アスラン - みる会図書館


検索対象: 書斎の窓 2012年7・8月号
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1. 書斎の窓 2012年7・8月号

くのは至難の業です。善の実践の動機 ンとエドマントカ 、、べ、ほかのものたち 波少年文庫 ) づけとなるものは、「銀河鉄道の夜」 とはなれて、露のおりた草の上をい っしょに歩いているすがたを見ましの場合にはーー四次稿では潜在化され 少年ピーターは自分の過ちを反省し た。アスランが何を話したかは、みていますがーーー輪廻でした。そして窓 ますが、アスランはロで説教するので 「ナルニア」の場合には、良心の鏡た斎 なさんにお話しするひつようがない はなく、ただ威厳ある良心の鏡として る絶対者 ( アスランⅡキリスト ) の臨 でしよう。それに、ほかにはきいた 彼を見つめるだけです。「あの弟ーと いうのは、エドマンドという根性曲が 者もいないのです。ただそれは、エ在です。 「銀河鉄道の夜ーにおいては、キリ ドマンドが忘れることのできない会 りの少年で、日頃みんなに意地悪な口 スト教の神は輪廻型バースペクティヴ をきいていたばかりでなく、ナルニア 話でした。 ( 同 ) の中に相対的に位置づけられています。 に来てからは兄妺を裏切るという大き ジョバンニは青年の「神さまーの信仰 このあとエドマンドと兄妹は和解し な罪まで犯していました。根にあるの は優等生つばいピーターが兄貴風を吹ます。みなが一致するユートピア的瞬を拒絶しました。ジョバンニが問題に しているのは、神さまの正体というよ 間です。 かすことに対する反発だったように田 5 りも、むしろ、天国をもって上がりと われます。自分が悪いことをやってい ク銀河鉄道ナルニア する来世観です。ジョバンニⅡ賢治は、 るとはエドマンド自身にもわかっては 「どこまでもどこまでも」地上に舞い さて、「銀河鉄道の夜」も「ナルニ います。ただ、自分でもどうにもでき なくなっていたのでしよう。一つの破ア」も、人助けは善で意地悪は悪だと戻って世界のユートピア化に尽力する いうような原初的な善悪の観念を共有ことを求めているのです。 局が訪れ、エドマンドが反省するとき 他方、「ナルニア」の場合には、他 がきます。 しています。誰だってすなおになれば、 宗教の神々が絶対神アスラン ( Ⅱキリ 善悪の何たるかはわかる。 ースペクティヴの中に 正義を貫スト ) 体制のバ しかし、釜〕は一何いがたく、 〔エドマンドの兄妹たちは〕アスラ

2. 書斎の窓 2012年7・8月号

さて、もしこの物語の特徴的要素を、 薩」の業を果たしたカムバネルラやク けるキリストに相当するアスランとい リスチャン一行が姿を見せたというこ 善のユートピア、輪廻的世界観、異教うライオンが君臨しています。この物 とかもしれません。 キリスト教の相対化というふうに整理語はとにかくそういう設定になってい ーティは別れできるとするならば、このやり方は、 しかし最後にこの三バ るので、読者が文句をつけても始まり O ・・ルイスの「ナルニア国ものが 別れになります。しかもジョバンニと ません。これは賢治の物語における輪 たり」シー クリスチャンは思想的に一致せず、ジ 丿ーズのロジックとなかなか廻に相当する。ハラダイム的な設定です。 ョバンニとカム。ハネルラの間には感情面白い対照をなしていることになりま アスランは優しいが無条件的な権威 的なズレがありました。一期一会のモす。というのは、「ナルニア」は、善 の源泉であり、良心ある者が自らを反 ーメントは微妙な「同床異夢」の場で のユートピアをキリスト教的世界観の省する鏡です。 もありました。 中で描き、またこの枠内において他宗 教を相対化しているからです。「ナル クアスランの目 ニア」は保守派のクリスチャンの間で そうしてみると、「銀河鉄道の夜」 評価が高い児童文学です。 「ライオンと魔女」など七巻よりな には、人と人が「善」においてぎりぎ り出遭えるユートピア的一瞬が象徴的る「ナルニア国ものがたり」シリ に描かれていることになります。あら ( 一九五〇 5 一九五六年 ) は、ナルニ ゆる対立を保留できる真実の時です。 アと呼ばれる架空世界の創造から終末 もちろんそれはジョバンニの求める までを描いています。現実世界に属す 「ほんたうのさいはひーという究極善 る子供たちが入れ代わり立ち代わりこ と同じものではありませんが、その予の架空世界にワープして人り込み、活 躍します。ナルニアには現実世界にお 兆ではあるでしよう。 : 〕アスランよ。わたしはあ の弟をしかりとばしたのですが、そ のためにまちがったほうにいかせた ように思われます。」 これをきいて、アスランは、ピー ターをなだめもせず、せめもせず、 ただじっと、そのまじろぎしない大 きな眼でながめただけでした。する と、ほかに何もいうことがないよう窓 に、その場の人々は感じました。斎 書 ( 瀬田貞二訳『ライオンと魔女』岩 まなこ

3. 書斎の窓 2012年7・8月号

相対的に位置づけられています。 これは異教の信仰を事実上是認するやわらかい、未知と驚異と敬虔をもっ 「寛容」な教えではありますが、異教て受け止めようとはしなかった。青年 でもわたし〔Ⅱ異教徒の男〕は申しの信仰そのものを幻影のようなものと は自分の殻から一歩も飛び出ようとは ました。おお、とのよ。わたしは、 し、ただキリストのみを真のイデアと していない。」 ( 『宮沢賢治「銀河鉄道 あなた〔Ⅱアスラン〕のむすこではする、はっきりと手前味噌なロジック の夜ー精読』岩波現代文庫 ) でもあります。 なく、タシ〔Ⅱ異教の神の名〕につ たしかに、賢治ワールドである「銀 かえる者です、と。ライオン〔Ⅱア 「ナルニア」の場合は手前味噌性は河鉄道の夜」の設定モードにおいては、 スラン〕はい、 ( ました。わが子よ、 かなり歴然としているのですが、「銀このような読み方は妥当です。しかし、 タシにつかえたことはみな、このわ河鉄道の夜」の場合にはちょっと気づ賢治の仏教的。ハラダイムの内部に置か たしにつかえてくれたことと思う、 かれにくいものです。クリスチャン一 れたクリスチャンの立場は、ちょうど と。〔・ : 〕タシとわたしは一つでは 行の向かう天国が途中駅サウザンクロ アスラン教の。ハラダイムの内部におけ なく、まったく反対だからこそ、タ ス駅だということは、キリスト教を寛るタシ教徒の立場 ( Ⅱキリスト教の。ハ シにつくすほんとの信心は、わたし容に受容する設定であるかに見えて、 ラダイムの内部における他宗教信者の に通ずるのだ。なぜならわたしとタ あくまで輪廻の枠組みへのキリスト教立場 ) と同様のものであることに注意 シとはまったく別であるから、よこ の取り込みに他なりません ( 表参照 ) 。 を払わないわけにはいきません しまな信心がわたしにむけられるこ 「銀河鉄道の夜」に優れた読みを施 「銀河鉄道の夜」も「ナルニア」も、 とはなく、よこしまならぬ信、いがタ した鎌田東二は、ジョバンニと論争し空しいドグマ的対立を乗り越えよう、 シにむけられることはないのだ。 たこのクリスチャン青年の信仰態度をすなおな善意の現実に立ち返ろうとい ( 瀬田貞二訳『さいごの戦い』岩波閉鎖的なものと見ています。「青年は うべクトルをもっています。しかし、 窓 少年文庫 ) ンヨバンニか心の底から志向している それを具体的な物語に描くとき、特定斎 書 普遍性や絶対感覚を、その『一』を、 ースペクティヴを採用せざるを得