思い - みる会図書館


検索対象: 小説新潮 2017年1月号
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1. 小説新潮 2017年1月号

くのがわかりました。 次々と出てくる聞き慣れない単語を、私はいうかどっしりと腰が据わっていて、こう 「正面のお客様お受けいたしました。あり いう表現が正しいかわかりませんが、ずい 必死にメモに留めていきました。 それまでもマンションが買えてしまう値ぶんと賢そうに見えますね。それに筋骨がとうございます。はい、六千八百まー が馬一頭につけられることに、私は面食ら隆々なのに、身体はとても柔らかそうでん、六千八百まーん ! いかがでしよう う思いがしておりました。しかし社長の予す。いい馬とはこういうものなのだとはじか。母親のピュアリーマドンナは重賞二勝 の良血馬。さあ、もう一声いかがでしょ 言した通り、「ピュアリーマドンナの 2 0 めて知った気がします」 そんな私の素人意見に、社長は満足そう 01 」はどんどん値を上げていきます。そ にうなずきました。そして「偉そうに。一 オークショニアの声にもいっそう力が籠 の勢いの違いは明白でした。 丁前のことを言いやがって」とつぶやかれもります。それに怯えたように「ピュアリ 「お前、どう思うよ ? この馬」 ーマドンナの 2 0 01 」がはじめていなな 値段が一気に五千万円を超えた頃、社長た、直後のことでした。 セリの勢いがだいぶ落ち着き、オークシきました。甲高い鳴き声が会場に響いたと はステージを見つめながら尋ねてきまし ョニアが「さあ、いかがでしよう。もう一き、社長は小声でこぼしました。 た。その少年のように爛々とした瞳の輝き 。ピュアリーマドンナの 「あまり興奮させるなよ。俺の馬を」 を見るまでもなく、社長がこの馬を欲しが声ありませんかー オトコ馬ですよ。六千六百まーん、六千私はなかなか頭が回りませんでした。そ っていることは間違いありません。 余計なことを言うべきではないと自制す六百まーん ! ラストコール人りますよの好戦的な表情をポンヤリと横目にして、 ! 」と必死に焚きつけるのに乗せられたようやく「俺の馬」という一一一口葉の意味に気 る気持ちもありましたが、そもそもこの日 づきました。 は私の勉強のために見学にきただけでしように、社長の右手がすっと、ハエを振り 「あの、社長 : : : ? 」という質問を遮るよ た。社長に馬を購人するつもりは最初から払うかのように挙げられたのです。 となりにいる私でさえ見逃してしまいそうに、社長はこくりとうなずきます。 なかったはずで、現にここまでは物欲しそ うな些細な動きを、通路に配置された係の「祝いだ」 うな目で馬を見つめていることはあったと 「は ? 」 しても、セリに参加する気配はなかったの方は目ざとく見つけました。「お取りして よろしいですか ? 」という問いかけに社長「お前がはじめて見立てた馬だからな。マ です。 ネ 1 ジャー就任祝いに買ってやる。よく見 危惧するようなことにはならないだろうが面倒くさそうにうなずき、係員の「はー い ! 」という大声が轟いた瞬間、一度は鎮ておけー と、私は素直な気持ちを明かしました。 それ以降、オークショニアが何か言葉を 「とてもいい馬のように思います。なんとまりかけていた会場の熱が再び上昇してい 190

2. 小説新潮 2017年1月号

ありません。その数少ない一つは、たしか 8 いう人が結構前から馬主をしてるんだ。横「加奈子も来るんだぜ、明日」 え、なんで ? と、のど元まで出かかっケンカした思い出です。そのときもやはり 浜で人材派遣の会社を経営してて、言うほ ど儲かってるわけでもないのに、完全に道て、私は言葉を飲み込みました。かっての牧場の生産馬がレースに出走するという日 のぎき 楽でな。わりと親戚たちからは顰蹙を買っ恋人、野崎加奈子の実家が北海道にある馬でした。日曜日の約束をドタキャンされ、 てるんだけど、ほら、うちは税金関係の面の生産牧場だったということをかろうじて私はふて腐れていたのだろうと思います。 「一緒に競馬場に行こうよ」という誘いを 倒を見てるから。付き合いがずっと続いて思い出したからです。 かたくなに断ったのを覚えています。 てさ。で、その叔父さんの持ってる『ロイ雄一郎は柔らかく目尻を下げました。 不意におみくじのことが脳裏を過ぎりま ャルダンス』っていう馬が明日の重賞レー 「あいつ、大学時代から牧場で経理をやり スに出るんだよ」 たいって言ってたもんな。結局、卒業してした。温くなったビ 1 ルに口をつけ、私は から北海道には戻らなかったらしいんだけ「望まざる人」の一文になんとなく思いを 「重賞レース ? 」 「うん。中山金杯っていうな。なんか久々ど、ちょこちょこ競馬場には自分のとこの馳せました。 の重賞らしくて、なんか叔父さん張り切っ馬の応援に行ってるみたい。明日はあいっ ちゃってるんだよね。お前も友だち連れてのとこの馬も〃金杯〃に出るんだよ。牧場結局、私は翌日の約束をキャンセルしま の将来がかかっている期待の仔だって笑っした。そもそも約束したつもりもありませ こいって言われてて」 ん。雄一郎は最後まで電話で誘ってくれま 「あの、ごめん。その″ウマヌシ〃っていてたぜ」 そう言うと、雄一郎はジーンズのポケッしたが、万が一でも加奈子と顔を合わせる うのは″・ハヌシ〃のこと ? 」 トから携帯電話を取り出し、「とりあえずのも億劫です。休みの最終日に気疲れした 「ん ? ああ、あれ″ウマヌシ〃って読む んだわ。俺もそんなこと知らなくて、いっ明日行こうぜ。お前、ポケベルかなんか持くないという思いが勝り、私は丁重に断り ってるの ? なんでもいいから連絡先教えました。 だったか叔父さんに〃・ハヌシ〃って言って それでも、レースの結果は気になりまし ろよ」と早ロで続けました。 説教されたことがある」 「そうなんだ」 普段、あまり目にすることのない携帯電た。新聞を調べてみると、テレビで中継さ 「どう ? 一緒に行かない ? なかなか人話を見つめながら、私はポンヤリと加奈子れることがわかりました。放送の始まる十 五時まではなかなか落ち着きませんでし のことを考えておりました。 れない馬主席だぞ」 た。そしていざ放送が開始されてからは、 「いや、それはーー」 彼女と馬のことを話した記憶はそう多く

3. 小説新潮 2017年1月号

娘は、小さな手を伸ばし風に舞う花びらを掴もうと している。 そんな無邪気な光景に出会うと、胸が温かくなると いうより泣きたくなってしまうのはなぜだろう。 これでいいんだろうか ? 手ごたえがなく、自信も湧いてこない。 日々を大切にしたい気持ちと、ある程度、雑にこな すことで、明日への余力がどうにか確保できるという アンビバレントな思い。自宅にいると後者が勝り、気 が滅人る。前者を思い出すためにこうして時折、自宅 から出る必要があった。 「あ。」 娘が花びらをキャッチした。 「上手ねえ。良かったねえ」 娘は花びらを鼻に近づけると、おもむろに。ハクっと 口に人れた。 「いけないね。お花さんは食べられないね」 少し前なら急いで花びらを取りあげたかもしれない が、今はベビーカーを押しつつ娘に声をかけるだけだ っ ( 。 モデルの話は「預け先の目処がたったら連絡しま す」とさんに伝えたっきり、更にそのままになって いた。ただ、 O さんが撮影したポートレイトの出来の 良さは、いずれその日が来るであろうというささやか な予感を与えてくれた。それが心の支えだった。 保育施設への問い合わせは、どこも似たり寄ったり な状況を把握すると熱が冷めたかのようにしなくなっ てしまった。 O さんに「預け先が見つからず、今は擁 理かもしれません」というメールを送ると、 「大丈夫。またオカチャンが動きだしたらいつでも連 絡ください」 と返事が来た。 その後もしばらくの間、「モデルを再開することは 本当に不可能だったんだろうか ? 」という往生際悪い 考えに苛まれた。 娘が生まれてから、私は一体、何をいくっ諦めたの だろう。 ちょうど同じ頃、こちらのそんな状況とは裏腹に、 夫に新たな仕事が舞い込んだ。あるアイドルュニット のを監督することになったのだ。 夫もそして私も、年甲斐もなくアイドルが好きだっ アイドルの、何を、どのように好きかを、夫は私よ り上手く話した。お酒が入ると、その思いが止まらな くなり、明日のことなど考えず長広舌をふるう姿に、 ( また始まった : こ 0

4. 小説新潮 2017年1月号

「楽しみです。早く見たいです」 手なんだからもっと本気でやってくれること。ライチさんは、強い。その強さが 先ほどよりは明るい笑みを浮かべ、仁木る ? 」と言われて、家に帰ってから泣きまあれば、絶対にもっと上手くなる。そんな さんはふたたびゲラに視線を落とした。髪した。わたしなりに、一生懸命プレイしたぶうに思います。ろく兄より の毛を耳にかけ、シャ 1 プペンシルに指をつもりです。それから、まだバレーを頑張 添える。僕も席に戻った。笹川さんが外出りたい思いと、わたしがバレーを続けて 十一月号のハート の保健室の原稿はすべ 中であるのをいいことに、 ハートの保健室も、人に迷惑をかけるだけだから辞めたいて、笹川さんから大幅削減の話を聞かされ のゲラをチェックする。手元に届いた手紙という気持ちのあいだで、毎日揺れていま たあとに書いている。己の迷いをできるか を読み、掲載するものを選ぶ際にまた読んす。ろく兄、こんなわたしにアドバイスをぎり消したつもりが、読み取ろうとすれば ください。 で、さらには内容を要約するために読む。 そこかしこに感じられ、生乾きの洗濯物を もはや書いた本人よりも僕のほうが、手紙 ( 秋田県歳 / ライチ ) 鼻先に突きつけられたようにうんざりし の内容を熟知していることだろう。題名を続けたほうがいいとも、辞めたほうがい た。自分も女子中学生の力になれるかもし 読んだ瞬間に、綴られていた文字の形を、 いとも、僕には一言えません。やりたい気持れないと考えていたころが、遥か彼方のよ どんな柄の便箋に書かれていたかを思い出ちほど、続ける理由にふさわしいものはな せるほどだ。 いと思う反面、人に迷惑をかけたくないと 「あの : : : 終わりました」 いうライチさんの思いも、僕は否定したく振り返ると、すぐ後ろに仁木さんが立っ ◆部活を辞めようか悩んでいる ないからです。自分のミスでチームが負けていた。いつの間にか、僕もゲラに集中し わたしはバレー部に所属しています てしまって、チームメイトからひどいことていたらしい。身体を仰け反らせた僕に、 学生のときは美術部だったのですが、大好を言われたなんて、僕がライチさんの立場すみません、と仁木さんが後ずさる。お疲 きな漫画の影響で、中学校ではバレー部をだったら、とっくに辞めていたかもしれまれさま、とゲラを受け取った。確認する。 ス 選びました。でも、周りは経験者ばかりせん。自分のせいで、と考えずにいられな申しぶんない。校閲から指摘された点も、 で、わたし一人だけ下手くそです。このいことがあるのは、とても辛いことです。限られた文字数内で上手く直している。 前、一年生同士の対抗試合がありました。 でも僕は、できれば続けて欲しい。チーム「うん、オッケーです。仁木さんのほうでス 人数の関係で、わたしも出場はできたのでメイトから理不尽に責められても、家に帰やることがなければ、今日は帰ってもいい すが、ミスを連発してしまい、わたしのチるまでは泣くことを我慢できたこと。そんよ」 「はい」 ームが負けました。チームメイトに、「下なことがあっても、まだ頑張りたいと思え 421

5. 小説新潮 2017年1月号

から泊まりに来ていたらいいのに」 義母はそこまで言って、自分が挨拶もしていなかったこと に気づいたのか慌てた様子で娘と婿を玄関へ招き人れる。 「まあ、とにかくおめでとう」 血色もいいし、別段痩せた様子もない。時と場所に関係な く思ったことをぼんぼんと口にするのはこのひとの特徴と知 っているので、今さら大きくは驚かない。検査人院とはい え、病気の疑いと入院を控えているとなれば、心頼みの娘夫 婦に不沙汰の不満もあるだろう。なによりも、紗弓がまた切 ない思いをしなければいい。この母親と上手につきあうこと が、信好に課せられた夫の仕事のひとつだった。 玄関のドアを閉めたところで、義父が現れた。上がりかま ちで短く「元気そうだね」と徴笑んでいる。堅苦しいことは 大の苦手だという彼の、密かな楽しみが信好の眼裏を過ぎつ た。いつどこでどう楽しめば、長い年月隠し通せるのだろ う。その楽しみは大量の知識と解析、研究へと繋がり、専門 家も舌を巻くほどなのだ。 上着を脱いで茶の間の人口に膝をついた。 「明けましておめでとうございます。今年もよろしくーー」 就職の面接よりずっと緊張しながら、紗弓とふたりで頭を 下げる。挨拶のあと、紗弓が父親に辛口のシャン。ハンを渡し た。歩いている間に、ほどよく冷えたのだろう。暖かな部屋 で、ポトルが急に汗をかき始めた。 「ああ、お腹が空いた。待ちくたびれちゃった」 母親が台所へ消えた。紗弓が慌てて立ち上がり後を追いか 8 ける。茶の間に義父とふたりになった。なにを話していいも のか迷う前に、話題はひとっきりしかないのだった。台所が 気になるものの、小声で短く告げる。 「先日はありがとうどざいました」 義父は笑顔で軽く首を振った。穏やかな表情だ。信好は台 所を窺いながらそっと囁いた。 「お義母さん、お元気そうで良かったです」 「うん、毎日あんな調子だよ」 紗弓からはなにも聞いていない。義母の体調に関しては、 信好からは触れることができない話題だった。 途切れた会話と前後して、台所からオードプルの皿を手に 義母が出てきた。後ろからお盆に取り皿や箸、グラスをのせ て紗弓が現れる。信好は義母にシャン。ハンの栓を抜くよう頼 まれた。見よう見まねなのでおっかなびつくりだが ) 嬉しそ うに瞳を輝かせる紗弓の前で失敗はできない。 、、大晦日、あるいは元日からローストビ 1 フが盛られたオー ドプルを囲むのも、生活様式を捨てて生き延びた人間の「ら しさ」だという。古き良き日本映画には内地の生活文化を感 じるが、津軽海峡を境にしてどんどん薄くなってゆくのがよ くわかる。なんでも遅れて人ってくるところだが、ひとの居 るところには等しくそこにしかない居心地良さもあるのだろ う。どうせならばここから送り出せ、という開拓者精神が宿 る土地でもある。

6. 小説新潮 2017年1月号

かずね 湿気が充満する。俺は並んでいた列から抜て、ドッジボールのようなものが始まって前には髪を腰辺りまで伸ばした和音が立 けると、後ろの壁にもたれて、腰をおろしいた。けれど、教師はさして慌てもしなっていた。和音は長いスカートに制服のカ ( 0 い。ここではよくある日常の光景になってッターシャツのボタンを一番上まで留めて もたれた壁には「山田殺す」と書いてあいるのだ。そんな場所で、何ができるとい いて、見ているほうが息苦しくなる。 うのだろう。 る。見上げればリングが歪んだバスケット 「これ、間違ってますー ゴール。舞台の上の幕はびりびりに裂か「なんだよ、大田いるんじゃん。一緒にや和音は前髪が長く顎のラインまであるか れ、一一階の隅の窓は割れたままでまだ直さろうぜ」 ら、顔がよく見えないし、声がこもって聞 れていない。注意する教師をわざとらしい 誰かが近寄ってくる気配を感じて、俺はこえにくい。 大きな声で笑いながらふらふら歩くやつらそっと体育館を後にした。 「へ ? 」 に、壇上で話す校長に暴言を吐くやつら。 「これ、間違ってます」 俺だって、校舎の窓を割ったこともあれ教室に戻ると通知表が渡された。中学の和音は声を大きくもせずまったく同じ調 ば、中学校の入学式で校長に「黙れ、は時はひどいものだったけど、受験直前に必子で同じことを言った。 げ」とわめいたこともある。だけど、ここ死で勉強した貯金がまだ残っているのか、 「あ、ああ。これか、マジか」 が今俺がいる場所なんだと思うと、たまらあまりにも周りのレベルが低いせいか、こ 大田和音。苗字が同じだから、通知表が なかった。自分のことを棚に上げているのこでは勉強しなくても真ん中くらいの成績人れ替わってしまっていたようだ。 も、自分の今までの歩みがこの場所につながとれた。 まっすぐじっと差し出された通知表を受 がっているのもわかっている。でも、ここ成績なんて興味はないと言いながら、通け取ると、俺は中を見てしまった手前、 で滞っているのは息が詰まりそうになる。知表には一応目を通しておく。 「お前、賢いんだな。いい成績じゃん」 何かを壊したり誰かを痛めつけたりするこ「現代文 9 古典数学 9 音楽」 とほめておいた。それなのに、大田和音 とでは、もうどこも満たされなかった。そ あれ ? 俺ってこんなに賢かったつけ。 はありがとうとも、大田君もそこそこねと んなことをしても、すかっとする一瞬の快ほとんど受けてない授業もあるけど、ずい言うこともしない。うつむいたまま俺から 感すら、もたらされなかった。 ぶん甘く成績つけてくれたんだなと驚いて通知表を受け取ると、 しもやなぎ 生徒指導の教師が話す中、体育館の真んいると、目の前にひと気を感じた。 「おい、下柳、てめえ、大事なもん、まち 中では、三年生の連中がポールを出してき「あの : : : 」 がえてんじゃねえぞ」

7. 小説新潮 2017年1月号

選択する、ということは、選択した以外の選択肢をすべ て捨て去る、ということ。つまり、選択肢が多ければ多い ほど、後悔も大きくなるというわけだ。しかし、選択肢を 誰かに選んでもらえば、この後悔を自ら負わすに、選択し た誰かのせいにすることができる。 すべての選択肢が正解、といわれると、この先、結果と して現れてくる事象のすべてが、私の選択と行動の責任で ある、といわれているような気がしてしまう。あなたの選 択が結果的に、地獄へ通じる道だったとしても、それもあ り得る解なんですよ、どんなに苦しくともそれも正解、あ なたの選んだ選択肢なのだから自業自得ですよ、というこ 不定という解の、この居心地の悪さに、いつも、どこま で耐えられるだろう、と思っている。できれば、こんなこ とには思いをめぐらせず、楽観的に物事を見、直感的に行 動し、すべてを忘れ、都合が悪いことは誰かのせいにして 生きるのが、居心地よく人生を過ごすために適した方略だ ということはわかるのだけれど。 ずいぶん前のことになるが、人生に意味はない、という 宮台真司先生の言葉に呼応して自殺者が現れた、と話題に なったことがあった。人生に意味はない、という含みのあ る表現は、生きていても仕方がない、と解釈することも可 能なので、あたかも彼が死を勧めているかのように受け取 られてしまいがちだが、本当は、これは人生の意味は不 定、ということのやや斜に構えた表現と捉えるべきだろ う。人生を意味づけるのは自分自身であり、どんな風に意 味づけても正解である、という。 しかし、そうであればなおさら、生きていることそのも のの重さがリアルな量感をもって迫って来る。一瞬一瞬の 意思と行動すべてが、取り返しのつかない選択であり、そ の帰結は自分で負わなければならない。この居心地の悪さ に、どこまで耐えられるか。 自由を回避しながら、自由を求めている 自由である、ということは、先にも書いたように、一般 的には良いことだとされているらしい。 誰からも制約を受けず、自分の意思で選択し、何かを決 めて、自分で責任を取る。理想的な響きだ。が、実は、自 由である、ということは、私が勝手に負担がっているばか りでなく、人間の脳にとって本質的に結構な負担なのだ。 学術的には「認知負荷」と呼ばれる。 脳に負担がかかる、という事象は、感覚としては「しん どい」「面倒くさい」と知覚される。選択の自由を礼賛し ていながら、本当は、他者に意思決定してもらう方がいい と感じているわけだ。

8. 小説新潮 2017年1月号

の家族連れに紛れるようにして、私は一人く把握した次の瞬間には、冷たい汗が手のを訴えかけてくるようでした。 ふさ 鬱いだ気持ちで歩いておりました。 ひらに広がりました。 紙を開いたまま周囲を見渡してみました 諏訪の実家に帰省する気になれず、年明 私は軽い混乱に陥り、そういうことをすが、誰もこちらなど見ていません。線香の けから仏にすがろうとしたのは他でもあり べきでないと頭では理解しつつ、もう一度香りが鼻に触れ、にぎやかな笑い声が耳を ません。前年から続く鬱々とした気持ちをおみくじの列に並びました。そして、再び打ちます。どの参拝客の笑顔もまぶしく、 引きずり、年末年始も誰かと会う気にはな「凶」を引いたのです。「凶」であるだけな空はあいかわらずしらじらしいほどの青さ れず、私は一人マンションで過ごしておりらまだしも、「第八十六番」という番号までした。 ました。 で同じでした。もちろん、そこに記載され少なくともこの中に「望まざる人」はい とはいえ、部屋に籠もっていても気が晴ている目を覆いたくなるような内容も一言ないようで、そのことに安堵しながら、私 れるわけがありません。むしろ休みが終わ一句変わりません。 は近くの梅の木に、利き腕ではない左手を ってしまうことに焦れる思いは膨らんでい「願望」叶うべくもない : 。「疾病」回使ってくじを結びつけました。悪いくじを く一方です。窓の外の澄みきった空に促さ復進まぬ・ 。「恋愛」大願叶わぬ・ 引いたときはそうするのだと、死んだ父か れるようにして、私は外出することを決め「住居ー好ましからず : : : 。「慶び事」なしら聞いた覚えがあったのです。 ました。 「本当は結んだりせずに持ち帰るべきなん 寺近くの植物園を散策し、お茶屋で団子自分がこういったものに影響されやすいだけどな」 を頬張るまでは楽しんでいられました。子人間であることを、当然私は知っていま そう続けたことも覚えておりましたが、 どもたちが凧揚げを楽しむ様子も、若い力す。だから朝のニュース番組の星占いのコ とてもではありませんが財布に人れておく ップルたちの仲むつまじい姿も、目を細め ーナーさえ、なるべく避けて通ろうとして気にはなれませんでした。こんなことなら て眺めていることができていたのです。 きたのです。年明け早々いったいなんの恨家にいれば良かったと悔やみながら、私は だから、少し気が緩んだのかもしれませみがあるのかと、私は腹立たしいのを通り人目を避けるように足早に寺をあとにしま した。 ん。普段はあまりそういうことをするタイ越して、悲しくなる思いがしました。 プではないのですが、私はなんとなくおみ とくに気にかかる文言がありました。 しかし、調布駅のロータリーでバスを降 えいじ くじを引きました。そこに記された言葉を「待ち人」望まざる人が来る りたときです。「栄治 ? おい、栄治だ 認識するまでに、どういうわけか少し時間 ないない尽くしのおみくじにあって、そろ ? 」と、私の名前を呼んでくる者がおり がかかりました。「凶」の一文字をようやの言葉だけが妙に力強い意志をもって何かました。

9. 小説新潮 2017年1月号

「案じるな。それゆえ、若手の三人だけをつようになっていた。 兵衛のことを思い出した。 料亭に呼び出してひそかに話をしている。 梟衆によって、家中の者たちの秘密を探圭吾のために今村帯刀を斬り、ひそかに わたしの真の派閥はこの三人だけだ。屋敷 り出し、処罰を与えることができるのだ。姿を消した六郎兵衛だが、もはや国に戻っ に来て酒を飲んでいる連中は沼田派の目をこの力を派閥の争いで用いれば、沼田嘉右てくることはないのではないかという気が してくる。 ごまかすための、いわば案山子だ」 衛門を倒すのは容易なことだと思えた。 「案山子でございますか」 それまでは、嘉右衛門が大きな顔をして ( あのひとは胸の病だった。もう死んでい 美津は目を丸くした。同時に、圭吾はいのさばるにまかせておけばいい。最後にするのではないか ) ままで、このような謀をする人柄ではなかべてを手にするのは自分なのだと圭吾は思死んだのではないか、と考えると、わず った。 ったはずなのにと思った。 かに胸に哀惜の情が湧いたが、すぐに消え 「旦那様は、おひとが変わられたのでしょ 同時に帯刀は梟衆を預けられながら、なた。それよりも嘉右衛門を追い落とす策を うか」 ぜそこまでしなかったのかと訝しがった。考えなければと思った。 「いや、なにも変わってはおらぬ。ただ、 ( 帯刀には案外、度胸がなかったのかもし そんな圭吾を美津はいつの間にか心の通 わぬひとになった、と不安な思いで見つめ 身を守る術を身につけようとしているだけれない ) るばかりだった。 だ」 そう思うと納得がいく気がした。それと 「身を守る術とはどのようなことでございともに、自分は思いのほか、このような藩嘉右衛門の金についての疑惑が出る前 ましよう」 内の争いに長けているようだ、と見直す気に、家中では不吉なことが相次いだ。 いいおうざえもん がした。 首をかしげて美津は訊いた。 沼田派の重鎮だった飯尾羽左衛門が、日 いままで、真面目でひとをしのごうなど 「何ということもない。敵を倒すことだ。 ごろから好んでいた海釣りに舟で出たまま それも二度と立ち上がれぬように、止めをとはまったく思っていなかったのに、それ還らぬひととなった。 ができる立場になると、どうしたらよいの海岸に飯尾が使った舟が打ち寄せられ、 刺すまでやらねばならぬ」 どこか楽しげに圭吾は言った。沼田嘉右か、面白いように考えが浮かんでくる。 釣り道具や魚籠はあったものの、飯尾が戻 衛門を完膚無きまでに痛めつけて葬り去る ( わたしにはそれだけの器があったという った形跡はなかった。 つもりだった。 おそらく海釣りをしていて、大きな波の ことなのだ ) としかげ 美津には話していないが、利景から梟衆圭吾は粛々と手を打って嘉右衛門を追いために舟が揺れて海に落ち、溺れ死んだの ろくろ を預けられてから、圭吾は不敵な自信を持詰めようと考えた。そんなとき、ふと六郎ではないかとみられた。 364

10. 小説新潮 2017年1月号

すら苦労するようになっては困る。 「これは、話が単調でつまんねえな」 体中を懸命に使ってちょこまか動く姿 絵本コーナーもおもちや売り場と同じく「この話、結末がぶっ飛びすぎてるじゃねや、何を言ってるかわからない片言の言葉 所狭しと子ども用の本が並べられていた。 えか」 で必死で伝えて来る様子。そういうのは、 開けば絵が飛び出す仕掛け絵本、押せば音 「なんだ、これ。絵も妙だし話も意味不子どもに興味がないやつでも、かわいいと 楽が鳴る絵本。最近の本はハイテクなもの明」 しか思えないようにできてる。全部が小さ がたくさんある。だけど、昔ながらの素朴俺が真剣に選んでいると、おふくろはく くて不安定で頼りなげで、こんな俺でもう な絵のものもまだまだ多い。 すくす笑った。 つかり手を差し伸べたくなるのだから。 「ねないこだれだ」「ぐりとぐら」「はらペ 「あんた、読書なんて全くしないくせに、 「そりやそうよ。こっちを 10 0 % の勢い こあおむし」 よく偉そうに言えるわ」 で頼ってくるんだもん。でも、全力でこっ ああ、何か俺、持ってたな。べらべらめ「絵本ぐらいなら内容わかるからな。よちを向いてくれる時期って、本当短いよ くると、絵にぼんやりと見覚えがある本もし、これでいいだろう」 ある。さっと目を通してみると、意外にお俺は選び抜いた一冊を手にした。動物た おふくろはしみじみと言った。 もしろい。 ちと一緒にスープを飲んでいた男の子が、 見たこともない鈴香にこれだけ気持ちが 「ああ、懐かしい、ぐりとぐら。そのシリ みんなが次々スープをこぼすのを拭いてや人るのだ。おふくろは俺にだってたくさん 1 ズあんたよく読んでたわ」 る話。言葉の響きもいいし、絵も優しげの愛情を注いでいたはずだ。それなのに、 俺が絵本に見人ってると、積み木を買いだ。これなら鈴香も喜ぶはずだ。 後々こんなやつになるなんて思いもしなか 終えたおふくろが横にやって来た。 「鈴香ちゃん、よっぽどかわいいんだ」 っただろうな。自分の親ながら、少し気の 俺がよく読んでた本か。おもしろい本だ俺が包んでもらった本を満足げに手にす毒になる。 けど、将来鈴香が俺みたいなやつになってると、おふくろが言った。 も困るから却下だな。何がいいだろうか。 「そんなこともねえけど」 高級積み木。選りすぐりの絵本。おいし 「そんなにほくほくしちゃってさ。まあ、 鈴香は言葉が遅いと奥さんが心配してい い昼飯の作り方。休みの三日間、鈴香に会 た。どうせならわかりやすく言葉が頭に人三歳くらいまでの子どもなんて、理屈抜きうために準備したものがどんどんとふくれ って来る本がいい。俺はよさそうな本を手にかわいいもんね」 上がっていった。 に取っては、次々とめくった。 「そうなのかな」 ( つづく ) 416