長からだった。もしもし、と言う前に小池編集長が話しはじめ 出版許可が下りないだろう。 「この段階まで企画を通せなかったのは夢センセの責任でもあた。 「お前に日出出版の鈴村女史から電話が来てるんだが るんですから、言うことは聞いてもらいますー 「鈴村さんって : : : あの鈴村さんですか ? 」 いいよなあ編集者は。それでヘンテコな続編書か 「横暴だー 1 ティ 1 会場で名刺交換はしたことがあったが、それきり されて読者にそっほ向かれるのは作者だけなんだから」 「ええそうですよ。売れなかったら、私はべつの売れる作家と接点はなかった。 「どうする ? 急ぎらしいぞ」 手を組むんです。そういう世界なんですから」 編集部には一分で戻ることができる。 開き直って言い返してみたが、これがいけなかった。 「わかりました。すぐに戻りますー電話を切って夢センセに言 「なるほど。君の編集姿勢はよくわかった。それならいいよ、 う。「いいですか、このままステイしていてくださいね」 君の望み通りハッピ 1 エンドを書いてやるよー 「はいはい。あ、ケ 1 キもいい ? 「え : : : 本当ですか ! やった ! 」 やれやれ。 「その代わりーたった一か月しかないんだ。入稿寸前まで書 「何でもお好きなものをどうぞ」 。書いたものは一字一句直させないー ・ : なんですって ! 」 わーいじゃないー と内心で怒りながら、この辺りの掌を返 「べつにいいんだよ。出版したいのはそっちなんだからー したような無邪気さにはなぜか憎めないものがある。夢センセ シニカルに右の眉がくいっと上がる。足元を見られた。 「こっちだっていざとなれば出版を取り消すだけなんですから ! 」は呑気な猫のようにメニュ 1 を眺め始めた。わたしはため息を 嘘だった。実際のところ、わが社の刊行スケジュ 1 ルは一度つき、席を離れた。ドアを開けて外に出ると、乾いた風が髪を 決まったら梃子でも動かない。夢センセも晴雲出版の事情を察撫でた。 もちろん、この段階ではわたしは電話の用件など知るよしも しているのかニャニヤ笑っている。分が悪い なかった。災いは、いつも素知らぬ顔で物陰に潜んでいるもの 携帯電話が鳴ったのはそのときだった。 なのだ。 「夢センセ、もう少しお話が残ってるのでお待ちくださいね . 「アイス豆乳オ・レ頼んでもいい ? 」 しいいですよ」 「んじゃあ五分待ってやろう」 何様なんだこの男と思いながら携帯電話を確認すると、編集 突如降りかかった火の粉に、わたしは黒焦げになってしまっ 109 偽恋愛小説家
ゆっくりと目を開いた涙子さんは、心を落ち着け、真実を静 「無理だと思います。かなり難しいでしよう。さらにスプーン かに受け止めているようだった。 で混ぜるなんて難しいと思いますー 「もう一度尋ねさせてください。その潔さんの親友のことが好 何かが引っかかった。夜空を見る。薄ばんやりと雲の衣を纏っ きですか ? 」 ていた満月がくつきりと姿を現す。同時に、閃いた。 この人が夢センセの運命の人なら、何も言うことはない。た 「 : : : それですよ、涙子さん」 胸が高鳴る。こんな風に謎を解くのは初めてのことだ。いつだ二人に幸せになってもらいたい。本心からそう思った。作家 もなら、これは夢センセの十八番。ミステリマニアのあの男の。 の幸せを願うのが編集者なのだから。 「潔さんはコーンボタ 1 ジュが好きだったんですよね ? 「一年前、私は彼から電話で呼び出されて、近所の公園に向か いました。嫌いだったら、行ってないでしようね」 「はい、そうですけど 彼女は明言を避けたが、その目を見れば、言葉の表皮だけを 「特に好きな部分とかおありじゃなかったですか ? 」 「それはー上に貼る膜をスプ 1 ンで集めて最初に食べるのが眺めていたのでは到達できない奧行きがあることは明らかだっ 楽しみだって : : : あっ」 やはり、涙子さんは夢センセに恋をしている。 両手でロを押さえる涙子さんが可愛かった。 「そういうことです。青酸カリは表面の膜の上にだけかかって 『彼女』は、最後の殺人に至る部分以外は、名前を変えればほ ば実話だったのだろう。 いた。青酸カリの致死量は微量だと聞いたことがありますし、 「今思えば、彼が私を呼びだすときの電話もすべて本木君に盗 膜の上に乗った状態でも白い顆粒はすぐに溶けて見えなくなる 聴されていたのでしよう。本木君は、歪んだ支配欲の塊だった ことでしよう。ただし、毒は膜より下にはいきません。そして、 潔さんはスプ 1 ンでその膜を集めて食べた。青酸カリがカップんです。自分のものにならないのなら、一生偽りの人生を送ら から検出されなかったのはそのためです」 せてやる。そんな風に考えて、私が好きではない男性と結婚し 涙子さんは目を瞑り、一年前に夫の身に起こった出来事に改て、きちんと本木君が用意したつまらない人生を歩いているか ずっと監視していたのでしよう。だから、私が電話の呼び出し めて胸を痛めているようだった。 で潔さんの親友に会いに出かけたのが気に入らなかったんです」 「そのことは本木の計算外だったんだと思います。彼はただコー むしす 家 説 虫唾が走るとはこのことだ。 ンボタ 1 ジュに混ぜた気でいました。涙子さんに容疑をかぶせ 「何て歪んだ男・ : 愛 るために。ところが膜の上で溶けただけだった。だから警察は 「思春期の一時期なら、そんなふうに考える人もいるのかもし れません。でも哀れなことに、彼は大人になってもそんな欲求 単純に自殺と判断することになったんですー に衝き動かされてしまったみたいですね」 「膜だったんですね : ・ まと
「 : : : それとは別件なんですが、実は今電話がありまして ンセに連絡をとろうと考えた。ところが、〈ホテルオ 1 ハラ〉の 正直に編集部にかかってきた電話の内容をすべて話した。す夢センセの部屋に電話をつないでもらおうとすると、ホテルマ ぐにでも否定してほしかった。自分はニセモノなんかじゃない ンが怪訝な声で言った。 と。いつもの調子で冷笑を浮かべ、馬鹿だなと言ってほしかっ 「夢宮様は先ほどチェックアウトされました」 頭を後ろから殴られたような衝撃が走る。電話を切ると、す しかし、夢センセはしばらく黙りこくった後に言った。 ぐに夢センセの携帯電話にかけた。が、時すでに遅し。解約さ 「もしそうならどうする ? れた後だった。わたしは、ようやく悟った。今、自分は編集者 「 : : : そ、そ、つなんですか ? として入社以来最大の危機に立たされているようだ、と。 「俺は偽恋愛小説家だよ。恋愛作家のフリをしてるだけ。実際 何の解決策もないまま、夜の十時を過ぎたとき、電話が鳴っ は恋愛に興味なんかない。とっくの昔に気づいてたんじゃない た。受話器をとれば、かの鈴村女史の声。用件はもちろんニセ モノではない証拠が出せなければ、『週刊日出』に記事を掲載す 夢センセはそう言って立ち上がった。 るという死神の宣告だった。 「ど、どこ行くんですか ? 夢センセ : 「どうですか ? 証拠のほうは ? 見つかりそうですかあ ? 「も、ついいよ。これつきりにしよ、つ」怒っているとい、つより、 真綿で首を絞めるように、ソフトに追い詰めてくる。 疲れているようだった。目の奥に何とも寂しげな色が浮かぶ。 「それが : : : すみません、まだで : ・ 「そんなの、あんまりです : : : 」 電話の向こうであの冷笑が聴こえた。 しあさって 気がつくと、わたしの目からは涙が溢れていた。 「わかりました。では、明々後日の『週刊日出』をお楽しみに」 「わたし、認めませんよ , 「ちょっと待ってください、もう少しお時間を : 「 : : : 鼻水を拭け。またな」鼻水。慌てて鼻に手を当てるがま 電話はーすでに切れた後だった。 だそんなものは出ていない。夢センセは乱暴に私の頭をくしゃ くしやと撫でると、店を出て行った。 テープルの上では、夢センセがぐるぐる巻きにしてしまって 使い物にならなくなったストローの残骸がふてくされた様子で 寝そべっていた。 編集部に戻ってもすぐに仕事を始める気にはなれなかった。 夕方になり、やはりこのままはますいと考えてもう一度夢セ 今日、わたしは知った。予感の通り、入社以来最大の危機が 訪れていることを。『週刊日出』に「恋愛作家、夢宮字多はニセ モノ ? 。の記事がアップされてしまったのだ。 そして、鈴村女史の所有する埴井潔の原稿がマスコミ各社に げ 森品麿 112
留にしていた。 そんなある日、一本の電話がかかってきた。 「おーい、井上ー編集長が呼んだ。いつもの、何でもない用件 を伝えるときの口調で。「奴 : : : あ、いや、夢宮センセイからだ」 : つ、つないでください ! 」 大慌てで電話に出る。言いたいことなら山ほどあるのだ。 いったいどこで何を : 「もしもし ? 「あのね、次回作だけどさー 夢センセは、前置きも何もなく単刀直入に勝手に舵を切る。 「はい 「次回作には本木晃は出ない。まず世間に誤解をきちんと解い ておいてほしいんだけど、デビュ 1 作でも埴井涙子が好きだっ た男は本木晃じゃないんだぜ」 : : : ? ・と、つし、つことて、す・カ ? ・ 小説のなかではあくまで埴井涙子と本木晃の恋愛ものとして 話は進んでいるではないか。 「よく読めよ。たとえば、そうだな。二二五ページ」 「僕が殺したんだ。誰にもバレないうまい方法を用いて。仕 方なかったんだよ、二人の愛のためには」 せりふ 「これは本木晃の台詞だ」と夢センセは言った。 「それくらいわかりますよ 「いや、わかってないね。次のところ読んで」 どうかしてるわ、と震える声で、わたしは言った。闇の中 でその声は小動物の鳴き声のように心細く響いた 「たしかに、どうかしてる。俺の責任だ。こうなることは高麿 校時代からわかってたのに、何も手を打たなかったんだから」 と彼は耳元で囁いた。 「この会話文、主語が〈俺〉に変わっただろ ? ほかの箇所も 全部そうなんだけど、〈本木晃〉の部分はぜんぶ〈僕〉が使って ある。対して、涙子の本命男の箇所は〈俺〉になってるんだ。 そして、〈涙子〉も〈本木晃〉と〈彼〉を使い分けている。要す るに、この場面、二人きりじゃなくて三人いる場面なんだよ」 「 : : : な、何ですって」 わたしは改めて読み返した。そして、愕然とした。 わたしは首を振った。 、え、悪いのはわたしよ。あなたのことを好きになって しまったわたしが悪いの . 「君は悪くない。出会ったあの日に君に告白しなかった俺の 問題さ」 本木君が、わたしの傍へと一歩踏み出した。 わたしは身構えた。 「もう何もかも終わりにしましよう。たとえわたしが誰を愛 しているのであれ」 「無理だよ、もう止まれないんだ」と本木君は言った。 わたしは首を激しく振った。 「もう終わりよ」 彼がまた耳元で囁いた。
田名部との通話を終えた氷川は、冷静になれ、と自分に言い 田名部が吐き捨てた。 「もちろん、説明することはできない。しかし、いざとなった聞かせた。 だが事態を認識しようとする努力は、スマ 1 トフォンの振動 ら、正式な手続を踏んでもらっても一向に構わない。なにより、 で簡単に霧消した。 拳銃など所持しておらずー ディスプレイには、公衆電話、と表示されていた。 「ちょっと待てよー田名部が遮った。「さっきから何言ってん まず聞こえてきたのは、若そうな女性の声だった。 だ ? 」 「この番号は近藤さんですか ? 」 「だから、拳銃で撃たれた被害者の女性から聞いてもらっても、 女は、協力者の前で氷川が名乗っている偽名を口にした。そ 射入痕と射出痕の位置関係から、私ではないことが明白だ」 の言葉に、乱れた雰囲気はなかった。それどころか、訓練され 「だから、待てって言ってんだよ。もしかして、お前さんが言っ たと思われる上品な口調が印象的だった。 てるのは、昨日の、主婦が撃たれたヤマか ? まさか、それに だからなのか、氷川はそのまま会話を続けることとした。 も絡んでるのか ? 」 「そうです」 「それにも ? 」 「私、ホテルのキャビンアテンダント課の従業員でして、杉 氷川は嫌な予感が走った。 「とにかく、このままでは、オレもャパイ。いいか、お前さん村と申します。上司の松本からの指示で、伝言をお伝えするた へど たちが、嘘と欺瞞にまみれた世界に棲んでいることは反吐が出めに電話をさせて頂きました。今、よろしいでしようか ? 「松本さん、今、どうしておられます ? 」 るほど知ってる。だがな、今回は、それは通じない。本当のこ それを聞かずにはおれなかった。 とを話せ。本当とは文字通りのことだ」 「数時間前、警察の方がお越しになられまして、聞き残したこ 「そっちの仕事正面に絡むことで、私に何らかの容疑がかかっ とがあるとかで。現在はまだ、松本はそのために会議室で応対 ているのか ? 中です。伝言は、その直前に、重要なことだからと松本から申 「何でもお見通しの公安さんが、ご存じないとはな ! 」 しつけられました」 田名部の鼻で嗤うような声が聞こえた。 氷川は自分の心臓音をはっきりと意識しながら訊いた。 氷川は息を止めた。何かがおかしい。何かが起きている 「どうぞ、ご伝言を」 直感でそう思った。 「では、申し上げます。『申し訳ございませんが、来週のディナ 1 「今夜、いつものバ 1 に来い」田名部の口調は被疑者を取り調 の席は、満席でございます』。以上です。どちらのレストランか べるそれだった。「逃げるようなバカな真似はしねえと思ってい は松本から聞いてはおりませんが、何かご迷惑をおかけしまし る。時間は合わせる」 わら モニタ 145 背面捜査
埴井涙子なら、何かを知っているかもしれない。もう一度行 されるまでに残されたタイムリミットはあと一日。すで くしかないか。そう思っていた矢先ー電話が鳴った。編集部 に「最悪」は訪れてはいる。夢センセがニセモノである可能性 の他の人間が出る前に真っ先に受話器をとった。どうせ今日の を感じながら今まで黙っていた私は、社内での評価を落として 電話のほとんどはわたしに用があるのだ。 いる。堕ちた信頼は自分で回復させなければ。 「あのー晴雲出版の井上月子さんというのは : : : 」 真犯人を探すしかないのだ。 「わたしですー 夢センセがどういうつもりでニセモノと言ったにせよ、編集 柔らかな女性の声。電話を通すと声なんてみんな似たりよっ 者としてできるのは、疑惑を晴らすために最善を尽くすことだ たりに聴こえるから、知っている声かどうかの判断もっかない が、柔らかな中にも折り目正しくアイロンをかけたあとのワイ ます手始めに、以前パーティ 1 会場で話したことのあるパ シャツのような感じがあって頭のどこかがこの声を知っている フェクト出版の紺野という男に電話をかけた。彼は夢センセが と訴えていた。 受賞する前から夢センセと仕事をしていた仲だ。何か知ってい るかもしれない。単刀直入に、夢センセから連絡がないかと尋「先日はどうも。埴井涙子です」 なるほど、知っているはずだ。渡りに船とはこのこと。突発 ねた。 「連絡 ? ありませんよ。でも、ニセモノ疑惑かけられてるん的な偶然にも臨機応変に対処できるくらい、今は脳がフル稼働 している でしょ ? わかってましたけどね。恋愛小説書くタイプじゃな 「今、少しお時間いただけますか ? 」と涙子さんが尋ねた。 いこと′、らい」 「もちろんです ! 」もちろんですとも。受話器を握りしめたま 「ニセモノを疑う根拠でもあったんですか ? ま立ち上がってしまい、周囲の注目を集めてしまう。 「何というか、素の自分みたいなのを絶対見せない人だから。 「じつは、今東京に出てきているんです。週刊誌のことで、ど そういう人って恋愛小説書けないでしょ ? ひだ うしてもお話ししたいと思いまして」 たしかにー恋愛小説は柔らかな心の襞を描かなければなら ない。どこまでもひねこびて素直じゃないあの男が、それも女「 : : : いま、どちらに ? 彼女は、新宿アルベルトホテルの名前を挙げた。新宿か。今 性視点で繊細な言葉を紡ぎだすところは全く想像がっかない。 から外出したら、帰社するのは夜になる。明日までに読まねば 「連絡があったら、井上さんに伝えますよ」 ならない他作家の原稿のことを考えると頭が痛いが、背に腹は 礼を言って電話を切ると、ため息が出た。さて、ここからど 代えられない。 う駒を進めるべきか 「これからすぐにお会いできますか ? 」 頭に浮かんできたのはーっい先月行ったばかりの伊豆高原。 113 偽恋愛小説家
先日というのは、三日前の電話のことである。 「はっきり言って、こっちはお前もニセモノなんじゃないかっ 三日前、鈴村女史は突然編集部に電話をかけてくると、夢セ て気がしてきているくらいだよ」 はにいきよし ンセ偽物疑惑の話を始めたのだ。彼女は埴井潔による『彼女』 「そんな : ・ のショ 1 トバージョンの原稿をはじめ、いくつかの恋愛小説の 小池編集長のあまりの発言に、返す言葉が出て来ない。 「何度も打合せだってしてるのに、ニセモノを見抜けなかった短編原稿を所持していると言った。その他の原稿にも、文体の 類似があり、何よりそれらの原稿の到着は『彼女』の受賞より なんてね。大した才能だな、まったくー 前だ、と。「デ 1 タの受信履歴も公示できます」と彼女は誇示し ばやきたくなる気持ちはわからないではない。 ゅめみやうた せいうん 晴雲出版からデピュ 1 した恋愛小説家、夢宮字多にかけられた。 そんなはすありません、とすぐさま切り返せなかったのは埴 たニセモノ疑惑のせいで、編集部は朝から電話が鳴りっ放しな 井潔が実在した人物であることを知っていたからだ。 のだ。 夢宮字多というのはペンネ 1 ムなんですよね ? 本名は まだ確たる証拠がないため「事態を把握しておりませんーと 返しているが、事実となれば書籍回収は必至。訴訟の準備や各ご存じなんですか ? もときあきら ー本木晃です。 方面への謝罪等の雑事に煩わされることになる。 送られてきた原稿のプロフィ 1 ル欄にあった夢センセの本名。 何か言い訳をせねばと口を開きかけた途端、再び電話が鳴っ その名を告げることが、偽物疑惑に拍車をかけるかもしれない 小池編集長がため息交じりに電話に出る。「はい、編集部」時ことは想像がついた。そして、ほば想像どおり相手はヒ 1 トアッ プした。 計は午後四時を回ったところ。はいはい、と話を聞いてから、 なるほど。つまり、埴井潔を殺害した作中人物と同名の 小池編集長はちらと顔を上げ、わたしを見やると、「今替わりま 人間が夢宮字多を名乗っている、と。 す」と保留ボタンを押した。 ひので ーを . し 「日出出版の鈴村女史からだ」 その事実をどう思われますか ? かたや恋愛小説を書い 鈴村春香。この業界では知らない者はいない敏腕編集者だ。 ていた作家志望の埴井潔なる人物と、その埴井潔を自分が殺す その目利きの確かさで、これまで多くの恋愛作家を発掘してき ており、玄人読者のなかには彼女が編集に携わった本ならばと話を書いた人物。埴井潔は実在し、実際に死んでいます。もし 実作者の名前以上にその存在を重視している人もいるくらいだ。本木さんご本人が書いたのだとしたら、悪ふざけが過ぎますし、 「先日はどうもお疲れ様です」にこやかな声がかえって恐ろしモラルの低さを疑いたくなるところです。 ええ、それは、まあ、わかりますが : 105 偽恋愛小説家
淡々と変わらない毎日に、ときどき突風が吹き込む日もあっ 〈編集部の女性の好きな花は、チューリップだったな〉 〈このあいだは競合の若い営業担当者を出し抜いたりして、悪 「電話では言えない。すぐに来てもらえないか」 いことをした。彼が″自転車 ~ で一キロ分、売れるように、今 アントニオではなく社長が直々に、電話をしてくることがま 日は順番を譲ることにしよ、つ〉 まあった。 下世話で素養に欠ける、などと侮ってはならない。日常とは 電話の向こう側には、人声も雑音も聞こえない。個室からか そういうことの繰り返しであり、毎日の事件や情報も無数に存けてきたらしい。特別な呼び出しは、朝十時のこともあれば、 在するかけらの一つなのだ。 夜更けにかかってくることもあった。抑えた声ながら、社長の 口調には重大な商材に興奮する様子がうかがえた。 「え、文化論だって ? 何だそれ。何キロ分の売り物なの ? 私は大急ぎで身仕度を済ませ、タクシ 1 を呼び、町を抜け、 腐ってなくても食えそうもないな」 小賢しいマスコミ論など述べたところで、アントニオたちか低層の建物の連なる通りを行く。 らは口元を歪め、鼻先で軽く笑い飛ばされるのがオチだろう。 社長は受付まで出て待ち受けていて、早足で社長室へと通さ れる。 「久しぶりの大物だ」 毎日、私は情景の破片を受け取っては売ることを続けながら、 イタリアという国のジグソーパズルを組み立てる思いだった。 社長が紙袋から出して卓上に広げる写真は、全て紙焼きされ 一枚仕上げると、次のパズル片が待っている。一片はごく小さている。点数は十点に満たない。 く、いったん紛れてしまうともう見つからない。しかしその一 望遠レンズで撮ったらしい。かなり粗い粒子の中に、時の人 片が欠けると、パズルは仕上がらない。どんなかけらも、伝え の決定的な瞬間が提えられているようだ。 られることを持っている。 〈どうする ? 〉 ここで生きている限り事件に遭遇し、事件がある限り知らせ 社長は黙って、目で尋ねる。こみ上げる嬉しさを目尻に抑え るネタがある。ネタはアントニオをはじめとする関係者全員の込んでいる。 撮られた人物は、日本人なのだった。 生活の糧であり、媒体の栄養源なのだ。 私は、中央駅という港に流れ着いて来る荷を通して、仕事へ こればかりは、付き合いのあるイタリアの出版社には売りよ うかない。 の身構えをはじめ、イタリアで生きていくための、いろはを諄々 と教えてもらったのだった。 「今から電話すれば、日本はちょうど昼過ぎだ。すぐに売ろう」 社長は張り切っている。私は、返すことばに詰まる。 内田洋子 58
いいながら、自分が知らないことに由子 「羽黒のスパイが、ツルギ会にいる、とい役に立てない うのを知ってた ? 」 「二十五年間、捜しつづけて見つからなかつは気づいた。 だがツルギは、フンと鼻を鳴らした。 たんだ。あんたがいなくなっても、そのと ツルギは目を細めた。 「それがどうした。スパイなんてどこにできはそのときさ。だがあんたはあたしとし「そんなもの教えてもらわなくてもわかっ た約東を果たさなきゃならない。それをとてる。みつえが見つかったら、知らせてや もいるものさね」 ばけるっていうなら、こっちにも考えがあるよ」 「見つけたいとは思わないの ? 」 「わかった。全力を尽くす、 る」 「あたしに恩を売ろうってのかいー 由子は答えた。 「やらないなんてひと言もいってない。た 由子は首をふった。 「そうじゃない。気にならないかと思っただ集中できる環境が必要なだけ あらすじ 「面倒ないいかたをするもんだね。ソウ だけよ」 連続殺人犯の捜査中に、何者かに首を絞 ツルギは息を吐いた。 められ気を失った志麻由子は、次に目を覚 「トシ坊もそうだが、スパイなんてのは、 ツルギは声を張りあげた。 ましたとき、過去の異次元にタイムスリッ 、いに弱いものがある人間がやることさね。 「はい、ママ。ここにいます」 プしたことに気づく。そこは「光和年の アジア連邦・日本共和国・示市」とい みつえは、日一那よりも弟がかわいかっただ屏風の向こうから返事があった。 戦後の荒廃した無秩序な都市だった。また、 けだろ、つけど 「みつえを捜しな。手はださなくていい 見つけたら、この警視さまにご注進するん東京市警のエリート警視として由子が以前 「今はわたしを憎んでいる」 から存在していたこと、さらに部下だと名 「ああいう女はね、世の中でうまくいかなだ」 乗る男性が、かって付き合っていたポーイ いことがあると、必ず誰かのせいにするの 「わかりました、ママ フレンド・里貴とそっくりだと知り打ちの さ。その誰かをつけ狙うことで、自分はま ツルギは由子を見た。 めされる。混乱した状態のなかで、由子は ちがってないといいはる」 「あんたに電話番号を教えておく」 「この世界」のエリート警視として捜査に 臨まざるを得なくなり、あるとき、新宿の 目で部屋の隅におかれた電話器を示した。 「みつえの居どころを捜せる ? 闇市に君臨する「ツルギ会」のリーダーに 「さあね。トシ坊とちがって、うちとのつ着物のたもとから紙きれをだし、由子の前 会いにいく。糸井ツルギから「あの約束は においた。ふたっ折りにされたそれには、 きあいが直接あったわけじゃないからね」 いっ守るのだ ? 」と迫られ動揺する由子だ ツルギは横を向き、象牙とおばしいホル六桁の番号が記されている。 が、敵対する「羽黒組」との抗争を激化さ 「ここの電話だ。関のことかわかったら電 ダーに煙草をさしこむと、マッチで火をつ せ、ふたつの組織を壊減させようと画策す 話をしておいで」 る。 「わたしの電話番号は 「わたしがみつえに殺されたら、あなたの こうわ 355 帰去来
穏やかに微笑む涙子さんの表情は不思議な慈愛に満ちていた。夢センセなら葬式などで涙子さんから聞いて知っていたはずだ ふさわ 自分だったら、そんな気味の悪い男に対して〈哀れな〉なんし、そう考えれば彼が『彼女』の作者に相応しい人間だとわか て寛容な表現はできない。そこに、涙子さんの落ち着きと成熟る。 を感じる。 伝えます。 これがー夢センセの恋した人。 それから、涙子さんは取り調べのために呼ばれ、警官たちの ただ一人の運命の人なんだな : ・ 元へと戻っていった。わたしは一人、門の外に出て歩き始めた。 かなわない。い や、張り合おうなんて思っていないけれど。 さてーと。これで、『彼女』が潔の殺害後に書かれたもので 「でも、私はキョを : : : 潔を愛していたし、それは恋のように あることは明らかになった。いざ日出出版へ反撃ー。 燃える感情でないにしても真実なんです。だから、今後もあの と思っていたら、電話が鳴った。 人と一緒になることはないと思います . 「もしもし ? 本当だろうか ? 本当に、涙子さんは夢センセとの恋の成就 「日出出版の鈴村ですー を望んでいないのだろうか ? わからない。両想いの相手がい どうやら編集長に携帯電話を聞いたようだ。声がこれまでと て、今はもう自由の身なのに、それでも一歩を踏み出さない関はうってかわって自信がなさそうだ。どうしたのだろう ? 係って何なのだろう ? 二人の恋は本物じゃないの ? 「あの件なんですがー忘れていただけますか ? まだわたしが若すぎるのか : そもそも〈本物〉って何だろう ? わたしは〈本物〉の編集 一瞬、何を言われているのかわからなかった。 、 0 ナ・れ 者だと言えるだろうか ? とても胸を張っては言えなし 「じつはーさきほど夢宮先生からご連絡をいただきまして」 ど、肩書きが与えられた以上、そこから逃げるわけにはいか 「ゆ : : : 夢宮先生からですか ? いではないか。 「それで、埴井潔名義で弊社に持ち込まれていた原稿がすべて 、、つ、か 夢宮先生の作品であることが判明しまして : : : 」 〈本物〉ってーそう言い切る覚悟のことなのかもしれない。 「え ! 」 「井上さん、夢宮字多をよろしくお願いします。もしお会いす 初耳である。 ることがあったら、新刊、楽しみにしていますって伝えてくだ 「ど、どういうことですか ? 「私が電話で何度か喋って埴井潔だと思っていた人物が、夢宮 気づいたのだ。涙子さんは、夢宮字多が潔の親友であり、自字多先生だったのです。どうも、恋愛小説のほうは初めから副 分の心の奥底に眠る運命の人であることを。毒死であることも、業になったらいいなくらいの気持ちだったそうで。だからご友 森品麿 130