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検索対象: 小説トリッパー 2014年春季号
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1. 小説トリッパー 2014年春季号

「野獣は求婚してるだけだし、断っても怒り返さないのはヒロ者がそんな考えを持っていなかったとは言えない そう言えば、昔映画になったものを観たときに、最後に人間 インのベルに去られると困るからだよ。それを勝手に彼女が人 に姿が変わるシ 1 ンに妙な違和感を覚えたものだ。何というか、 の良さととらえている。 「でも、病気のお父さんのために家へ帰してくれますよね ? 」騙された感じ、というのだろうか。ヒロインのベルは野獣を愛 「騒ぐようなことか ? 帰さないって言ったらただの傍若無人した。何の見返りも求めずに。なのにーそう、たしかに夢セ ンセの言うとおり、あのときわたしは自分たちのためにこのラ だろ ? それほど酷くなかったってだけだよ ストが用意された、と感じたのだった。 「む : : : そりゃあそうですけど 「たとえ元が人間だろうと、野獣からはかって備わっていた知「今回ばかりは、同意してもらえたみたいだね わたしは何となく面白くない気持ちを抱えて黙っていた。 性も品格も感じられない。フランス語の野獣 (Béte) には動物 まカまが 「本物の感情はときにモラルとは無縁だ。大事なのはその時何 ではない禍々しい生き物という意味があるように、彼は禍々し を感じ、何を考えたのか。魂と魂の触れ合う真空地帯には穢れ い存在なんだ。異常な恋には違いない」 なんかない。たとえ野獣があのまま死んでしまってもね。野獣 「でも、実際は王子なわけで : : : 」 「結果論だよ。王子だとわかって恋していたわけじゃない。そは野獣でよかったのさ。名前なんか必要ないんだ」 種の異なる野獣との不道徳な恋。その奥に潜むピュアな感情。 れとも大昔は野獣と恋愛することが許されていたとでも ? 」 ないでしようね 『彼女』のテ 1 マとつながる気がした。 「それは 「『美女と野獣』の作者が一一人とも女性というのも何やら暗示的 「だろ ? いけないことをしてるのさ、このヒロインは」 だね。十八世紀の窮屈な道徳観のなかで、彼女たちがいったい 屁理屈だ、とは思う。だが、この屁理屈を曲げる理屈が思い どんな恋愛をしていたのかー興味深いよー つかない 今『美女と野獣』の例を出したのは、『彼女』のなかに潜む野 「最後に『じつは王子様でした』ってつけるのは、言ってみれ 獣が埴井潔ではないことを仄めかしたのではなかっただろうか ? ば不道徳な恋愛を世間が美談に変えるための手続きでしかない。 インモラルの象徴としての野獣。だとしたら、『彼女』のなか 二人にしてみれば、野獣が王子に戻ろうがどうなろうが、愛し で野獣の役目を果たすのは、埴井潔ではなくてー本木晃 ? 合ってるんだから何も問題はない。世間様を安心させるための 「 : : : で、ほかに話したいことって ? デ 1 トがしたいとかな ラストだ。〈こうして美女と野獣はいつまでも楽しく暮らしまし た。おしまい〉では種が保てなくなって、人間社会が崩壊してら断るよ。今年いつばいは予定がぎっしりだから」 しま、つからね 「そんなこと頼みませんよ」 種の保存のためのハッピ 1 エンド。もちろん、無意識下で作「あっそう」 , どうでもよさそうにあくびをする。 Ⅱ 1 偽恋愛小説家

2. 小説トリッパー 2014年春季号

4 交渉ごとに長けた人間は組織にいなかったが、一貫した対応 食料自給率五〇パーセント、エネルギ 1 自給率三〇パ 1 セン 吾 をしていれば大きな問題にはならない筈だった。 ト、人口一億人、労働人口は年齢構成比に関係なく六千万人、 省 羽 だが、公共事業や関連の仕事を間接的に請け負い、 医療費と教育費は全額無料、各都道府県の税率は選挙区の公正 な区割りと同様に人口比で異なるものとする、というものだっ皇室行事や遷宮にまで関わっているうちに、公になっていない 機密情報に触れざるを得なくなった。 組織の立ち上げに関わった六人の呼び名は、〃野武士集団″か 「訊かれたから答えただけですよ。国土、国民性、過去の国体 ら〃六賢人″に変わった。結成当初のように「互助会みたいな の推移などを客観的に見て導き出したド素人の考え、聞く人に よっては世迷い言かもしれない 。この数字を実現しようどすれもんだから」などと呑気に言っていられない状況になり、望ん あずか でもいないのにコングロマリットにされた。 ば、我々の与り知らないところに皺寄せが行くでしよう。例え ば国防とか教育とか、諸外国との関係とか : : : 」 彼らは悩んだ末に、国の仕事を請け負う代わりに交換条件を そんな言葉も添えられてはいたが、こちらは殆ど取り上げら出すことにする。一つの仕事を請け負う毎に、今まで申請して れることはなかった。 も決裁が滞っていた各種許可申請を速やかに認可し、実施可能 にすることだ。 発言の前半は一人歩きし、人々に半世紀後の国の目標と受け 止められ始めた。 一つの技術開発を大規模に行なう時、前例のないものは土地 の利用法ひとっとっても、煩雑な手続きを取らなければならな 内政も外交も対症療法的に小手先でどうにかしようとしてば わず い場合が多い。僅かな土地や洋上を使う実験も、通常で数週間、 かりで、十年先の国の進むべき方向も指し示すことが出来ない 下手をすれば数年を要する。管轄省庁が異なるというだけで、 政府に辟易していた国民の多くが、これを支持した。 大多数の国民の支持を受けるようになると、これまで見向き完全にストップしてしまうことも珍しくない。 止められた申請の中で代表的なものは、エネルギー開発に関 もしなかった大企業、経済団体、官僚、閣僚までも、こぞって 組織にコンタクトを取ろうとした。これといった代表者を設けするものだった。例えば、全国の休眠農地の三割を風力と太陽 ていない組織を囲い込み、自在にコントロ 1 ルしようという思光発電用地に転用するというもので、試算では原発四基から五 基分の電力を賄うことが出来る筈だった。 惑なのは見え見えだった。 組織は接触を避けることはなかったが、どんなニンジンをぶ 農水省と厚労省と科学技術庁の間を書類が行ったり来たりで、 ら下げられようとも、相手が誰であれ、特別な関係を築こうと五年も返事すら貰えなかった申請が、僅か二日で通った。首の はしなかった。それは、組織の立ち上げ直後にアフリカの小国皮一枚で繋がっていた既得権益に、最後の止めを刺した格好だっ から井戸掘りの仕事を受けた時と同じ対応だった。

3. 小説トリッパー 2014年春季号

多摩川べりで一人の男の死体が発見された。他殺であることても、理性によっても、無謬性を得ることはできない。だから 人間は、非常な苦心をはらって、抽象作用によって経験から真 犯人は誰か ? 謎の提示です。 がわかる。死体の身元は ? 一匹の大ならば、初手から議論の余地なく犯人がわかります。実を引き出すというかたちで真実をつくりだす、あるいは真実 に到達する。時間をかけて、場合によっては生涯をかけてやる 大は臭跡があれば必ず犯人にたどり着きます。大の嗅覚は、人 しかありません。 間よりも優れていると言われているし、事件の捜査や地震のと 探偵小説の形而上学的な意味はここにあります。まさにそれ きの行方不明者捜索などにも大が使われる。科学的にどれだけ を小説のプロットにする。帰納と演繹、この両方をめまぐるし 大と人間の嗅覚に違いがあるかを調べてみると、言われている く使いながら推理を進め、捜査する。要するに、われわれは感 よりももっとすごい。人間の諸神経の一つの嗅粘膜は二・四平 じられるものから理解できるものを何とか引き出そうとしてい 方センチ、ここに繊毛がいつばいあって、空中に浮遊する臭い の微粒子が繊毛に引っかかって、嗅覚粘膜の粘液に溶けて嗅覚る。感じることはできますが、この感じるものは何なのかとい こ達しない。それを常にやろうとし うことを理解しないと認識 ( 繊毛を刺戟し、その信号が嗅球を経て大脳の嗅覚中枢に伝えら れて臭いを感知する。この大脳の嗅覚中枢の受容細胞が、人間ているのが、われわれ人間です。それは何によってやるかとい うと、言語でやるしかありません。 では五百万個、大はなんと一億から二億個ある。本当かなと思 謎というのは、まず最初は非人間的なものとして目の前に現 いますが、そうらしい。大の細胞を一億個とすると人間の二十 倍ですが、五百万個と一億個で感じる能力というのは二十倍どれます。理解できないものは非人間的なものです。死体、謎と いうのは理解できないもので、非人間的なもの。周りに苦悩の ころではないでしよう。ある専門医は百万倍と言っています。 ということは、大は嗅覚に関しては絶対能力を持っているといっ場を作りだします。 てもいい。死体に犯人の臭跡さえあれば、ただちに大は絶対嗅 覚で犯人にたどり着く。つまり推理する必要も、論理も必要な ・エドガー・アラン・ポー『モルグ街の殺人 、議論する余地はありません。 らんしよう 探偵小説の濫觴、始まりはエドガー・アラン・ポーの短篇と もうひとり ( ? ) すぐに犯人を捕まえる存在がいますね。時 されています。それまで探偵小説というジャンルはなかった : ・ 間と空間の東縛を逃れた一個の知性、つまり全能の直感を持っ た神です。ですから、大と神に胡乱極りない推理や論理は必要『モルグ街の殺人』を例に取り上げてみましよう。 レスパネ 1 嬢の死体が、部屋の暖炉の煙突に押し込められた ない。ただちに犯人を見つけることができる。ただちに謎を解 くことができる、いや、彼らに謎は存在しない。人間とは、ま状態で発見された。母親のレスパネ 1 夫人は裏の中庭で無残に さしく大の嗅覚も神の知性も奪われた存在であり、感覚によっ切りきざまれ、殺されていた。警察の捜査が始まります。部屋 211 東大で文学を学ぶ

4. 小説トリッパー 2014年春季号

だ」と言っているのに似ている。 想像等もあるなれ。》 ( 『粋を論じて伽羅枕に及ぶ』 ) も起らないは 尾崎紅葉が新聞連載をした明治一一十三年の段階から北村透谷が ずだが、しかしまた恋愛というのは人間のすることだから、《粋》 などという考え方を導入しなくても、「駆け引きだけの恋」は生まその評を書く明治一一十五年くらいまでの頃、『伽羅枕」は「尾崎紅 れてしまう。《粋》が過去のものになり、《粋》という考え方を知葉版の見事な『好色一代女という評と、「どうしようもなく後 ろ向きの下らない江戸時代的世界観の中に没した愚作」という評 らなくても、《粋》に似た駆け引きだらけの恋愛をしてしまう人間 がいくらでもいるところが、恋なるものをする人間の愚かさでも価の間にいる。しかし見方を変えればこの作は、「男性原理の支配 ある。 する江戸時代に、恋愛などというつまらないものに縛られず生き しかし、江戸時代の町人が発明した《粋》という概念は、遊び抜いた女の痛快譚」というものにもなる。現代の女達なら、「伽羅 のための根本ルールでもあって、北村透谷が目の敵にするような枕』の主人公佐太夫を「男に縛られない女 , として評価してしま ものでもない。北村透谷は、尾崎紅葉と幸田露伴の有望なる同世うだろう。恋のもやもやの中に溺れてしまう女を書くことだけが 代作家が、揃って遊里を舞台にする見事な作品を書いてしまった 「文学」ではないはずだが、恋愛至上主義の方に行ってしまった ことに腹を立てて、「《粋》などという概念が未だに生き残ってい 「日本の男」である北村透谷は、あまりそういう気づき方をしない。 ることが間違いのもとなのだ」として、『徳川氏時代の平民的理想』その点では、実作者である尾崎紅葉の方がずっと上で、「伽羅枕』 に関してはこ、つっている という論を書いて発表してしまうが、事実はそれほど面倒なこと ではないだろうと思う。北村透谷は、『おばろ世で《左程までに 人を恋ふにはいかに優しき心の処女なりけむ。》と言われるような 《彼作は唯あれだけのことをづべらづべらかいたに過ぎない。幾 ヒロインを書いた尾崎紅葉が、「伽羅枕』で哀れとはほど遠い《遊等か油の、ってゐた時でしたから、文章も艷麗にかいてあるので、 によごうけっ 廓内の女豪傑》と言われる女性を主人公にしてしまったことが気世間はうけましたがね、実際は明治の文壇に出すべきものではな に入らないのだ。 明治初年頃の旧作家がかくべきもので、新しい教育を受けた わづら 小説家の筆を煩はすべきものぢやアなからうと私考へる。》 ( 後藤 北村透谷にとって最上の女性のあり方は、「気高き処女が恋の想 いに身を悶えさせる」というようなものだから、《佐太夫始めより宙外によるインタヴュ 1 「作家苦心談』 ) 真の恋を味は、ざるに似たり。対手とするところ多くは霜頭の老 爺にして自らを盲目とすべきものに会はざりし。》 ( 「粋を論じて伽 尾崎紅葉は「伽羅枕』のヒロインのモデルとなる女性から話を 聞いて、この作を書いたのだという。北村透谷は『伽羅枕』を、 羅枕に及ぶ』 ) と、『伽羅枕』のヒロインのあり方に文句を付ける。 文句を付けつつも、『伽羅枕』の作品としての完成度が高いことは作者尾崎紅葉が《粋》という世界観を構築するために作り上げた 分かるから、なおさらおさまらない。文芸評論家が、好きな作家作品のように思っているのだが、現実はどうもそのようなもので ーーオし の書いた気に入らない作品を「私の文学的理念とは違うからだめ あれ わしア 445 失われた近代を求めてⅢ

5. 小説トリッパー 2014年春季号

「ああ、リオちゃん。悪いんだけど、奥にあるバケツを運んで 意思には拍車が掛かる。生き延びようとする肉体の声には耳を くれない ? 」 傾けようとせず、クソみたいな第三者の声を神の声と見誤る。 地下に戻るなり、いつもタ食をご馳走してくれるおばさんが そんな人間がせめてもの救いとすがるのが、自分の無様な死 に様を誰かの手によって動画と写真で記録してもらい、出来る声を掛けて来た。言われるがまま荷物を運び出すと、周りの横 あな 坑もバタバタと引越し作業をしていることに気付いた。 だけ多くの第三者の目に触れるよう取り計らってもらうこと。 「また ? 」 それが、当世流行りの人生の強制終了だ。 「うん、またなの」 「勇気をもらった」「感動をありがとう」 「警報、鳴ってないよね」 写真や動画と一緒に、昔流行った言い回しが添えられるが、 「さっき、ほんのちょっとだけ鳴ったの。それで、なにかの間 恐らく当の本人に届くことはない。それらの言葉に続く、昔と 違いじゃないかってみんな言ってたんだけど、ドクとソウゲン は違う意味合いを示す「」や「爆ーも。 にとっては、この事態は国土や労働人口以上に計算外が引越し準備を始めたもんだから」 ここのところ、三日に一度くらいのペ 1 スで同じようなこと だったのかもしれない を繰り返している。 人ならぬ存在の意思か、ここ四半世紀ほど、どうやっても自 超巨大台風が接近しているというニュ 1 スは連日報道されて 殺者が年間五万人を下回らない。どれだけ出生率を上げ、子育 いるが、最接近にはまだ五日ほどある。 て環境に気を配り、安全で生きやすい社会を構築しようとも、 よぎ ふと、キョマサを訪ねた日のことが頭を過った。あの日、シ 帳尻を合わせるかのように絶望のハ 1 ドルが下がり続ける。 あまた ずいどう 神、或いは自然の摂理は、地球規模でバランスを保とうとすプヤのコミュニティは数多ある隧道から追いやられるように、 あんきょ あかし 暗渠に潜り込んでいた。 る。国境も人の一生も、毛ほども気にしていないことの証だ。 東京が無事でも北関東の方で集中豪雨があれば、巨大放水路 まともな教育を受けず、六時間も文字を読み続けた経験もな から東京湾に向かって大量の雨水が放水される。その量によっ いリオだが、それくらいの理屈は分かる。 リオは現場に殺到する人々の流れに逆らい、メトロの駅へ向ては、放水路に枝葉のように繋がった下水道や暗渠を逆流する こともある。 かった。背後で、激しくフラッシュが光っていた。 大放水路が使われる度に暗渠には警報が鳴り響き、地下住民 狂っているのは誰で、まともなのは誰か。 は避難を余儀なくされる。雨期にはよくある光景ではあるが、 それが人数で決まるわけではないことは分かっているつもり 今年はやけに多い。 だが、なんとも形容し難い、嫌な気分だった。 「次はどこへ ? 」 7 よこ 429 Y. M. G . A.

6. 小説トリッパー 2014年春季号

うに大切なものが失われるのも「この頃ーであり、人生の無意 味と世界の無根拠が開示されるのも「この頃」のことなのです。 われわれはそれを忘れることで、あるいは忘れたふりをするこ とで生きのびてゆけると言えるでしよう。 人間が〈怪物〉になるのも「この頃」だろう。語りえない、 ひりつくような愛憎が肉と心の双方を苦しめる。しかし、この 苦しみが、世界を透徹したまなざしで刺し貫くことを可能にす るのです。このとき、人はみな小説家になるのです。 ・新宮一成氏の文章を読む ここで、もう一枚配っている新聞のコピ 1 を見て下さい。新 宮一成氏は、京都大学の精神医学の先生で、優れた精神分析医 です。彼が十年ほど前に読売新聞に、般向けに精神分析とは どういうものかをわかりやすく、面白い切り口で書かれた好ェッ セイです。これを読むと、精神分析に距離を取っている人間で と腑に落ちるところがあるで も、「ああ、そういうことか : しよ、つ 0 われわれの子供時代というものは、本当にあったのだろ 、つカ ? ・ それはむしろ、「源頼朝公幼少のみぎりのしゃれこうべー なのではないだろうか。 落語の前ふりに使われるネタである。大阪の古道具屋で のことだとしよう。「旦那、ちょいとええもんありまっせ」 「なんやなんや ? 」「かの源頼朝公のしゃれこうべやで」「ほ んまかいな ? しゃあけどこれえらい小さいんとちゃ、つか ? 「さすがお目が高いわな、なにを隠そう、頼朝公幼少のみぎ りのしゃれこうべやがな」 ここで、「そんなあほな」と言葉を返すまでの一瞬の間に、 客の心に、「そうなんか ! 」という感激がひらめく。だまさ れることのめくるめく快楽。 古道具屋に一瞬だまされる客と同じように、みんな、自 分をだまして生きている。「幼少の頃の自分」などというも のが、心の中にきっちり存在していると思っている。そし 、て、それは、今の自分からはちゃんと独立して、いわば純 粋無垢で保存されているとも。 人間のそうした「業」にはじめて気づいたのがフロイト だった。そしてその「業」を病気と関係づけてみた。する と病気に変化がおきた。それでは、これを治療に使おうと いうことで、「精神分析 . というものが始められたのである。 成程、納得という感じですね。 フロイトは言っている。「四、五歳で、小さな人間が完成 している」。完成していたなら、そのしゃれこうべがあったっ ていい道理だ。問題は、それらがどこへ行ったのか ? と ぶ 学 いうことだけだ。行き先を「無意識」と呼ぶことになった。 を だから、しつかり記憶の中にある幼年時代なんかは、無学 で 意識ではない。覚えていないけれども、あったはずだ、と 大 東 人がこっそり確信しているものが、無意識なのである。完 成して、しゃれこうべになって、なおも活躍している変な

7. 小説トリッパー 2014年春季号

粗末なものだった。思わず、声に出しその著作を残して歳で亡くなった。この驚き、我がことのように恥じ、すぐにそ うになった葉太だったが、何とかそれを父の言動が、葉太にとっては、いちいちの場を後にする。「『タイムズスクエアに 押しとどめる。「出したところで、日本語しやらくさいものだった。 いる自分』すぎることに、耐えられなかっ が通じるはずもない」ことは分かってい 同時に葉太は、「はしゃいだ人間には、 た」からだ。 るのに、それでも、「パンをかじったこの バチが当たると思っていた」。小学校の頃、 そんな葉太だが、自意識と恥の意識を タイミング、この表情での呟きだと、さおどけて歯の隙間に挟み込んだおはじき」封印してでも、行っておきたい場所があっ すがに理解されてしまう気がした」。 が抜けなくなり、それまでの笑わせる立た。それが、セントラルバ 1 クだ。セン これが、葉太だ。 場から一転、心配される身に堕ちた時のトラルバ 1 クのシ 1 プ・メドウで、その 異国の地で、げんなりするほどまずい いたたまれなさが、葉太のトラウマになっ青々とした芝生に寝転がって、本を読み ハン ( おまけにコーヒ 1 までまずい ) をているのだ。自分だけではない。周りのたい、というのが葉太の願いだったのだ。 こもんせんす 食べた時ですら、感じたままに「まずい」友人たちがはしゃいでは失敗する = バチ勿論、読む本も決まっている。小紋扇子 と口に出せない葉太。その代わり、そんが当たるのを、葉太は当事者以上に恥ずという作家の本である。作者は引きこも なハズレの店を「ここだ ! ーと選んでしかしく思ってしまうのだ。 りで、数年に一度しか著作を発表しない。 まった自分、大手のコ 1 ヒ 1 チェ 1 ン店 この「過剰過ぎる自意識と、これまたその小紋の新刊をシープ・メドウで読む。 に入るのが ( 味的に ) 安全だ、と聞いて過剰な恥の意識。そんな葉太が、だから葉太の胸は期待に震える。 いたにもかかわらず、この店を選んでし こそ、ごく自然に見、んるよ、つにとふるま けれど、葉太の願いは叶わない。セン ト一フレ . 。、 まった自分、を葉太は恥じるのである。 うことの、その膨大な熱量。その途方も ) ノ 1 クの、そのあまりにセント 自分には、「貧乏くさい気負い」があった、 ない無駄なエネルギ 1 を、その細部を フル・ハークらしさを恥ずかしく思いっ と。 西さんは丁寧に描き出して行く。 つも我慢して、ようやく辿り着いたシ 1 世間では、それを自意識過剰というの ハズレだった朝食ではあったが、 とりプ・メドウで、さあ、これから新刊を、 だが、葉太の自意識はあまりにも過剰すあえず腹を満たした葉太は、プロ 1 ドウェ というその時、葉太は芝生に置いたメッ ぎて、本人にとっては、ぐるりと一周しイを北へと進み、「タイムズスクエア」にセンジャ 1 ・バッグを置き引きされてし て、それが常態になっている。彼の自意出る。と、その場所があまりに「タイム まうのだ。中には、葉太の殆ど全て 識の根っこにあるのは、亡き父だった。 ズスクエアすぎる」ことが、彼を面映ゅ財布、パスポート、カメラ、帰りのエア 大きな文学賞をいくつか受賞し、業界でい 気持にさせる。そんな場所で、堂々とチケットが入っていた。葉太に残された くだん は権威のある作家だった彼は、冊ほどガイドブックを広げている人々に葉太はのは、件の作家の新刊と、 1 ドル札肥枚 吉田伸子 298

8. 小説トリッパー 2014年春季号

亀シは打って変わって軽やかに返事をした。 「もともとは、佐田のお家が持っていた、ヤプギッネの一 匹だったようですな」 「ヤプギッネ ? 」 また話は怪しくなってきた。 「佐田のお家はもとはキツネ使いの家柄。とはいっても妖 術使いのような輩とは違う・ : ・ : 違う、ということを強くいっ ておられますな。正しい目的のもとに訪れてくる人間のた めにだけ、キツネを使ったのだと。けれど、そういうお家 は畏れられこそすれ、人付き合いには距離をおかれ、婚姻 にも障りがあることが多かった。ある代のとき、これから 一切、稲荷の力など借りぬ、と断言し、使っていたキツネ たちを解放なさったお方がいた。が、なかに一匹、行くと ころもなく途方に暮れて戻ってきた仔ギッネがあった。さ して力もなく、心優しいキツネであったので、このキツネ ばかりは残しておいても差しつかえないだろう、というこ とになった。キツネも恩に感じて、家内安全くらいの働き はしてきた。家老の一件があった家に引っ越すときになっ たときも、連れて行かれーそれはつい近所であった故に、 戸惑うことなくことが運んだのだ、と申されておりますな、 今に至る、と」 私は少々うんざりした。自分の家がキツネ使いの家系だ といわれ、喜ぶ人間がいるだろうか。でたらめだとしたら、 よくもまあ、こうべらべらと話を繋げられるものである。 やから さた 姓こそ違え、佐田の家とは血縁である竜子さんも、少し複 雑な心境であると見え、 「はあ、そんなことがねえ」 と、浮かない声で呟いた。海子が訊いたら何と反応する ものだろう。 しかし、前世が〇〇であった、先祖は△△であった、と なりわい いうことを、こういう生業の人間が客に告げる場合、大抵 は身分高く英雄か英雄に近いような人物を挙げるものだろ う。ひとはそういうときに願望の力も手伝って納得しやす いのである。気分よくもなろう。繰り返すが、自分の家が キツネ使いの家系だといわれ、喜ぶ人間がいるだろうか ということは、少なくとも亀シは、私たちを体よく喜ば すためにいっているのではない、ということになる。そん なことをいっても、彼女の利益には何もならないのだから。 いや、もう一つ可能性がある。彼女が喧嘩を売っている、 というケースの場合である。まあ、これもペンディングだ。 亀シの話は消化するのに時間がかかりそうなので、この 際、私はこの自分たちの風変わりな名まえの由来が知りた いと思い、運転をしている竜子さんの横顔へちらりと視線 を遣り、 ゃぶひこじ 「竜子さんと藪彦祖さんは、昔、海幸彦山幸彦の神話に 関して、どんな話をしていたんですか」 先ほどの喫茶店での彼女の話では、藪彦祖父さんが孫に やまさちひこ 山幸彦と名づけたと聞いて、もうすぐ生まれる自分の子ど 梨木香歩 252

9. 小説トリッパー 2014年春季号

池田弥三郎『光源氏の一生』 な迷い、暗い情熱というものが流れていて、現世に対する虚し さの感情と、孤独と絶望の中で世界を見つめつつ物語の外へ出 恋と栄華を有機的に、意図的に結びつけた物語というのは、 てゆく。彼は内面を持った。 恐らく世界にもあまり例がないのではないでしようか。これは こういう主人公は神話的人物にはなかったことです。倭建命 紫式部の発明、考案だと思います。通常の物語は、恋と栄華、 も「大和に帰りたい」と歌いますが、これは個人的な憂愁では 権力というのは別のもので、恋に生きるか権力に生きるかとい ありません、神々の憂いです。倭建命は白鳥となって天翔り、 う相克、その矛盾に悩んで悲劇が起きるというのがお決まりな かぐや姫は天上の星に還ってゆきますが、光源氏は、神々の相 のだが : ・ あるいは道長のアドバイスがあったのかもしれま貌を残しつつ一個の人間として苦しみ、この世の虚しさに迷い、 せん。 そして救いを求めようとして出家します。そうすると、これは 先ほどの源氏のあまたある恋の中から挙げた藤壺、六条御息どうでしようか。やはり神話に対して距離を置く、一個の人間 所、紫の上、明石の君との四つの恋について、池田弥三郎はこ の物語。『旧約聖書』と『新約聖書』の関係と似たようなかたち れらを「心長き恋」と呼んでいます。源氏は多くの女性と交情を『古事記』と『源氏物語』は持っていると言えないだろうか。 がありますが、この四人に関しては終生恋心を保ち続ける、そ「福音書」は神の子でありつつ、一個の苦悩する人間イエスの物 の「心長き恋」が光源氏を栄耀栄華の絶頂に押し上げるのです。語です。 これら四人の女性たちもまた、源氏と深いかかわりを持っこ 光源氏は四十一帖で幻と消えて、それ以降は出てきません。 さがの とを通して、現世で稀な栄耀を享受する。同時に、深い憂愁を退場して、字治十帖の中で初めて、光源氏が嵯蛾野あたりに隠 も抱え込む。光源氏との恋を続けることで栄耀栄華を一身に集れ住んで、仏門に入り、数年後に亡くなったらしいと触れられ めると同時に、その裏側に深い苦しみをそれぞれ抱え込みなが るだけです。いわば物語の外に出て、そして消えていった。見 ら生きて、死んでゆきます。光源氏にもまた深い憂い、人間的事なエンディングです。 辻原登 228

10. 小説トリッパー 2014年春季号

ち、朝起きて夜寝るまで目覚めていますが、概ね意識に基づい て行動する。でも、全部意識で占められているかというとそん なことはありません。一番はっきりするのは眠りの世界、ある いは半醒の世界にいるときです。 無意識や夢の世界は私たちには考えられないぐらい広い。夢 を思い出してみてください、自分の知らない世界のことがいっ ばい出てきますが、なぜそんなものが脳細胞に入っているのか ・精神分析の面白さ、無意識の広がり と思います。悪夢なんてひどいもので、目覚めたらもう生きて しかし、私は精神分析というのは面白いなと思うことがあり いたくないぐらいの悪夢を、見るのではなく、何者かに見させ られてしまう。 ます。精神分析学がどうして出てきたのか。もちろん、それま で人間の精神や心理を分析し治療する方法がなかったのかとい 私は私である。こう言った時点でわれわれはもう「神を殺し うと、そんなことはありません。フロイトが「無意識の世界」 た」。つまり意識を持った時点でわれわれは神を殺している。神 を発見したのではありませんが、彼の一番大きな功績は、性の の信仰がどうのこうの、ということではありません、神という 衝動を中心に人間の無意識の世界を考えたことです。「抑圧」と より神々と言ったほうがいいかもしれません。一神教というの いう考えで、これは納得できる部分が確かにあります。 はごく一部の、砂漠の民の信仰ですから。 単純に言うと、動物の中で人間だけが常に発情可能です。ほ 神々を殺してしまった。私が私であると考えたとき、それは かの動物は、一定の時期にしか発情しません。これは神様の按私を成り立たせているのは私であるという考えですから、そこ 配でしよう。ところが、人間は常に発情していては生きていけ から神の概念は除外されています。 ません。生きていくためにはこの性衝動を抑圧、抑えなければ 昔の人はそういう言い方はしなかった。「私」という言い方も いけない。抑えることによって文明・文化というものが成立す今のような使い方はしません。私を支えているのは神々だ。無 る。しかし、抑えているわけですからどこかで無理が出てくる、 意識は神々の領野です。その神々が、つまり無意識が実はわれ とい、つところにフロイトの考、ん方があります。 われを支え、生かしている。しかし、この部分は制御できない。 われわれに内面があるとして、これを心とします。意識とい 自分で制御できないから、これを神々に預ける。神々は、われ う考え方は近代の産物ですが、この部分は「われ考える、故に われの外側にいるだけではなく、われわれの中にいて、宰領し ている。 われあり」です。私は考える、ゆえに存在する、私は私である という、この部分でわれわれは生きています。恐らく一日のう 析という言葉はもう使い古されてしまって、今ではほとんどい かさまみたいな雰囲気もあります。多分、現実のお医者さん、 精神医学や心理療法をやっている、本当に病んだ人を治そうと している人たちは、精神分析という学問と方法では人を救えな いと、多分そう思っている。 おおむ 辻原登 198