おおのじざえもん 圭吾が詰め寄ると、嘉右衛門は額の汗を町奉行、大野治左衛門 預かったのかと言いかけて嘉右衛門はが品 かきざきひょうご ぬぐった。 郡奉行、柿崎兵庫 くりと肩を落とした。圭吾が梟衆を握って 「ご隠退なされてはいかがでございます だった。いずれも明らかな沼田派であいるとすれば、政敵の生殺与奪の権を持っ か」 り、採決をとれば嘉右衛門が制するのは明ているのと同様だ。嘉右衛門は恐ろしげに 「隠退だとー らかである。 圭吾を見る。 嘉右衛門は目を瞠った。 圭吾はじっと嘉右衛門を見つめて口を開「そうか、飯尾と安井はそなたが葬らせた 「さようでございます。派閥をどなたかにいた。 のか」 お譲りになられ、ゆるりとなされたらよい 「いえ、この場では決められませぬ」 うめくように嘉右衛門が言うと、圭吾は のでございます。そうされたならば、一連「なんだと。執政会議の場で決めずして、首をかしげた。 のこと不問にいたしますぞ」 どこで決めるというのだ」 「はて、何のことか、とんとわかりません 「まて、わしはさようなことは不承知だ」 「殿にご臨席賜わり、御前会議の場で決着な」 嘉右衛門は圭吾を睨みつけた。 をつけとうござる」 嘉右衛門はあきらめたように目を閉じ 「不承知でございますか」 圭吾はきつばりと言い切った。 た。圭吾は射た矢が突き刺さった獲物であ 圭吾は落ち着いて嘉右衛門を見据える。 嘉右衛門は嗤った。 るかのように嘉右衛門を見た。 「そうだとも、商人どものロ書はそなたに「殿にご臨席賜るかどうかをうかがうのは嘉右衛門が隠居願いを出したのはそれか 脅されてのもの、帳簿のこともそなたの派わしの役目だ。かようなことで御前会議はら間もなくのことだった。 閥の者がでっちあげたのだ。わしは認め開けぬ」 「しかし、すでに殿のお耳には沼田様の一 「されば、どうなさいますか」 件、届いておりますぞ」 「この執政会議で決すればよい」 圭吾は薄く笑った。 嘉右衛門が隠居して間もなく、圭吾は利 嘉右衛門は、はっきりと言った。 「馬鹿な、さようなはずはない 景に御座所に召し出された。 執政会議に出ているのは嘉右衛門と圭吾 言いかけた嘉右衛門ははっとした。圭吾 利景は穏やかな表情で、 のほか、 をまじまじと見つめて、 「どうだ。沼田はおとなしくなったか」 たなかしようえもん 次席家老、田中庄右衛門 「そなた、梟衆を使ったのか。ということ と訊いた。圭吾はうなずく。 わたなべげんしろう 寺社奉行、渡辺源四郎 は、そなたが梟衆をーー」 「はい、派閥は飯尾甚右衛門様に譲られま じんえもん
をすれば蔑まれるだけだろう。 の男たちに囲まれているのだ。しかし、同″ やさしく悲しげな顔だった。 それよりも次席家老としての威厳を見せ時に男たちが梟衆なのではないかという気 父の伝右衛門が六郎兵衛によって殺されて、すぐに国を出ていくように言うべきでがした。 たかもしれない、と思った日から、何度もはないか。もし、六郎兵衛が斬りかかって圭吾は身構えたまま、 六郎兵衛の夢を見た。 きたとしても梟衆が守ってくれるはずだ。 「大蔵、いるのならば出てこい。この者た 邪鬼のような恐ろしい六郎兵衛の姿が夢安心していればいいのだ、と自分に言いちはわたしを護衛いたしておるのか」 に出てきてうなされた。しかし、今、思い聞かせる。 暗闇からさらに墨が滲み出るかのように 浮かべた六郎兵衛の顔はいぜんと変わらな その時になって、圭吾は先ほどから前をして、黒装束の男が出てきた。 い、つつましく、控えめでいて温和なもの歩いていたはずの大蔵の姿が見えなくなっ頭巾はしておらず、月の光で顔がわかっ だった。 ているのに気づいた。 ( どうしたのだろう ) 大蔵だった。 ( どうしたのだろう ) 美津は不安にかられて玄関に戻った。 圭吾は緊張した。 圭吾はほっとした。 玄関には誰の姿もなく、圭吾が出ていっ まさか、もう六郎兵衛と行き逢ったのだ「大蔵、どうした。樋口殿はまだ来ぬの か」 た門は閉じられていた。広間の方からは酒ろうか。圭吾は刀の鯉口に指をかけてゆっ 「まだでござる。それゆえ、その前に三浦 を飲んで騒ぐ声が聞こえてくる。 くりと進んだ。 美津は再び、折れた櫛を握りしめた。 提灯を持って圭吾の少し前を歩いていた様をご案内せねばならぬと思っておりま 足軽が、 ( 何かよくないことが起きている ) 旦那様 「どこへ案内するというのだ」 美津は震えながら、玄関先の闇を見つめ ていた。 と声をかけて足を止めた。 圭吾が訝しく思って訊くと、大蔵は嗤っ ( 0 「どうした。何かあったのかー 圭吾は、供が持っ提灯の明かりで足下を圭吾も立ち止まり、油断なく身構えてあ「三途の川まででござる」 照らしながら歩いていた。 たりを見まわす。足軽は声をひきつらせ大蔵がさっと刀を抜いた。 六郎兵衛に会ったら、どういう風に話して、まわりを提灯でぐるりと照らした。 月が青白く輝いている。 たらいいのだろうか。下手に媚びた物言い圭吾は息を呑んだ。いつの間にか黒装束 ( 0 ( つづく )
伝右衛門が城下外れの松並木沿いの道一太刀だけ斬りつけたらしい。しかもかな圭吾が重ねて訊くと、番頭は頭を振っ R こ 0 で、供の小僧とともに、何者かに殺害され りの手練れであるとわかる、鮮やかな斬り たというのだ。 ロだった。 「宝泉寺の樋口六郎兵衛様におうかがいし 「それはまことか」 「小僧の傷はどうだったのだ」 たところ、さような金は受け取っていない 下城したばかりの圭吾は、玄関先で町奉圭吾がまわりの者に訊くと、番頭が頭をとのことでございました」 行所の下役から伝右衛門の死を聞かされ下げて答えた。 伝右衛門は用心して、宝泉寺の六郎兵衛 て、驚愕した。伝右衛門の遺骸はすでに津「同じように首筋を斬られていたそうでごを訪ねることを話していたようだ。 島屋に運ばれたという。 ざいます。検屍のお役人の話では、ふたり「そうか、だとすると、伝右衛門殿は帰り 「すぐに参るぞ」 とも一瞬で絶命して苦しむこともなかった道で辻斬りか盗賊に襲われたということに 圭吾は美津に向かって言った。青ざめた だろう、とのことでございました」 なるな」 美津がうなずく。 番頭の言葉を聞いて美津は泣き伏した。 圭吾がつぶやくと、番頭はまわりを気に 圭吾と美津が津島屋に駆けつけると、す圭吾は美津にちらりと目を遣ってから、番して声を低くした。 でに親戚などが集まって店は混雑してい頭に気になっていることを訊いた。 「手前には、そうは思えません。単なる盗 た。圭吾の姿を見て、番頭があわてて駆け「伝右衛門殿はどこに出かけられたのだ」賊の仕業ではないと思います」 寄り、奥へと案内する。 「宝泉寺でございます」 「どうしてそう思うのだ」 伝右衛門は顔に白い布をかぶせられて寝やはりそうかと、圭吾はうなずいた。 圭吾は番頭に目を向けた。番頭は何かに 床に横たわっていた。枕経が行われたらし「それで、殺されたのは宝泉寺を訪ねる前怯えたようにしながら答える。 く、線香があげられている。 か、後か」 「わたしは以前にも樋口様にお会いしたこ 圭吾は座るなり、 「宝泉寺を訪ねて用事をすまされ、帰る途とがございますが、今日会った樋口様はま 「すまぬが、傷口をあらためるぞ」 中だったようでございます。それにー・ー」るで別人のようでした。顔は青白く、目だ と誰に言うともなく口にすると、布団を番頭は声をひそめて、伝右衛門は二百両けが鋭くなって、まるでーーー」 持ち上げすでに白装束になっている伝右衛を持っていったはずだが、それが見つかり 番頭は言葉を詰まらせた。 門の体をあらためた。 ません、と言った。 「どうした。いまの樋口殿の様子はどうな のだ」 どうやら傷口は首筋の一カ所だけのよう「その金は宝泉寺に置いてきたのではない だった。襲った者は伝右衛門の首に深々とのか」 圭吾が励ますように言うと、番頭はよう
両と見積もっております。大坂の店に八百「父の気持は嬉しいのです。しかし、お金沼田派の飯尾羽左衛門と安井掃部の殺害 両を用意させ、そのうえで樋口様にお会いの話な持ち出すのは、樋口様を侮ることにについては、家中で最大の派閥を持ち、専 して、上方へ行くための路銀として二百両なりはしないかと心配です。あるいは却っ横の振る舞いがあった嘉右衛門が利景から をお渡しいたします。なに、目の前に山吹て、樋口様はお怒りになるのではないでしも憎まれていることを知っていたから、た めらうことなくできた。 よ、つ、か」 色の小判を積まれれば、ひとの心は変わり 無論、今村帯刀を殺めた罪を言い立てて ます」 美津が言うのを聞いて、圭吾は不安にな 「そうだろうか」 った。六郎兵衛が国許に戻りながら圭吾のもいいのだが、そうなると圭吾が嘉右衛門 あるいはそうかもしれないという思いが もとに顔を出さず、おとなしく寺男をしてとともに六郎兵衛を使嗾したことを梟衆に 圭吾の胸に湧いた。そんな圭吾の胸の裡いるのは、もはや家中の争いに関わりたく知られることになる。 そんなことを考えると、帯刀が梟衆を預 を、伝右衛門は素早く読み取る。 ない気持からなのだろうか。 「お許しをいただければ、わたしが二、三 そこに伝右衛門が行って金の力に物を言けられながら政敵を倒すためには使わなか 日の内に樋口様をお訪ねいたします。案ずわせようとすれば、六郎兵衛は傷つき、圭った意味もわかる気がした。 ( 帯刀は、おのれがしたことを梟衆に知ら るより産むがやすしでございます。あっけ吾に裏切られたと思うのではないか。 れまいと用心したのだ ) なくかたづくかもしれません」 そこまで考えて圭吾は目を閉じた。 自分もまた、そうしなければならない。 たしかに、すべてを穏便にすませようと 伝右衛門は自信ありげに言った。 思えば、静観しているのがいいかもしれな梟衆を使うのはよほどの時なのだ。やはり 伝右衛門が辞去した後、美津が圭吾の居いが、それでは安心して日々を過ごすこと今は、伝右衛門が金のカで六郎兵衛を追い 出そうとしていることを止めるわけにもい 室にそっと入ってきた。美津は圭吾の前にはできない。 座るなり、 圭吾の胸には、梟衆を使って殺せばよいかない、と思った。 なんとか出ていって欲しいと、圭吾は心 「父は相変わらず、お金に物を言わせようではないかという考えが時おり浮かんだ。 とするのですね」 しかし、実際にやるとなるとためらわれ底から願った。 と、ため息まじりに言った。 るのは、六郎兵衛への憐憫の情だけでな く、利景から預かっている梟衆を私怨で使数日後 圭吾は顔をしかめる。 「伝右衛門殿はわたしのことを懸命に考ええばどのようなことになるか、という不安思いがけない報せが圭吾のもとへもたら された。 てくださっているのだ、謗ってはいかん」があったからだ。 しそう 369 玄鳥さりて
した。ご存じの通り、亡くなられた飯尾羽る。沈むべき家は沈むと考えるしかないのを次席家老とする。田中庄右衛門が首席家 左衛門殿の弟で別家を立てられた方です。ではないか、と圭吾は思って口を開かなか老だが、あの男は沼田の側近だったという だけで、何もできぬ。そなたが藩を取り仕 沼田様の嫡男佐一郎様がまだ十七歳とお若った。 いゆえ、つなぎでの派閥領袖に据えられた圭吾が黙っていると、利景は素知らぬ顔切っていくのだ。しつかり頼むぞ」 利景に言われてみれば、沼田と今村の息 かと思います。しかし、地味で争い事を好で話を継いだ。 せんしろう まれない方ゆえ、これから沼田派の動きは「ついでに帯刀の息子の千四郎も祐筆役と子がどのように用いられようとも、自分が 鈍りましよう」 して召し出すつもりだが、それもよいか」家老職に就こうとしていることから見れば 小姓と祐筆役はいずれも藩主の身近に仕比較にもならない。 「そうか、ならば、沼田佐一郎を小姓組に 自分は藩主から信頼されているのだ、と える。藩主の目にかなえば側近となり、や 人れたいと思うがよいか」 圭吾は自信をつけた。 「佐一郎殿を小姓にされるのでございますがて重役への道までも開ける。 か」 そこに沼田嘉右衛門と今村帯刀の息子が 入るとなると、圭吾としては将来に向けて夏になった。 圭吾は眉をひそめた。 次席家老となった圭吾は、八百石を与え 佐一郎が利景の小姓となれば、将来は側警戒しなければならなくなる。 られ、さらに城の近くに大きな屋敷を与え 近への道が開けたとみて沼田派がいろめき ( とんでもない話だ ) たつのではあるまいか。 圭吾は何とか止めさせたかったが、よいられた。家士や従僕、女中の人数も増え、 なぜ、突然、利景がこのようなことを言か、と訊かれたからといって、否と答える今までとは違った大身の暮らしに慣れてい った。 い出したのだろう、と圭吾は不審に思っわけにはいかない。 そんな圭吾をひさしぶりに、義父の津島 圭吾はうけたまわってございます、と言 やでんえもん うしかなかった。 屋伝右衛門が訪ねてきた。 利景は笑った。 これでは沼田派だけでなく、旧今村派の圭吾は美津とともに伝右衛門の応対をし 「藩主というのは窮屈なものでな、藩士の 家の存続を常に慮っておらねばならぬ。沈息の根を止めることは出来ない、と思ったた。 て 七十を越えてすっかり白髪になった伝右 む家があればこまめに拾わねばならぬのがいたしかたない。 衛門だが、まだ店を取り仕切り、壮年のこ鳥 だ」 利景はにこりとした。 なるほど、そうかもしれないが、それで「何分にも家中の和を保たねばならぬからろとさほど変わらない働き方をしていた。 は家中の争いは永遠に鎮まらないことになな。そのかわりと言っては何だが、そなた近頃は大坂にも店を出して年を重ねても、 さいちろう っしま
「今日は派閥の会合の日だぞ。そこへ乗 り「これから出かける。皆は存分に飲ませてに、たとえ六郎兵衛といえども恐るるに足 込んでくると言うのか りない。そう自分に言い聞かせながら、圭 刻限が来たら帰すように」 圭吾はうろたえた。 と言いつけた。 吾は美津が持ってきた大小を腰にして玄関 「いや、そのことは知らぬかと存じます」 圭吾がそのまま玄関に向かおうとするを出た。 「まずいな、ここに来られては」 と、美津はすり寄って、 供の中間が提灯を手についてくる。 圭吾が次席家老となり派閥の人数もふく「どちらへ参られるのでございますか」 門をくぐり、道に出るとすでに月が出て れあがった、と六郎兵衛が知ったら、どう と心配げに訊いた。 いた。築地塀のそばに大蔵が立っているの 田 5 うだろうか 圭吾は黙って出ていくつもりだったが、 が見えた。大蔵は頭を下げてから背を向け 圭吾はちらりと大蔵を見た。 もし、万が一のことがあったら、と思い直た。 して、 「樋口をここに来させるな」 案内するつもりなのだ。 「さて、途中で討ち果たしてもよろしゅう「樋口六郎兵衛殿がこの屋敷に向かってお圭吾は大蔵の後を追った。 ございますが、樋口殿はかなりの使い手でるらしい。ここで会うわけにはいかぬゅ ございます。城下で騒ぎを起こすことになえ、外で会ってくるつもりだ」 美津は圭吾を見送ってから部屋に戻っ るかもしれませんが」 六郎兵衛の名を聞いて、美津は思わず震た。 大蔵は困惑したように言った。圭吾は頭えた。 薄暗く、何も見えない。 をひねって考えてから、 「お気をつけくださいまし。父のことがご燭台に灯りをともそうかと思って手探り 「わかった。ならばわたしが出向いて、外ざいます。ひょっとしたら、六郎兵衛様はで進むと、足裏に何かがさわった。気にな ってかがむと黄楊の櫛だった。 で樋口に会おう。そなたたちはわたしを守以前の六郎兵衛様とは変わっておられるか ってくれ」 もしれませぬ」 どうしてこんなものが、と思いつつ拾い と言って盃を置いた。 上げるが、途中でぼきりと真ん中から折れ 圭吾はうなずいた。 て 「かしこまりました」 「案じるな、わたしも以前のわたしとは違た。 不吉な 大蔵は頭を下げた。圭吾はさりげなく立っているのだ」 玄 思わず美津は折れた櫛を握りしめる。す ち上がると、廊下に出た。近くに控えてい すでに次席家老であり、梟衆も預かって た美津を呼んで、 いる。身辺警護も梟衆が行っているだけると、なぜか脳裏に六郎兵衛の顔が浮かん
やり手の商人であることに変わりはなかっ ていたころが、最も落ち着いた安穏な日々す。 こ 0 だったかもしれないと田 5 った。 「出ていってもらうといっても、あのひと 来るなり伝右衛門は圭吾に向かって、 その安寧を破って政争に巻き込んでしまは故郷で死にたいと思って戻ってきたのだ 「ご存じでございますか」 ったのは自分だった。さらに六郎兵衛が今ろう。いまさらどこへ行く気もないだろ と謎かけのように訊いた。 村帯刀を斬って出奔したのも、自分のためう」 「何のことでしようか」 だったとしか言いようがない。 「とは申しても、すべては金しだいかもし 圭吾が笑いながら訊くと、伝右衛門は声思えばどれほど六郎兵衛に迷惑をかけてれません」 をひそめた。 きたことか、と圭吾は悔やんだ。しかし、 伝右衛門は目を光らせて言った。圭吾は ひぐち 「樋口六郎兵衛様が国許に戻って来られたそれだけに六郎兵衛は圭吾を恨み、憎んで頭を振る。 のでございます」 いるのではないか。 「あのひとは金では動かない」 「まさかーーこ ( 樋口殿は何を考えているのだろう ) 「それは昔の樋口様のことでございましょ 圭吾は息を呑んだ。 そう思ったとき、圭吾の胸の中で六郎兵う。あの方も随分と苦労をされて、考えも 「それが、そのまさかなのでございます衛への懐かしさよりも恐れの方が上回っ変わられたかもしれませんぞ」 よ。わたしどもの店の者が宝泉寺で見かけた。またもや六郎兵衛に怯えて暮らすのだ伝右衛門は執拗に言い募った。 たのでございます」 ろうか、それはいやだと思う。 「さような企ては無駄だと思う」 伝右衛門は確信ありげに言う。 せつかく次席家老にまで上り詰めた。こ「金の額しだいでございます。これから十 「宝泉寺と言えば、樋口殿が以前、寺男をれからの藩は自分が動かしていくのだ、と年、遊び呆けて暮らせるほどの金を出しま していたところだな」 昂揚していた。 すゆえ、上方にでも行かれて養生なさいま 「さようでございます。また寺に戻って薪 それなのに六郎兵衛が帰ってくれば、すせと言えば考えられるかもしれません。大 割りや庭掃除などをされているようなのでべては台無しになる気がした。 坂にはわたしどもの店がございますし、上 伝右衛門は圭吾に顔を寄せて、 方での暮らしのお世話もできますのでー 圭吾はかって六郎兵衛が寺男をしていた「いかがでございましよう。樋口様には出考えを練り上げてからきたのだろう。伝 ころを思い出した。 ていっていただいたほうがよろしくはござ右衛門はよどみなく言った。 考えてみると思いがけないことで島流しいませんかー 「それでうまくいくだろうか」 になり、十年ぶりに国許に戻って寺男をし と囁いた。圭吾は伝右衛門の顔を見返「大丈夫でございます。そのための金を千 368
いと田 5 った。 れる者を大切にしていきたい、と述べた。 横江太三郎が酒で顔を赤くして、 「わかった。これからも六郎兵衛を見張不安な思いで参加していた者たちは、圭「今後も励みますゆえ、よろしくお願い申 り、動きがあれば報せよ」 吾の、 し上げます」 圭吾が言うと、大蔵は頭を下げてから隣 過去は問わない と言って頭を下げると、小石と榊もあわ 室に通じる襖を開けて、素早く隣室に人っ という挨拶にほっとしたのか、一座は急てて頭を下げた。その様を見て、圭吾は、 た。その瞬間、隣室からひとの気配は消えににぎやかになった。そして人数が増えた これからも頼むぞ、と鷹揚に受けた。 ため、派閥での役職や連絡の仕方などを新三人が自分の席に戻ると小柄な武士が圭 圭吾は腕を組んでしばらく考えた後、書たに決めた。さらに、圭吾は藩政の課題を吾に酌をした。どこかで見たような、と思 見に戻った。 説明し、それぞれに調べていかになすべき ってみると大蔵だった。 かという方策をまとめるよう指示した。 質素ながら羽織袴姿で軽格武士に見える 三日後 その後、酒宴となった。女中たちが酒と身なりだった。会合が大人数なだけに、紛 圭吾は屋敷で久しぶりに派閥の会合を開膳を運ぶと、笑い声も起きて、にぎやかにれ込んでも誰も気づかなかったようだ。 いた。 なった。 「樋口殿のことでご報告がございます」 いったん十人足らずにまで減っていた派そのうち、小石又十郎と榊三之丞、横江大蔵は圭吾だけに聞こえるよう、よく通 閥だったが、驚いたことに真っ先に沼田派太三郎が圭吾の前に連れ立って盃を受けにるが低い声で言った。 に寝返っていた者までが何食わぬ顔で会合来た。 「何だ」 に出てきていた。 圭吾が酒を注いでやると小石又十郎はう「樋口六郎兵衛、今夜、宝泉寺から外出 最後まで圭吾の派閥に残っていた者たちゃうやしく受けて、 し、城下へ向かってございます」 はいずれも身分が軽かったため、上士が居「いまや、三浦様の勢威はかっての今村帯「どこへ参るのだ」 並ぶと隅に追いやられた。 刀様や沼田嘉右衛門様を上回るものがござ「わかりませぬが、見張っておる者からの 会合が始まると、圭吾は、これまで家中いますな」 つなぎによりますと、こちらに向かってお での争いはいろいろあったが、これからは と言った。榊三之丞も言葉を添える。 るようでございます」 ひとつにまとまっていくつもりだ、過去は「まことに、われらも鼻が高い思いがいた「こちらとは、この屋敷ということか」 問わない、御家のために忠誠を尽くしてくします」 「さようにございます」 372
「津島屋は、宝泉寺で寺男をしている樋口が津島屋を斬ったところを見たのではない やく答えた。 六郎兵衛のもとを訪ねた後、斬られたようのか」 「青鬼のようでございました」 大蔵は体を起こして、圭吾を見つめた。 圭吾の脳裏に、鬼となった六郎兵衛の姿だ。樋口の動きを探ってもらいたい」 「お恥ずかしきことでございますが、津島 圭吾が命じると大蔵は手をつかえた。 が浮かんだ。 「樋口六郎兵衛ならば、帰国したおりから屋と小僧が斬られたとき、梟衆の見張りの 見張っております」 者も斬られて絶命いたしました」 「なんと」 圭吾は眉を曇らせた。 「それゆえ、何者が津島屋を斬ったのかわ 「わたしに言われる前から見張っていたの 伝右衛門の葬儀が終わった後、圭吾は六 からぬのでございます」 か」 郎兵衛をどうするかについて考え続けた。 ある日下城すると、書斎の軒先に風鈴を「樋口殿には、われら梟衆を預かっていた大蔵が声に悔しさを滲ませる。 「六郎兵衛が見張りの者を斬って寺を脱け 吊るした。利景からわたされた南部鉄の風今村帯刀様を殺めた疑いがございます。そ れゆえ、帰国するなり見張って参りまし出し、津島屋を襲ったのではないのか」 鈴である。 「わからないとしか申し上げようがござい この風鈴を鳴らせば半刻 ( 約一時間 ) のた。もし、樋口殿に胡乱な動きがあればご だいぞう うちには、梟衆の頭の大蔵が現われること報告いたし、いかにすべきかお指図を仰ぐません」 「見張りの者の斬り口は見たのか。津島屋 になっていた。はたして、圭吾が書見して所存でした」 は首筋をあざやかな一太刀だった。同じ斬 いて、わずかに燭台の灯りが揺れたかと思大蔵は低い声で落ち着いて答える。 「そうか。だとすると、津島屋が殺されたり口ではないのか」 うと、大蔵がどこから入ったのか、書斎の 大蔵はまたゆっくりと頭を振った。 日も見張っていたのだな」 隅に座っていた。 「見張りの傷は心ノ臓を一突きでございま 「お呼びでございますか」 「さようでございます」 「では、どうなのだ。樋口六郎兵衛が津島した。たしかにともに手練れの仕業ではご 圭吾は振り向いて、 ざいますが、同じ者の仕業だという決め手 「津島屋伝右衛門殿が斬られた一件は知っ屋を斬ったのか」 て ているか」 圭吾が訊くと大蔵はゆるゆると頭を振っにはなりません」 「そうかーーー」 と訊いた。大蔵は表情を変えずに答えた。 玄 「それはわかりかねます」 圭吾はうなずく。梟衆が六郎兵衛を見張 「なんだと、見張っていたのなら六郎兵衛っているのなら、これ以上、言うことはな 「存じております」 うろん
しかし、圭吾の屋敷に集まるものたちは話もそこそこに酒を求 め、後はたがいに愚痴を言い合い、沼田派の隆盛ぶりに羨望をも らすなどするだけである。 翌年の春ーー 酒席に美津が顔を出すことはなかったが、酒や膳を運ぶ若い女 ぬまたかえもん 蓮乗寺藩は緊張に包まれていた。筆頭家老、沼田嘉右衛門が藩中に卑猥な言葉を投げかけ、中には尻をさわろうとする者までい ( 0 の金を私していた疑惑が持ち上がったのだ。 みうらけいど このことを明らかにしたのは勘定奉行、三浦圭吾だった。嘉右 女中たちが困っていることを知った美津は圭吾に、 いまむらたてわき 衛門は今村帯刀の急死後、権勢を一手に握り、圭吾が率いる旧今 「これではわが家の示しがっきません。会合はどこぞの料亭でで 村派は力を失っていた。 も開かれたほうがよろしくはありませんか。その方が来られる皆 かって帯刀の屋敷で開いていた月一回の派閥の会合も、圭吾の様もお喜びになると存じますが」 屋敷で開くようになると櫛の歯が欠けるように出席者が減ってい と皮肉まじりに言った。圭吾は苦笑して、 っ ( 。 「まあ、そう言うな。いま、料亭で会合を開けば、その金はどこ 旧今村派から抜けて様子を見ようとする者はまだ、ましなほう から出ているのだと痛くもない腹を探られることになる」 で、すぐに沼田派に鞍替えする者も珍しくなかった。 と答えた。美津は眉をひそめた。 嘉右衛門は旧今村派から移ってきた者を粗略にせず、それぞれ 「ですが、いま来られている方々はだらしないだけでなく、家中 の能力に応じて遇したので家中での評判もあがった。かって今村 でも力のない方たちばかりではございませんか。旦那様のお役に 派と沼田派の激しい派閥争いを見てきた藩士たちは、嘉右衛門が 立っていただけるのでしようか」 こいしまたじゅうろうさかきさんのじようよこえたさぶろう 旧今村派を干し上げないのであれば、むしろ沼田派一本にまとま 「そうでもないぞ、若手では小石又十郎、榊三之丞、横江太三郎 るほうがいいのではないかと考えるようになったのだ。 などがおる。この者たちはいずれも役に立つだろう。ただ、軽格 圭吾の屋敷での会合に出るのは、いままでの行きがかりで沼田 ゆえ、沼田派に行っても浮かばれぬから、わたしのもとに来てい 派に行くわけにはいかず、かといって派閥に属さないというほど るのだ」 て の度胸もない者たちばかりだった。 圭吾は自信ありげに言った。 このため会合でも気勢はあがらず、圭吾に暗に酒を出すように 「とは申されましても、会合があの有様では、その方たちも愛想鳥 要求した。今村屋敷での会合でも最後は酒になったが、まずは派が尽きるのではありませんか」 なおも美津は危ぶんだ。 閥としての議題を話し合ってからのことだった。 れんじようじ 十九