「ワインどうぞーと三月ウサギがアリ スを勇気づけるように言いました。 アリスはテープルを見渡しましたが、 あるのはお茶だけです。「ワインなんて、 ないみたいだけど : : : 」とアリス。 「ないもんね」と三月ウサギが言いま した。 「じゃあ、どうぞって勧めるのは失礼 だわ」アリスはぶんぶん怒って言いました。 「招待もされてないのに席にすわるほ うが失礼だもんねーと三月ウサギ。 「不思議の国のアリス」「マッド・ティーバーティ」 〔連載〕不思議の国の社会調査 調査と取材 ワンダーランド 「招かれざる客」が不思議の国への案内人になる時 暴走族についての取材 も好きになれないところがあるーーー・こ 「調査」という言葉には、どうしてんな事を「不思議の国の社会調査 , と いうタイトルを掲げた連載の最終回に 書くのは、我ながらどうかとも思うの だが、それが偽らざる本音である。実 際、たとえば京都の暴走族集団の活動 に参加しながらフィールドワークをし ていた頃の経験について語る際には、 「暴走族についての取材という言い 方をすることがよくある。 どうしても調査という言葉を使わざ るを得ない場合には、「調査研究」と Lewis Carroll ス翫パス面例 s Ⅳ 0 れ r , OriginaI lllustrations by John Tenniel 1865 佐 藤 郁 書斎の窓 2 似 2 72 第 5 回 ( 最終回 )
できる距離が長くなり、都市の拡大が陽に輝く石造りの建物を見ながら、生 込 可能になったのである。 ぬるいビールを前に、そんなことを考 学 ( 済円 えていた。 ふたたびアッシジにて このたび筆者は、有斐閣より、『都 著 市経済学』を上梓する機会に恵まれ 明 た。それは、都市の空間構造や都市の 高 < 抱える問題とそれに対処する政策をど や企業を引きつけるようになったことのようにとらえることができるか、経 も理由の一つだろう。加えて、政府の済学の観点から平易に解説したもので 力が強大になって首都の行政機能が拡ある。執筆を進めながら、都市という 大したり、芸術や科学の中心となった ものがいかに興味深い存在か、そして りしたことも影響しているだろう。さそれを経済学の分析道具を用いて論理 らに、都市内の移動手段が変化して、 的に読み解いていく作業がいかに知的 より広い範囲から中心部に通勤するこ 興奮にあふれたものであるか、あらた とが可能になったことも大きい めて実感した。城壁都市一つとっても の都市内交通は、中世まで徒歩中心だ 興味深い事実がいくつも転がってい ったが、その後、馬車および馬車鉄る。これらを見る目の一つとして、都 道、路面電車、メトロ ( 地下鉄 ) 、市経済学はきわめて強い力を発揮す ( 急行郊外地下鉄 ) へと比重を移る。 していく。その過程で同一時間に移動 アッシジのカフェで、照りつける太 都市経済学 高橋孝明 . ′見無序な市の成り立ちれ、要 ツンプルな理論てクリナに見えてくる′ 、を物まき ! 物をの第第の物第こ第ツ ・応、をを物第第を、ま砂を物物を第年い ( 1 ) ただし、土塁や堀で周囲を囲まれ た都市がいくつか出現した。堺や博多 といった商業都市のほか、富田林 ( 大 阪府 ) や今井 ( 奈良県橿原市 ) といっ た寺内町が広く知られている。 ( 2 ) 朱引内は、ほぼ現在の山手線の内 側と隅田川東岸を合わせた地域に相当 する。 ( 3 ) 面積と人口はバリ市のホームペー ジから転載した。 ( 4 ) 他の大都市でも似たような事例が 見られる。たとえば、有名なローマの ポルタ・ポルテーゼの蚤の市もまた、 門を意味する地名の「ポルタ」から明 らかなように、昔の城門のすぐ外側に 立地する。 ワ 0 ( たかはし・たかあき日 東京大学空間情報科学研究センター教授 ) 窓 の 斎 書
表バリの城壁の概要 内部面積人口 (km2) ( 万人 ) 0.5 ( 3 ) 建設年代 は、三大蚤の市として広く知られてい のの のぼ形路新しい城壁が建設されてきた。都市の と 世ほが道拡大と相俟 0 て、より中心部から離れるものがある ( クリニャンクールの ス国 。線。状 ル的号置環 テ公 たところに城壁が建設されてきたの市、ヴァンヴの市、モントルイユの ュ ル目 6 位外 窓 ャかと , つの 考 市 ) 。これらはいずれも「ティエールの 一シ収線沿界 市ゴ 徴号に境 興味深い事実は、城壁が、防衛だけ の壁」の城門のすぐ外側に位置してお書 都 ( みみ的 2 分の 備民プ争のの率鉄部市ではなく、関税の効率的な徴収という り、その発生の過程は、いま説明した 戦岸岸。効下状リ 目的ももっていたことだ。五番目の城通りである。 のス年右右側の地環ノ 。百ヌヌ西税のるの置 リの地理的拡大にはさまざまな理 一代ギ争仏一一の市在す在位壁の「徴税請負人の壁」はその典型で ロ時イ戦英セセ壁人現成現の ある。城門を通って都市内に運び入れ由があり、ここで詳しく述べる余裕は ないかいつまんで述べると、まず、 られる商品には、入市税 (octroi= オ クトロワ ) とよばれる関税がかけられ出生率が上がって死亡率が下がり、 入市税はフランス革命のときに一 リおよびフランスの人口が増加したと いうことがあるだろう。また、産業革 度廃止されたが、一八世紀終わりから 命をきっかけに第一次産業から第一一次 一九世紀にかけて徐々に復活してい ~ る。「徴税請負人の壁」は、徴税請負産業へと産業構造が変化し、企業の生 人の要請によ「て建設されたものであ産活動が大規模に行われることの利益 ーへの集中 か大きくなったことも、バ丿 の壁壁 マ のの 壁壁 の入市税があると、城門の外側で、関を促す結果になっただろう。また、多 世壁の ロプス 5 の人 世負→税を支払わずに都市住民に商品を売ろ様な財やサービスが生産されるように ア 工 うとする商人が出てくる。これらの商なり、結果としてフランス全土あるい ィ一ャイ税イ ガ壁フォシル徴テ 人が集まると市ができる。現在。ハリに は西ヨーロツ。ハ全域からより多くの人 3 世紀 1190 ~ 1213 170
のはローマ帝国の時代だが、それ以 いるのに、後ろを振り返れば何もな 城壁都市ハ 後、とくに一四世紀から一五世紀にか 、というきわめて特異な経験をする ことになる けて、ベルージャに代表される近隣の さて、アッシジのように四方を城壁 国々に常に脅かされた。城壁の内側に 対照的に、筆者は、日本で新幹線に に囲まれている都市は、ヨーロッパに 住むことは、安全保障上、決定的な重乗っているとき、うつらうつらしてい 数え切れないほど存在する。世界遺産 要性をもっていた。また、都市内に住るうちに少しずつ都市的要素がフェー に指定されている有名なものだけで むことでのみ、都市住民としてさまざ ドアウトして、気づいたら農村になっ も、サン・ジミニャーノ ( イタリア ) 、 まな便益を受けることができた。自治ていたという経験を何度もしている。 カルカッソンヌ、プロヴァン ( 以上、 に参加したり、ギルドに加わって商売 日本の都市は、平城京や平安京といっ フランス ) 、クエンカ ( スペイン ) な を営んだり、いろいろな公共サービス た城郭都市の時代以降、境界を可視化 どがある。城壁都市は決して特殊なも を享受したりするためには、城壁の内する装置をもたなくなったのだ。たとのではない。とくにラテン諸語を話す 側に住まなくてはならなかった。この えば、江戸時代には、町奉行の治める ヨーロッパ ( フランス・イタリア・ス ため、都市住民が支払ってもよいと考範囲が江戸御府内とみなされた。一八ペイン等 ) の都市について言えば、そ える地代は、城壁の内側から外側に行 一八年には幕府が絵図面に朱線 ( 「朱のほとんどが、過去に城壁に囲まれて 引線」 ) を引いてその内側を「朱引内」 くと、非連続的に大きく下落すること いたか、あるいは現在も依然として城 になる。城壁の内側ではそれが農業地とよび、江戸の範囲であると公式に定壁に囲まれている。ローマやマドリー 代を上回っているが、外側では下回っ めたが、それでも江戸の境界が物理的 ド、バルセロナのような大都市も例外 「」はよ、 0 ている。だから、都市は、「いつの間 に人々の目に留まることはなかったの にか」終わるのでなく、唐突に終わである。 そのような大都市の中でとりわけ注窓 る。その結果、視界の前方には三階建 目すべきは。ハリだ。次頁の表が示すよ斎 書 て以上の建物がぎっしりとひしめいて うに、。ハリでは、過去六度にわたって
。城壁の縁に立って外を眺めても、 第に人口密度が低下していく。そし も、それほど変わらない。 したがっ 見えるのは、あたり一面に広がるオリ て、気がつくといつの間にか都市が終て、中心から離れていくと、どこかで ープ畑と、青空の下どこまでも伸びるわって農村地帯になっている。どこで都市住民が支払おうとする地代と農業 窓 水平線だけである。 都市が終わるか。それは、都市住民が地代が等しくなることになる。 の 都市経済学では、通常、次のような支払おうとする地代が、農家が支払お 城壁都市においてもこの原理は変わ書 空間構造をもった都市を考える。都市うとする地代にちょうど等しくなると 城壁がある場合、城壁 の中心から少しずつ離れていくと、 ころである。都市の中心から離れたとの内側と外側で、都市住民が支払おう 徐々に建物の高さが低くなって住宅の ころに住むと、都市の中心に行くのに とする地代の額が劇的に異なってく 敷地面積が大きくなり、その結果、次高い交通費を負担しなければならなく る。アッシジの場合、城壁が作られた なるので、その分、都市住民が支払お うとする単位面積あたりの地代は低く なる。一方で、農業地代は、中心から 離れたところでも中心に近いところで ら 内 の て シを ア外 ′臼い第、イ第 : アッシジのメインストリート アッシジの中心にある広場の噴水
高橋孝明 一辺が一ほど、もう一辺が四〇〇 E 彩られたこぢんまりとした広場が現れ アッシジにて から五〇〇 E ほどの長方形に近い形をる。紀元前一世紀の神殿や古い宮殿の ヨーロッパに行ったときの愉しみのしている。およそ四〇〇〇人の人々が並ぶ広場の屋外のカフェに腰を下ろ 一つは、中世以来のたたずまいを残す暮らしているらしい。街の端にある聖し、つらつらと都市というものに思い フランチェスコ聖堂は、その名のもとを馳せた。 小さな城壁都市を訪れることだ。先日 になった聖人が眠る場所で、世界中か もイタリアのアッシジを訪問する機会 城壁都市の境界 ら信徒や観光客を集めている。聖人の があったが、行くたびに新たな発見が 「都市ーの定義にはさまざまなもの あり、何度訪ねても飽きることがな人生を描いた、ジョットの一連のフラ 、 0 スコ画は美術史上に残る傑作である。 があるが、もっとも基本的なものは、 アッシジは、ローマからローカノダ 城門をくぐって街に入ると、ぎっし人口が多く、かつ人口密度が周辺地域 りと詰まった石造りの建物の間に、石と比べて顕著に高い地域、というもの 車で二時間ほど北上したところにあ る。山の中腹、標高五〇〇 E のところ畳の道が伸びている。ゆっくりと上っ であろう。アッシジのような街に立っ窓 ていくと突然視界が開け、軒先を飾る と、この定義を実感することができ斎 で、ひっそりと下界を見下ろしてい 書 ゼラニウムの花やカフェの。ハラソルでる。何しろ、街の外には何もないの る。街は周囲を城壁に囲まれており、 城壁都市で都市を思う
日本の中央地方関係の中央集権性を象 第一一についていえば、東京都庁と霞的な配置とは言えないのである。 徴する存在ということである。すなわヶ関との距離は、地下鉄の駅と駅の間 空間と学習 ち、東京事務所は、地方自治体が中央 だけで言えば、一一〇分余りであるから、 省庁に陳情する際の拠点として、ある陳情のためにであれ、呼びつけに応じ 自治体間の「横並び競争」という現窓 いは中央省庁が自治体職員を呼びつけ るためであれ、都庁舎から職員はすぐ 象は、これまで行政学において頻繁に斎 て各種の指導を行うのに便利であると に行くことができる。東京事務所をわ指摘されており、最近ではより広く政 いう理由から置かれていると理解されざわざ開設する必要はない。 賃料も決治学において「政策波及ーという文脈 てきた。 して安くはないはずである。 の中で言及されるようになっている。 しかし、この理解では、第一に都道 とするならば、東京事務所を、中央ある政治体 ( ( 国や自治体 ) が、ライ 府県会館に集中していることを説明し から地方であれ、地方から中央であれ、 バルあるいは目標と見なしている政治 にくく、第二に東京都ですら都道府県垂直的な意思疎通のための拠点とだけ体から政策を学び、導入する、あるい 会館に東京事務所を構えていることは見るのは、かなり無理があると言わざはよく考えもせずにとりあえず模倣す 説明できない。 るをえない。むしろ、都道府県の間の るという現象を記述する概念である。 第一の点についていえば、中央省庁水平的意思疎通のために存在している 日本国内に散らばっている地方自治体 ( 霞ヶ関 ) が都道府県を低いコストでと見るべきではないだろうか。 が東京都内に出張所を構えているとい 「支配」するために東京事務所を開設 ところが、政令指定都市に目を転じ う「空間ー配置は、これと何らかの関 させているのであれば、分割統治ると事情が異なる。二〇ある政令指定係があるのであろうが、その意味する (divide and conquer) する方がよ都市の場合、九市は日本都市センター ところは未知数である。とくに、都道 いはずであり、事務所は分散させなけ にオフィスを構えているが、それ以外府県と政令指定都市とでは東京事務所 ればならない。さもなくば地方は意思 は市政会館や全国都市会館などに事務の「空間」的な配置が異なることは、 統一して中央に刃向かうこともある危所をおくなど、相当に分散している。 多いに興味が持たれる。 険極まりない存在になるからである。 水平的な意思疎通にとってあまり効率
〔連載〕公共政策を考える 空間のなかの公共政策 である。しかし、そのうち北海道、岩 地方自治体のなかには東京に出張所、 自治体の東京事務所 手県、山口県および福岡県は同会館に いわゆる東京事務所をおいているとこ 都道府県の東京事務所について興味「分室」を持っている。都道府県会館 ろがある。四七都道府県および二〇政 令指定都市はすべて東京事務所をもっ深いのは、その大部分が都道府県会館にまったく活動拠点を持たないのは広 に入居していることである。都道府県島県だけである ( これ自体興味深い事 ており、中核市や特例市、さらには一 会館は、国会議事堂の間近にあり、地象であるが、その意味するところは現 般市や町のなかにも東京事務所をもっ 在は不明である ) 。都道府県は一県を 下鉄でいえば、有楽町線、半蔵門線、 ているところがある。 筆者はかってある教科書に、東京都南北線の「永田町駅ーから地下通路を除いて、都道府県会館という一つの 「空間」に出張所を構えているのであ のお隣の神奈川県や横浜市ですら東京使って徒歩一分という便利なところに 事務所をもっていると書いたことがあある。この立地の良さは、同会館がそ これは一体何を意味するであろう る。しかし、その後、実は東京都ですの役割の一つとして掲げている「東京 窓 、かワ・ ら東京事務所を構えていることを偶然における地方自治の拠点」に物理的な 自治体の東京事務所についての研究斎 根拠を与えている。同会館とは別の場 に知り、衝撃を受けた。 所にオフィスを構えているのは五道県は皆無であるが、一般的なイメージは、 真渕勝 第 3 回
駅の窓口で預かり、荷扱車掌の管理の線の東西区間の乗換駅として同線の要貼付し、新橋行き列車の荷物車に載せ た。その行李は駅名札の記載に従い藤 もと旅客と同じ列車の荷物車等で運搬衝であった。 被告人の乗務列車の発車前、国府津沢駅でおろされることなく終点の新橋 し、下車駅の窓口で引き渡すという手 駅では、沼津方面から到着した列車の駅まで送られた。これを被告人は同駅 荷物託送サービスを提供していた ( い の小荷物掛から騙し取ったのである。 荷物車から手荷物がおろされ、新橋行 わゆるチッキ ) 。 被告人は旧刑法の次の三つの罪で起 手荷物の形状や送り先駅などの情報きの列車への積替え作業と、国府津駅 は授受簿に記載され、管理者が、発駅で下車する旅客に引き渡すべき手荷物訴された。①「藤澤驛ーの駅名札をは がした官文書毀棄罪、②「新橋驛」の の仕分け作業が行われた。本件の被害 の小荷物掛↓列車の荷扱車掌↓着駅の 小荷物掛と引き継がれる際、常にこの者は、東海道線を京都駅から藤沢駅ま駅名札を作成・貼付した官文書偽造行 で旅行する予定で、手荷物として行李使罪 ( 行李の詐欺はこれに吸収され 授受簿によって管理された。手荷物に は、八角形・松型・山型など多様な形を預け自らも列車を乗り継ぎ国府津駅る ) 、③行李の中から織物等を領得し た窃盗罪 ( 行李の詐欺とは別に成立す に達したが、都合により同駅で途中下 の紙に番号が記された合鑑が付けられ る ) である。東京地裁判決を経て東京 車することになり、手荷物についても て特定可能にされた。さらに、いちい 控訴院は三罪の成立を認めた。 ち合鑑の形・番号と授受簿の記載とを同駅での引き渡しを求めた。 そのため、国府津駅では被害者の手 被告人は、このうち②について、 照合しなくても済むように、管理者の 便宜のため合鑑には手荷物の送り先駅荷物を巡って混乱が生じた。客扱車掌「駅名札は荷扱車掌や駅小荷物掛の便 である被告人は荷扱車掌による手荷物宜のための単なる内部的なメモにすぎ を示す「駅名札ーが貼付された。 当時は丹那トンネルの開通前で、東の積替え作業を手伝う際、その混乱にず、鉄道庁の権威と信用をそなえるも 乗じて被害者の行李に付された合鑑かのでまよ、ゝ 海道線は現在の御殿場線を経由してい ( オしカら、官文書と解するべき窓 。被告人が乗務を開始した国府津駅ら「藤澤驛ーの駅名札をはがし、別途ではない」などと主張して上告した。斎 これに対して大審院は、「本件の駅 は御殿場ルートの始点であり、東海道「新橋驛」の駅名札を作成して合鑑に
金一円七八銭を加えると五円九銭とな も一四五〇円であるから、明治前期の施行された。施行からすでに一〇〇年 って、残念ながら本件の被害額は五円鉄道はそれなりに高級な交通機関であ以上が経過した現行刑法であるが、あ を下回らない計算である。なお、横浜ったことが分かる。 まり適用例がみられない規定も少なく 窓 駅であれば五円未満となる。 さらに驚くべきことに、明治一七年よい。 内乱罪や外患誘致罪といったの の「新橋横濱間漁車時刻及賃金表ー 大々的なものはさておき、適用例があ書 東海道線の運賃 (JACAR Ref. A07061659900 〔国立りそうで少ない犯罪類型のひとつが無 ちなみに、新橋駅ー横浜駅間の下等公文書館〕 ) には、毎日正午までに新印公文書偽造罪 ( 一五五条三項 ) であ 運賃は、開業時の明治五年で三七銭五橋駅か横浜駅に申し出があれば当日の る。「無印ーの概念が著しく限定され、 厘、明治一七年で三〇銭であった ( 値最終列車後に「別仕立列車」を運行すほとんどの公文書が「有印」公文書と されることによる。 下げされている ) 。明治一七年時点で るという記載がある。 開業していた新橋・品川・大森・ 無印公文書に該当する稀有な例を鉄 運賃と運行の自由度とを考えると、 崎・鶴見・神奈川・横浜の各駅間の下当時の鉄道は今日のタクシーに近いも道が提供している。これも明治時代の 等運賃は一区間あたり五銭の単純加算のだったということができる。そうい 東海道線における事件である。被告人 方式で、中等運賃は下等の一一倍、上等えば、鉄道仮開業時の運賃は籠の料金は、明治四一年八月八日、東海道線の 運賃は基本的に下等の三倍であった。 を基準にしたということであった。大客扱車掌として国府津駅から新橋行き 下等の初乗り運賃は今日の五〇〇円、 勢乗れる複数の巨大な籠を蒸気機関車の列車に乗務し、到着した新橋駅で、 新橋駅ー横浜駅間の上等運賃は約一万が高速で引っ張るイメージである。 同列車の乗客の託送手荷物として小荷 円に相当する。 物掛が管理していた行李を騙し取り、 駅名札偽造事件 現在のの運賃は、新橋から品川 中から織物等を取り出して勝手に質入 までが一五〇円、横浜までは四五〇円、 現行の刑法典は明治四〇年四月二三れした。 新橋から横浜までグリーン車に乗って日に公布され、翌四一年一〇月一日に 当時の鉄道は、旅客の手荷物を乗車