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検索対象: 小説新潮 2017年1月号
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1. 小説新潮 2017年1月号

・ 4 っ・つー 「嫌よ。家でこれだけ聴かされてるのに、わざわざ劇場にま で足を運ぶなんて」 そんな会話が行われて一ヶ月ほど経った時である。 私宛に、或るテレビ局から封書が届いた。開けてみたら、 『青春のフォークソング』という番組の公開放送の整理券だ った。抽選に当たったらしいが、自分は応募していない。妻 に訊いたが、知らないという。 「きっと由紀よ。あなたが家にいてテレビにばかりかじりつ いてるから、あなたの代わりに応募したのよ」 その夜、帰宅した由紀に訊いたら、果たして彼女が勝手に 応募したのだった。 「へーえ、まさか抽選に当たると思わなかったよ。私、籤運 悪いから」 一枚の整理券で、ふたりが人場できることが分かった。 「一緒に行こうか」私は妻を誘った。 「いっ ? 」 私は日付と時間を妻に教えた。 「その日は駄目。千賀子さんと里美さんとタ飯食べることに なってるから」 「そんな話、聞いてないよ」 「ごめん。言うの忘れてた。でも、ちょうどいいじゃない。 懐かしいフォークを聴いて、外で食事してきてよ。ゆっくり してきていいよ、私も遅くなるから」 先約があるのならしかたがないが、ひとりで行くのが何と なく嫌だった。気軽に誘える女友だちでもいればいいのだ が、そんな人間がいるはずもなかった。 「山村さんを誘ったら」妻が言った。 「初老の男、ふたりで行くのか」 「いいじゃない。彼、大学の時、軽音楽部だったんでしょ う ? 」 しかたがない。そうするか。私は山村に電話をした。だ が、即座に断られてしまった。その日は、孫の誕生会だとい せつかく娘が応募してくれたのだ。私はひとりで出かける ことにした。 公開放送は、午後六時半から、局内のスタジオで行われ るという。私は、電車を乗り継いで赤坂に向かった。局は 赤坂にあるのだ。 出かける前、服を選んだ。ネイビープルーのプレザ 1 にチ ェックのシャツ。ズボンは白っぽいコットン。ハンツにした。 普段、外出する時は、着ていくものには無頓着である。父 親の施設に行くのに、あれこれ考える必要などないではない か。働いていた時は、オフの日の服装にもそれなりに気を使 っていたのだが。 最初は乗り気ではなかった私だったが、その日になった ら、ちょっと張り切っている自分に気づいた。テレビに映る

2. 小説新潮 2017年1月号

「そよかちゃん、覚えてる ? 幼馴染の」らしをすることも、夫と違って桃枝は反対にフォークを突き刺した。 「あー、小島さんとこのお嬢さん ? 」 しなかった。自分の母が厳しい人だったの 「そう。去年、偶然会って、最近また遊ぶで自分はそうはなるまいと思っていた。だ娘が温泉へ行った日、夫から定時で帰っ ようになったんだ」 けどこれで本当によかったのだろうかと今てくるとメールが入ったのでしぶしぶ台所 「あらそう」 になって思う。 に立った。 「でね、来週、そよかちゃんと温泉行こう 娘の気をひきたくて、嫌われたくなく 夫がインターネットで探してきた、具材 って話になって」 て、すがっているだけなのではないだろう が切ってあり、炒めるか煮るかするだけの そこで娘は一拍呼吸をおいて不自然に目か。娘におもねって迎合しているだけなの総菜キットは、メニューを考えて買い物に をそらした。桃枝はそれに気が付かないふか。だから実の娘なのに距離があるのか。 行って下ごしらえして、という手間がな りをする。 医者は娘が桃枝に甘えたいようなことを言 い。それなのにちゃんと料理をした気にな 「温泉いいわねー、どこの ? 」 ったが、やはり逆なのではないだろうか。 るので最初は感動した。けれど続けて食べ 「那須のほう」 「ママってさ」 ているとメニューも味も画一的で飽きてし 「あら素敵ねー」 「うん ? 」 まった。何も言わないが夫もきっとそう思 男の子と行くんだな、と桃枝は直感し「結婚するときに」 っているだろう。かと言って以前のように た。なにがそういえばだ。一一一口うきっかけを 言葉を止める。今度は娘が正面から桃枝一から料理をするエネルギーも体力もな さっきから探っていたんだなと思った。 の目をじっと見ている。何を言われるのかい。 「いいじゃない、行ってきなさいよ」 にわかに緊張した。 「都は仕事か ? 」 娘はほっとしたような笑顔を見せた。今 「結婚するときに迷った ? 」 向かい合ってダイニングテープルに座 までだって何か反対したことなどないの 桃枝は問われたことを考える。 り、テレビを横目に食事をしていると夫が に、何が不安なのだろうと桃枝は首を傾げ「迷う ? 」 一一一口った。 「この人でいいのかとか」 「お友達と温泉旅行だって」 桃枝はものわかりのいい母親だった。娘「別に迷わなかったよ」 びくりと夫の瞼が震える。 が何かしようとして頭から反対したことな「そう」 ( 男だな ) ど一度もない。高卒で働くことも、一人暮がっかりしたように、都はケーキの残り ( 男ですよね ) 304

3. 小説新潮 2017年1月号

力を尽くそうと努力するだろう。 今のサハリンは、資源など必要な部分をチョイスし、そ の旨味だけを抽出しようという合理的な戦略の元で動かさ れているように見えた。旨味以外の部分は放置され、荒れ るがままにし、リスクの回避に全力を尽くしているという よりは、大局観にもとづいた取捨選択が行われているよう な感じだ。遠い末来のリスクを重要視して行動するより も、現在と直近の未来を重視する型の思考が、その風景の 中に透けて見えるような気がしたのだ。これはこれで、適 応的な戦略の一つだろうとは思う。 だがここでもし、日本的な戦略をとったらどうなるだろ う、という思考実験をしてみるのは面白い試みだろう。日 本人は、不安遺伝子と俗に言われる、不安傾向を高くする 遺伝子を持った人の割合が世界一多いことがわかってい そんな日本人ならリスクをより高く見積もり、その分析 を緻密にし、合理的に大まかに回避するよりも、一つ一つ 根本原因から消していこうと足掻いてしまうのではない か。そんな風に考えたくなってしまうというのは、まあ身 びいき過ぎるかもしれないが、不安を重視することによっ て、この災害の多い日本という土地で、工夫して生き延 び、発展してきたのが私たち日本人であったということは 否定できない歴史だ。 学術的に検証するのなら、日本統治時代の南樺太の様子 をきちんと調べなければならないが、ざっくりと思考だけ が先走って行ってしまうのは私の良くないところかもしれ ない ( 良いところかもしれない ) 。 豊原と呼ばれていた時代は、今と違ったのか。違ったと すれば、どこがどう違ったのか。 当時の様子を想像するのに、これが適切かどうかはわ からないが、宮沢賢治は、樺太を旅したときの記憶をモ チーフに『銀河鉄道の夜』を書いたといわれている。当 時の樺太鉄道の終点の栄浜が「白鳥の停車場」、そこか ら歩いていくことのできる栄浜海岸が、ジョバンニとカ ム。ハネル一フが歩いていく「プリオシン海岸」だというの 。こ 0 もちろん、美しく描かれた小説の話をそのまま現実に当 てはめるのは飛躍がすぎるだろう。だがすくなくとも、荒 んだ土地、という私が受けたような印象を賢治が持ってい たようには思われない。これは、詩人としてその土地を美 しく捉えようとする宮沢賢治の才能なのか、それとも、当 時は本当に美しい、神秘の土地だったのか。 こんなことを考えていると、また船に乗ってあの島へ行 きたくなってしまう。 166

4. 小説新潮 2017年1月号

低見矢 いか部 わけさ まは一ね通ん り 00 お友達 し」かししな、ら ? ・ 話の流れで僕は大家さんと一緒に旅行へ行くことに ! それを聞いた相方は 太 ( 大家さんのお部屋で 欠は 松島素敵ですよね 部お茶をしながら血圧を この前行った時も 矢測っていた時のことです よかったわ でもも , フ 旅行は無理ね 一人では お友達ねえ ほほ : ・笑い話が あってね めまいがして 駅長室で横にならせて もらったんです 先週同級生のお友達と 駅で待ち合わせた のですが あの これ仕事で : お土産です 行かれたん ですか ? おあいこねって そしたらお友達も 体調悪くて 駅まで辿り着け なかったらしいの 大家さんといると 時空が歪みます この前って 国鉄時代ですか ? たしか・ 国鉄最後の年 だったから : 笑いづらい

5. 小説新潮 2017年1月号

るみたいだし、休みは家にいるし。また走るとか、勘弁してよ」 ていて、「あの中武君がしつかりお父さん になってるんだ」と感動したり、「そうそ り始めたのかと思いきや、さほど体はしま おふくろは本当に心配しているようだ。 ってないしね」 子どもってそうなんだよね」と共感し まったく、実の親のくせに何を言ってるんう、 たりした。 「はりきってなんかいねえけど」 だ。少々まともに生活を送ったところで、 「あんた、気づいてる ? さっき、フライ母親の不安すら消せやしないとは。俺はそ「そうだ ! 夏だしさ、鈴香ちゃんになに かプレゼント買いに行こう」 ーって言ってたんなに悪かったのだろうか。 。ハン揺すりながらジュジュ 鈴香のことをひととおり聞くと、おふく 「バイトしてんだよ」 わよ」 ろはそう提案した。 「マジかよ」 「バイトって、なんの ? 」 「なんのって、こともねえんだけど」 「なんで、夏にプレゼントすんだよ」 「ものすごく不気味だった」 「夏休みって、そういうもんじゃない おふくろはそう言いながら、俺が作った 「はっきり言えないようなおかしな仕事し の ? 」 てるんじゃないでしようね」 豆腐ドリアを口に人れた。 「そういうもんじゃねえよ。誕生日でもね 「なに、このふんわりしたソースにほのか「まさか。まあ、なんつうかさ」 な味」 あまりのしつこさに俺がしぶしぶ・ハイトえのに、物与えるなんて、よくねえだろ」 「うまいだろ ? 」 の詳細を話すと、驚いたおふくろは「恐ろ「なに、まともぶってんのよ。なにも悪い ことしてないのに、一番大好きな母親と会 「確かに。。ハンチはないけど、全くくどくしい ! 」と絶叫し、「そんな怖いことよく 引き受けたわね。大事なお子さんになにかえないのよ。しかも、あんたみたいなガ一フ ないし、味も食感も柔らかい」 の悪いのに毎日付き合わされてさ。少々甘 「豆腐と味噌とじゃがいもでソースを作っあったらどうするの」と震え上がった。 たんだ」 そのくせ、俺しか頼める人がいない先輩やかしてあげたっていいじゃない」 おふくろはわけのわからない理屈を堂々る 「この味、味噌だったんだ。しみじみとおの状況を説明すると、「あんたはできた息 いしいわ。で ? 何事 ? こんな体に優し子だ。人を助けてこそなんぼだね」と目頭と言うと、「料理なんて夜に作れば ? さら を そうな料理作ったりして、問題が起きる前を押さえ、「それなら我が家で預かってああ、早く行こう」と勝手にショッピングモ げよう」と出過ぎたことを言いだした。俺ール行きを決定してしまった。 触れじゃないわよね ? 」 昔からどこかおおざっぱで、大胆なおふ 「んなわけねえだろ」 が説得しそれは何とかあきらめたものの、 「この穏やかさは妙よ。近々警察に呼ばれその後も鈴香の様子をおもしろそうに聞いくろだ。一度決めてしまうと、行動に移さ なかたけ

6. 小説新潮 2017年1月号

俺んちみたいに酒飲んでやりたい放題の父子から立ち上がった。 飽きるだろう。それに、小さいころにいろ 親に自分勝手な母親じゃなくても、家出た 「まだだよ。準備してからだ」 んな味を知っておいたほうがいい気がす くなることもあるんだな」 先輩がそう言うのに、もう鈴香は玄関へる。薄味でおいしいもの。バランスよく食 奥さんがきちんと育てられた人だという向かっている。さっきまで早く食わせろと材が入れられるもの。野菜たつぶりの肉じ のは、この何日かでわかった。事細かにきうるさく言っていたラ 1 メンにも、見向きやがにうどんを人れて煮たものや、豆腐で れいな字で書かれた鈴香のノート。病院かもしない。 作ったクリームソースを鮭のピラフにかけ らくれる電話は一一一一口葉遣いが丁寧で耳触りが「いや : : ・、俺は帰ります」 たドリアなどを試作しては味見している と、おふくろが、 いい。俺や先輩とは違ったところで生活し俺の出る幕じゃない。奥さんが書いてく てきた人だということに、どこかうらやまれたノートもあるし、電話でだって話せ 「あんた、どうしちゃったの ? 」 しさを感じていた。だけど、どんな暮らしる。鈴香が何よりも楽しみにしている時間 と台所に入って来た。 でも、いいことばかりなわけはないのだろを、少しだって削ってはいけない。 「なにがだよ」 うか。親といるだけで息が詰まるなんて、 「そっか ? 嫁さんも喜ぶと思うけど」 俺は家でもよく料理をするから、台所に 俺には想像ができなかった。 「いや、昼からやることあるんで」 いるのは不思議なことではないはずだ。俺 「なあんだ。じゃあ、しゃあねえか。こ 「ま、俺と結婚して完全に家と切れたよう がふてぶてしく答えると、おふくろは、 だけどな」 ら、鈴香、待てって」 「なにがって、なにもかもよ」 先輩はヘらへらと笑うと、 鈴香が先輩をせかすのに、俺は残りのラ と顔をしかめた。 ーメンを急いでたいらげた。 「そうだ、昼から嫁さんの見舞い行くけ おふくろは、土日以外は毎日朝七時半に ど、大田も来いよ」 は出勤し夜九時過ぎまで仕事をしているか 8 と俺に言った。 ら、俺とはほとんど顔を合わせない。どう 病院は好きじゃないけど、奥さんに鈴香 したも何も、俺の動向など知らないはず のことを話しておきたいし、聞いておきた 三連休に人ると、俺は料理にいそしんだ。 いこともある。行っておこうかなと俺が考だ。鈴香の昼ご飯になりそうなものをいく「なにもかもって ? 」 えている横で、母親のところに行くと察知っか作ってみたかったのだ。チャーハンは「最近、妙にはりきってるからさ。彼女で した鈴香が「ぶんぶ」と声を弾ませて、椅何でも入れられるし簡単だけど、そのうちもできたのかと思えば、夜はさっさと寝て 幻 2

7. 小説新潮 2017年1月号

かな目覚めとはほど遠い。 薄目を開けたまま、動こうとしない私に焦れたのか、馬糞 のサイズは少し大きく、そして勢いも強くなった。 「金剛さん ! 起きて。もうドアの外で理事長が待ってる ああ、理事長に言われて、義務的に起こしているわけね。 このまま起床を渋っていると、理事長そ人が乗り込んで くることは、隣室の梨木朝子の例で実証済みである。 渋々半身を起こすと、すかさず「金剛さん、早く着替え て」とくる。 何様だよ、ほんと。 苗字を連呼されて、朝つばらからイ一フッとした。 私は自分の苗字が好きじゃない。ごっくて厳めしくて、ま るで山とか力士みたい。でなきや、石みたい。母からは、 『金剛石ってダイヤモンドのことよ、素敵な苗字じゃない』 と言われたけれど、その字面じゃ固いばっかりだよ : : : ダイ ャだけに。 その点、名前の方の〈真実〉は、字面は少々重いけど、音 だけ聞けば〈マミ〉なので、そこそこまあまあ可愛らしい。 だから人寮初日、桃花には言ったのだ。 『桃花ちゃんって呼んでいい ? 』 私のことはマミって呼んでねと続けるつもりが、露骨に顔 をしかめられた。 『え、いや : : : 綾部でいいよ』 初っ端からの、〈あなたとは仲良くなりたくありません〉 宣言にも等しいこの言葉に、『あら可愛い子』と少し浮かれ ていた私は冷水を浴びた気分だった。 こと対人関係に於いて、私のメンタルは豆腐のように脆 い。以降、人寮半月ほど経過した今に至るまで、互いにバリ ャーを張り合っているような日々だった。 お隣の部屋ではあっという間に打ち解けて、「朝子ち ゃん」「タ美ちゃん」と呼び合っているというのに。 桃花はさっさとドアに向かい、「先生、金剛さん、起きま した」と告げてそのまま出て行ってしまった。 どうせ私は不細工ですよ。だから漫画やアニメみたいに、 可愛子ちゃんたちがキャッキャうふふしてるみたいな展開に は、どうしたってなりませんよね、わかってます。 寝覚めが悪いとはこのことで、その日一日、苛々は続いて いた。ろくに眠れていなかったから、授業中、ついついうと うとしていたら、名指しで何度も注意を受けた。何でよ、他 にも寝てた人いるじゃないと、頭に来た。 理事長先生は目が合うと、訳知り顔に徴笑んでくる。昨夜 のことを思い出して、死にたくなった。今からでも、どうに かして亡き者にできないかと思う : : : 無理だけど。私がスー 。、ー脳外科医なら、ヤツの脳味噌をちょちょいといじくって 記憶を消してやりたい : : : 無理だけど。 ルームメイトは相変わらず素っ気ないし、朝子とタ美は相 変わらず仲良しだし、入寮半月目にして、何もかもが嫌にな 131 永遠のピエタ

8. 小説新潮 2017年1月号

手が震えないよう気をつけながら、グラスに少しずつシャ ン。ハンを注ぐ。スー。ハーで手に人るいちばん上等なものだっ たが、女房とふたりきりで飲んだことがない。義父に注いで もらったものをひとくち飲んでみる。辛口で旨い。やはり缶 チューハイとは違うーーー声に出しそうになり、慌ててオート プルをのぞき込むふりをした。 「たまにはお腹いつばい食べてちょうだい。紗弓もちゃんと 栄養摂らなくちゃ駄目よ。栄養不足で痩せて行く娘の姿なん て、お父さんに見せたくないもの」 紗弓は言い返さずにオードプルの皿から少しずっ取り皿に 料理を取り分けている。 妻の放言も長年聞いていると居心地が良くなってくるのか もしれない。ついつい、穏やかな義父の表情に隠された「居 場所」を探りそうになる。 妻に優しくできるのも、趣味を隠し通すという行為の贖罪 だとして いや、と目を伏せた。信好はひととき、この老いた夫婦を 救っているのは日常のさまざまなすれ違いではないかと思っ た。妻が好きな言葉を使い好きに振る舞うことが義父にとっ ての甲斐性なのだったらーーそれは負い目ではなく、横顔で にんまりと笑えるくらいの満足ではないか。 二杯目の酒を注ぎ合って、改めて彼の品良い指先を見る。 紗弓がこの世で最も尊敬している男の指に、軽い嫉妬を覚え ( 0 料理にひととおり口をつけたところで、ポトルが空いた。 義母がひとりひとりの顔をのぞき込みながら「お雑煮とケー キ、どっちがいい」と訊ねてくる。 「おとうさんも、飽食は今日までですからね」 義父の皿とグラスを諫めるような口調になった。紗弓が皿 と箸を置いた。 「おかあさん、今日までってどういう意味 ? 」 「おとうさん、松の内が明けたら胆のうの手術なの。本当は 油ものは駄目なのよ。ときどき旨いハンバーグが食べたいな んて言って、ものすごくわたしを困らせるんだから」 「本当なの ? 」 義父はとぼけた目をして浅く上下に首を振る。先日訪ねて くれたときのランチメニューが脳裏を横切ってゆく。 「紗弓に言うとまたいろいろ心配するからって、今日まで黙 ってたんだから。一年の計は元旦にありですよ、おとうさ ん。こういうことはちゃんと報せなきや駄目です」 紗弓の眉間がみるみる曇った。信好もどんな言葉を使えば いいのかわからず黙る。今まで飲んだシャン。ハンが逆流しそ うだ。入院するのは義母ではなく、義父だった。それも検査 人院ではなく手術なのだった。 病院はどこかと紗弓が訊ねた。信好に甘えるときとは違 う、看護師の口調になっている。紗弓が勤めていた市立病院み の名が出た。 「胆のうだけなの ? 」看護師が身内にする質問には、情け容刪

9. 小説新潮 2017年1月号

るのも、髪が薄くなるのも、精力減退も、病気ではないと。 4 あのときの、ふいに足元が崩れ谷底に滑り落ちたような感じと 同じだった。他人の無理解よりも、両腕で自分の体を抱きしめる しかない己の無力さに絶望した。 更年期障害は病気ではない。 五十の声を聞いて、ひびの人った器からじわじわと水が染み出 病気ではないはずの更年期障害は、長引いている。 すように体調が悪くなっていった。様々な病院を漂流したのち更 桃枝も女性として多少の知識を持っているつもりだった。重い 年期障害だと診断されたその数日後、夫はそう言った。 慰めるつもりで言ったのかもしれない。これは老化に伴う自然人も軽い人もいて、ほとんど症状のない人もいる。一、二年で収 まる人もいれば、十年以上続く人もいる。 な症状であるから病気というものとは違うのだと、インターネッ 自分はもしかしたら、十年以上の不運の籤を引いてしまったの トで調べたらしい記事を得々と読み上げた。だからあまり気負う かもしれない。持っていたと思っていた知識などゼロに近く、何 な、と笑みを浮かべた。 の役にも立たなかった。 今ではもう、彼が妻の体調不良を「病気ではない」と思ってい ないのはわかる。 いっ終わるのか。 夫の顔にも娘の顔にも、いつもそう書いてある。 けれど桃枝はその言葉が忘れられないでいた。 桃枝自身もいっ終わるのかと毎日のように思う。一生続くわけ 若いときにほんの短期間、勤めていたことがあった。ひと月に ではあるまいと自分に言い聞かせるが、更年期障害に伴って発症 一日、生理休暇が認められていると人社時に説明を受けたので、 した鬱が、そのまま老年性の鬱まで地続きになった例を雑誌で読 腰の痛みで歩くのもやっとというほど症状の重い桃枝は思い切っ んで背筋が凍った。 て男性上司に申告し、休ませてもらったことがあった。その翌 日、女性の先輩にひどく叱られた。みんな我慢して出勤している 具合がいいように感じる時もある。遠くにぼっちり出口の光が のに、新人のあなたが簡単に休んでいいわけがない、それに生理見えてあと少しだと安堵して、でも翌週には最悪の体調で起き上す 公 がれないということを何度も何度も繰り返している。 痛は病気じゃないでしようと。 ら 簡単な家事ですらろくにできない。もし仕事を持っていたら、 沢山の言いたいことを飲み込んで、桃枝は謝った。 し 転 きっと勤め続けることなど出来なかっただろう。 トイレに飛び込んで溢れる涙を拳で拭いた。早く泣き終わらな 働いていなくてよかったと思う。思ったすぐあとで、いや仕事 くてはと思って、深呼吸しながら指折り数えた。 があって自分で稼いでいたらどんなによかっただろうと思い直四 肩こりも、眼精疲労も、二日酔いも、指のさかむけも、足がっ ももえ

10. 小説新潮 2017年1月号

ても、いいだろう だろう。けれど、俺みたいなやっと二人でしいことなど何もない。 「ぼーい」 食べなきゃいけないんだ。食べずにはいら干からびた人参を細かく切っていると、 豆をつまむ小さな指。その指先を見つめれないくらいおいしいものじゃない限り、 豆を炒めるのに飽きたのか、鈴香がおもち るころころ表情が変わる顔。鈴香の姿はおロは開かないのかもしれない。そう思うやのフライ。ハンを持って横にやって来た。 「ぶんぶー」 もしろくて、ついつい目で追ってしまう。 と、どの商品にも手が伸びなかった。 「なんだ、お前も一緒にやるか ? 」 今まで子どもが好きだなんて一度も思った「おい、マジかよ。しけすぎじゃねえ」 「ぶんぶー」 ことはないけれど、小さなものは単純にか冷蔵庫を開けた俺はがくりと来た。 わいい。いつまで見ていても飽きなさそう野菜もなければ、ハムやソーセージすら「じゃあ、お前はこれを炒めてくれ」 入っていない。長い間不在にするにして俺は人参の皮を鈴香のフライ。ハンの中に だ。でも、今日はやることがある。 も、常備してるものってあるだろう。奥さ人れてやった。 「よし、俺もそろそろ動くとすっか」 「ぶんぶ」 鈴香がまたフライ。ハンを振りはじめるのんは料理が本当に苦手なようだ。 かろうじて人っているのは、卵と賞味期鈴香は台所の床にちょこんと座って、人 を眺めると、俺は台所で本物のフライ。ハン を出した。 限ぎりぎりのちくわに、ひからびた人参の参の皮を珍しそうにしげしげと眺め始め 昨日スー。ハーで大豆と小豆を買うついでかけら。冷凍庫に凍らせたご飯だけは山ほた。ひらひらと薄い皮はまた豆とは違った に、幼児食のコーナーも覗いてみた。奥さどある。これはチャーハンしかないな。奥おもしろさがあるようで、夢中で触ってい る。新しいものを見ると、瞬時に目を輝か んがそろえてくれたものと同じようなレト さんが書いた鈴香ノートで確認をすると、 ルト商品がたくさん並んでいたから、何か食べてはいけないものは、この中になさそせて、すぐさま飛びつく。まだ知らないも 違う物を買おうと見比べた。けれど、どのうだ。材料は乏しいけど、おいしい昼飯をのだらけの鈴香には、胸を弾ませてくれる ものがそこら中にあるようだ。 。ハッケージにも、体にいいとか、食べやす作ってやるとするか。 いとか、簡単調理とか書いてはあるもの不似合いだと笑われるけど、俺は昔から「はい追加けこれも頼むわ」 ら の、おいしいと記されているものは一つもよく料理をした。母子家庭で小さいころか俺は洗って細かくした卵の殻を鈴香のフ 走 を なかった。 ンの調理に ら母親が遅くまで働いていたので、簡単なライ。ハンに加えると、チャーハ 大好きな母親がスプーンに載せてくれものは小学校の低学年から作れた。切ってかかった。 ごま油で人参とちくわを炒める。鈴香が て、いつもと同じ環境で、満たされた食卓炒めりやだいたいは何とかなる。味付けな なら、少々味気ないものだって食べられるんて自分の好きなようにすればいいし、難食べられるように、柔らかくなるまで火を