夫からのハガキが先に届いていなかったらた」 「何にだ」 と思うと、ゾッとする。夫はこ , つい , っことを「なにが ? 「本当に、柏原麻由子が犯行に及んだのか , 予測し、急いでくれたのだろう。 思わず足を止め、優香は野村の顔を見た。 野村が驚いたように優香を見、署長は「お 忘れないうちにと、わたしはボールペンを「俺、お母さんの病気のこと : : : ちっとも知いおい」と椅子から立ち上がった。 手に取った。腕のメモがないスペースはかならなくて」 「桐谷までそんなことを言うなよ。どうかし り狭くなっていたが、できるだけ目立つよ「やだ、いいわよそんなの」 てるぞー う、大きめの字で、しつかりと書き足す。 「よくないですよ。急いで帰るのだって、力「そうですよ。桐谷さんがいない間、署長と ーー来森久江を、絶対に信用してはならなレシですかって冷やかしてたし。ほんと最低捜査書類を見直したんです。室内と庭の足 だなって。桐谷さんの置かれている状況も知跡、部屋の痕跡から、どう考えても第一一一者が らないでーー」 いたなんてありえないという結論に達しまし 「ストップ。ほら、そんな風に気を遣われるた。押収リストも確認しました。貴金属も現 から教えたくなかったんだってば。それよ金も手付かずです。強盗だなんて、桐谷さん 派出所に来た兄とあけぼの苑の所長に母をり、気にかかることがあるの。一緒に来て , までどうしちゃったんですか」 任せ、優香は大急ぎで森ヶ崎署に戻った。 優香は野村の腕を引っ張り、署長室へと入野村が困惑ぎみに一一 = ロう。 刑事部屋で書類作業をしていた野村が、優っていった。 「第三者じゃないとしたら ? 」 香の姿を見て立ち上がる。 「さきほどの萩尾弁護士の話で、柏原麻由子「なんだって ? 」 「お母さんは大丈夫でしたか ? 」 が犯人ではないということについてですが「確かに、強盗は考えにくい。だけど : : : 夫 の光治だったらワこ 「大丈夫よ。署長は ? 「署長室ですけど、あ、ちょっと待ってくだ「ああ」署長が鷹揚に片手を振った。「気に優香の言葉に、署長は苦い顔をした。 さいよ」 する必要はない。検事の指示があれば追加捜「何言ってんだ。光治のアリバイを確認した 立ち止まりもせず、そのまま署長室へと向査すればいいさ , のは、お前自身だろ ? 」 かう優香を、野村が慌てて追いかけて来る。 「いえ、実は、わたしも疑問を持ち始めたん「確かにそうです。だけど、もう一度確認し 「あの、桐谷さん、色々とすみませんでしです」 なおす必要があると思っています」 188
いかず、優香はロを引き結んだまま黙ってい 署長が優香たちを紹介すると、萩尾は名刺も ? 」 をそれぞれに渡してから、「さて早速ですが」「ええ。取り調べに入る前から、度々そういた。 「公平な状況で取り調べが行われたとは、と うことがありましたから」 と切り出した。 「まず驚きましたのは、柏原麻由子さんが当「ということは、いくら本人に権利を告げてても言えませんな」 番弁護士すら呼ばせてもらっていなかったとも、すぐに忘れてしまうことは予測できたは萩尾はダメ押しのように言い、手元の手帳 に目を落とした。 いう事実です。被疑者に、無料で当番弁護士ずですね。取り調べ開始前に権利告知はした 「さて、そうなると当然、被疑者の自供も鵜 を呼ぶ権利があるということは、知らせていとおっしゃいましたが、・それ以降も何度か伝 呑みにするわけにはいきません。被疑者にと えてくださったんでしようか」 ましたか ? 」 っては、権利告知をなされないまま取り調べ 「それは : : : 」 「もちろんです。取り調べを開始する前に、 優香と野村は目を合わせ、互いにロごもつをされたのと同じことです。不当な取り調べ ちゃんとご本人に伝えました」 こ 0 として断固抗議をーー」 優香は迷わすに答える。 「まあまあ、ちょっとお待ちください」 「黙秘権があるということも、併せてお伝え「なるほど。なさっていない」 署長がすかさず遮った。 メガネの奥の、萩尾の瞳が鋭くなる。 してありますー 「ですが、被疑者は当番弁護士を呼ばないと「このようなケースは我々も初めてで、正 野村が補足する。 「なるほど。桐谷さんと野村さんが、麻由子はっきり意思表小したんです。何度も伝える直、手探りで進めてきたような状態です。そ の中で、桐谷と野村は、誠意を尽くして取り さんの取り調べをなさっているということで必要はないはずですー 「取り調べが進んでいくにしたがって、麻由調べにあたってくれています。彼らは通常の したがー 子さんは困惑することなどあったでしよう。規定通り任務を遂行しただけで、不当ではあ 「はい」 「お一一人とも、麻由子さんの記憶障害についその時に当番弁護士を呼べることを再度伝えりません」 ては、当然お気づきでいらっしゃいますねていれば、喜んで頼んでいたかもしれません「ではお聞きします。どういう経緯で自白に 至ったのかを教えていただけますか ? 」 よ」 確かに、そうかもしれない。しかしもちろ「事件の状況を伝え、閤田の写真を見せまし 「もちろんですー 「色々なことを、忘れてしまったりすることん、被疑者の弁護士の前では認めるわけにもた。すると、思い出した、確かに自分がやっ 176
「暴力って言っても、殴ったり叩いたりする 「信じる、信じないで言えば : : : 麻由子さん「それは : ロごもる久江に、野村が「秘密は守りまような激しいものじゃなくて : : : 陰湿なもの のご主人は、信じておられないようですねー です。虐待って言った方が近いのかしら」 優香が言っと、久江は残念そうに目を伏せす。教えていただけませんかーと促した。 こ 0 「もしかして : : : 暴力のことをお聞きになり「例えば ? 「髪の毛を : : : 抜いたりとか」 たいの ? 「ええ、そのようですねー 「麻由子さんと光治さんの夫婦仲というの暴力という言葉に、優香と野村は同時に息優香はハッとした。 傷は残らないし、痛みも大きくはない。し は、実際のところ、どうだったんでしようをのんだ。 「光治さんは : : : 麻由子さんに暴力をふるつかし、精神的なダメ 1 ジは大きいだろう。気 に入らないことがあると麻由子の頭を押さえ 「どうって : : : そんな、よそ様のご家庭のこていたんですか ? 」 しかし、身体検査では痣や傷など一切なかつけ、ねちねちと毛髪を抜く光治を想像して とをとやかく・ : ・・・」 怖気が立った。 「大切なことなんです。介助しながらの生活ったはずだ。 は、大変なご苦労があるかと思いますが、そ久江は一瞬しまったという顔をしたが、優「あと、ロを押さえて息ができないようにし のあたりについて、光治さんが不満を漏らす香と野村の真剣さにほだされたように、ぼったりとか : : : お風呂に頭を沈めたりとか。何 日も食事を与えない、というのもあったよう ようなことはありませんでしたか ? 」 りぼつりと話し始めた。 人間の心を支配しようとする闇の存在。ので作・・社 税 ク新 分がれ道ー蔕 び 々 のを 7 戦躍 価 定 立ち向かってゆく歳、 ( その「選択」。 生未抱過 き来ち ~ てへな 鮮烈な青春ミステリー 191 ガラスの記憶
6 ( 承前 ) 優香が署長や野村とともに小会議室に出向くと、すでに萩尾正道 が待っていた。 四十路手前たと聞いているが、小太りで、頭髪が少々寂しく、実 際よりも老けて見える。しかし職業柄、年配に見られる方がクライ アントの信頼は得やすいだろう。 男を殺したのは : 秋吉理香子 ガラスの記憶 ・あらすじ・神奈川県森ヶ崎市の住宅で、閤田幹成という男が刺殺者の光治と結婚し、介助されている。捜査の中心を担っているのは された。閤田はニ十年前に銀座で起きた通り魔事件の犯人で、無期森ヶ崎署の刑事・桐谷優香と野村淳ニ。麻由子の記憶ははっきりし 懲役の判決を受けたが、半年前に仮釈放されていた。警察に「自分なかったが、閤田の殺害を認めたため、留置場に入れられた。光治 が殺した」と通報したのは、その家に住む主婦の柏原麻由子。通りのアリバイが確認され、単独犯である疑いが強まったことから、麻 魔事件で両親を失い、自らは現場から逃げる途中で交通事故に遭 0 由子は送検される。そんな麻由子のもとに、友人を名乗る米森久江 て、脳に重い後遺症を負った。のちに事故の加害者である元新聞記が訪ねてきた。久江はすぐに弁護士をつけるよう勧める ・私長編ミステリー き おく 地味なスーツに実直そうな風貌。これまで利益度外視で、たくさ んの弱者の味方になってきたと聞いている。噂で聞いている限り、 優香は萩尾に対して悪い印象を持っておらず、むしろこの世知辛い 時代に正義を貫いている存在として好ましく思ってもいた。 しかしこうして対峙するとなれば、そうも言ってられない。優香 は硬い表情をつくって、萩尾の向かいに腰かけた。 「署長の山口です。こちらは刑事課の桐谷と野村。この一一人が、被 疑者の取り調べを担当しております」 あきよし agoera 日画 か 174
署長はロをあんぐり開け、優香と野村は顔をしなければなりませんからね , れたと主張して、正当防衛を狙ってくるかも を見合わせる。 立ち上がる萩尾を、優香は驚きの目で見しれないとは考えていたんだが」 こ 0 「ということは、萩尾さんはつまりーーー・ 「署長は、有り得ると思いますか ? 「ええ。今後は常にこちらで待機して、目を準抗告とは、裁判所に勾留の取り消しを請優香が聞く。 光らせておくつもりですー 求するものである。よほどの事由がない限り「何がだ」 取り調べに同席できなくとも署内におり、通ることはないが、認められれば即時釈放に「強盗ですよ、 いつでもアドバイスを求めてよいとなれば、 なる。 うーん、と署長が腕組みをし、背もたれに 刑事にとってかなりの牽制となる。それを狙この弁護士は本気だ。 身をあずけた。 ってのことだ。 駆け引きとして無実を主張しているのでは「そりゃあ可能性はゼロではないが : : ・・限り 「 : : : わかりました。そのように徹底しまなく、心から麻由子の無実を信じ、不起訴をなくゼロに近いよ、 勝ち取るつもりなのだ。 「僕もそう思います。閤田が来訪していた時 署長は言い、優香と野村を見た。署長が許手ごわい事件になってきた。 に、たまたま強盗が入るなんて」 可をしたのであれば仕方がない。一一人も頷い 萩尾がドアの外に出るのを待って、優香は「でも、誰かがいた気がするって、麻由子が た。この駆け引きは、萩尾の勝ちだ。萩尾が重いため息をついた。 言いだしたんでしよう ? 事実だったら大変 満足げな微笑を浮かべる。 なことになりますよー 「ところで、今日は取り調べの予定は ? 」 三人で署長室に戻ると、野村が真っ先にロ「それこそ萩尾弁護士の誘導があったかもし 「ありません。検察庁で、簡易鑑定がありまを開いた。 れん。信頼性は低い」 すので」 ' 「準抗告とは、驚きました」 意見を交わしていると、署長室のドアがノ 「そうですか、簡易鑑定なら麻由子さんの不「通るとは思わんがな。ただ、検察に対するツクされ、同僚が入ってきた。 利になることはないでしようね。責任能力に決意表明にはなる」 「桐谷さん、電話が入ってるけど」 関しても訴訟能力に関しても、当職は争うつ疲れ果てたように、署長がゆるゆると椅子「え ? わたしに ? 」 もりはありませんので。では本日のところはに腰を下ろす。 「ここに繋いでもらえ」 帰ります。早速、裁判所に準抗告の申し立て「それにしても、不起訴とはな。閤田に襲わ署長の言葉に甘え、署長室で電話を取っ
つばを飲み込んだ。 かなり長い間、光治は麻由子から離婚されると思います」 虐待と暴一言を証明することはできない。 ることを予感していたということになる。 野村の返答に、案の定、光治は安堵した表 しかし麻由子は離婚したがっており、光ということは、虐待はその頃からか。それ情になった。 治が応じようとしなかったことは、これで証とも、もっと前からなのか。 「ただ : : : 我々としても少々困ったことにな 明できる。つまり、光治が語った「仲睦まじ光治に守られて慈しまれていると思われてっていましてね」 い夫婦」という嘘を、客観的に崩せるのだ。 いたあの邸宅は、麻由子にとって檻であり監わざと優香が眉を寄せると、光治は神経質 突破口を見つけたーーー 獄だったのだーーー そうに身を乗り出す。 優香は、汗ばんだ手のひらを握りしめた。 光治を呼び出したころには、午後も遅い時「なんです ? 間になっていた。 「検察官は、麻由子さんの殺意と計画を示す 優香と野村は、早速森ヶ崎市役所へ出向い 「昼間は失礼しました」会議室に入るなり、物証がないと、犯人だと決めつけるべきでは 光治が言った。「麻由子に会えなかったものないと考えているようなんです」 光治が提出した不受理申出書の原本を確認で、慌ててしまって」 光治の頬が、びくっと引きつった。優香は し、複写を取っておく。また、麻由子によっ 「いえいえ、こちらこそタクシーが来たものさらに揺さぶりをかける。 て離婚届が提出されたが不受理になり、そので、途中になってしまって。お電話は、萩尾「このまま起訴となっても、麻由子さんの症 通知を光治本人に郵送したという記録も残っ弁護士からだったようですね」 状を考慮しますと、やはり現物がない限り裁 ていた。 「ええ、そうなんです。妻が弁護士を頼んだ判員を納得させられないのではないかと。な 「一連のことを知ったことは、まだ光治にはなんて驚きましたよ。準抗告だの不起訴だのにぶん、ご主人からの伝聞のみですので」 一一一一口わないでおきましよう」 。しかも強盗がいた可能性もあるだ優香は、屈託のない表情を取り繕って、ま 優香が一一一一口うと、野村もうなずいた なんて、まったく、萩尾弁護士の説はめちゃっすぐ光治を見つめる。 「そうですね。こちらが疑い始めたことは悟くちやですよー られない方がいい。麻由子の容疑を固めたい 言いながら、こちらの反応を窺っているの がわかる。 というロ実で、もっと聞き出しましよう」 不受理の届け出は、一五年も前だった。 「そうですね、成立するにはかなり無理があ 一」 0 秋吉理香子 憶 1 三ロ の ス ラ 庫 ガ 文 葉 定価 本体 611 円 + 税双 9
ですー わたし、麻由子ちゃんに駆け寄ったんです。所の提出にも付き添いました。もう一人の証 なんということだ。 麻由子ちゃん、ぼんやりとソフアに座ってま人には、市役所で見かけた人を捉まえてお願 傷跡を一切残さずに、虐待はできるのだした。大丈夫 ? って聞いたら、いつもこんいして」 ーー優香は自分の浅はかさを呪った。 なことをされるって泣き出してー 野村が、慌てて捜査資料のフォルダをめく 「久江さんは、それらの行為をご覧になった「いつも ? じゃあ記憶はあったんですかっている。やっと該当ページを見つけたの んですか ? 」 か、すかさず口をはさんだ。 野村が、冷静に聞く。 「虐待されたことで、それまでの虐待のこと「でも、おかしいです。我々は麻由子さんの 「はい。あの、以前、おうちに突然お邪魔しも思い出したのかもしれません。たまにそう戸籍を確認しています。確かに光治さんと婚 たことがあるんです。わたしがお手洗いに入いうことがあります。その時に、色々な仕打姻関係にあり、離婚の事実は記載されていま っている間にご主人が帰っていらして、でもちを教えてくれました。ただ、十五分もするせんが」、 麻由子さんはわたしがいることを忘れて、一一と、そういう話をしていたことすら忘れてしそうだ。同居しているのに離婚していると 人でリビングでテレビを見始めました。だかまいましたが なれば、優香たちも引っかかったはずであ る。 らわたし、こっそり帰ろうと思ったんです「そうだったんですか : : : 」 が、玄関から出る前に、ものすごい怒鳴り声日常的に虐待、暴言があったと考えてもい 「ええ、ですから、受理してもらえなかった が聞こえてきて。もう、聞くに堪えないよ , ついだろう。 んです。ご主人が、市役所に不受理申出をし な、下品な罵り声でした。そっと覗いてみた「警察に通報は ? ていらして」 ら、ご主人が麻由子ちゃんの顔をクッション「迷ったんですが、やめました。傷一つない 不受理申出とは、もし相手が離婚届を出し ってことは証拠もないので。でもその代わても、自分には離婚の意思がないから受理し で押さえながら怒鳴っていて」 その時のことを思い出したかのように、久り、麻由子ちゃんは離婚する決意を固めて、ないでほしい、とあらかじめ役所に伝えてお くものである。 江は身を震わせた。 届けを出したんです , 「わたし、出て行って止めようとしたんで「ちょっと待ってください優香が遮る。 「不受理申出していたのなら、記録に残って す。でもちょうどその時、ご主人の携帯に電「麻由子さんが離婚届を提出したんですか ? ー いるはずですねー 話が入って。そのまま再び外出されたので、 「ええ。わたし、証人になりましたし、市役興奮気味に、野村が一言う。優香もごくりと
たと言ったんです , 「柏原さんに限りませんが、記憶に障害をお誘導ではなく、示唆という一言葉を署長が強 持ちの方の特徴の一つとして、抜けた記憶を調する。 優香が答え、 「誘導は一切ありませんでした。あくまでも取り繕うことがあります。つまり、意識せず「そうですか。ではあくまでもあなた方は、 に作り話をしてしまうのです。柏原さんは、麻由子さんが閤田を殺したと思われるわけで 客観的事実を述べただけです」 取調室という異質な空間に連れてこられ、刑すね ? 。 と野村も強調する。 「そうですか、事件の状況を、客観的にね。事ふたりの前に座らされる。そして事件の話「そのとおりですー では同様に、無罪の可能性もあるということを聞かされ、写真を見せられれば、つじつま「確認ですが、柏原さんが殺害している場面 は伝えましたか ? の合うように勝手に記憶を作り上げてしまつを、あなた方は目撃したのですか ? ー : いいえ」 ても不思議ではありません」 黙りこむ優香と野村に、萩尾は続けた。 「被疑者宅には死体があった、そして被疑者「しかし麻由子さんは、死ぬ前に閤田が許し署長が首を横に振った。 がナイフを持って立っていたという説明はしてくれと哀願していたことまで話したんです「その他の方で、殺害を目撃した人は ? 「近隣に聞き込みを行いましたが、見つかり よ ? そして自ら署名をしたいとーー」 た。しかしそれなら同時に、殺してはいない 可能性も残っているということも伝えておく「ですから、偽物の記憶を植え付けられた上ませんでした。それに、現場は住宅の中でし に、追い詰められたからでしよう。強引かったし」 べきではありませんか ? そうでなければ、 再び署長が答える。 とてもじゃないが客観的な事実などとは言え不当な捜査です」 「そう、誰も麻由子さんが閤田を殺したとこ ない。警察に都合のいい事実というだけで「そんなバカなーー , 激昂しそうな野村を片手で制しながら、署ろを見ていないのです。凶器を持っていただ す」 け。衣服、そして爪の間に被害者の血液が付 長はきつばりと言った。 「しかしーー」 憶 一三ロ 「本人は何が起こったか覚えていない。そこ「確かに、示唆をしたと誤解される部分はあ着していたというだけです の ス に犯罪の証拠と思われる事実ばかりを並べ立ったかもしれません。しかし自白を強要する「しかし本人から通報がーーー ラ 「ですから、それだって抜けた記憶を作りあガ ( ど強引ではありませんでした。したがっ てることは、誘導と同じですよ . 「ちょっと待ってください。誘導だなんてて、被疑者の自白は信頼性があると考えていげてしまったゆえのことかもしれないでしょ う」 ます」
光治は、黙っている。ポーカーフェイスだいるかまでは確認していない。意識的に、光オリティを保つのは難しいだろう。確かに、 が、内心焦っているに違いない。なぜなら、治は仕事場の存在を隠していたと思える。 すべて麻由子本人によって書かれたもののよ そんなノートもメモも、存在しないのだからつまりそれは、現物を隠しておきたかったうだ。 からではないか ? しかしそうだとしたら、 野村も同じことを考えていたのだろう。戸 「わかりました」 なぜ今になって提出してくるのだろうか。 惑いを露わにした目で優香を見た。 しかし光は、につこり笑った。 それとも優香が光治を疑っているから不自ノートは実在したのだ。 「ちょうど良かったです。今日、現物を持っ然に思えるだけで、実際にたまたま仕事場で光治の作り話ではなかった てきました」 見つかっただけなのかーーー 「これで妻の殺意、動機、計画性は証明でき 状況を判断しかねている優香の目の前で、ますよね ? 」 光治がバックパックのジッパーを開ける。光治はバックパックの中からノートを机の上「ええ : : : そうですね」 「でも、ずっと見つからないってーー」 に積み重ねていく。手帳やルーズリーフ、力あれほど探し回っていたノートやメモ。麻 「ええ。僕の仕事場に紛れていたんです」 レンダーの裏なども交じっていた。 由子犯人説を決定的に裏付けるものだ。 「仕事場 ? 「見てよろしいですか ? 」 閤田との手紙や電話のやり取りの内容や、 初耳だ。 「ええ、どうぞ。お預けしますよ 体のどこを刺せば致命傷になるかなど、驚く 「小さなアパートですがね。家じゃなんとな光治が、紙の山をこちら側に寄せてくる。 ほど綿密に記されている。しかも事件前日の く落ち着いて執筆できないから、借りてるん優香と野村で、片っ端からノートを開いて日記には、次の日に光治が朝から出かけるこ ですよー いった。大半は最初の数ベージで終わっていと、秘密裏に閤田を呼んであること、必ず仇 「 : : : そんなお話は、これまで一度も」 たが、中には最後の方まで記入されているもを討っとはっきりと書かれていた。 「そうでしたつけ ? 家が封鎖されてから、のもあった。 芽生えかけていた光治への疑いが、ぐらっ そちらに寝泊まりしてますよ」 鑑識に分析してもらってからの判断にはなく。 ほんの数日前、優香にはビジネスホテルにるが、これまで何度か目にした麻由子自身にやはり閤田を殺したのは、麻由子なのか 宿泊しているといっていた。容疑者ではなかよる筆跡と同じに見える。分量からして、光 ったから、実際にそのホテルに寝泊まりして治が筆跡をまねて書いたとしても、一定のク ( つづく ) 194
思いつめた口調の優香に、署長はやれやれ「我々の捜査に有利な情報ということは、麻「いやしかし、そんなことのために、わざわ と首を振り、再び椅子に座った。 由子にとって当然ながら不利なものです。どざ閤田を殺して麻由子に罪を着せたと ? 」 うして光治は、そんなことをするんでしよそんなこと、ではない。 「考えてること、全部話してみろ」 「麻由子自身が通報し、凶器を持ち、血まみう。まるで麻由子を犯人に仕立てあげたいよきっとそこには、深い闇があった。 普通の生活をしている者が決して触れるこ れでいたことから、他に共犯者がいた可能性うに思えます はあれど、麻由子自身の犯行だという点に関「一一一口いたいことはわかった。しかし光治に動とのない、絶え間なく悪臭を放つ、ヘドロの しては、誰も疑いを持っていませんでした。機はない。麻由子のために復讐を遂げたってような闇が。 だから逮捕後の我々の捜査は、その裏付けをいうつもりか ? だとしたら、麻由子を犯人なぜ長年連れ添った配偶者を介護の果てに 殺してしまうのか、なぜ心中という結果にな ( 何 , っことが山・、心でした。 にしたがることと矛盾するぞ」 その中で、麻由子に強い殺意があったこと「復讐とか、恨みとか、そんなことは関係なってしまうのか、そうなる前に何かできなか ったのかーー・介護殺人や心中がニュースで流 や周到な殺害計画があったことも判明しましいのかもしれません」 れるたびに、世間はそう一言う。介護生活の凄 「ど , つい , っことだ ? 」 たが、全て光治からの伝聞にすぎませを 野村が、息をつめて優香の話に聞き入って「麻由子との結婚生活に疲れ切っていたとし絶さは、経験した者でないとわからないの たらどうでしよう。つまり麻由子が殺人犯とだ。 「光治は、最初から捜査に非常に協力的でしして服役することを、望んでいるとしたら介護の生活に疲れ果て、相手が消えてくれ れよ、、、 死んでくれればいいとまで願って た。麻由子の犯行を裏付けるために必要な殺 ? 」 害動機や計画について、情報を提供してくれ「厄介払いってことか ? そりゃあ無理があしまう。 ました。だからこそ、麻由子本人には記憶障るだろうな。こんな大変なことをしでかさな優香には、その気持ちがわかる。わかりた 憶 害があるにかかわらず、ここまで比較的スムくても、施設に入れればいいだけの話じゃなくないのに、痛いほどわかってしまう。あの 一三ロ まま母と暮らし続けていたら、自分だってどス ーズに捜査は進んだんです。しかしー いか」 ガ ここで優香はいったん言葉を切り、署長と「確かにそうですが、自分のせいで障害を負うなっていたかわからない。 野村の反応を見る。一一人が真剣に耳を傾けてわせたうえ、追い払うようなことはできなかあの時の優香は追い詰められ、母が死んで くれたらと願うことが何度もあった。徘徊騒 ったんじゃないでしようか」 くれているのを確認して、先をつづけた。