています。恐らく一日のう 析という言葉はもう使い古されてしまって、今ではほとんどい かさまみたいな雰囲気もあります。多分、現実のお医者さん、 精神医学や心理療法をやっている、本当に病んだ人を治そうと している人たちは、精神分析という学問と方法では人を救えな いと、多分そう思っている。 おおむ 辻原登 198